昭和三丁目の真空管ラジオ カフェ

昭和30年代の真空管ラジオを紹介。
アンティークなラジオを中心とした、自由でお洒落な、なんちゃってワールド♪

アメリカンな真空管5球スーパー・ラジオとインダストリアルデザイン

2006-02-12 | ラジオ歴史
 ボクが真空管5球スーパー・ラジオ、特にトランスレスタイプの5球スーパーに魅かれた理由の一つは、その「デザイン」にある。
 デザインに限らず、ある特定の技術・技能は、社会がそれを必要としたときに見いだされ、発展していく。
 戦後の混乱期を抜けだそうとする時期に、それまでなかった技術として注目され、主にアメリカから輸入されるというかたちでスタートした「商品づくりを担うデザイン」-『インダストリアルデザイン』の黎明期、人々から愛された『ラジオ』に魅了されたからでもある。

               

 1951年、 松下電器の松下幸之助氏がアメリカ視察を終えて帰国した際、羽田飛行場に着くやいなや「これからはデザインや!」で叫んだという、エピソードはあまりにも有名である。

 その考えのもとになったのは、アメリカのメーシー百貨店での体験であったという。売り場に並んでいた2つの真空管ラジオは、大きさ、機能、性能とも似通っていて、スピーカーが多少違う程度であったのに、一方は29ドル95セントで、もう一方は39ドルと値段が10ドル近く違っていた。創業者が不思議に思って店員に尋ねると、「これは、キャビネットのデザインが違うから高いのです」との返答だった。そこで創業者は、デザインで付加価値が高まるということに、はたと気づいたのである。
 当時は、日本人全体が食うや食わずやの状況にあり、とてもデザインどころではなかった。しかしそうした日本がアメリカに追いついていく手段が、何はともあれ「デザインだ」という意味かと思います。「経営の神様」の直感的な思いこみから、デザインが選ばれ実践されていったことは、それ以降の日本の『商品・モノづくり』の発展を大きく方向付けたと言われている。

              

 松下幸之助氏の「水道哲学」と呼ばれる独特の思想は、『価値あると思われているものも、安価に普及させることができれば誰もが手に入る、皆が平等に平和に暮らしていける、企業にはそれを実現する使命がある』といった内容です。

 アメリカの繁栄を象徴する「50年代」の最初の年に訪米した松下氏は、そこに「庶民生活の理想」と「企業の使命」をかいま見たのかもしれない。それを実現する手段として、デザインに白羽の矢がたてられ、まずはラジオの「お化粧直し」から着手されたそうだ。

 60年代に入るとアメリカのホームドラマが日本のTVでも放映され始める。
 一家に一台の自家用車、きれいな芝生、寝室のベッドとクロック・ラジオ、台所も家中も全部明るい。奥さんや娘も美しい。ドラマの内容はごく平凡なものだが、4 人家族(夫婦と子供二人、つまり核家族)が毎日のように本音で話し合い、問題を解決していく家族関係も驚きであった。

               

 この結果、日本人全員が「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」を夢見てしまい、それを体感できる一番身近なモノが『ラジオ』だったのではないかと思うわけです。
また50年代後半から60年代にかけて、自動車ほど機能や性能、価格に差がない『ラジオ』は、デザインという付加価値のフィールドで競い合うことができたコンシューマ向け量産工業製品であったことを垣間見ることができる。

               

  日本の産業界は近代的な生産性向上の手法と共に、インダストリアルデザインを米国に学び、その成果 を踏まえて、生産性の向上を図る目的の一つとしてデザイン手法を発展させてきた。
振り返ってみると、企業経営者がデザインをビジネスの武器として位 置付けし、品質とコスト面の競争力の強化だけでなく、商品作りの手段に役立て高く評価したことは正解であったといえる。

               

 デザインと芸術は基本的に異なる。創作を必要とすることでは共通するが同質のモノを数多く、間違いなく生産することがデザインの絶対条件であり、芸術作品は世界における唯一の存在である。したがって両者の違いは明確である。
 それはともかく、計画、創造、良い性能と品質が加味されてはじめて良質のデザインが生まれ、グッド商品の開発につながる。その意味からも、デザインの重要性は形態の整理だけでなく、経営資源としてなくてはならない重要なファクターとなっている。