昭和三丁目の真空管ラジオ カフェ

昭和30年代の真空管ラジオを紹介。
アンティークなラジオを中心とした、自由でお洒落な、なんちゃってワールド♪

KTWR 太平洋の声日本語放送 30年の歴史を閉じる

2007-03-29 | ラジオ歴史
          

KTWR日本語放送公式ホームページより】
 KTWR日本語放送「太平洋の声」は、日本時間3月24日の夜の放送をもって終了することになりました。1977年のスタート以来30年間、番組を通して、皆様に「神の愛・聖書の福音」をお届けすることができましたことを感謝しております。海外日本語放送が次々と終結した後も、「太平洋の声」が今まで放送継続できましたのは、皆様が番組を聴いてレポートをお寄せくださり、また放送継続のためにご献金くださったからで、応援してくださった皆様に心から感謝しております。
 放送終結の最終決定に至るまでに、さまざまな可能性を考えて話し合いを重ねてまいりましたが、これ以上の継続は経済的に非常に困難であると判断した次第です。
 お別れに当たり「太平洋の声」では3月末に2週間にわたっての特別企画も考えております。昔懐かしい声もお届けする予定でおります。特別ベリも発行いたしますので、ぜひお聴きください。なお、私どもは、皆様に短波放送というメディアではお別れを申し上げることになりますが、ラジオ「世の光」(AM・FM)、テレビ「ライフ・ライン」、テープマガジン「めぐみの声」でも番組をお届けしております。
 また、「あすへの窓」「バイブルウェーブ」「希望の灯」は、インターネットでもお聴きになれます。これからも、続けて番組をお聴きくださいますようお願いいたします。
 長い間のご支援をスタッフ一同、心から感謝しております。


 2007年3月24日をもって30年間続いた日本語放送を終了したKTWR太平洋の声の運営母体は、プロテスタント系伝道放送局のトランスワールドラジオです。モナコからの欧州向け、スワジランドからのアフリカ向け放送、そして1977年にアジア オセアニアへの伝道を目論みグアムに開局した。その後、アジア最大の伝道放送局FEBCのマニラコーリングを吸収合併するような形で存続した放送局だ。

          

 DX年鑑によると、開局当時は朝6時からの1時間、午後7時半から10時まで、10時から11時半までの放送と、かなり時間をとって日本語放送を行なっていたことがわかります。確か朝の番組は本当に信仰を中心とした番組構成だった一方、夜の方は伝道師による説教風あり、おしゃべり風あり、さらにはグアム現地からの番組やDX番組などもありBCLブームの熱にうなされる少年リスナーを取り込んでいこうという構成だったようです。受信レポートを送るとお礼に返信されてくるベリカード(受信確認証)には送信機や空中線まで記入されており、送信機はハリス社のSW-100とTCIの4バンドカーテンアンテナを使い100kwの出力で運用されていたことがわかる。

          

 ただしKTWRにはベリカード発行基準があり、通常の受信報告に加え、25分以上の受信時間と番組の感想の記載、100円分の切手とネームシール(2.5×6cm以内)を同封する必要がある。放送の運営資金を信者さんの浄財で賄われている関係上、リスナーに対するそうした要求も致し方ないところか・・・。

 正直言って、この手の宗教局に対してコメントを書くのは、気が重い。正月には神社にお参りし、お彼岸・お盆には仏壇とお墓参りをし、クリスマス・イヴにはケーキで祝う・・・といった具合で、特別な信心のないボクが暇つぶしに放送を聞くのだから主の御託宣だって心に残るはずもない。東京のスタジオで制作されたテープをグアムの送信所から送信するスタイル(今はネット回線によるデータ転送かも・・・)のため、南国ムードを演出したバラエティーチックなトーク番組でも、日本製だと思うだけでシラけてしまうのは年をとった証拠か・・・高齢化!?

 キリスト教の伝道が目的の放送局とは言え、主の教えを明るく、楽しく、分かりやすく伝えようとする努力が、鼻についてしまうのです。5年前にKTWR開局25周年の特別番組も聞いたのだが、「BCL界25年を振り返って」っていうのはまあ聞き応えありました。が、他がいけません。パーソナリティ同士で、互いにチャン付けで呼び合う姿は、もはやオヤジに片足を突っ込んだお兄さんの店長としてはついて行きがたい。後は押して知るべし。ワイワイ、ガヤガヤ騒ぐだけ騒いで、「お子様相手に媚びてどうするの・・・?」って番組の様相に嫌気がさしてしまいました。
世界の大多数を占める「絶対神」の一つであるキリスト教に対して、我々日本人のDNAに往き続ける「八百万神」は、自然・生命・現象など万物すべてに霊性・神性が宿ると考え、この霊性すなわち霊(たま)=魂(たま)が神であると捉えており、キリスト様もアッラー様もすべて受け入れ流してしまう、節操のない価値観とともに過度な宗教おびた異文化が根付かない側面を持ち合わせるのだと感じる次第です。

