湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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ウォルトン(映画音楽、協奏曲、室内楽、劇音楽・声楽) 2012/3までのまとめ

2012年04月09日 | Weblog
映画音楽「ヘンリー5世」

~二曲

○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE

録音は荒いが一応ステレオ。映画音楽からのごく短いパヴァーヌふうの弦楽アンサンブル曲二曲でスタンダードなショートピースとしてお馴染みである。バルビならでは、という強いインパクトはないがLAにしてはかなりニュートラルな美感をはっし、このいかにもイギリス的感傷をあおる楽曲~なんの「新しさ」もないが美しい~を爽やかに重くならず、しかし中低音域の充実した響きで描ききっている。

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映画音楽「ハムレット」

~葬送音楽

○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD

映画音楽のしかも典型的な葬送音楽で特に言うことは何もないオーダメイド臭ふんぷんの曲で、あきらかにラヴェルやプロコから剽窃してきたような楽想・和声の巧く組み合わされた感じに僅かにウォルトンらしい妙な装飾音を織り交ぜた強い旋律によって突き通された悲劇的な曲だが(綺麗は綺麗である)、ボールトはそれほどウォルトンを得意としていないせいかどうも透明感がなく、いやこれはこれで完全にハムレットの悲劇的シーンを描ききった名演と言えるが、ウォルトンを聴いている感じがしないのである。とにかくコノ曲では評価のしようがないが、ボールトにそもそもウォルトンの根幹に流れるシニシズムを表現する気もないわけで、まあ、これは小曲を表現できる範囲で表現した、といった感じか。○。

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ヴァイオリン協奏曲(1939)

<ウォルトンは20世紀後半という時代にまで後期ロマン派風の音楽を継承し続けたイギリスの保守的作曲家である。天才作曲家の常として幼時より異常な楽才を示し、10代のうちに既に作曲家としての名を英国じゅうに轟かせていた。シットウェル嬢とのコラボレーション、軽妙辛辣な「ファサード」は出世作。初期においては当時の前衛音楽の影響を受けることもしばしばあった。無調の技法による作品も残されている。だが彼の名を世界に轟かせたのは第二次大戦前夜の不安な心持ち、そしてそれを乗り越えて行く勇気?を劇的に(通俗的に)描き切った交響曲第1番であり、これは全くもってロマン的な作品である。彼の転身はイギリス社会が保守的で前衛的なものを受け容れないためやむを得ず、ということではない。ただ音の珍奇さやリズムの面白さ、数学的で「聴く」ことに配慮しない芸術的音楽の満ち溢れる作曲界に背を向け、演奏家が楽しんで弾け何よりも聴衆が熱狂できる地に足の着いた活動を自らの使命と感じたのだ。このヴァイオリン協奏曲はハイフェッツの依頼で半ばハイフェッツと共に書き上げられた作品である。ウォルトンは37歳、若いとはいえ既にいくつかの代表作を書いたあとであり、実績としては十分大家たる様子だった。書法はこんにち最高傑作とされるヴィオラ協奏曲(1928ー9/61)や交響曲第1番(1932ー35)よりも研ぎ澄まされ、曲構造は無駄が無くごく効果的に組み立てられている。30分前後という大曲ゆえ冗長の感もあり、改訂も加えられているが、独奏者の技巧を無駄無く存分に発揮させる独特の音線は、ウォルトンの全曲中でも瑞逸の名旋律の数々に彩られて聞きごたえ十分だ。プロコフィエフの影響は万人が認めるところであろう。2楽章のプロコ・ヴァイオリン協奏曲第1番 2楽章との近似性、3楽章冒頭からの旋律線のプロコ・ピアノ協奏曲第3番3楽章との類似性は、わざとではないかと思わせるくらいだ。ここにウォルトンが既にしてその才を衰えさせている様を読み取ることも可能だ。しかし生き生きとした躍動感、透明感溢れるハーモニーは健在であり、技巧家の技を披露するだけの曲ではないことは確かである。遠い想い出を熱く語るような終楽章第2主題、最後のピッコロとの掛け合いから雪崩れ込むきっぱりした終止部など気持ちが悪いはずが無い。(1991/9記) >

○ハイフェッツ(Vn)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA Victor)1950/7

ハイフェッツにはアメリカで録音した初演に近い録音(グーセンス指揮シンシナティ交響楽団、 BIDDULPH)もある。また作曲家指揮としてはEMIからメニューヒン盤も出ているが独奏者の衰えが感じられ余り薦められない。ハイフェッツはまさに彼自身のためにある超難曲、数々の技巧的パッセイジを見事に弾き切っている。どこにも瑕疵のないいつもの調子がこの曲においても存分に発揮され却って物足りない程だ。即物的ゆえウォルトンの曲の持つ抒情的で哀切なロマン性を生かした演奏とは言い難い。固く太い音色がいくつもの優美な旋律を殺している。古い演奏の為録音も良いとはいえず、バックのフィルハーモニア管もこの異常な天才についていけていない部分が目立つ。ウォルトン自身の指揮はこの録音のために長期にわたる指揮の実践を行っただけあって、作曲家指揮の録音に良くあるような指揮の不備は余り感じられず、寧ろよくこのオケを引っ張れているものだと感心させられる。いずれにしろウォルトンの個性はハイフェッツの強烈さの影に隠れはっきりとは見えない、が、協奏曲指揮とはこうであるべきなのであろう。初演は1939年の7月、ロジンスキー指揮クリーヴランド交響楽団で、当然ハイフェッツにより行われた。(1991/9記)

ハイフェッツ(Vn)グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(biddulph)1941/2/18(世界初録音)

作曲家自作自演前に録音されたオリジナル版による演奏。グーセンスの棒は重ったるく、ロマンティックですらあるがオケは余り巧く表現できていない。オリジナル版であるからということもある。ハイフェッツはそれに反して異常なほど即物的であり、速さを誇示するかのような終楽章など少し
違和感すら覚える。自作自演版での演奏にもまして感情の無い演奏である。

セノフスキー(Vn)作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964

ソリストがいい意味でも悪い意味でも個性的。粗々しく音になっていない部分が多々聞かれるのは致命的だが、情熱的で、響きに独特のざらざらした肌触りがあって何か惹きつけるものがある。乱暴な重音の多用される曲なので、ふつうのソリストはいくぶん客観的にきっちり響かせる方に専念するものだが(ハイフェッツは別格)、この人は非常に歌い廻しに凝っていて(特徴的なボウイングはたしかに参考になる)、響きは何となくだけ聞こえればいいというような(それで語弊があるなら必要な音だけ響けばあとはどうでもいいというような)、ある意味誤魔化し的な演奏を突き通している。ライヴでこの速さは非常に巧いと評するべきだとは思うが、現代のテクニカルな水準からすると決して上には置けないだろう。個人的には倍音だけ響いてくるような独特の弾き方には惹かれるものはある。ウォルトン自身ソリストが勝手につけるルバートに付き従っているような場面が見られる。こういう演奏もアリだと思っていたのかな、と思った。もちろん終楽章が聞き物だが、2楽章も弾けていないわりに特徴的な歌いかたで聞かせる演奏なので聴いてみてください。終楽章ではバックオケにこの曲の構造的で畳み掛けるような管弦楽効果がすこぶる明快に響いてきて耳を惹く。ウォルトンの作曲の腕の良さもよく伝わる優秀な演奏。でも無印。この前に「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が演奏されている。

フランチェスカッティ(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)

音色を売るヴァイオリニストの系譜に確かにその足跡を残したフランチェスカッティ、大振り高速で滑らかなヴィブラートと、ある程度音程を犠牲にした太さの一定しない艶めく音は、個性的であるがゆえ慣れてくると単調でもあり、聴くうちに飽きてくる。またさすがにこれほど技巧的な曲になると、音程を外したり弓を外したり(特にウォルトン独特の高音域表現)と結構怪しい箇所がある。美しい演奏だが・・・

○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1968/1/25-27live・CD

これはセルと浅からぬ縁のウォルトンの作品である。パルティータなど愛奏していたが恐らく書法上の冒険よりも演奏上の効果を重視したプロフェッショナリズムに、演奏側の人間として共感したのだろう。セルはピアニストでもあるがピアノ的な機械的なスコアもやりやすさとしてあったのかもしれない。ただこの曲はわかりやすすぎて長さがネックになるため、それを凝縮させていこうとしても割と体力のないこのオケでは、特に後半部盛り上がるところにもかかわらず薄い書法に思わず無理矢理整えているようなぎくしゃくぶりが出てしまっている部分も否定できない。まあ自作自演でもいちいちリズムを整えないとまとまらなかった曲だし、寧ろ同曲の録音ではいいほうで、オーマンディによるスタジオ録音よりも、特にソリストの流麗な表現、あと[セルのリズム]が個性を放ち面白いといえば面白い。○。

○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/1/25live

正規盤で出ていたものの無編集盤になるがこれが面白いのだ。やはり協奏曲はライヴ、一期一会の一回!二楽章でメロメロになりながらも気迫で弾き切り、美音がただの音程不安定に陥りあるいはノイズだけになってもなお、この三楽章は名演といっていいだろう。最後クリーヴランドが前につんのめっていく、こんなセルは初めてだ。本人不本意かもしれないがこのスピードがウォルトンには必要なのだ。むろん◎にはならないが、好き。

○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live

独奏者が巧い。なかなかの演奏である。(2005以前)

ライヴならではの瑕疵が独奏者・オケともども相当にあるものの、しかしそれを力技で押し切ったような演奏。技量に沿わない高速で、「良く言えば」若々しさを前面に出し切ったような力感、結果指が回らなかったりとちったり何弾いてるんだかわからない部分が散見されたりと、コンクール的視点からだと「悪い意味で」やばい。だが何かしら、英国やその他「綺麗に弾こうとする」国々の演奏家と違った、「これでいいのだ」の魅力がある。フェドもフェドで褒められたバックアップではないが、独奏者とマッチしてはいる。技巧的にめろめろと言ってもいい演奏だが、ウォルトンのバイコンと言われて真っ先に思い浮かぶのは、この演奏だったりするのだ。○。前は細部まで聴くスタンスじゃなかったのでベタ褒めしてしまっていましたねえ。 (2009/10/8)

イダ・ヘンデル(Vn)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI)

透明感がある。

○チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団

敢えてその理由を書くまでもないだろう。巧い。

チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮フィルハーモニア管弦楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1982/3/29LIVE

「表現が曲の内容を超えた!!!ウォルトンの協奏曲をここまで崇高に仕上げた演奏は他にない!緻密な音楽づくりで知られるアンドレ・プレヴィンとチョン・キョン・ファという
組み合わせの最高傑作。プレヴィンとフィルハーモニア管というのも珍しい。」・・・そうか?重音は荒くてうまく響いていないし、ソリストとオケのバランスも悪い(ソリストが
小さい!)。チョン・キョンファは正規盤があるのでそちらで堪能すべきだ。この演奏はハイフェッツを凌駕しているとはとても思えない。叙情性ではいくぶん長があるかもしれないが。

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ヴィオラ協奏曲

<ウォルトンの名を広めた傑作協奏曲。ヴィオリストでこの曲を演奏しない人はいないと言われるほど。ライオネル・ターティスが演奏拒否して、結局初演は親交深かったヒンデミットにより行われ大成功。ウォルトンの全作品中もっとも深みに達した、でもエンターテインメント性もふんだんに盛り込まれた作品である。3楽章のメランコリックな雰囲気が印象的。技術的にはそれほど難しくないと聞くが、名手プリムローズは2楽章の一部をオクターブ上げて録音したりしている。>

◎プリムローズ(Va)サージェント指揮ロイヤル・フィル(DECCA)LP

ウォルトンを語るに、この曲を避けて通る事はできまい。ごく若い頃のウォルトンの深い思索性(当人がそれに見合う思索を行ったかは別)の残響と完成期の要領良い娯楽性が見事に絡み合い、ヒンデミットをして初演者たらしめたのも肯ける。ターティスも惜しいことをしたものだ。ドイツ的と言って良い重く厚みのあるひびき(後年自身の手で軽い響きに変更されたのだが)のオーケストラが、彼の交響曲よりも重厚壮大な世界を展開する中で、中性的な存在であるヴィオラが縦横に駆けめぐり、時にはオケの一角に沈潜し、時には(ヴァイオリン協奏曲のソロヴァイオリンのように)激しく技巧を見せつける。だが決して派手ではなく、色彩的ではなくそれがかえって「わかりやすいがゆえに中身がカラッポ」との評価を受けがちなウォルトンの作品群中にあって、唯一名曲の評価を受けている要因でもあろう。思索的な二曲の弦楽四重奏曲とこのヴィオラ協奏曲は、ベートーヴェンが好きな堅物にもまあまあの印象を与えることだろう。プリムローズは異常なまでの技巧でヴィオラという楽器の可能性を大きく広げたソリストだが、この曲でもその技巧は冴え渡っている。このサージェントのバックで弾いた演奏にしても、あいかわらず技巧は冴えているし、またサージェントも持ち前の要領良さが極めて美しく反映されている。音もプリムローズの録音にしては良い。オケも「まだ」上手い頃のロイヤル・フィルだ。なかなか。この盤のカップリングはヒンデミットの白鳥を焼く男。なかなか要領を得た選曲である。(1994記)

比較的明晰な録音でプリムローズのヴァイオリン的な響きを堪能できる。近代ヴィオラ協奏曲の嚆矢に挙げられる傑作だがサージェントのリズムよさが特に三楽章中間部で発揮され輝かしく気分を高揚させる。ウォルトンはこの符点音符のリズムをいかにカッコよく切るかで決まってしまう。やや映画音楽ぽい俗っぽさも醸してしまう指揮だがロイヤル・フィルの美しい弦がバランサーとなっている。自作自演盤より音がいいだけに見逃せない録音。◎。 (2006/6/27)

○プリムローズ(Va)サージェント指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(DA:CD-R)1945/3/11live

録音が壊滅的に悪くオケが潰れてウォルトン特有のオーケストレーションが形骸化して聞こえてしまうなど音盤としては難が多い。ソリストの音程すら明確に捉えられず甚だ心もとない。終楽章では音飛びすらある。だが、ライヴでプリムローズのこの曲の演奏を聴けるだけでも幸せと言うべきだろう。スタジオ録音も残している職人的指揮者サージェントとのコンビで、かつ手だれのNBC響が相手である。演奏的には実際かなりスタジオよりも烈しいものとなっている。プリムローズはとにかくよく歌うし、2楽章ではエッジの立った音で突っ走る。まことヴィオラにおけるハイフェッツだと思うのはそれでも殆ど技術的瑕疵が無いことである。音程が多少ブレて聞こえるのは恐らく録音のせいだろうと考えるとこの技術は驚異的である。もちろんライヴならではのオケとの乖離はあるように聞こえるし、サージェントもさばききれない箇所があるようにも思うが(すべて録音が悪いため推定である)補って余りある彫りの深い表現にヴィブラートの美しさ、起伏の大きなダイナミックで迫力のある演奏ぶりには感嘆させられる。ライヴのプリムローズはこんなにも激しかったのである。○。前プロがアイアランドのロンドン序曲、メインがホルストのパーフェクト・フール組曲となっている。

◎プリムローズ(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD,メニューイン(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD

自作自演の2枚。同じオケで同じレーベルへの録音、メニューインはヴァイオリン協奏曲とのカップリングでステレオ録音である。比べてプリムローズ盤のほうが音が悪いが秀演。プリムローズ自身の出来はサージェントのものより上か?メニューインは音に問題あり。ウォルトンの指揮も晩年のせいかやや鈍重。聴き易い音なのに、正直余り良い出来とは言えない。(1994記)

○リドル(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(DUTTON)CD

リドルはオケの首席奏者として長い現役生活を送り、30年代から数々のイギリス作曲家作品を演奏してきた。このごく古い演奏は良い意味でも悪い意味でも、リドルの無個性的表現が出ている。プリムローズがオクターブ上げて弾いた2楽章を原曲通り弾いているのだが、それでもなおかつ技巧的にプリムローズの表現に劣っていると言わざるを得まい。ただ、バックオケの演奏表現は自作自演の3盤中いちばんしっくりきた。作品が生まれた頃の生々しい雰囲気が感じられるせいだろう。重厚さとしなやかさの同居がいい感じ。(1994記)

バシュメット(Va)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ音楽院管弦楽団(YEDANG)1988/5/5

バシュメットが崩壊間近なソヴィエトで録音したものである。プレヴィンとの新録は未聴。管楽器のひびきがいかにもロシアな音をしているが、ときどきペットソロを諧謔的な響きとして使うウォルトンの意図はうまく表現されている。ただ、とちりもいくつか聞こえ、技巧の問題もちょっと感じさせるオケだ。1楽章の暗い幻想はよく表現されている。2楽章はずいぶんと荒いタッチで、しかもかなりゆっくりとしたテンポにちょっとびっくりする。