 KGEI、KWHR、KTWR・・・コレなんだかわかります?アメリカ合衆国西地区コールサインのプリフィックスである「K」の後に続く3文字を局の名前や地名にちなんでつけたコールサインを冠した局を集めてみました。KTWRは、K+TWR(Trans World Radio)と頭文字っていうのは言わずもがな、こんなところはアメリカらしくて面白い!コールサインまでも商業ベースにして売り込んでよろしいってわけでしょう。確かアマチュア無線の世界でもバニティコールサインっていって90年代に選べるようになったと記憶しています。日本もやっとこカーナンバーや携帯電話番号が選べるようになりましたが、我が国お得意の猿真似だよ・・・ってか、こんなところも八百万神の国ゆえになせる技かも知れません。

BCL事始め Vol.1

2006-05-03 | ラジオ歴史


 1970年代~80年代中頃、外国が今ほど身近に感じられなかった時代に、中学生・高校生の間で海外短波放送を聞くことが一大ブームとなった。
見知らぬ遠い国からの電波を受信することに加え、放送局に投稿したり、ラジオやアンテナを作ったり、研究成果を雑誌に投書したり、見知らぬ国の言葉にチャレンジしたりと、少年の「知的好奇心」を刺激する楽しみがあった世界だ。

              
 
 中学生になったばかりのボクは、プラモデルと本が好きな、ちょっと変わった野球少年だった。
授業が終わると野球部でボールを追っかけ、家に帰っても勉強をすることもなく、マンガやテレビをボッケ~と眺める毎日にも飽きたある日、3才違いの兄が持っていた東芝サウンド750(ナナハン)というラジオをイジっていたときのこと。
切替スイッチをSWにして選局ダイヤルを回していると、雑音を押しのけて重厚な音楽とともに「こちらはモスクワ放送局です・・・・」とアナウンスが聞こえてきた。

 『モスクワ・・・放送? なんじゃ、そりゃぁ~??』

 番組ではしきりに「・・・ソビエト連邦の・・・」という形容詞と意味難解な言葉が出てくる。
勉強嫌いの田舎の中学生には、コルホーズ、宇宙飛行士ガガーリン、バクー油田、シベリア鉄道、T-34戦車といった程度の知識しかなく、社会科地図帳を出してモスクワの位置を確かめ、その距離感にワクワクする気持ちを抑えることができなかった思い出である。(後に実際はシベリア極東部のハバロフスクあたりからの中継波だったことを知った)

 翌日、博学で有名な同級生に「外国から日本語のラジオ放送が聞こえたんじゃ!モスクワ放送言うとったで・・・」と興奮気味に話したが、「へぇ~ そんなんがあるん?」と気のない返事。
 数日後、彼が1冊の雑誌を持ってきてくれた。『ラジオの製作』と書かれたその月刊雑誌の中に「海外日本語放送スケジュール」というページがあり、モスクワ放送をはじめ10ヶ国近い国々から日本語放送が行なわれていること、そして受信報告書なるレポートを送るとベリカードという絵葉書が返送されることを知った。

              
   モスクワ放送の受信確認証(ピオネールキャンプのダンスクラブ)

 『外国』 『海外』 『受信』 『短波』 というキーワードに妙な好奇心を覚え、兄のラジオを拝借してはスイッチをSWに切替え、選局ダイヤルをそろ~りと回して雑音と意味不明な言語の中から海外からの日本語放送を探し始めたのは、BCL(BroadCasting Listener:海外放送聴取者)という言葉も知らない中学1年生の冬休み前の出来事であった。

アメリカンな真空管5球スーパー・ラジオとインダストリアルデザイン

2006-02-12 | ラジオ歴史
 ボクが真空管5球スーパー・ラジオ、特にトランスレスタイプの5球スーパーに魅かれた理由の一つは、その「デザイン」にある。
 デザインに限らず、ある特定の技術・技能は、社会がそれを必要としたときに見いだされ、発展していく。
 戦後の混乱期を抜けだそうとする時期に、それまでなかった技術として注目され、主にアメリカから輸入されるというかたちでスタートした「商品づくりを担うデザイン」-『インダストリアルデザイン』の黎明期、人々から愛された『ラジオ』に魅了されたからでもある。

               

 1951年、 松下電器の松下幸之助氏がアメリカ視察を終えて帰国した際、羽田飛行場に着くやいなや「これからはデザインや!」で叫んだという、エピソードはあまりにも有名である。