思いっきり速弾きでヴィルツオーソ性を打ち出すことのできる唯一の楽章なのに、古楽器ふうの不思議な響きを響き渡らせることに専念しているようだ。この楽章はちょっと拍子抜けである。バシュメットにテクがないようにまで聞こえてしまう。プリムローズと比べるのがおかしいのかもしれないが、プリムローズの異常なまでの炎の音楽とは隔絶したものである。

3楽章はどこまで深い音楽を聴かせられるかがポイントだが、バシュメットのロシア離れした洗練された音、黒髪が光るような深く透明な音がもっともその特質を発揮している。旋律を謡い込むためにかなりテンポを落とすことがあるが、特異な解釈である。ロシアオケの音色が時にバシュメットの音楽を邪魔するが、合奏部分の壮大さはなかなかいい。中声部がやや弱いか。テンポが遅いがゆえにとても丁寧に表現されていくから、ウォルトンの洗練されたハーモニーをゆっくり楽しむことができる。反面演奏が近視眼的になりがちで全体としては尻すぼみになってしまっているのはマイナス。ウォルトンの協奏曲でロシアで録音されたものとしてはフェドセーエフの振った(ソリスト失念)ヴァイオリン協奏曲があったが、あちらはかなりウォルトンの音楽を忠実に再現している。

◎バシュメット(Va)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(rca)1994/2/14・CD

バシュメットの、時には撫でるように優しく時にはしっかり雄弁に(けして骨太ではないが)、丁寧に一音一音に情感を込めて一縷の隙もなく連綿と解釈し続ける演奏ぶりに惚れ惚れとする。2楽章などやや遅めだがそのスタイルにより飽きさせない。またプレヴィンのサポートも実に堂に入って美しくスケール感があり、厚みの有る演奏ぶりだ。この曲に時折感じる「薄さ」や退嬰的なところがそのような演奏によってしっかり内容あるものに仕立て上げられており、とくに終楽章の後半の音楽の大きさは、普通の演奏には聞かれない大きな設計に基づくもので特筆できる。しっかりした終わり方に納得。全編納得した演奏には初めて触れた。◎。

○Matthias Maurer(Va)L.ヘーガー指揮ACO(放送)1986/2/6LIVE

ビニル盤音源をレストアしたものがweb配信された。改訂版だが重厚さを失わず、ライブ的な勢いのあるバランスいい演奏。協奏曲というより交響的な迫力を示し、ソリストは上手いがテンポはけして激することなく、中間楽章はやや遅い。この曲のしっかりした記録としては特徴的で面白かった。○。

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チェロ協奏曲

○フルニエ(Vc)作曲家指揮ロイヤル・フィル(Arlecchino)1959/8/12live・CD

堂々たるもので輝かしい音で磐石のフルニエにすべらかにつけていく作曲家の棒、ノーブルで美しいオケの響きもろとも、小粒ではあるが完成度の高い演奏になっている。ライヴならではのスピードが胸のすく思い、丁々発止のやり取りが作曲家指揮モノにしては結構うまくいっており、録音が悪いのが惜しまれるが、○はゆうにいく。こういうものを聴くとヴィルトーゾの演奏が凡百のソリストのそれとはまったく違う次元にいることがわかる。またピアティゴルスキーのような「冷たい」演奏家ではこうはいかなかったろうことも思わせる。

○ピアティゴルスキー(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(hervest classics:CD-R)1957/1/28live

恐らく既出海賊盤の再発だと思う(EMIの映像とは未照合)。ピアティゴルスキーの音はやや力がなく、しかしこのウォルトンにしては深みのある曲には程よくマッチしている。ウォルトンの作曲人生の後半は全て蛇足だったとして、そこを除いた最も最後のあたりの作品と思われる(いーかげんな書き方)この曲、私はけっこう苦手だったのだが、なぜか今日は染みた。ウォルトンはもともとからっと明るくわかりやすい。そういうイメージをちょっと逸脱した大人の音楽ということなのか。不可思議な響きとシニカルな表現の中にも叙情的な旋律が流れ、速い楽章も技巧を見せびらかすものにはならず終始一貫した実を感じさせる。この組合せには有名な正規録音があるので別にこれを聞かなくてもいいとは思うが、微温的というか、朝には丁度いいかんじの聴感でした。○。

○ピアティゴルスキー(Vc)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI,BBC)1957/2/13live・DVD

作曲家にmagnificentと評されたイギリス初演時のライヴ映像である。まあ誰しも巨漢ピアティゴルスキーの左手、とくに2楽章の唖然とする超絶技巧に釘付けになるだろう。音だけ聴いていたら余り魅力をかんじないかもしれない、個性的ではない音の人だが、映像の力はこのオーダーメイド作品(もちろんピアティゴルスキーの委属)が決して皮肉屋ウォルトンのドル獲得の道具であったわけではないことを直感させるに十分である。

耳で聴くならせめてスコアと首っぴきで聞かないとわからない込み入ったところのある(ウォルトン自身は事故で入院中であったためラジオで聴いたようだ)、ウォルトンの長い滑空的晩年の入口際に咲く最後の花のような作品であるだけに、映像で見るとこのチェロに要求するには首を傾げざるを得ない跳躍の多さ音線のわかりにくさ、音響の複雑さとリズムのせわしなさ、そして変則的な重音の多用、確かに映画音楽のように煌びやかな叙情をたたえているはずの、旋律的な「はず」の楽曲をどうまとめるかがじつに難しげで、そこの巧妙な描き出しかた、やはりフルヴェンのオケで長年鍛えられた現代作品に対する確かな耳と腕が「ウォルトンなんてわかりやすい、簡単カンタン」と言わんばかりの余裕をもって楽曲をまとめてみせる。

そう、チェロのハイフェッツと言われてもおかしくはなかった(ハイフェッツのガルネリもそうだが楽器がかなり小さいのもヴァイオリン的なカンタービレをあわせもつ超絶技巧的な演奏を可能とした一つのゆえんだと思われるが)ピアティゴルスキーの腕はやはり音盤オンリーではわかりにくい。録音よりライヴを重視したためか録音媒体には渋さと技巧ばかり目だったものが多い。これは確かにライヴだし、何より弦では最も有用音域が広く難しく筋力もいるチェロだから、ウォルトンのような弦楽器に無為に苛烈な要求をする人の作品においては、音が決まらなかったり指が滑ったりするのは仕方がなく、いやコンチェルトでは敢えて要る音要らない音の強弱を強調するためになめらかに音を飛ばしたりひっかけたりして味にすることもあるのだが、ピアティゴルスキーは超スピードの間断ない流れを重視しているがゆえ、音符を全てしっかり音にできているかといえばそうではない。

でも、この白黒映像でもうかがえる伊達男、いやテクニシャンのサージェントとピアティのコンビにおいてそんな瑣末さは大した問題ではない。新曲をまとまった大きな絵画として描き出すためには細部へのこだわりは寧ろ仇となる。

BBCはそつない。しかしその冷たい音とじつに規律正しい・・・ドイツ楽団の「締め上げられた規律」とは明らかに違う・・・キビキビ正確に決まるアンサンブルはウォルトンの冷え冷えしたランドスケープに非常によくあっている。イギリスの楽団はじつにいいなあ、と思いつつ、その冷静さに若干の物足りなさを感じることもあるが、だがこの2楽章、「ウォルトンの2楽章」のピアティの超絶さには、結部でさっと弓を引く顔色変えないピアティに対し、会場から「舞台上からも」ざわめきが起こり一部拍手まできこえる。背後でささやきあう楽団員の姿を見ても・・・BBC交響楽団ではそうそうないことだ・・・恐ろしい技巧を目の当たりにした人々の「恐怖」すらかんじとれるだろう。ピアティは心をこめて演奏している、でも、まったく体は揺らがないし、表情を歪めたり陶酔したりすることもない。ラフマニノフを思わせる顔つき髪型で、性格的なふてぶてしさを表に出すこともなく、ルビンシュタインやハイフェッツにやはり似ている天才的技巧家特有の肩の力の抜き具合と演奏のすさまじさのギャップがすごい。

ハイフェッツの演奏を見て何人のヴァイオリニスト志願者が弓を置いたろうか。ピアティについてもそれはあてはまることだったろう、そういったことを思う。近現代チェリストにとっての神様カサルス~ピアティにとってもその存在は神であった~、あらゆる意味で20世紀最高のチェリスト故ロストロ先生(嘆きの声は次第に盛り上がっている、カサルスがなくなったときもそういえば楽器違いの演奏家からも悲痛な声があがっていたなあ・・・)のような天上の存在は別格として、しかし、あの大きなかいなをまるで機械のように正確にフィルムのコマよりも速くうごかし、工業機械のように力強く目にも止まらぬ速さで指を連打しつづける姿を見てしまうと、今現在目にすることのできるチェリストの何と弱弱しく、音の小さいことか、と思ってしまう。

このような演奏は、コノ曲においてはとくに絶後だろう。終わったあと、曲が静かで心象的であるだけにそれほど盛り上がらないのだが、それ以上に通り一辺ににこにこと挨拶したあと、左手でネックをつかみ軽々高々とチェロを持ち上げ楽団員の間をぬってさっさと袖にはけていく大柄のうしろ姿に・・・つまり全く疲れていないのだ・・・、亡命時にチェロを頭上に持ち上げ川をわたったというエピソードはマジかもしれない、とおもってしまった。恐るべき国ロシア。短命はその能力と体力のひきかえにもたらされるものか。純粋に音楽としては○。

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ピアノ四重奏曲(1918)

<音盤になっているものの中ではウオルトン最若年の作だが、ラヴェルの有名なピアノ・トリオの影響下に有りながら、バルトークの影響もそこはかとなく感じられ、直後の弦楽四重奏曲(第1番)に繋がる現代的な視点も持つ。何よりその旋律と和音の耳心地良さは秀逸だ。(4楽章制の)3楽章、憂いを秘めたノスタルジックな音楽には心打たれる。だが旋律に溺れず、冷たい構築性も併せ持つ。音の少ない(特にピアノ・パート)譜面は後のウオルトンを考えれば珍しいが、16で着手、改訂版を19で完成、出版20歳過ぎという異様
な早熟の才であればこのくらいのことは「あばたもえくぼ」。コープランドは25で「舞踏交響曲」を仕上げたとき、その年でこんなものを書いたなら、後に人殺しもするのではないかとその早熟の才を称えられたそうだが、ベルクもシェーンベルクも括目した上記弦楽四重奏曲(これが本当に”ゲンダイのベートーヴェン”とでもいうべきカイジュウ且つ斬新な曲)が10代の作であることを思えば、ちょっと比較にならないシニカルなガキだったんじゃないかと思う。コープランドの「ロディオ」が1930年代の作であるのに対し、ウオルトンの「ポーツマス・ポイント序曲」は1927年、25歳の作である。もっとも個性的な語法を確立してからも闊達でたのしい音楽を書き続けたコープランドに対し、高みからヒタスラ滑降するような作曲人生に入った後年のウオルトンの姿は、賛否分かれよう。

ただこれだけは言える。20世紀イギリスの純管弦楽作曲界で、最も才気溢れる俊英であったのだ。・・・それは戦前の短期間であったかもしれないが。ガーシュイン、プロコフィエフのサークルに輝く天才肌であったのだ。>

シリト、ミルンほか(CHANDOS)CD
ロバート・マスターズ四重奏団(WESTMINSTER)LP

シャンドス盤、今でも版を重ねていると思うが、例のウオルトン・シリーズの1枚だ。他ものすごく古い盤を持っているけれども(下)、シャンドスのシリーズはどれも大変高水準にあり、これは其の中でもトップ・クラスのアンサンブルだ。この1枚でとりあえず事は足りる(何の?)。

○マッケイブ(P)イギリス四重奏団(Meridian)CD

イギリス音楽のスペシャリストと言うべき組み合わせだろうか。明瞭な音符の表現(音符自体の少ない曲だけれども)が生硬なテンポにつながってしまうクセもあるが、若書きのロマンティックな部分が目立つ曲で、ウォルトンにありがちな焦燥感に満ちた曲でもないので、割と落ち着いた音楽となって安心して聞ける。若書きといってもシニカルで硬質な響きへの志向ははっきりあらわれており、英国貴族の気取った風ではなく、いかにも現代人の気取ったふうである。その点でも変に揺らしたり音色を工夫したりしていないのでそのまま素直に聞ける。いい演奏とまではいかないが、聞いてそつのない演奏か。○。

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弦楽四重奏曲

○ハリウッド四重奏団(CAPITOL/TESTAMENT)1949/11/2,3,1950/8/22

作曲家お墨付きの録音として知られるものだ。ライナーによると演奏家たちは文通でウォルトンのアドバイスを受け、49、50年に録音を行った。なぜ二年にわたったかというと、49年(作曲から僅か二年後)のテープを作曲家が蹴ったからだ。「ウォルトンのプレスト」、激烈な速度の2楽章の「繰り返し」を彼等が勝手にカットしたからで、さすが胆汁気質のウォルトンは、これにはそれだけの長さが必要だと言い張って、再録音を強いたらしい。但し1年後再録音が届いたときウォルトンはとても満足していたそうである。私などが聴くにつけ、もう少し柔らかいニュアンスや音色への繊細な配慮、そして落ち着いたスピードが、とくに緩徐楽章(これは極めて透明で美しい、名作である)に必要な気がしなくもないのだが、作曲家が満足したのだからそれでいいのだろう。そういえば自作自演の交響曲第1番(弦楽四重奏曲と構成上も楽想上も近似している)もさっさと進む解釈で、かなり即物的だった。この四重奏曲では1楽章がそうだが、ウォルトンの曲は時折繰り言を言うように粘りに粘って長くなるところがある。なるほどスピードを早めれば演奏時間も短縮されるわけで、これはそもそもそういうふうに猛スピードで演奏すべく作られていると言っていいのかもしれない。内省的な1楽章、せわしなく焦燥感に満ちているが旋律性も失われていないウォルトンらしいプレスト2楽章、透明な抒情の中に「ボレロ」などのエコーを散りばめた(リズムが不規則で聴くよりけっこう難しい)諦念すら感じさせる3楽章、そして異常な緊張感のある終楽章。ウォルトンは「飛ばし」の刻みをよく使うが、2、4楽章、とくに4楽章の異常な飛ばし刻みの応酬は若干世俗的で楽天的な旋律(メランコリックでイイ旋律がいくつも投入されてます。コード進行もじつに洒落てるし、かっこいい!)をモザイク状に組み立てていくさまが壮絶だ。もっとももっとマトモな演奏(失礼)で聞けば壮絶とまではいかないのだが、この演奏の異常な速さと信じられない曲芸的なアンサンブルにはただただ唖然とさせられる。自分で弾こうとはとても思わなくなるだろう。激烈なフィナーレ、傾聴!

さて、ウォルトンはこの団体を気に入ったわけだが、とくにヴィオリストには自分のヴィオラ協奏曲を弾いて欲しいと間接的に伝えるほどだったそうである(結局実現しなかったのだが)。1953年9月にレセプションのハイライトとして、作曲家臨席の場でハリウッド四重奏団によるこの曲の実演があった。作曲家はその後日スラトキン家に招かれたとき、「もう二度と他の誰も私のカルテットを録音しないでくれることを願う。君たちは私が何を望んでいるか、いかに的確につかんでいたことか。私たちはそのころまだ6000マイルも離れていたというのに」と語ったそうである。皮肉屋のウォルトンにここまでストレートに賞賛されるとは、なかなかすばらしいではないか。さて、ハリウッド四重奏団は指揮者スラトキンの両親、フェリックス・スラトキン夫婦を核としたアメリカの弦楽四重奏団で、並ならぬ集中力と緊密で凝縮された火の出るようなアンサンブルで知られている。張った弓を思い切り弦に押し付けるような奏法のせいだろう、力強いものの音色が単調で若干押し付けがましく、窮屈に感じなくもないが(復刻録音の音場が狭いせいもある)、即物主義的なストレートな演奏はトスカニーニなどが活躍した時代の空気を伝えるものとして貴重である。とくに現代曲においてはその類希に高度な技術を駆使して演奏不能すら演奏可能としてしまう力がある。残念ながらメンバーの活躍期間は決して長いものではなく(まあカルテットはえてして短命なものだが)、50年代にヴィオリストは演奏活動をやめ、フェリックスはライナーのもとで指揮活動に専念するようになったが(このころのレコードが残っている)、50になる前に亡くなってしまった。ちなみにウォルトンの弦楽四重奏曲というと普通この曲をさすが、ごく若い頃に無調的な弦楽四重奏曲を書いており(CHANDOSに録音あり)、そのため第2番と呼ばれることがある。

○イギリス四重奏団(Meridian)CD

録音は最近ありがちな「丸く磨かれすぎた音」にホール残響的なものが加わっているもので好き嫌いあると思う(私は生音を余り残響なしで聴きたい派)。演奏はやや大人しめである。といっても技術的な限界が見えるとかいったことはなく、3楽章までは他盤と大差ないカタルシスが得られるのだが、4楽章がいけない。余りに落ち着いているのである。ウォルトン本人が好んだハリウッド四重奏団の録音のような、エッジの立った鋭い音で躁状態で突っ走る爽快感がなく、3楽章までと同じような調子で「4楽章」として終わらせている。ハリウッド四重奏団もやり過ぎだと思うが、もうちょっと本気、見せてほしかった。○。

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ヴァイオリン・ソナタ

○メニューイン(Vn)ケントナー(P)(EMI/HMV)

ヴォーン・ウィリアムズなどと一緒にCD化したそうだが入手し損ねて古いLPで聞いてます。このメニューインの浄瑠璃を唸るような(?)生々しく不安定な音はCDでも巧く入っているだろうか。メニューイン夫人とケントナー夫人に献呈された曲、もうコテコテの内輪録音です。ウォルトンの地味なほうの作品だがとてもウォルトンらしいフレーズや響きが散りばめられている。2年前の弦楽四重奏曲にも近いといえば近いが、寧ろ初期のピアノ五重奏曲を思い出した。この作曲家のピアノはけっこう面白い。硬質で冷たい抒情があるというか、ウォルトン固有の繊細で精妙な響きを最も理想的な形で表現できる楽器として特別な位置にあったと言えよう。地味で通好みの楽想は10年前の華美なヴァイオリン協奏曲よりも7年後のチェロ協奏曲に通じるものがある。宇宙空間のような暗い幻想だ。しかしけっして旋律の才が枯れているわけではなく、単純ではないが耳を惹くものがある。ウォルトン・マニアにはとても面白く感じられるだろう。逆に初心者はもっと派手な曲で入った方がいいでしょう。演奏は音程に疑問があるが美しいことは美しい。○。

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オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31)

◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)&cho.ほか

名演だ。安定感のある響きをささえとして、表出意欲の高い合唱が嵐のように勇壮にひびきわたる。この音響、構成感はあきらかに西欧の伝統的表現にもとづいている。オラトリオらしいオラトリオになっており、また管弦楽も負けじと歌いまくっているように聞こえる。ウオルトンらしさ(めくるめくリズムの表現やシニカルな不協和の響きなどの表現)は稀薄で、音の透明感も皆無といってよいが、総じてじつにダイナミックな演奏で、曲を未知のまま聞くうえでは最良の紹介盤たりえよう。通常きかせどころとなる場面が逆に埋没しがちで、最後もあっさり収束するのは意外だったが、「意外」といえば全編ウオルトンらしくないロマンティックな構成感に支えられているのだから、ウオルトン好きには違和感があるかもしれない。だが面白いことだけは確かだ。

◎作曲家指揮BBC交響楽団&合唱団他・Mclntyre(B)(bbc)1965live

「ベルシャザールの饗宴」はウォルトンでも人気曲のひとつだ。独唱バリトンに二重の合唱団、管弦楽に二組の吹奏楽という巨大編成でおおいに歌い上げられる、聖書の一節。ベルシャザール(バビロン王子)が宴を催しているところに神の手があらわれ壁に文字を描くという場面、ルネサンス絵画の画題にもなっている有名な話し(筆者は旧約聖書をあまり知らないので間違っていたらすいません)。但し曲に宗教色は薄い。ウォルトン独特の垢抜けた響きにリズミカルな旋律が跳ね回るところが何といっても特徴的であり、魅力的。ウォルトン二十代の最後に書き上げられた、若々しさに溢れる清新な曲といえよう。さて、この演奏はウォルトン自作自演としてはかなり成功しているものだ。EMIの自演盤よりも音が鮮明で、合唱もよく響いている。ウォルトンの棒は演奏者たちをよく統率し、完全にコントロールできており、ライブとしては演奏上の瑕疵がほとんどないのが凄い。奇跡的な演奏だ。終演を待たずしてフライング気味に入る拍手喝采もこの演奏の成功を伝えている。聞いて損は無い盤。カップリングは交響曲第一番のライヴ。

◎ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル、スコラ・カントゥルム合唱団、トッツィ(B)(NICKSON)1957/5/12LIVE

名演!後半の怒涛のような推進力は圧巻。合唱にオケに独唱にと大編成のオケに対して歌劇指揮者としても名高かったミトプーの、密度が濃く隙の無い音響の取りまとめかたに感服させられる。ウォルトンは不規則なリズムに細かい休符を混ぜ込むため、熱い楽曲にところどころ冷たい隙間風が入ってしまったような感じがすることがある。とくに新しい録音では演奏精度が上がるがゆえに余計にその感を強くする。だがこのくらいの悪いモノラル音で聞くとそのあたりがカバーされ丁度いい。いや、べつに録音マジックだけというわけではなくて、ライヴならではの気合が舞台の隅々にまで満ち満ちており、リズムは飛び跳ねるようにイキがよく休符が気にならない強さを持っている。フィナーレの非常に速いテンポに音楽の攻めの良さはまったく聞いたことのない「ベルシャザール」の演奏、びっくりした。どこにも弛緩がない。面白い!最後は盛大な拍手。音は悪いけどいいです、これ。但し・・・強いて言えば前半が地味かも。

○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD

前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。

○ロジェ・ワーグナー指揮ロイヤル・フィル、合唱団、ジョン・キャメロン(B)(CAPITOL、ANGEL/PACO)1960/9/19-22

スピーディで明るく魅力的なベルシャザールだ。シャープで攻撃的な声楽のコントロールぶりはさすが合唱指揮で名をはせたロジェー・ワーグナーといったところである。オケコントロールもたいしたもので透明感あふれる響きから迫力ある表現を引き出している。ミスもあるがそれくらい熱した演奏になっている。ダイナミックで速い。曲の内容などどうでもよい。他演が単線的な旋律表現を追いがちなのにたいしこれはただ立体的に重層的に迫ってくる。何も考えず楽しもう。SP初出。

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劇音楽「ファサード」

組曲

~ポルカ、タンゴ・パソドブル、タランテラ・セビリアーナ

○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1950/2/26live・CD

ウォルトンの諧謔性は鋭い金属質の肌触りのする響きと機械的な混み入ったアンサンブルに裏付けられているものの、バルトークのオケコンの「中断された間奏曲」のような、あるいはストラヴィンスキー渡米後のオーダーメイド作品のような皮肉を確かに提示しながら、穏やかな空気の中から穏健に提示される。そこが限界でもあり魅力でもある。間違えるとほんとに穏健な音楽になってしまうので注意だ。モントゥの前進性はここでも目立ち、音楽が決して弛緩しないから穏健さは煽られない。組み立ても決して旋律の組み合わせの人工性を露わにせずじつに板についたもののように聞かせている。オケにどうも艶がなく機能性ばかりが目立つのが気になるが、ファサードはもっとソリストに多彩な表現を自由にとらせてもいいのではと思う。速いです。
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ウォルトン(管弦楽曲) 2012/3までのまとめ

2012年04月09日 | Weblog
ウォルトン

<(1902-1983)論客アルトゥール・オネゲルが、才能に満ち溢れているにもかかわらず今一つ評価されていない作曲家として名を連ねた一人、イギリス20世紀前半を代表する作曲家である。故三浦淳史氏が愛して止まなかった名匠でもある。

ランカシャーはオールダムに生まれ、父親から私的な音楽教育を受けたのち、オックスフォードで聖歌隊学校に入学。ほぼ独学で作曲を身につけたといわれ(この時代の著名作曲家は(今と違って?)皆こういった天性を備えていたようである)、たまにブゾーニやアンセルメなどの助言を受けるのみだったそうである。イディス・シットウェルの一連の詩を用いた朗読と6人の器楽演奏家による「ファサード(豪奢な建物の豪奢な門のことだったか?)」は1922年作曲23年シットウェル朗読によって初演され、じつに大きな反響をあたえた。コクトーではないが「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」の呼び名がふさわしい有望な作曲家としてかなりの期待を集めたようである。ちなみに後年改訂がなされたが、作曲家自身の指揮によっても両方の録音記録がかなりの数残されている。以後初期の作風は世界的には幾分遅れ馳せながらも無調的書法を取り入れ、ベルクらとの交流も交えてすこぶる前衛的になっていたが、路線変更の先駆けとなったピアノとオーケストラの為の協奏的交響曲(27)、最高傑作の呼び声高いが本国の名ヴィオリスト、ライオネル・ターティスに拒絶されヒンデミットに初演されることとなったヴィオラ協奏曲(29)では、新浪慢主義のもとに叙情性を示すようになっている。

透明感ある清新な響きとリズムの明快さに支えられ矢継ぎ早に繰り出される憂愁の旋律は、しばしば粘り強くしつこく繰り返されるものの、微温的な曲を好むイギリスという国にあっても結局一定の人気を勝ち得ることに成功した。アメリカにわたりプロコフィエフやガーシュインと交流したことが彼の作風確立に一役果たていしたのは疑う余地が無い。ヒンデミットとは長く交流を暖めていたが、直接的影響はプロコフィエフのほうが大きいように思う。同じ作曲手法を使いながら各曲に異なる心象風景を織り込む手腕もなかなかのもので、後年霊感の衰えかいくぶん流してこなした様子も聞き取れるものの、それなりに聞かせてしまう手際の良さは没年に至るまで衰えなかった。映画音楽や劇音楽にも優れた作品を残しているが、初期に影響を受けたといわれるストラヴィンスキー同様金銭的な理由で引き受けた仕事が多かったともいわれる。ドライなアメリカ的感性はこの作曲家のイギリスでの特異性を良くあらわしている。ドライといえばジョージ・セル(指揮者)との交流も有名だが、音楽以上に性格的な一致性を感じる(セルは第2交響曲(1960)等をCBSに残しているが現在は絶版でかなり手に入りにくくなっている。)ちなみにジャズ要素を最も効果的にクラシカル・ミュージックに取り入れた作曲家としても、かなりの評価を受けていた。いくつかの先駆的な曲は今でもしばしば演奏される(ポーツマス・ポイント序曲など)。1951年ナイトに叙せられた。

代表作としては以後、歌劇「トロイラスとクレシダ」(1954ロンドン初演。自作自演、シュヴァルツコプフ他の演奏がCDになっている)、前述のポーツマス・ポイント序曲(1926、ジャズをクラシカル・ミュージックの枠内に本格的に組み込んだ曲としては、かなり早いものといえるだろう)、人気曲の交響曲第1番(1935)、ヴィルツオーソ向け新ロマン協奏曲としてバーバーと並び貴重なレパートリーとなっているヴァイオリン協奏曲(1939)、原曲を分かりやすく美しく纏め上げた傑作ヒンデミットの主題による変奏曲(1963)、交響曲に負けず劣らずの人気オラトリオ、ベルシャザールの饗宴(1931)、さらに一番有名で吹奏楽でも頻繁に演奏される戴冠式行進曲2曲(現エリザベス2世及び其の前の王のための曲であり、エルガーの打ち立てた高貴な行進曲スタイルを現代の手法によってよみがえらせた傑作中の傑作。)やヨハネスブルク祝典序曲、映画音楽的要素を昇華させた隠れた名作スカピーノなどいくつかの管弦楽曲はウォルトン成熟期の真骨頂。その他歌曲や室内楽においても優れた大衆的作品を残している。「大衆的」といってもかなりの技巧を要求する曲が多いところが、かつては前衛でもあった「20世紀の作曲家」であることの証しである。>

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交響曲第1番(1932-35)

<遠くから、幽かに響くオーボエ。前期シベリウスを思わせる神秘的で壮大な開始部は、しかしシベリウスよりもロマンティックで「世俗的」だ。シベリウスの影響下にネオ・ロマンティックな交響曲を書いた音楽的辺境の作曲家は数多いが、ウォルトンのそれはとりわけリズムの多彩さと旋律のわかりやすさ、さらに新ウィーン楽派の洗礼を受けた作曲家であることを窺わせる冷たい響きによって明確に記憶に残る。やや長大なきらいもあり、終楽章など弦の一部パートを細分化しすぎてアンサンブルがまとまりづらくなっているところもあるし、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲(2番)といった曲とほぼ同じ曲想構成の中で、同じ事を言おうとしているのだから、芸が無いといえば芸が無い(但し本作はそれら一連の作品の嚆矢に近い)。音楽としての質でいえば「至高」と言うわけにはいかないだろうし、シベリウスの高みとは比ぶべくもない。わかりやすいのか難解なのかわからないところもある。一番特徴的なのは2楽章で、最もウォルトンらしい嗜虐的スケルツオだが、人を惹きつけるのはやはり畳み掛けるような息の長い旋律を繰り返す1楽章、3楽章印象的な深みある音楽から再び立ち上がり終結へ向かって轟進する4楽章だろう。結部において、大団円を打ち切るようなティンパニの連打があるが、皮肉屋のウォルトンらしいアイロニーであり、戦争の影でもある。(1995記)>

◎作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD

この自演集が手に入らなければプレヴィンでもスラットキンでもいいので聞いてください。シベリウスの子、ネオ・ロマンティック交響曲の双璧(もう一壁はハンソンの「ロマンティック」)・・・←勝手に決めてますが。同時代の音ということで、ここでは古い演奏を推します。でっかい波が延々と寄せては返すような1楽章の盛り上がり、氷のように透明な諦感と葛藤する気持ちが蒼く燃える3楽章。ささくれ立った中にも希望の光に溢れた終楽章。最後の空虚な連打音。うーんイイッス。但し・・・ウォルトンの有名曲はみんなこんな感じだったりする・・・

音さえ良ければ抜群の名演として推せるのだが。このテの曲はモノラルで音が悪いと評価が半減する(といいつつここではボールト旧盤も推薦してしまっているが)。ウォルトンは自演指揮者としても一流だ。ダイナミックな起伏に浸りきる。オケの響きも凝縮されしかも激しく素晴らしい。

作曲家指揮ロイヤル・フィル(BBC)1959LIVE・CD

ウォルトンの交響曲第1番は難曲である。管楽器はすべからく酷使されるし、弦楽パートは何部にも別れて演奏する場面もあり辛い。アンサンブルを保つのが大変だ。付点音符のついた独特の音型が充溢しているが、これなども難しいところがあると思う。ロイヤル・フィルは決して弦楽の弱いオケではないと思うが、一楽章アレグロなどを聞くと、ファーストヴァイオリンがコンマスが突出した薄い響きになってしまっていたり(音色は非常に綺麗なのだが)、低音弦楽器が何をやっているのか、蠢きしかつたわってこなかったりしている。無論録音のせいもある。但し作曲家の指揮にしては非常に巧いと思う。二楽章プレストなど音楽の描き分けがはっきりとしていてすばらしい。余りルバートせずインテンポで突き進むところなども翻って格好良かったりする。EMI盤のほうが良くできているが、この盤も聞いて損は無いだろう。併録の「ベルシャザールの祭典」はかなりの名演で、拍手も熱狂的だ。

作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964LIVE・CD

このレーベル未だあったんだ・・・。驚かされたニュージーランド・ライヴ集二枚組。ニュージーランドはイギリス連邦の国だからこれはお国モノと言うべきなのか、ゴッド・セイヴ・ザ・クィーンから始まるこの録音。オケはあまりふるわないように聞こえる。これは管弦の録音バランスが悪いことに加え残響が煩わしい擬似ステレオで、音楽の座りが悪く、技術的には決して悪くないとは思うのだが、アンサンブル下手に聞こえてしまうのだ。ウォルトンの指揮ぶりは比較的ゆるやかなテンポを維持する即物的スタイルと言うべきもので、完成
度は他演に譲るが、内声部の主としてリズムパートが明確に磨き上げられているところなど作曲家のこの曲への見解を示していて面白い(録音のせいかもしれないが)。弦が弱いのでブラスばかりが吠えまくるハッタリ演奏に聞こえなくもないけれども、凄く悪いというわけでもないので、機会があれば聴いてみてもいいかもしれない。他ヴァイオリン協奏曲等。無印。(2004/3記)

◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)(NIXA/PYEほか)モノラル

BBCのクリアさも良いが、愛着あるのは古いスタジオ盤だ。LPでもレーベルによって音が違い、CDでも多分そうなのだろうけど(LPしか持ってません)、フルートを始めとする木管ソロ楽器の巧さ、音色の懐かしさ、ボールトの直截でも熱く鋭くはっきりと迫る音作り(1楽章、終楽章など複雑な管弦楽構造をビシッと仕切って、全ての音をはっきり聞かせてしまうのには脱帽・・・ここまで各細分パートしっかり弾かせて、堅固なリズムの上に整え、中低音からバランス良く(良すぎてあまりに”ドイツ的”に)響かせている演奏はそう無い)はどの盤でも聞き取れる。揺れないテンポや感情の起伏を見せない(無感情ではない。全て「怒っている」!)オケに、野暮も感じられるものの、表現主義的なまでの強烈なリズム表現は曲にマッチしている。50年代ボールトの金属質な棒と、曲の性向がしっかり噛み合った良い演奏。もっとも、ウォルトンの曲に重厚な音響、淡い色彩感というのは、違和感がなくはない。