 その考えのもとになったのは、アメリカのメーシー百貨店での体験であったという。売り場に並んでいた2つの真空管ラジオは、大きさ、機能、性能とも似通っていて、スピーカーが多少違う程度であったのに、一方は29ドル95セントで、もう一方は39ドルと値段が10ドル近く違っていた。創業者が不思議に思って店員に尋ねると、「これは、キャビネットのデザインが違うから高いのです」との返答だった。そこで創業者は、デザインで付加価値が高まるということに、はたと気づいたのである。
 当時は、日本人全体が食うや食わずやの状況にあり、とてもデザインどころではなかった。しかしそうした日本がアメリカに追いついていく手段が、何はともあれ「デザインだ」という意味かと思います。「経営の神様」の直感的な思いこみから、デザインが選ばれ実践されていったことは、それ以降の日本の『商品・モノづくり』の発展を大きく方向付けたと言われている。

              

 松下幸之助氏の「水道哲学」と呼ばれる独特の思想は、『価値あると思われているものも、安価に普及させることができれば誰もが手に入る、皆が平等に平和に暮らしていける、企業にはそれを実現する使命がある』といった内容です。

 アメリカの繁栄を象徴する「50年代」の最初の年に訪米した松下氏は、そこに「庶民生活の理想」と「企業の使命」をかいま見たのかもしれない。それを実現する手段として、デザインに白羽の矢がたてられ、まずはラジオの「お化粧直し」から着手されたそうだ。

 60年代に入るとアメリカのホームドラマが日本のTVでも放映され始める。
 一家に一台の自家用車、きれいな芝生、寝室のベッドとクロック・ラジオ、台所も家中も全部明るい。奥さんや娘も美しい。ドラマの内容はごく平凡なものだが、4 人家族(夫婦と子供二人、つまり核家族)が毎日のように本音で話し合い、問題を解決していく家族関係も驚きであった。

               

 この結果、日本人全員が「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」を夢見てしまい、それを体感できる一番身近なモノが『ラジオ』だったのではないかと思うわけです。
また50年代後半から60年代にかけて、自動車ほど機能や性能、価格に差がない『ラジオ』は、デザインという付加価値のフィールドで競い合うことができたコンシューマ向け量産工業製品であったことを垣間見ることができる。

               

  日本の産業界は近代的な生産性向上の手法と共に、インダストリアルデザインを米国に学び、その成果 を踏まえて、生産性の向上を図る目的の一つとしてデザイン手法を発展させてきた。
振り返ってみると、企業経営者がデザインをビジネスの武器として位 置付けし、品質とコスト面の競争力の強化だけでなく、商品作りの手段に役立て高く評価したことは正解であったといえる。

               

 デザインと芸術は基本的に異なる。創作を必要とすることでは共通するが同質のモノを数多く、間違いなく生産することがデザインの絶対条件であり、芸術作品は世界における唯一の存在である。したがって両者の違いは明確である。
 それはともかく、計画、創造、良い性能と品質が加味されてはじめて良質のデザインが生まれ、グッド商品の開発につながる。その意味からも、デザインの重要性は形態の整理だけでなく、経営資源としてなくてはならない重要なファクターとなっている。

『ブラック・プロパガンダ――謀略のラジオ』

2006-01-03 | ラジオ歴史
   『ブラック・プロパガンダ――謀略のラジオ』(山本 武利 著、岩波書店 刊)    


 近年、アフガニスタン、イラクで見られるアメリカによる「正義の戦争」というプロパガンダが復活している。政府による自国民に対する世論操作ばかりが、プロパガンダではない。敵国の大衆に向けたラジオ放送やビラの配布、亡命先から自国の民衆に向けた宣伝もある。 
 第二次世界大戦中、サイパン島が米軍に占領されると、同島から本土空襲の米軍機のみならず、中波で「新国民放送局」の名のもとに、日本語ラジオ番組が百二十四回にわたり送り出されていたことは、あまり知られていない。
 ブラック・プロパガンダとは対敵情報活動の一環であり、最近の表現でいうところのディスインフォメーションである。真の発信源を巧みに隠蔽しつつ欺瞞的なメッセージを敵対国に送り込んで、心理作戦を有利に展開しようとするのがその目的である。
 一方、ホワイト・プロパガンダというのは情報の出所が確認でき、メッセージも比較的正確度が高いものであり、冷戦期にアメリカが共産圏諸国に指向した「VOA Voice of America アメリカの声」が有名である。
「新国民放送局」は、米国CIAの前身であるOSS(戦略情報局)が総力を結集し、日本の反政府勢力が国内から発信しているように偽装し放送を続けた。約三十分間、日本の早期降伏を呼びかけるメッセージや、日本で放送禁止中の厭戦的、享楽的なナツメロが流された。
本書(『ブラック・プロパガンダ――謀略のラジオ』)は八〇年代から徐々に公開されたOSSの資料を基に、番組の製作者や内容、制作課程などを、既存の資料と突き合わせて解明した意欲的な研究書だ。
 短波放送の歴史を紐解くうえで、またコミュニケーションの側から見た新たな戦史を知るということでも一読をお勧めしたい本である。


あのぉ~、新年早々『謀略のラジオ』とかっていう恐いネタ、止めてほしいんですけど・・・。思いっきり引いてしまうんで・・・。(ユー)