ボールト指揮BBC交響楽団(BBC)1975/12/3LIVE

ボールトならLPO盤を薦める。決して悪い演奏ではないが、BBCsoの音は如何にも硬い。客観が勝りボールトの即物的な面が引きずり出されているようで、風の通るようなオケの音が適度にロマンティックな解釈とつりあっていないようにも思う。ライヴならではの堅さ、というのもあるかもしれない。ノりきれなかったライヴというのはえてして崩壊した奇演になるか、解釈のぎくしゃくとした機械的再現に終わる。後者のパターンだろう。とはいえ、ステレオの比較的良い音で、技巧も決してまずくはなく(うまくもない)、初めて聞いたときはそれなりに楽しめた覚えはある。

○スラットキン指揮セントルイス交響楽団(RCA)

オケがややばらけるところもあるが、熱演であり、尚且つすっきりとした透明感に彩られている佳演。明瞭な色彩もこの曲の美質を良くとらえている。

○ハミルトン・ハーティ指揮LSO(DUTTON/DECCA)1935/12/10-11

恐らく初録音だろう。中仲の秀演だが音が悪い。オケのノリがすこぶる良い。

○ハーティ指揮LSO(decca他)1935/12/9-10・SP

DUTTON復刻盤と同一だが、web配信されている(ノイジーだが)音源についているデータが微妙に異なるので、別に挙げておく。リンクは書かないが明るく抜けのいい復刻音源なので探して、初演者ハーティの真価を見てください。くぐもった骨董音源のイメージがあったのだが、トスカニーニ的な即物性が勢いを生み、リズム感がとにかくいい。もちろん現代のレベルとは違うのだが、何かしら生々しく、胆汁気質の楽曲がまんまダイレクトに耳をつき、とくに初演に間に合わず後日改めてハーティが全曲振り直したという終楽章のけたたましさ、最後の息切れするような和音と同時にこちらも息切れ。いやノイズキャンセルしない(高音域を切らない)というのは鼓膜負担が激しいので、実際疲れるは疲れるのだが、改訂を重ねられる前の凄まじさというか、管弦楽の迫力が感じられる点は嬉しい。○。

○サージェント指揮ニュー・フィル(EMI)

作曲家臨席のうえで録音された盤である。作曲家はサージェントに賛辞の手紙を送っている。だがこれは自作自演と比べてまったく異なる演奏である。弦など異様に細かく分けられた各パートすべて、細部までテンポ通りきちんと揃えて聞かせるやり方はちょっと新鮮だが(ここまで内声部まで揃ってちゃんと弾いている演奏も他にないのではないか)、音をひとつひとつ確かめるように進んでいくがためにスピード感がなくなり、結果かなりゆっくりしたテンポになってしまっている。ひょっとするとウォルトンが晩年に指揮していたらこういう演奏になったのかもしれない、と、リリタの自作自演アルバムを思い起こしながら思った。構造的な部分に興味のある方には非常に貴重な資料であろうが、長い曲だから飽きてくる。一音一音の発音は太くハッキリしていて男らしい足取りをもった演奏になっており、伊達男サージェントのスマートなイメージをちょっと覆すようなところもあって面白いが、3楽章あたりの情緒はもう少し柔らかく表現してほしくなる。目先を変えるという意味では興味深い演奏である、○ひとつつけておく。

○ホーレンシュタイン指揮ロイヤル・フィル(INTA GLIO)1971LIVE・CD

この曲の演奏を語るときには必ず口辺にのぼる録音である。
またホーレンシュタインのぎくしゃくした音楽か、と思うなかれ。この人の演奏としては稀に見る名演である。ぴりぴりと張り詰めるような演奏ぶりは意外なほど外していない。テンションはこの決して短くはない曲の最初から最後まで持続する。とくに弦楽器の凄まじい気合に感動する。すべての音符にアクセントが付き、しょっちゅう弦が軋む音がする。音の整えかたは重低音のドイツ風でホーレンシュタインらしい重厚なものだ。テンポは速くないが決してそれを感じさせない空気がある。ライヴでこの完成度はホーレンシュタインにしては珍しいと言っていいだろう。聴きどころは2楽章以外、と言っておこうか。2楽章は個人的には俊敏で飛び跳ねるようにやって欲しいところ。でもこれで良しとする人も少なくないだろう。苛烈なティンパニ、大きく吹き放つようなブラスのひびき、これはニールセンともシベリウスとも違うドラマティックな音楽だ。この曲の演奏史に独特の位置を占める名演と言っておこう。残念ながら録音がよくない。古いテープ録音のようでときどき音像が不安定になる。そのため○にとどめておく。

ブライデン・トムソン指揮LPO(CHANDOS)

やや莫大にやりすぎているか。ウォルトンの胆汁質が間延びしてしまったように聞こえた。この人の演奏の特徴は、大掛かりだが透明で感情をあらわにしないところだろうか。この曲では違和感を感じた。

ギブソン指揮スコティッシュ・ナショナル管(CHANDOS)1983

オケが弱く、ギブソンの発音もややアクが強すぎる。

○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

イギリス20世紀産交響曲で1,2を争う名作とされるが、プロコフィエフ的に分断され続けるシニカルな旋律にシベリウス的なキャッチーな響き、壮麗で拡散的なオーケストレーション(弦のパートが物凄く細かく別れたりアンサンブル向きではない華麗だが細かい技巧的フレーズが多用されたり)が、粘着気質のしつこく打ち寄せる波頭に煌くさまはちょっとあざとく感じるし、最終音のしつこい繰り返しも含め、長々しくもある。改訂で単純化というか響きを軽く聴きやすくされたりしているようだが、演奏スタイルも両極端で、ひたすら虚勢を張るような音楽を壮大にしつこく描き続け(て飽きさせる)パターンと、凝縮的かつスマートにまとめて聞きやすくさっと流す(ので印象に残らない)パターンがある。

そもそもライヴ感があるかどうかで印象が大きく違う。ロシアの大交響曲のように、ライヴでは力感と緊張感でしつこさを感じさせない曲なのである。ただ言えるのはよほど腕におぼえのあるオケに技術を持った指揮者でないと聴いてられない曲になってしまう恐れが高いことである。

プレヴィンの新録は日本では長らく手に入る唯一の音盤として知られてきた。RVWの全集など英国近代交響曲録音にやっきになっていたころの延長上で、RVWのそれ同様無難というか「整えた感じ」が「素の曲」の魅力の有無を浮き彫りにし、結果名曲とは言いがたいが演奏によっては素晴らしく化けるたぐいの曲では、図らずも「化けない」方向にまとまってしまう。旧録のLSOに比べロイヤル・フィルというあらゆる意味で透明なオケを使ったせいもあろうが、凝縮というより萎縮してしまったかのように表現に意思が感じられず、プレヴィンの技のままにスピーディかつコンパクトにまとめられてしまっている(この稀有壮大な曲でそれができるプレヴィンも凄いとは思うが)。ライヴ感が皆無なのだ。ステレオ録音の音場も心なしか狭いため、50年代押せ押せスタイルならまだしも、客観的スタイルでは入り込めない。

4楽章コーダの叩き付けるように偉大な楽曲表現にいたってやっと圧倒される思いだが、1楽章冒頭から長い序奏(構造的には提示部?)の間の次第に高揚し、主題再現で大暴れするさまがもっと演出されないと、両端のアーチ構造的な「爆発」が「蛇頭龍尾」という形に歪められてしまう。スケルツォと緩徐楽章はこのさいどうでもいいのだ。形式主義の産物にすぎない。いずれ後期プロコフィエフの影響は否定できないこの曲で、絶対的に違う点としての「無駄の多さ」が逆に魅力でもあるわけで、無駄があるからこそ生きてくるのが壮大なクライマックス。無駄を落としすぎているのかもしれない。

かなり前、これしか聴けなかった頃はよく聴いたものだが、録音のよさはあるとはいえ、もっと気合の入った、もっと演奏者が懸命に弾きまくる演奏でないと、複雑なスコアの行間に篭められた(はずの)真価が出てこないように思う。入門版としては適切かもしれないので○にはしておく。カップリングの有名な戴冠式行進曲2曲のほうは非常におすすめである。ひょっとして録音が引きになりすぎているのかな。プレヴィンはモーツァルト向きの指揮者になってしまったのだなあ、と思わせる演奏でもある。だからこそ、1966年8月録音のLSO旧盤のほうが再発売され続けるのだろう。

◎プレヴィン指揮LSO(RCA)1966/8/26,27ロンドン、キングスウェイホール・CD

作曲家墨付きの凄演だ。力ずくで捻じ伏せるように、腕利きのLSOをぎりぎりと締め上げて爆発的な推進力をもって聴かせていく。部分においてはサージェント盤はすぐれているが全体においてはこちらが好きだ、と作曲家が評しているのもわかる、部分部分よりも大づかみにぐいっと流れを作り進めて行くさまが清清しい。とくに叩きつけるような怒りを速いスピードにのせた1楽章が素晴らしい。しかし部分よりも全体、というそのままであろう、これだけあればいいというたぐいの盤ではないが、これだけは揃えておきたい盤である。クラシックの音楽家としてはまだ駆け出しだったはずのプレヴィンが一切の妥協なく集中力を注いだ結果がこのまとまり。まとまらない曲で有名なこの曲がここまでまとまっている。ベストセラーさもありなん、この非凡さはまだその名を知らなかった作曲家の心をとらえのちに交流を深めたようである。◎。

○コリン・デイヴィス指揮LSO(LSO)CD

この曲はスコアリングに問題があるといわれ、細かい仕掛けをきっちり組み立てていこうとすると妙にがっしりしすぎてしまったり・・・曲自体はシベリウスよりも軽いくらいなのに・・・リズムが重くなってしまったり、だいたい過去の録音はそのようなものが多い。新しい自作自演ライブや、たとえばスラットキンの有名な録音などは逆に明るい色調が浅はかな曲であるかのような印象を与えてしまっている、これは恐らくスコアを綺麗に整理しようとする意思が過剰になってしまったのか、単にオケのせいなのか・・・コリン・デイヴィスの演奏はそれらに比べ非常にバランスがよい。決して重過ぎず、明るすぎもしない。一つにはオケの力量があると思う。ヴァイオリンの細かいポルタメントがその気合を裏付けているとおり、演奏に一切の弛緩がなく、技術も十分であるからそれが音になって現れている、更にプラスして音響に適度の重さが加えられ整えられている。ファーストチョイスには素晴らしく向いているし、逆にこれだけでいいという向きもあっていいだろう。3楽章のような冷えた響きの緩徐楽章に旋律のぬくもりを加えて独特の感傷をかもすところ、これはコリン・デイヴィスの得意とする世界だろうか。かなりの満足度。○。

ほかグーセンスなど・・・

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交響曲第2番(1959)

○セル指揮クリーヴランド管(sony)1961

~全編焦燥感に満ち唖然とするほど精妙な管弦楽法に彩られているが、過去のスカピーノのような曲で使われていた「つなぎ」の部分を寄せ集め、交響曲第一番かチェロ協奏曲ふうの暗い雰囲気の中にがちっと組み合わせて作ったような感じで、正直楽想の貧困さは否定できない。ヒンデミットのようなアクの強さがあれば律動だけでも曲は作れるが、両端楽章は彼自身の祝典音楽を彷彿とさせながらも旋律自体に魅力が薄く、「映画音楽」としては万全な伴奏となりうるだろうが、純管弦楽としては今一つだ。中間の緩徐楽章が数十年前にはやったようなロマンティックな音なのも意外だし気になる。3楽章制。余りに流麗な筆致を持て余して作ったような・・・これほど複雑精巧なスコアはセル・クリーヴランドくらいの技術がないと再現無理である。逆に、こういう演奏で入らないとこの曲には馴染めまい。音響構造物の複雑な響きにただ溺れよう。演奏的にも非常に集中力が高い。録音もまあまあである。長らく店頭より消えていたが国内盤で復刻嬉しい限りである。

○クリップス指揮NYP(vibrato/DA:CD-R)1964/10live

例によって録音拠れが激しくクリアなステレオなのに不安定なところが多々、とくに1楽章の瞬断頻発などちょっと鑑賞のレベルを超えているが、2楽章以降は普通に聞けるし、俊敏でリズミカルな演奏ぶりはこの両者の能力をよく示しているといえるので○。あ、曲ですか、曲についてはウォルトン晩年の技術を示したもので内容はありません。刹那のアンサンブルの饗宴を楽しむ曲で、旋律もへったくれもない。

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戴冠式行進曲「王冠」

◎ボールト指揮BBC交響楽団、メイソン(ORG)(VAI)1937/4/16・CD

初演者による覇気溢れる演奏。現代のウォルトンの清新なイメージとは違い、行進曲の伝統・・・特にエルガーの流儀・・・をしっかり踏んだ非常に格調高い演奏だ。ニキシュを彷彿とさせる(といっても私には伝ニキシュ指揮のロシアの行進曲「ドゥビーヌシュカ」のイメージしかないが、そのスタイルはかなり似ている)前進力に胸がすく。重量感ある響きがドイツ後期ロマン派的な音楽を形づくっているが、ウォルトンの明るい作品にきかれるからっとアメリカ的に透明感ある響きを好む人には薦められないかというと、けしてそんなことはない。ジョージ六世戴冠式のために作曲されたこの曲は、一度聴けばはっきりわかるが「威風堂々第1番」を踏まえてそれにのっとったような作品であり、このような流儀も十分受け容れる素養はあるのだ。聴けばそのちょっと聴きの古さに躊躇するかもしれないが、技術を超えた表現の力が、そしてボールトの確かな棒の紡ぎ出す国王戴冠式のための勇壮な音楽が、現在でも愛好される素晴らしい旋律をそのまま旋律の魅力で聴かせるのではなく、総体として充実した響きをもって、圧倒的な迫力で向かってくる。いや、向かってくるというのは適切な表現ではないかもしれない。喜びに満ちた大団円の行進といった感じだ。大団円とはいえ莫大にはけしてならない。ボールトはそういう指揮者ではなかった、最後まで。締まった解釈はオケの技術を越えてしっかりしたフォルムの音楽を作り出す。それが個性的か個性的でないかは関係ない。大体個性とはどんなものなのか、一つの尺度だけで測り出せるものではあるまい。ボールト晩年の不遇?の原因はスター性がなくなったことだけだ、私はそう思っている。なぜって、この録音のなされた時代には少なくとも確実に、スターだったのだ。同時代の作曲家の作品をこのニキシュの弟子は初演しまくっている。感情的な録音記録もなくはない。ボールトのキャリアは早すぎて、長かった。しかし長かったけれども手抜きは一つとてない。これぞプロフェッショナル、である。ちなみにこのスコアは現行版とはかなり違っている。第一主題の展開部に比較的長いフレーズの挿入(もしくは現代は削られている原形部分)が聴かれる。オーケストレーションも重心が低めに聞こえるので詳細検討はしていないが違っている可能性は高い。上記「ドイツ的」という感想はそのせいもあるだろう。いずれにせよこの演奏は現行版の威風堂々的なあっさりした構成の作品としてではなく、一つの交響曲の終楽章を聴いているかのように充実したものとして聴ける。録音の悪さなどどうでもいい。自身も優れた指揮者であったエルガーが認めた指揮者なだけに、ちょっと前のエルガー指揮の録音に聴かれるスタイルにも似た力強い演奏。◎しかありえない。

バルビローリ指揮王立軍楽学校のトランペッター&バンド(BBC/IMG)1969/11/19LIVE

バルビにウォルトンの録音があるとは!と驚かされた盤だ。演奏はといえば正直溜めすぎ揺らしすぎ(とくに緩徐的な第二主題)。行進曲なんだからケレン味を持ち込むのはよくない。大変に開放的で派手な演奏となっており、最晩年のバルビにしては生命力に溢れているが(まあライヴということもあるのだが)持ち込み方が間違っている。曲が悪いか。威風堂々第1番のパクリ的楽曲でありながらも決してエルガー的ではないこの曲、バルビも威風堂々では素晴らしいがここではやや落ちるか。まあ、一期一会の演奏をどうこう言うのも無粋だろう。最後ブラヴォーが叫ばれる。

○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

エルガーの跡を継ぐ名行進曲としてブラスバンドでも頻繁に取り上げられる、非常に演奏効果の高い曲だが、ここでもカップリングの交響曲第1番と比べて比較にならない迫力ある表現がとられており(「ロイヤル・フィル」ですからね)感情的効果の高いものになっている。弛緩もせっかちさもなく、これでしかありえない、という気高くも浮き立つ気分が素晴らしい。かといって他にもこのくらいの演奏はあるので最高評価にはしないが、引いたような交響曲の演奏スタイルとのギャップがあった。

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戴冠式行進曲「宝玉と杖」

◎プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

「王冠」よりはマイナーだが同じく色々な式典で使われる名行進曲である。比較してややメロウで感傷的であるかもしれない。現エリザベス2世の戴冠式用行進曲。この演奏は併録「王冠」よりも更に迫力があり、なまじ二番煎じ(威風堂々を一番茶とすれば三番?)の曲なだけにこれだけ威力を発揮する輝かしい演奏は◎にしなければならないと思わせるものがあった。

○サージェント指揮ロンドン交響楽団(alto他)1954・CD

威風堂々と並び余りにも有名なウォルトンの二曲の行進曲の後のほう。サージェントは程よく雄渾で響きも絶妙に艶めいて出色だが(シベリウスが得意だっただけある)、それゆえ世俗的な雰囲気が出過ぎているように聴こえる。軽めで、リズム取りがやや「格好をつけている」ような感を受ける。弾むようなフレーズの切り方に若干遅めのテンポが、娯楽性を煽り過ぎて戴冠式行進曲というよりジョン・ウィリアムズ全盛期の映画音楽のようになっている(もちろん曲はJWが真似たのであるが)。録音が一部撚れたり古くなってしまっている部分もある。展開部の緩徐主題は雰囲気があって懐かしい感じがしていい。◎にする人もいると思う。○。

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喜劇序曲「スカピーノ」(1940/50)

作曲家指揮フィルハーモニア管(EMI)1952/LSO(LYRITA)1971

ヒンデミットとウォルトンは作風に一定の共通点を感じる。無論前者全盛期の尖鋭なスタイルは後者円熟期のロマンティックなスタイルとは全く異なる視座にあったわけだが、ウォルトンのヴィオラ協奏曲初演以来、終生の友情を持った背景には、何か「時代」に対する皮肉めいた調子、音楽ゲイジュツに対する揶揄の感があるように思う。作曲技巧の点でひとつの高みに達していたこの二者が、一般庶民向けの作品を送り出すことに一つの意味を見出していたのは、同時代の流れとだけでは捉え切れない本質的な類似性を感じる。まあ難しいことを考えずに聞いてもなんとなく共通点を感じることもあるだろう。ミヨーもヒンデミットと似た音響感覚を持っていたように思うが、後者の凝縮・吟味された曲構造は前者の多分に感覚的なものとは掛け離れている。「キレの良い構築性」とでもいおうか、ウォルトンとヒンデミットは少し似ている。覚めている。「時代」に対して、さめている。ヒンデミットの主題による変奏曲など、ウォルトン以外の誰が思い付くだろうか?書こうと思うだけ凄い。しかもこれが後年のウォルトンには珍しいキレの良い大曲だったりする。ヒンデミットの晦渋な作品への揶揄ともとれるほど、明快だ。後年のウォルトンはさっさと南の暖かい島に隠居?して、「作曲技巧の披露」とそれに対するそれなりの「対価」を得るという”売音商売”に割り切った感もあるが、その楽天的ともいえる態度にはヒンデミットの密度が濃く深刻な作風とは異なる、肩の力の抜けた、すっきりした美質を備える作風が宿った。かつての作品のぶあつい管弦楽を、薄くアクを抜くように改訂していったことにもその心境の変化が伺える。二曲の戴冠式行進曲、ヨハネスバーグ祝典序曲という吹奏楽でもお馴染みの超名曲(威風堂々のパクリだあ?曲をちゃんと聞き給え!)はそのエッセンスが詰まった曲だ。そこに加えてここで挙げるのは「ティル・オイレンシュピーゲル」を彷彿とさせる下敷に基づく「スカピーノ」(改訂版)である。ひとことで言って”新しいリヒャルト”、といった雰囲気の曲。冷鋭なウォルトンのイメージより少し離れた、ややドイツ的な体温の高い抒情がある。さらに、最初にヒンデミットとの共通点を挙げたのは、同曲が戦時下でフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより演奏された*、ということを書きたかったからである。勿論録音は残っていないが、有名なヒンデミット事件も想起する現代(しかも敵国の)曲の採用にフルトヴェングラーの音楽にたいする公平な態度も伺える。もちろん「マチス」とは比較にならない「純娯楽的作品」であり、ここに凝縮されたじつに美しい響きや憧れに満ちた旋律の数々、簡潔で目覚ましいオーケストレイション、アメリカ的な突き抜けたリズム感覚は全く最高のストレス解消剤だ。それどころかこの凝縮された小曲、ウォルトンの代表作といっても過言ではないだろう。映画音楽以上に映画音楽的(スカピーノという劇は作られていない。序曲だけ)。EMIの自演盤には実に優美な歌が溢れ(やはりフィルハーモニアの弦楽器の音におおいに魅了される)、ウォルトンの水際立った指揮ぶりにも胸がすく思いだ。スピー
ド感に満ち駆け抜けるこの演奏に対して後年のロンドン交響楽団との演奏は精彩に欠け只ソロ楽器の音の透明さに惹かれるのみ。モノラルだろうが何であろうが、EMI盤のドライヴ感には是非接してみて頂きたい。いや新しい演奏もあるので、スラットキンあたりで聞いて頂いてもよい。ウォルトンを知っていてこれを聞かないのは、どう考えても損だ。

*(後記)この曲がフルトヴェングラーに初演されたというのは疑わしい。シカゴ交響楽団50周年委属作ですし。

◎ストック指揮シカゴ交響楽団(HISTORY)1932?/4/14パリ

うわ、無茶かっこいいな。速いしシャープだし、こういう演奏じゃないと作曲家の諧謔性は浮き立ってこない。シカゴ交響楽団の技量に驚嘆。中間部で各声部が有機的に絡み合う場面など完璧に表現してなお艶めかしてポルタメントまで交えたりなんかしちゃったりして。弦楽器の水も切れるような鋭い演奏ぶりは胸がすく思いで、それらを牽引する非常に前進的なテンポもいい。また、リズム感のいい演奏家じゃないとウォルトンの演奏は勤まらない(晩年のウォルトン自身も自作自演がつとまらなかった)。その点シュトックは立派にお勤めしている。即物主義的に凝縮されつつも娯楽的な光彩を放ちつつ突き進む姿は同曲演奏の理想形だ。古い録音だが、そもそもウォルトンの演奏は同時代の古い演奏のほうが時代の空気を共有しているせいか強い意志とそれを煽る焦燥感があり曲にマッチしているように思う。晩年オーケストレーションを合理化して軽く響かせるように編曲したウォルトンであるが、私は鈍重でも激しく動こうとする葛藤が見られる古いオーケストレーションのほうが好きです。これ、おすすめです。20世紀の指揮者ボックスまだまだ異常に安いですし。演奏日がおかしい。作曲前に演奏?

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「スピットファイア」前奏曲

○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(WING)1948LIVE

冒頭序奏部分に大きなタメを作って壮大に始まる演奏。映画音楽の作曲家による編曲だが、ウォルトンらしい行進曲は楽曲だけでも魅力十分。かれの戴冠式行進曲が好きな人はぜひ聞いてみましょう。じつに爽快な楽曲をストコフスキは主部ではさほど揺れずに颯爽と振り抜けている。もっといい録音で聴きたかった。通常「フーガ」と組みで演奏される。

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ポーツマス・ポイント序曲

○ボールト指揮BBC交響楽団(VAI)1937/4/16・CD

速い速い。このくらいの速さじゃないと締まらない。意外と、かなり意外と面白く聞ける演奏で、この曲に名演がないなあ、と思っていたらこんなところに名演が、といった感じだ。演奏流儀が所謂ドイツ風なので、しかも多分初版にのっとった重いオーケストレーションをとっているため、今のこの曲のアメリカ的なリズミカルな明るさというのがちっとも出ていないが、音楽的にはとても充実しているし、こういう曲として聞けばこれしかない、と思うだろう。私は持っている演奏の中ではこれが一番好きかもしれない。コープランドのように流麗ではなく、敢えてリズムを断ち切る休符が頻繁に挿入されるがゆえに、しっかりアンサンブルしようと組み立てにかかると音楽が途切れ途切れになってイマイチ莫大になってしまう。現代の演奏(晩年の自作自演含む)はいずれもこの穴に落ちている。まずは推進力なのだ、こういう喜遊的な曲は。録音の悪さを差し引いて○。

○ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI)1967/7/27アビーロードスタジオ・CD

リズムのキレは悪いが歯ごたえのある演奏で、当たりの厳しさ重厚さはならではの魅力。スピード感もそれほど悪くはなく、諸所でマニアックな構造がきちんと整理されないごちゃっとした響きがきかれるものの、これは作曲家・指揮者の相性の問題で、ボールトがそれほどウォルトンに執心でなかったのもわかる気がする。同曲でアメリカンな面を強調したウォルトンに対しボールトはドイツ派であることにこだわったということだろう。ステレオの好録音。 (2006)

ステレオで、時代なりではあるが明快な録音状態。それだけにボールトのリズム感が気になる。前に向かわずブラームスのような縦型の取り方なのだ。自作自演でもステレオのものは似たような感じになっているのでそもそも曲がまとまりにくいせい(改訂のせい?)かもしれないが、自作自演よりはいいものの、ちょっと気になる。音響感覚もやや鈍重だが、ボールト的にはまだいいほうかもしれない。確か初演もボールトで古い録音は改訂前のものだったと思うが、古いほうが寧ろ若気の至り的な曲の若々しさを引き出していたようにも思う。オーケストレーションは明らかに中欧ふうの重いものだったんだけど。○。 (2008/12/19)

ミトロプーロス指揮ミネアポリス管弦楽団?(NICKSON/COLUMBIA)1946/3/10・CD

きちんと折り目正しい演奏で意外。オケがメロメロなので縦を揃えないとどうしようもないと考えたのかもしれない。ただ、硬直化した遅めのテンポはドイツ的で、最初は違和感を拭えなかった。でもそういうスタイルのために内部崩壊が抑えられ、最後は込み入ったウォルトンの書法を楽しむことができた。ウォルトンのジャズの影響を受けたリズムパターンは変則的でちょっとノりづらく、演奏に弾き辛さが出てしまっていることが結構多い。それを考えるとこの演奏は健闘しているほうだと思う。この曲はアホのようにからっと明るい演奏が多いが、録音が古いせいもあってここではちょっとくすんでいる。演奏技術と録音状態(それでもニクソンの復刻は篭りを抑え良くできている)の問題から○はつけられないが、ミトプーの意外なレパートリーとして、マニアは聞いといていいかもしれない。これはミトプー専門個人?レーベル(最近はミトプー以外も出しているようだが)ニクソン初期のSP復刻CD盤で、小品集の中の一曲。この10年後にドキュメントレーベルの超廉価ボックスが主要な収録音源であったプロコ「古典」ミヨー「屋根の上~」ラヴェル「クープラン」を一気に復刻してしまったので価値が下がったが、デュカスやグリエールといった入っていないものもあるので、マニアなら探してもいいかもしれない。安いし。

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管弦楽のためのパルティータ

作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964

作曲家の筆のすさびの典型のような曲で、ウォルトン好きはこのマニアックで効果的な管弦楽法にめくるめく快感をおぼえるかもしれないが、個人的にはあまり好きな方ではない。とても内声部がすっきり聞こえる演奏で(この曲にかぎらないが)スコアを観ながらだと楽しめるかも。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1967/9/28live

ウォルトンの人気作にしてセルのレパートリーでもある。これは録音に難あり。ノイジーなエアチェックものでステレオではあるものの昔よくあった左右の分離の激しいアレに近い。オケの響きも浅く薄く聴こえ、それでもやはり底力のあるオケだから瑕疵はそれほど目立たないのだが(セルにしては普通の出来か)、軽快な曲であるからこそ重みある響きを求めたい部分もある。セルはとにかくウォルトンの込み入った書法をさばくのが無茶苦茶上手い。客席反応もいい。○。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/2/7ボストンlive

筆のすさび系の曲だがスカピーノやヨハネスブルグ祝典序曲系のわかりやすい組曲で旋律美からも一部で人気がある。セルはオケの機能性を活かした迫力のサウンドを繰り出し、旅演ということもあってか緊張感も漲り、内容空疎な面もあるが、楽しめる。

○バルビローリ指揮バヴァリア放送管弦楽団(DA:CD-R)1970/4/10

フランス語放送のエアチェックのようだが元は正規録音か。同時代音楽の要素を貪欲に己が作風に取り入れていったウォルトンであるが、この曲は冒頭トッカータからはっきりルーセルの舞踏要素が取り込まれていることがわかる。新古典的な題名からして似通った作風になるのは必然かもしれない。ルーセルのようなアクの強さがなく、50年代の作品らしい円熟味をみせており、チェロ協奏曲と共通する構造もみられる。2楽章パストラーレ・シシリアーナはヴァイオリン協奏曲などより過去の自分の作風に近い世界に回帰している。同曲内では晦渋な楽章だが円熟期後のウォルトンにしては聞きやすい。マーラーなどかつてのウィーンの作曲家の世界を仄かに思わせるところがベルクらとも交流のあったこの人の才気煥発な頃を思い起こさせる。プロコを想起する向きもあるかもしれないが、ウォルトンはプロコから甚大な影響を受けていてアメリカで直接的交流もあり、その関係性は一言では言えない。ブラスとハープによる空疎でも独特の冷え冷えした感傷を秘めたひびきがこの人の鋭敏な耳を証明している。3楽章ジーガ・ブルレスカはウォルトンの作品らしい~ほぼ同時期のヨハネスブルグ祝典序曲を思わせる~喜びに満ちた、しかしどこか暗くシニカルな調子も含む楽曲で、調性にルーセルを思わせる雰囲気もある。この後やや才気に陰りをみせ60年代以降には代表作と呼べる作品がなくなるのだが、パルティータは現代でもよく演奏される洒脱な大規模管弦楽作品としてウォルトン評価に欠くことのできないものである。

バルビは同曲初演直後より取り組み演奏記録も数多い。この録音はバイエルンとの最晩年のもののわりにスピードがあり弛緩傾向がない。オケが鈍重でウォルトンの洒落たリズムを壊しているところも2楽章などに見られるが、おおむねバルビのドライヴィングの巧さが光る。3楽章ももっと飛び跳ねるような感じが欲しいがある程度は書法のせいでもあろう。リズムと楽想の洒脱なわりに音響が重い。そのへんもルーセル的ではあるのだが、バルビだから尚更気になるといえば気になる(もともとリズム系の指揮は巧いとは言えない人だ)。ゴージャスな響きはそれでも旋律とともに気を煽るに十分であり、胆汁気質の長々しい楽章を気品と下品の行き来する表現の切り替えの巧さで壮大に仕上げている。前半楽章のほうが締まっていていい感じもする。演奏自体は恐らくスタジオ録音なりの過不足ない出来である。ステレオで少し篭る感じもするがおおむね聞きやすい。一箇所放送撚れが残念。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/29live

初演後まもない演奏でDAはエアチェックの音のみ。一部情報ではVAIの映像が同じものとされるが(ブラ2など30日のライヴとのカップリングという説)VAI盤には2月3日の表記と同日プログラム写真を含む詳細が記載されているので別としておく。ステレオでソリッドで高音域も比較的よく捉えられているがボストンライヴ記録の常、輪郭がちょっとボロけている。演奏はちょっとバルビのコントロールでは無理なくらい早くかなりのバラケ味が感じられる1楽章からあれ、と思わせる感じがある。ごちゃっとしてしまうのがウォルトンの複雑な書法だが、太鼓などのリズム要素強調とアーティキュレーションの強さで力づくで押し切る方法で乗り切っているのはいかにもバルビの50年代といったふうで好きな人は好きだろう。セルを意識しているのかもしれない。アメリカ的ともいえ、比較的軽く明るい感じがある。2楽章はシニカルで末流ロマン派の香りたっぷり。軽妙で妖しい調子はラフマニノフ晩年に似ていなくも無いが、バルビは引き締まった音響表現で魅せている。晩年とはまた違った若いドライヴ感が維持されている。この楽章ではソリストの表現の深さや独特さ含め、合奏協奏曲的な楽曲構成を繊細に、しかし芯の通った表現でまとめて秀逸である。旋律性がよく浮き彫りにされている。3楽章は一段と速く、そのスピードによってリズムを生み出そうとしているような感じがあるが、オケコントロールはさすが巧い。フレージング指示に弛緩がなく、スピードだけにならずリズムだけの舞踏音楽にもせず、アメリカ的な破天荒なペット以下ブラスの咆哮のおかしみ、また中低音域でうねる余りにシニカルな半音階的楽想がバルビの旋律的な音楽美学とあいまって重層的な深みをかもし、単なる表層的な喜遊曲ではないところを魅せて面白い。乱れなのか意図なのかというところもあり、この演奏ではなかなかに聞かせる楽章となっている。やや浅さもあるものの○。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/30live

録音は極めて明瞭で抜けがよく迫力のあるものでダントツなのだが、媒体撚れや放送撚れもかなり目立ち、1楽章前半と3楽章の一部にみられる左右の位相バランスの崩れ、更に2楽章のホワイトノイズは(情報量が増えるぶんホワイトノイズが増えるのは仕方ないのだが)相当に聞きづらい。演奏自体も落ち着いてきており精緻と言えるレベルまでたっしているのでとても勿体無い。バルビの演奏は乱れがちなわけではなく昔のステレオ録音では捉えきれない細部への拘りが縦横に敷き詰められているために乱れて聞こえがちなのだ、という話もうなづける部分がある演奏ぶりで、ボストンの管楽ソリストや弦楽セクションの演奏レベルの高さのほうに耳がいってしまい全体がぼやけて聞こえてしまうほどである。3楽章はそのためにバイエルンとの晩年の録音に近い、テンポを煽るよりゴージャスに落ち着いて響かせるほうに神経がいっているのがよくわかる。そこが長々しくて飽きるゆえんでもあるのだが・・・これは作曲家のせいだろう。○。ボストン初演というナレーションが入るがこなれ具合からして30日のほうの録音であっていると思う。

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(BBC,MEDICI)1965/5/7・CD

ロヴィツキを思わせるひびきの雑然としたさまがみられるシルヴェストリだがウォルトンで多用されるブラスの破壊的な響きが今ひとつメロウであるのも、鋭く揃った表現を余りとらないこの人らしいところか。弦楽器はよく鍛えられているが今ひとつ強く訴えてこない。ウォルトンらしくない表現であり、何かヤナーチェクとかそのあたりを演奏しているような曇りを感じた。○にはしておく。

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ヒンデミットの主題による変奏曲

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1970/1/15live

クリーヴランド定期最後のシーズンとなったライヴの記録の一つ。曲はウィーン・フィルとの映像も正規化されているセルのレパートリーで、他愛のない、ウォルトン節陳列棚のような曲だがオケの威力を見せ付けるには適した苛酷な書き口、ここでも冷たく熱したオーケストラのハタラキを聞き取ることができる。円熟も未熟もなく、しかしこの曲はこれでいいのだろう。○。

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ブリテンの即興曲による即興

○クリップス指揮ACO(RO)1972/1/27live

なるほど単純な即興である。構造的な部分の殆ど無い、旋律を厚ぼったく味付けしただけの単線であり、一部、ハープと木管ソロの断片化したフレーズの連環だけによる表現などウォルトンらしくない室内楽的な単純さが却ってブリテン的な冷えた印象派世界を思わせ秀逸だが、全般として筆のすさび感は否めない。ブリテンふう音楽をウォルトン語法でやってみました、というような感じだ。クリップスはさすが流れよくリズミカルな表現が光る部分はあるがおおむねオケの鈍重さに引きずられているように感じた。聴衆もやや戸惑い気味である。録音も正規ものとしてはそれほどよくない。曲はともかく演奏的にまあまあなので○にしておくが、マニア以外は無理して聴くこともあるまい。


つづく
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ファリャ (2012/3までのまとめ)

2012年04月09日 | Weblog
バレエ音楽「恋は魔術師」

○フレイタス・ブランコ指揮マドリード交響楽団他(LONDON)LP

ファリャの音楽は、フランス近代音楽に親しんだよそ者にはいわば「種明かし」のようなものを感じさせる。かれはラヴェルやドビュッシーの南欧へのあこがれが生んだ作品の数々を、南欧の立場からあっさり切り返してみせた。さらには極寒のストラヴィンスキーの音楽すらも取り込んで、より「スペインスペイン」した音楽を造り上げている。あっさりとしていて、単純な旋律重視の構造も、色彩的なオーケストレーションによって飽きがくることを避けている(この「飽きる」という感覚、私は南欧のとくにオペラなんかによく感じる。イタリアオペラ大苦手ということもあるのだが、その影響下のチャイコフスキーは好きだったりと、いささか論理性に欠けてはいる)。とくに弦の刻みや旋律に変化をもたらす変拍子等の非常にメカニカルな効果が目立つ。ストラヴィンスキーを思わせるところだが、いくぶんドビュッシーふうのやわらかな情緒も感じさせる楽曲であり、盛年期のブランコの、けっしてリズミカルでも前のめりでもないのだけれども、音の輪郭がしっかりしていて、体臭を感じさせる演奏が気分を盛り立ててくれる。派手でクリアな音響が持ち味で、後年の母国ポルトガルでのライヴ録音集における精彩を欠く指揮ぶりとはまったく異なる(いや、特徴は共通しているが、後年のものには長所が抜け短所だけが残ったような気すらする)瑞々しい音楽を楽しもう。体臭、と言ったが、けっして国民楽派ふうの民族音楽の延長上の音楽を演ずるのではない、20世紀の南欧音楽を演じるのだ、と自覚したようなあっけらかんとしたところがあり、透明感すら感じる。ファリャの、ラヴェルをして嫉妬せしめた機敏な感性が、民族音楽を20世紀音楽に見事に昇華させたように。まあ・・・私はじつはファリャは前述した理由で苦手ではあるのだが、歌の入らない部分は、アンゲルブレシュトのように客観性を感じながらもつねにどこか人間的で心地よい感興を呼ぶ絶妙の技を味わった。録音は古く、何度も聞く演奏ではないかもしれないが、この曲が好きな向きならぜひ。ちなみに最初シャンゼリゼかと思ったほど洗練された音を紡ぎだしたオケにも乾杯。

○アルヴィッド・ヤンソンス指揮モスクワ放送交響楽団他(MELODIYA)LP


ヤンソンス父の指揮ぶりはシャープで洗練されたものだ。ガウクにゴロワノフにスヴェトラーノフなどなど怪物指揮者の中にあって唯一職人的で整った演奏を行った。この人に比べればムラヴィンスキーすらロシア臭く感じてしまう。実際この演奏でもまるでロシアの響きのしない、寧ろ南欧的な響きになっているのが凄い。曲が曲なので耳だけで聞いていても飽きてしまうが、清々しく引き締まった演奏ぶりは特筆できる。常に一定の水準を守っていて無理が無い。客観的で落ち着いていて、奇矯なところが無いのが仇ではあるが、ロシアでこのような演奏を行っていた事こそ特筆すべきだろう。ステレオ録音とのフレコミだが非常にバランスが悪く、人造ステレオの疑い大。希少性を鑑みて○。

~火祭りの踊り

○ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(EMI,PATHE)

ファリャの代表作だけれども1914、5年という作曲年代からすると結構古い曲なのだ。ドビュッシー、ディーリアスの後、ラヴェルの横、六人組の前くらいか。「火祭り」は余程聴き映えがするのか様々な楽器によって編曲演奏されている。私はヴァイオリンとチェロとピアノでそれぞれ聞いたが一番しっくりいったのはピアノでした(別記のヴィニェスの盤が見本)。このとき弾いたのはモスクワ音楽院の教授だったか、着席するなりいきなり機関銃のように鍵盤を叩き始め、めまぐるしく異様な迫力の演奏を繰り広げた挙げ句最後の和音を鳴らすか鳴らさないかのうちかに立ち上がった。それが無茶苦茶かっこいいので感動してしまったわけである。単楽器編曲版と比べると原曲のオケではいくぶんアタックの強さやアンサンブルの緊密さが損なわれるように感じる。その反面スケールアップしてずいぶんと広大な広がりを感じさせる。ロジンスキは若干大人しめだがそつなくやってのけている。色彩感があるが、やや淡彩にすぎるか。もっと狂おしいほどの勢いが欲しいと思ったが、オケではこれだけできていれば○でしょう。強くは推さないが、上出来ではある。

~ピアノ編曲(組曲)版

○リッカルド・ヴィニェス(P)(THE CLASSICAL COLLECTOR,AUVIDIS)1929/11/13

ヴィニェスのピアニズムの末裔は聴くことができてもヴィニェス自身の演奏というのはほとんど聴くことができない。これは8分以上というこの人にしては長い録音で、貴重な記録である。打鍵の強さはあまり感じられないし(録音のせいかもしれないが)むしろ柔らかいのだが、非常にリズムがいいというか、テンポ感が絶妙で、聞かせるものを持っている。名人芸というか、細部は精度が低いにしても、この民族的音楽の本質を的確にとらえ、抉り出して見せている(それでも重く暑苦しくはならない)。とにかく聴いていると楽しい。「火祭りの踊り」を始め聞かせどころが多い。このピアノ編曲、単純に音が少ないせいかもしれないが、ラヴェル初期の平易な作品を思わせるひびきがあり、いささか常套的ではあるけれども、印象的ではある。録音が悪いので○しかつけられないが、もっと長生きして同時代音楽をいろいろ録音しておいてくれてたらなあ、と思った。

バレエ音楽「三角帽子」

○アルヘンタ指揮スペイン国立管弦楽団(RCA)CD

割合と素朴な響きのする演奏だが、まとまりはよく明瞭な輪郭の録音である。アルヘンタはことさらにリズム性や色彩性を煽ることなく爽やかでシャキシャキした演奏をサクサクと進めていく(擬音ばっかり)。これはこれでいいが、何か物足りない気もしなくもない。何か弾け散るような強いアクセントとか目にも鮮やかな響きとか、自在な歌いまわしとかそういったものを求めたくなる曲だから、これはちょっとそつなすぎるのではなかろうか。とても正確でわかりやすさでは一番だから、初心者や演奏家には向いていると思う。差し引きで○。

◎ベルガンサ(SP)アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1961/2・CD


完璧である。バレエ版初演者であるというメリットを割り引いたとしても、この感興、この確信に満ちた表現は現代のどの演奏をも凌駕する。ケレン味がなく美しすぎる、という堕点をつけることもできようが、音楽としては非の打ちようがない。派手でダイナミックな演奏ぶりはアンセルメのステレオ録音としては意外だが、元々ディーアギレフ配下のバレエ専門指揮者、増してファリャともなればここまで攻撃的にやるのは必定だ。ファリャはプラスα を要求する作曲家である。スコアをそのまま音にするとバラバラでまとまりのない総花的な音楽が出来上がる。没入が必要だし、解釈も必要だ。アンセルメはそのへんをよくわかっていて、わざと速めのテンポ・・・テンポとリズムもファリャにとって最重要の要素だ・・・で盛り立てている。古典指向の案外強い作曲家で、この曲でも些末なところでは「運命」の引用句が聞かれるが、そのあたりの古典的な佇まいの要求する客観的観照と、いかにもエスパーニャな民族舞踊の色彩、感情の爆発の描き分けかたがまた見事。あきらかにスタイルを変えており、しかしテンポ的にはさほど揺れない事で一貫性というか、流れを維持している。とても上手いです。スイス・ロマンドだけにムシムシする嫌味もなく、爽やかでもあります。歌はこの曲では殆ど重要ではないのでベルガンサについては書くことは無い。とにかくアンセルメの攻撃性を味わえる希有の盤で録音もかなりクリアなので、三角帽子マニアは聴かないほうがおかしい。◎。

○ルビオ(Ms)トルドラ指揮フランス国立放送管弦楽団(EMI)1950'


古い録音でモノラルだけれども、なかなか聞かせる。ラテンノリバリバリかと思ったら品がよく響きは綺麗(オケのせいかも)。アンサンブルがきちっと整えられており爆発的なノリはないがまとまりがよく天才的なオーケストレーションの面白さを堪能させてくれる。色彩感も程よい感じで濃すぎも薄すぎもせず、煌びやかな曲に内包される豊かな本質を感じさせてくれる。運命のテーマとか聞きたい人はこういう全曲版で聴くべし。○。

~第一組曲、第二組曲

◎フレイタス・ブランコ指揮マドリード・コンサート管弦楽団(ERATO)

むかしからかたりつたえられた名盤。個人的にファリャはこの曲がいちばん楽しめて好きだから、その贔屓目もあるのだが、定評あるブランコのスタジオ録音(ライヴじゃなくて)、色彩的で透明感があって最後には熱い盛り上がりが待っている、まったく模範的というか胸のすくような演奏だ。やや客観的なところもあるがオケをきちんと制御して尚且つ物足りなさを感じさせないほどには派手に、という手綱さばきがとても巧い。ラテンなところを多分に残しながらフランス印象派ふうのオーケストレーションによって独自の作風を確立したファリャ、当時の現代音楽を積極的に取り上げながらも内にはラテンな熱い魂を秘めているブランコとの相性はとてもよい。これはステレオかと聴き枉ごうモノラル録音。◎。

○アンセルメ指揮NHK交響楽団(NHKSO,KING)1964/5/30LIVE

バレエ音楽の体裁でこの曲を初演したのは他ならぬアンセルメだそうで、鮮やかなリズムが耳に残る。色彩的なのだがドぎつい原色に彩られ熱気ムンムンのスペイン音楽のイメージとは異なり、薄く透明感のあるパステルカラーの散りばめられた涼しい演奏になっている。そこが特徴であり、弱点でもある。客観性が優るようだ。N響はここでは少し苦戦しているところもあり、動きが鈍重で生き生きしたリズムを刻めなかったりソロ管楽器がとても怪しかったりする箇所も有る。録音のせいか迫力はあり、決して悪い演奏ではない。○。

○ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル(EMI,PATHE)

ステレオの良好な録音。やはり表出力の強い演奏だがオケのせいかいつもの爆演ぶりは伺えない。引き締まったいい演奏だけれども、やはり他国の指揮者という感じで、お国モノ特有の感興はあまり感じられない。たんにクラシックの古典名曲として演奏しているという感じだ。ロイヤル・フィルはかなり巧く、だからこれでも十分に聞き栄えがするのだが、今ひとつの体臭のようなものが欲しい私は最上級の評価は躊躇する。○。第一組曲も短いが美しい佳曲です。

○アンドレエスク指揮ベルリン交響楽団(ELECTRECORD)CD

なかなか清清しい演奏。地味といえば地味だが技術的にはかなり整備され手馴れた感じを受ける。ややそつがない解釈で目立った表現はないが、組曲ふたつを並べて味わえるという点ではいい感じのレコードに仕上がっている。おまけで○。

~第二組曲(三つのダンス)

アルボス指揮マドリード交響楽団(THE CLASSICAL COLLECTOR,AUVIDIS)1928/4/18

録音は悪い。それは時代柄仕方ない。確かに演奏のパワーは感じられる。この時代のこの楽団にしては体臭をほどよく感じさせつつも結構精度の高い演奏を行う事に成功しているといえるだろう。ただ、あまりにうるさい。音量にメリハリが無い。だからどこでどう盛り上がるのか、これこれこういう経緯をへて最後に大団円が来る、という設計が見えない。始終がしゃがしゃやっている感じで、今一つノれない。もうちょっと情緒的な揺れがほしいし、同時代性を生かした+αがほしい。総じてイマイチ。無印。

◎アルベール・ヴォルフ指揮パリ音楽院管弦楽団(DECCA/NARROW RANGE:CD-R/Eloquence Australia)1950年代・CD

非常にクリアなステレオ録音。CD-Rは板起こし。ヴォルフの演奏は焦燥感に満ち客観的に響きを整えながらもひたすら直線的に進むイメージがあるが、後年は(少なくともスタジオにおいては)こういうスピードを落とし、ちょっと引いたスケールの大きい演奏も行った。リズム表現は文句なく素晴らしい。踊りの表現は若い頃から巧いが、クリアな録音になってもやはり巧いと思わせる人というのは(ロザンタールを挙げるまでもなく)けっこう少ない。音の隈取が強い男らしい表現で、ライトミュージック的な側面が浮き立ってこないのがいい。音色の煌びやかさも絶妙で、どぎつくなることもなく繊細すぎることもなく、たぶん最もフランス的なバランスのとれた演奏と言うことができるのではないか。今まで聴いた三角帽子組曲では最もしっくりいく演奏でした。

○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(MUSIC&ARTS)1946/2/24live・CD

録音はめっさ悪いが非常に楽しめる。モントゥの颯爽とした指揮振りとオケのからっと明るく技巧的な表現力が噛み合って、ローカル臭もロマン派臭もしないまさにこの曲いやファリャの汎世界的な音楽がここに浮き立つリズムにのって表現されている。録音がよければねえ。バレエ指揮者にしかできないことがある。バレエ指揮者にはできないこともまたあるのだが。○。

〇モントゥ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1961/7/23LIVE

細部まで実に明快で一音たりともおろそかにせず、スコアの仕掛けの魅力だけをオケの見事な技術を背景に聞かせる、しなやかでそつの無い演奏ぶりはいつものこと。だが、聴衆は大ブラヴォ。リズムもテンポも熱狂的では無い冷静さがある。音は温かくこじんまりと固まった充実ぶりだが、クールなところがどこかあるのだ。個人的にはまったく惹かれないが、ステレオだしいいか。

○マルケヴィッチ指揮RIAS交響楽団(audite)1952-53・CD

やや録音が悪い。いかにも中欧的なしゃっちょこばった表現が聴かれ、音がいずれも四角く整形され、計算的な面白さや一歩引いた熱気といった部分で聴けるものはあるのだが、特徴的な演奏でもあるのだが、何かしら違和感がある。ただ最後だけ異様に伸ばしているのが印象的だった。聴けるので、○にはしておく。

○マルケヴィッチ指揮日本フィル(PLATZ)1970/6/3新宿厚生年金会館live

相変わらず重い音だがそれがかえって破天荒さをかもし非常に派手な演奏に仕上がっている。ちょっと太鼓の音が大きく入りすぎにしてもマルケがこういう音楽をやるというのは寧ろ意外であって、オケがよほどドイツ的だったんだなあ、とか、こう整えるより他なかったのか、といったことを考えさせられる。マルケにしては音の整え方の「雑さ」は否めないが、それが臨場感を呼び、まるでロシア指揮者といった感じの最後のタメにしても(こんなにタメなくても・・・)感情的には非常に動かされるものがあった。この曲はやっぱり小さくまとめてしまうとつまらない。派手にやる、とことん派手で大げさにやるとしっくりくる短い組曲。◎にしたいくらいですが、マルケとしてどうなんだろう、というところもあり、録音も含め○にとどめておく。いや、面白いし聞き応えはある。

○アンセルメ指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1968/1/25live

アンセルメがこのクラスのオケ、しかもシカゴのような音と精度のオケを持っていたらずいぶんと同時代の評価も変わっていただろう、と思う。それほどに凄い演奏で、一見前に向かわない縦を意識しすぎたテンポに聞こえるのだが、リズム感が言葉で言い表せないくらい絶妙で、そこにシカゴのボリュームのある高精度の音がびしっと決まってくると、終曲では「もうこれ以外いらん」と思わせるくらいの感興を催されてしまう。これがアンセルメのバレエ指揮者としてのセンスなのだ。録音が余りよくないので○にとどめておくが・・・解釈の基本は他と変わらない、オケの違いだ。ブラヴォも少し飛ぶがシカゴの聴衆らしい落ち着いた反応。ファリャのこの組曲は「第二組曲」と表記すべきなのかもしれないが、ややこしいなあ。アンセルメはややこしい組み合わせの組曲も録音している。 (2005以前)

録音が左右完全分離したステレオで安定しない。状態も悪いので聞きづらい。アンセルメがシカゴというオケを使ってひときわ透明で「引いた」演奏をしているのがわかる。最後にボリュームは出てくるが基本的に熱狂はしない。聴衆はブラヴォ大喝采なので、オーマンディ張りの迫力だったであろうことはわかるが、録音としてはイマイチぱっとしない。 (2007)

○ブランコ指揮ポルトガル国立交響楽団(STRAUSS)1960/7/28LIVE

この曲はこう演奏しなさい!という創意に満ちた演奏。器用に伸縮するも決して下品にはならず、明るく色彩的。民族色豊かではあるが、まとまりがよく嫌味が無い。とにかく派手にぶっ放してくれるので、雑味が多いとかばらけるとかそんなことどうでもよくなる。気合だ!3曲のどれもテンション高いがやはり終曲の堂に入った解釈が聞き物。客席も大喝采。録音悪し。何度も聞くと慣れてしまう類の演奏なので○に留めておく。スケール感があるともっとよかった。

◎ロザンタール指揮パリ国立歌劇場管弦楽団(accord/ADES他)CD

LPの派手さにイカれてCDを買ってみたら、かなり柔らかい音にびっくり。聞きやすいけど。モノなんかステレオなんかもはっきりしない。美しくなまめかしいのは変わらず明瞭なリズムと共に品格を失わずして民族的歓興を呼び起こす。補正痕はアデだから仕方ないがやや聞こえすぎ。薄いヴァイオリンがまとまりよく聞こえるようになっているのは嬉しいが。LPでのバラケ感が消えている。ロザンタールらしい落ち着きが気にならなくもないが、極めて色彩的な音処理で十二分にカバーされている。余りにあっという間に聞けてしまう名演です。ラテンだ!ベガ録音、ウェストミンスターが買い取ってのちアデがCD化、長年を経てロザンタール追悼ボックスの一部として復活した。

○クラウス指揮ウィーン・フィル(capitol)

じつに中欧ふうの演奏振りでちょっと固すぎる感もあるが、それだけにコンサートホールで聴くに堪えうる格調のある演奏として特徴的なものになっている。安心して聴ける演奏であり、軽音楽ふうの楽しさより中欧のホールでしっかり聞くのに必要なマジメさを取り入れた演奏として、物凄い名演とは言わないが佳演と言うに躊躇は無い。特殊ではあるが、まじめさがその特異性を覆い隠した。

○ローゼンストック指揮NHK交響楽団(CBS,NHK)1956/3/14live

迫力ある録音のせいもあるのだろうが立派な演奏で、しっかりしたリズムとかっちりしたアンサンブル、中欧臭いとはいえ色彩的に足りないこともなく演奏精度もライヴとしては十分。ラテン系の演奏にありがちな、血のままにリズムをとりがちゃがちゃやって派手に終わるあっさりしたものとは違い、あくまで抽象音楽として(ファリャ的にどうなのかはわからないが)昇華したうえで壮大な音楽絵巻に仕立てていく、生硬さが否めない部分もあるが、なかなか聞ける。両端楽章が聴きモノか。○。

○ドラティ指揮ミネアポリス管弦楽団(mercury)LIVE・CD

わかりやすくて胸がスカっとするファリャ、と言われて真っ先に思いつくのがこの三角帽子である。スカッといってもいろいろあって、本国ふうのからっと晴れた透明感のあるものもあるけど、これはまさにアメリカのオケが楽天的というより物凄い形相で直進し叩きつけてくるような演奏で、ああ、三角帽子はこうだよ、と思わせる。ムーティもいいがしゃれっ気より私は力感とスピード感をとる。ハデハデに鳴らされる各声部、最後の踊りなどスコアどうなってんのというくらい分厚く力みなぎる響きが頭をガツンとやる。この曲好きだし弾いたこともあるけど、面白いと思った演奏というのは数少ない。これはその一つだ。古きよきアメリカの剛速球芸を久しぶりに聞けた。モノラルゆえ、○。名演ではないが、とにかく、凄まじい。

◎ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団(mo)1958/3/28live・CD

ミネソタ管弦楽団のBOXより。ドラティのこの曲はとにかくテンション、さらにバス音域のズシズシくる響きが何とも言えず迫力がある。演奏自体重くならずに重低音でリズムを煽る、なかなかにカッコイイのである。ドラティは職人的な気質のいっぽうで一部の曲にかんしては著しく集中度の高い独特の演奏をすることがあるがこれは後者か。トスカニーニとはまた違う音響の迫力である。バレエとしてはどうかわからないが。◎。

◎ミトロプーロス指揮NYP(COLUMBIA)LP

この力感!ミトプーらしい重量感ある音に加え鋭く俊敏な表現が耳を惹く。ミトロプーロスとは思えぬラテン気質の発露(まあミトロプーロスはギリシャ系だからラテンと言われてもおかしくはないけど)、オケの充実ぶりと同時にこの魅力的な曲の長所を最大限に引き出すのに足る素晴らしい演奏だ。三角帽子の中でもとりわけ有名な三曲からなる短い録音だが、雑味がほとんど無く、浮き立つリズム感、流麗なテンポなどにはミトプー従来の力で押し切る芸風とは一線を画した隙の無い解釈とその完璧な実現が見られる。私は今まで聞いたこの曲の演奏の中では一番感銘を受けた。◎。ミトプーらしさ+αの演奏。

○ミトロプーロス指揮NYP(UA/columbia)1953/11/2・CD

正規録音の初CD復刻?ライヴではない。重く強い音だが、勢いのある独特のロマンティックな恣意に溢れたミトプーらしい演奏。ファリャらしいからっとした色彩味は余りないが、純粋に娯楽音楽として楽しめる。剛速球はドラティ以上かも。オケがとてものっているし上手い。ここまで発音が厳しいNYPはミトプーの統率力をもってのみありえたのだ。ザッツが明瞭に揃わなくても全く気にならないレベルに納まっている。先入観なしに前提知識なしに、楽しむべき。やや曇った古いモノラル録音だが復刻状態良好。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(SCC:CD-R)1967/11/19live

俊敏な演奏で、南欧派の音楽に余り適性がなかったと思われるストコフスキにしては素晴らしく駆け抜けるような爽快な演奏。色彩感がゴージャス過ぎるところまでいかず聴きやすい。

○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1967/11/19カーネギーホールlive

非常に攻撃的でスピーディでガチャガチャ派手な開放的な演奏だが、何か軽い。昔のステレオ録音ということもあるだろう(高音域に偏り、音場が歪んでいる。弦楽器が右に偏りオケ配置上は狂っているが実際は必ずしも反転しているわけでもない・・・ストコが実際配置をいじっている可能性はあるが、このてのことはステレオ中継放送にはよくある)。何か薄っぺらいのだ。これだけやらかしているのに感興が沸かない。底から響く音楽であってほしい、踊りの音楽は。高速で高速道をすっとばすスーパーカーの味気なさ、という感じがした。しかし若いなあストコ。若々しすぎる。オケが拡散的なのも一因かもしれない。○。

ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団(DISCLOSURE:CD-R)


これは・・・どうなんだろう。客観主義という言葉が一時期クラシックの狭い世間を席巻したが、まさにそれにのっとったような演奏であり、ひたすら音を金属的に磨き上げながら響きの美しさに拘泥するあまり曲の包蔵するラテン的な熱情を全くスポイルしてしまったといった感じだ。ラヴェル的な熱気すらここにはない。正直困った。わずかだがミスが混ざるから中途半端な印象すら残す。どうしてもこれにはいい点はつけられない。勿論演奏技術的には申し分ないのだが。無印。

ブルゴス指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)1983/11/17LIVE

いかにも現代の演奏。美しく整えられすぎ。アンセルメよりも客観的な解釈だ。遅めのテンポも現代ふうである。そつないがために余り魅力的とは言えない。無印。拍手なし。

~抜粋

○アルヴィッド・ヤンソンス指揮モスクワ放送交響楽団他(MELODIYA)LP

曲的にも「恋は魔術師」より聴き映えする曲である。抜粋である所が惜しいが、色彩的でコロコロ転がるような音楽が巧く紡ぎあげられている。この録音だけを聴いて誰の演奏か聞かれたらわからない可能性大。ファリャ的なものが鮮やかに描きあげられた佳演。(2005以前)

透明感のある音響でロシア系の演奏としては異彩をはなっている。美しい。もっとも細かいことを言えばアタックが揃わなかったり弦の弓返しがばらけたりとロシア流儀ではある。歌唱を含む抜粋版でやや凝縮力の少ない選曲だが、いい音で聴けば十分楽しめるだろう。燃え上がるはずの終曲の落ち着きぶり(特に遅いテンポ)がどうも気になるが、好き好きともいえる。このあたり現代的な指揮者といえ、マリス氏にも受け継がれている要素のひとつだろう。 (2005/7/7)

讃歌

ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(nickson)1954/4/11live・CD

1938年の作でブエノスアイレスで初演された。4つの楽章はいずれも個人的な賛美を込めて標題がつけられている。1楽章はアルボス(三角帽子第二組曲の項参照)の70歳の誕生日を祝ってその名をメロディに置き換えたファンファーレとなっているが、ちょっと晦渋な感じがする。この録音が極端に悪いせいかもしれないが、ファンファーレらしくなく派手さに欠ける。33年に吹奏楽用にかかれたものが原曲。2楽章はドビュッシーに捧げられている。20年のギター曲の編曲である。あまり印象に残らない。3楽章はデュカス讃歌だがこれも35年のピアノ曲の編曲。最終楽章は師匠のペドレルの思い出を「ペドレリアーナ」という題名にたくしている。ちょっと心にひびくものがある。でもこういう曲は新しく鮮やかな演奏で聞くべき。ミトプーは録音ともども小さくまとまりすぎている。無印。

交響的印象「スペインの庭の夜」

○カペル(P)ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(PRIVATE他)1949/11/13LIVE・CD

この曲は散漫な感じがしてずっと敬遠してきた。とはいえ盤のほうはそれなりに集まってきているのでもったいない。ためしにこの盤を聴いてみた。1990年のプライヴェート盤だが今は恐らく正規で出ているだろう。カペルのリリシズムがそそられる演奏で、ぱらぱらという弾き方は美しく硝子の破片を振り撒くようにきらきらと輝く。そこにはまったく不足が無い。素晴らしい技術と感性。ストコフスキは決して大袈裟になることなく懐かしい音色を放つオケと夢のようなスペインの夜の情景を紡ぐ。ファリャは民族性を強く押し出すことがありそういう曲は私は苦手なのだが、この曲は割合と初期ドビュッシーのようで親しみやすい。三角帽子に似た痙攣的なフレーズの応酬は聞き物だが、この盤は表現に無理が無く俊敏に立ち回る音楽となっており、印象派風の不協和音のバランスもよく聴き易い。もっと民族性を強く出すほうが好きというかたもいるかもしれないが、一般的な聴衆にとってはとても解かり易いと思う。音が鄙びているのでそれを補うことのできるようなちゃんとしたステレオセットで聴いてもらいたいものです。・・・といいつつヘッドフォンで聞いてる私。なかなか湿った情緒も漂わせた佳曲、佳演です。最後の低い打音まできちっと仕上げている。○。

○カサドシュ(P)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA)


カサドシュが巧い。まったく不安の無い、いつものあの難しくともさらっと弾いてのける技が発揮されている。ミトプーともじつに緻密に組み合い、緊密な演奏が繰り広げられる。ソリスト、オケ共色彩的にもじつに鮮やかだ。決して暑苦しくならず適度に冷静な演奏とも言える。ミトプーを聴くというよりカサドシュを聴く演奏だが、不可分なほどしっかり組み合っているので、コンチェルトと言うより総合的に交響詩として聴くべき曲、演奏であると言えよう。録音は古いがこの曲が好きなかたは聴いて損はないと思う。○。

カサドシュ(P)アンセルメ指揮ベルリン・フィル(DISCLOSURE:CD-R)1957/3/25LIVE

チェンバロ協奏曲(ハープシコード協奏曲、クラブサン協奏曲)

作曲家(cemb)モイーズ他アンサンブル

○ラルフ・カークパトリック(hrps)アレクサンダー・シュナイダー(Vn)ミッチ・ミラー(o)H.フリーマン(cl)B.グリーンハウス(Vc)(mercury)SP


おそらく40年代末から50年代の録音だろう。当時気鋭の奏者による演奏である。カークパトリックが力強く先導していく形で進み、はつらつとした音楽が展開されてゆくが、アンサンブルはややぎごちない。ザッツが甘いようなところがあり、思い直すようなリズム取りによってテンポを保っているように感じた。しかし悪くは無く、おのおのの技量にも音にも瑕疵はない。ブダペストQのシュナイダー、言わずと知れたミラー、後後まで活躍したグリーンハウス、それにハープシコードの第一人者カークパトリックという取り合わせが決して悪かろうことはない。SP録音ということで音は少しノイジーだが、LPで出直していたかもしれない。○。

歌劇「ペドロ親方の人形芝居」

フレイタス・ブランコ指揮マドリード・コンサート管弦楽団他(ERATO)LP

じつはファリャの新古典転向後の作品は苦手だ。新古典というより擬古典、この曲もいかにも中世の音楽を意識したような「借り物のような」曲であり、ファリャの特質である熱気だとか色彩だとかいうところが抜けてしまっているように感じる。ひょっとして演奏が悪いのか?・・・うーん、私はいつもこの曲を聞き始めると寝てしまいます。無印。

歌劇「はかない人生」より間奏曲とダンス

○ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(COLUMBIA)LP

若きファリャの佳作からのごく短い抜粋。マドリード芸術院コンクール入選作とのこと。個人的にはあまり印象に残らなかったが、民族主義的立場に立ちながらも20世紀初頭らしい新しいひびきも持った作品。演奏はふつう。
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ウィルコミルスカ・トリオの「偉大な芸術家」が

2012年04月05日 | Weblog
14800円て ンナアホな。ちゃんとしたジャケのやつがユニオンで3000円くらいだったぞ。むかし。売れたけど。だから聴いてないけど。復刻しろー。
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ドビュッシー 小組曲 (2012/3時点のまとめ)

2012年04月05日 | Weblog
小組曲(ビュッセル編管弦楽版)(原曲1888ー89)

◎ビュッセル指揮フランス国営放送管弦楽団(COLUMBIA/PATHE)1952:LP

ビュッセルは作曲家の友人(指揮、作曲)で、これはその指示を受けながらピアノ連弾の原曲より1907年管弦楽編曲されたもの。春のうららの平明で晴朗な曲感はわかりやすくきれいで、作曲家のオーケストレーションではないにも関わらず人気者。アマチュアでもよく取り上げられる。1楽章:小船にて、2楽章:行列、3楽章:メヌエット、4楽章:バレエ。対照的な楽章をはす違いに配し、いずれも小粒ながら旋律はきわめて明確でしっかりした形式感を持っている。ドビュッシーらしい冒険はまだ控えめだが、ビュッセルの施した水彩画のような色彩はこれが新しい時代の音楽であることを改めて認識させる。この演奏はそんなビュッセルの指揮だから軽やかで耽美的と思っていたが、意外と重量感があり、充実した響きにびっくり。ドイツふうだな、とさえ思った。オケの明るい音色からも、いわゆる鈍重な演奏になることはないのだが。奇矯な音を響かせるよりも全体の構成感を大事にしているようだ。そのため輪をかけて聞き易くなっているのは確かで、ちょっと違和感はあるもののこれが編曲者の意図だったのかとハッとさせられるところがけっこうある。ゆったりしたフレーズのニュアンス付けがロマンティックで情緒てんめんだが、弦が薄い?せいかあまり目立たない。バイオリンの旋律にはしばしばばらけたような音が混ざるが気にはならない。この時代でこの抜けのよい明晰な音であるということは紛れも無く優秀録音ということなのだが、私の手元の盤は傷多く雑音が多い。◎。この盤は高額なら手に入る可能性がある。ビュッセルは100歳以上も長生きし、1970年代まで健在だったが、指揮記録はごく古いものしかない模様。

○ビュッセル指揮コンセール・ストララム管弦楽団?(ANDANTE/columbia)1931/5/26・CD

急くようにつんのめり気味なのが時折気になるがこの無理したような速いテンポは収録時間の関係だろうか。ライナーには作曲家とビュッセルが連弾したさい、終楽章のテンポが異常に速かったという話がかかれている。新録より若々しいとも言える。素朴な音だけど作曲(編曲)時期に近いだけの生々しさがあり、とくに4楽章は荒さが味になっている。上手いオケではないが音や表現に実に雰囲気があるから、技術や音質にこだわりがなければ楽しめるだろう。ストララムは推定であり、原盤(SP)には交響楽団とだけ記載されている模様。パリ交響楽団と記載している資料もある。

コッポラ指揮管弦楽団(lys)1930/1

つんのめり気味のテンポがうーん・・・。録音が貧弱なのは仕方ないが、どうにも乱暴な演奏ではある。繊細で淡い色調に魅力のすべてがある曲だから、録音十字軍なこの人の演奏ゆえ無碍には扱えないが、それにしてもちょっと雑です。とくにリズム感の悪さが気になった。無印。

○アルベール・ヴォルフ指揮ラムルー管弦楽団(POLYDOOR)SP

SP盤の傾向として収録時間の関係上回転数をやや上げてしまうことがあり、この盤もピッチがかなり高く演奏自体も速度感を強く感じることから元演奏とはやや異なったものとなっている可能性が高い。古い盤ゆえ聞きづらい面もあるがSPは基本的に雑音も多いぶん音が明晰なので、華やかな時代の古きよき情緒を感じさせる媒体としてはうってつけだ。ヴォルフは同時代音楽と非常に縁があり活動期間も長期にわたったが、肝心のパリ時代はSP時代であったゆえに復刻がスムーズにいっているとは言いがたい。一組復刻集が出たほかは単発で他の盤に一緒に収録されているのみである。

演奏だが颯爽として情緒的な揺れの無い指揮ぶりは周知のとおりである。ラヴェル向きの指揮者であり、ただこの演奏でも奏者側の情緒によってその不感性的な芸風が十分に補われており、ダイナミズムにも溢れ躍動感はなかなかのものである。録音の特異性をかんがみても性急すぎる感は否めないが、まずはオケの噎せ返るような音に耳を傾けよう。また書くかもしれない。○。

○アンゲルブレシュト指揮パドルー管弦楽団(WING)
○マルティノン指揮ORTF(EMI)


大仰な表情付けのマルティノン版「行列」をきくと違和感もおぼえるものの、「展覧会の絵」宜しくこれをビュッセル作品とみるなら、典雅で爽やかな佳品といえよう。舞曲の瑞々しさは白眉だが、いくぶんマスネーふうの香りをのこす。効果的だが常套的オーケストレイションは、合理性より哲学性や実験性を重んじる(結果は賛否あるが)ドビュッシーという怪物のものにしては、”引っかかり”がないけれども、耳触りの良さで人気曲のひとつとなっている。新大陸を”発見”したコロンブスのように、全音音階の”発見者”とされるドビュッシーの、若き模索時期・・・80年代とくに前半のドビュッシー初期作品、通常触れる機会はまず無いだろう。ワグネリアンであり、ムソルグスキー&チャイコフスキー+ジャワのはからずも使徒?であった時代の作品、店頭で見つけられる盤もあんまり無い。手元にあるものでいうと80年代中盤から後半・・・交響組曲「春」(非常に”微妙な”バランスのまさに過渡期作品・同名で歌の作品もあるが未確認)、ローマ賞のカンタータ「放蕩息子」(ストラヴィンスキーじゃない)、同「選ばれしおとめ」(私はこの曲、牧神以上に買っている)・・・その他歌曲(「忘れられた小歌」は86ー88年作品)はおびただしくあるが、個人的に苦手(フランス語できない)ゆえ余り聞いていない。歌曲はこのさい一寸省かせていただくと、「メック夫人のガキを教えていたころ、学生の芸術脳は何を画策していたのか?」・・・マラルメを窓(ウィンドウズ)として象徴主義哲学を植え付けられていたのだろう(検証はしてません。予め間違ってたらごめんなさい)。となると、さしずめビル・ゲイツ?・・・わけがわからない脱線マニア冗談はさておき、ドビュッシーは音楽専門バカーではなかった。もっと汎的な芸術の流れの上に自ずの才能を開花させたのは明白だ。アカデミズムの音楽専門バカーに反目しつつも有無を言わせぬ才能を見せ付ける上で、徐々に徐々に個性を開示していったのだろう。

なんでこんな話しをするのかというと、手元にドビュッシー初期についての2つの資料がある。ひとつは恐らく録音もされているが、1880年(18歳)の作品、ピアノ三重奏曲の楽譜。もうひとつは1880年より81年に手を付けて完成しなかった作品、交響曲ロ短調のCDである(ピアノ版)。これらはほぼ同じ時期、音楽史上に名を残す大パトロン・メック夫人との、怪しい?カンケイの最中?に編み出されたものだが、雰囲気が違う。トリオ1楽章を例に挙げれば、非常に微細で非論理的な転調・・・たんに一度(or半音)上げて、あいまいなうちに戻るとか、プロコフィエフのような突然のオクターブ上昇、チャイコフスキー張りのシャープ/フラット記号の集中、美しく新鮮な分散和音の挿入など・・・や、後年の新鮮な典雅さを予感させる音形・・・二ないし四分音符+八分音符を巧みに交叉させた、小節線を跨ぐ一寸妙なリズム感覚、そこへ突如気まぐれに紛れ込む・・・春の花びらの窓から舞い込むように・・・十六分音符たちの流麗さ、ウン・ポコ・ラレンタンド(103~)での緩やかな二拍三連はディーリアス作品のような夢見る動き、アレグロ・アパッショナートの再現(174~)直前の全ての八分音符にアタックの付いた力強い下降音形はチャイコフスキー的だが、 210からのヴァイオリンの昇降する分散和音は、バッハの昔のそれではなく、のちの弦楽四重奏曲などを思わせる現代的なロマンスが有る。そのあとも 3楽章すべて一応完成されているが、気まぐれな感性の奔放さが見られ、全てのリーフに独自の感性の片鱗が伺える。分析的に見れば既に怪物ドビュッシーの顕れた面白い曲と感じることができよう(感動面では真×の可能性あり、そういう曲)。

さて一方の交響曲、単一楽章の断片だけだけれども、「これっていつの作品?」と戸惑うほどなのだ。この息の長い旋律、ひょっとしてラフマニノフ幼児期の作品・・・?白眉といえば白眉(二つの旋律がいかにも初期ドビュッシーの品の良い美感に溢れている)の中間部レントでは微妙にずらした不協和音が織り交ざり、幻想曲などを予感させるが、よほど注意しないとわからないだろう。やっぱり第一印象は、やけに明るく透明感の有るチャイコフスキー・・・「灰汁抜き」されたロマン派音楽。「旋律が全て」。冒頭アレグロ、憂愁の主題がひたすら律義に繰り返し展開。 2楽章ともされる緩徐部が瞬く間に過ぎて、”3楽章”プリモ・テンポでは勝利への闘いが再燃(笑)、憂愁の主題は勇壮の主題となって大団円。旋律が全て。耳をひかない旋律では決して無いが、あからさまで、僅かも旋法的でなく、ドビュッシーらしくない。フレーズ途中で繊細な転調をおこなうといった、トリオにみられる機知が無い。よーく聴けば、小節線を跨ぐフレーズ間の有機的な繋ぎ方や、微妙な転調(トリオ同様)が優雅で軽やかな雰囲気をもたらし、”フランスっぽく”もある。有機的に伸縮する旋律構造に、前記トリオに通じる個性も垣間見えよう。繰り返しになるが良い旋律をもっているし品の良さもあるものの、連弾版でなくKOCHの管弦楽編曲(フォルドナー)できくと特にそうなのだが、聴後何か足りない気がするのだ。同盤は管弦楽といっても2手分のみを小編成の管弦楽配置した、いかにも教科書的なピアノ協奏曲風編曲なのだがシカゴ交響楽団のすこぶる名技(ソロヴァイオリンの美音には驚嘆)に支えられているから聴けるものの、これが啓蒙指揮者のやみくもなオケによる盤だったらどうなっていただろう。 ”3楽章”冒頭の度肝を抜くホルン斉唱(マーラーかこれは?)などオケがオケならほんとにロシア音楽だ。これは編曲の問題だが。

さて、この作風の違い、謎である。作曲動機等調べればカンタンなことかもしれないが、後の楽しみにとっておく。音楽の楽しみの一つに、じっくり謎を追求することが有る。安易に答えを求めては台無しだ。別記した幻想曲や小組曲くらいの頃になると、特徴的なリズム・音形(ピアノならともかく弦は弾きづらいんだこれは)、明るみ、軽やかさ、音楽ではないと揶揄される寸前もしくは寸後の調性感覚が、しかし明瞭な旋律性(抜群に耳触りが良く、サン・サン(サン・サーンスですって、わかってますそんなこと)程度には尖鋭)とあいまって独自のサロン風世界を形作り、おネエ様方を喜ばせる機知に富むようになる。ところが余り間をあけず、さらに一歩進め、「媚び」を完全廃止した記念碑的作品「牧神の午後への前奏曲」(1892-4)ではもう語法の完成された個性ドビュッシーが屹立してしまう。この10年にも満たない期間の瑞々しい音の小宇宙は閉ざされたままとなった。そこで止まっても充分音楽辞典に名を残すくらいにはなれただろうに。ここでヴォーン・ウィリアムズの言葉を思い出す。「彼はしようとしてしたわけではない。彼にはそうするしかなかったのだ」。いやはや、凄い作曲家だ。この人ひとりの才覚で何人の作曲家を創り出せただろう。(賛美おわり)

アンゲルブレシュトはロマンティックな濃厚さが漂う「らしくない」演奏。面白いし聴ける演奏だ。なによりパス・デ・ループ(パドルーですって、わかってますそんなこと)の、優しく、色の有る管楽の表現が救いとなっているものの、終始重いテンポ、存外重厚なハーモニー、凡百指揮者のような刹那恣意の挿入には、違和感がある。若かったのだろう。悪いことを書いてしまったが、「音の取りまとめにおける客観性」・・・これは言葉で説明しづらいのだが、融合させすぎず(ちんまりした堅い塊になってしまう)バラバラにもならず(アマオケ状態)の絶妙な間合い、とにかく後年の解釈の萌芽は見えるので、ファンは一聴されてもまあいいではないでしょうか。マイナーだが日本盤ですし。SPの直復刻、さらさらしたホワイトノイズが聴きやすく、併録のマザー・グース(マ・メール・ロアですって、わかってますそんなこと)のブチブチ雑音より数倍聴きやすい。分離もいい方。総じて遠距離感(暗闇で遠くの窓から美しい光景を垣間見ている気分、「マルコヴィッチ」的かも)ある茫洋とした記録ではある。

対照的な新しい録音としてあげたマルティノンは光に満ちたオケが最高だが、少し重い。ルーセルを得意としただけあって舞曲表現は浮き立ってきこえるがちょっと録音気張りがあるように感じた。同盤ききどころは実はキャプレ編曲の「子供の領分」組曲で、改めていつか書こうと思うが、ピアノのそれとは全く別の曲と見た場合、素晴らしい名曲。際物に対する意外感覚がいつしか別個の感傷を呉れた。キャプレ独特の世界である(これも冒頭言ったとおりドビュッシーの曲ではなくキャプレの曲と聴くのが正しい)。ヴォーン・ウィリアムズやイベールなどの名曲に匹敵する眩いばかりの美しい曲。・・・ゴリウォーグのケークウォークを除けば。あれはいくらなんでも。

アンセルメ指揮パリ音楽院管弦楽団(LYS・DANTE・RADIO FRANCE)1948


どうもイマイチだ。オケの集中力が散漫で技術的にもあやふや。アンセルメも「ならでは」の色薄く、盛り上がらない。つまらない。録音も悪くて牧歌的な雰囲気が損なわれている。無印。

○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(DECCA)1961/2・CD

ちょっと重いか。もっと颯爽として軽い曲である。編成が大きすぎるのか?こんなに稀有壮大にやられるとマルティノンの正規録音もそうだが「キッチュなほど」大げさに聞こえてしまう。太鼓とかあんまりとどろかせないでほしいなあ。それでいて印象にも残らない。スピードもやや遅い。しかし現代の水準からしても十分通用する技巧レベルから○。

◎パレー指揮デトロイト交響楽団(MERCURY)1959/4・CD

リズミカルな演奏で、明瞭な輪郭の音楽に素直なよろこびが込められている。2楽章のトライアングルが溌剌としていていい。1楽章の喜遊的な雰囲気をさらに盛り立てている。とにかくリズム感がいい。 フレージングも統一され、かと言ってフレージングにテンポが振り回されることはなく、フランス音楽というものをよくわかった人が振っているな、と感じる。最後の上向音形で音をひとつひとつ切りつめていたのはこの人のリズム重視の姿勢が端的に伺えて面白い。3楽章も早めのテンポで明るい色彩を失わない。色とりどりのカラフルな音楽にはビュッセルの職人的な編曲の才が光っている。バレエはもうパレーを楽しんでください、と言った感じ。速い速い。嫌が応にも気分を高揚させられる。踊りの音楽として微妙な揺らしが入るのもポイント。音色にやや独自色が無い感も受けるが元の曲がうまくできているのでこれはこれでいいと思う。楽しい。

○チェリビダッケ指揮ベルリン交響楽団(ARLECCHINO)1949/5/5LIVE

ピッチが高すぎる!いくらなんでもこれは違和感の1楽章。2楽章以降はけっこうリズミカルだし、何より正確でひびきが良いのがいい。ドビュッシズムを理解しているとは思えないが、これはチェリズムの既にして完成されたスタイルをはっきり示している。透明感が肝心の曲だがその点でチェリは最適の指揮者、くぐもった重心の低い音響が持ち味のベルリン響に柔和で繊細な味を加えている。ただ、録音悪すぎ。4楽章などライヴらしいグルーヴ感がかなりいいのだが、○止まりです。

○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)LP

ステレオ。しょっぱなからいきなり恍惚としたテンポにのけぞる。何というロマンチシズム!それが4楽章の緩徐部にいたるまで続くのだ。コンドラシンらしい前進性は4楽章のワルツ主題にしかあらわれず、それも音のキレだけで、テンポはかなり穏やかだ。意外と色彩的な広がりは好録音ゆえのことだとは思うが、かなりガウク的なフランスものであり、万人向けでもコンドラシンマニア向けでもない。個人的にはロマンチシズムはアリ。○。

~Ⅰ.小舟にて

レイボヴィッツ指揮パリ・コンサート・ソサエティ(音楽院)管弦楽団(CHESKY)1960/6

うーん、この曲は素直なだけに難しい。ただ旋律を流すだけでいいというものではなく、牧歌的な雰囲気を単純な構造の中にどうやって持ち込んでいくか、という点が難しい。フルートの音色にもっと柔らかい抒情が欲しいし、木管全般にもっと繊細さが欲しい(無茶言ってますが)。弦もちょっとクリアすぎる。これは録音のせいかもしれない。無印。

○ビーチャム指揮?(DA:CD-R)1943/7/6ArmedForcesConcert・放送live

「コンサートホールオーケストラ」の客演記録。異常にデロデロしたロマンティックな起伏ある解釈の施された演奏で、ロシア式解釈の一種趣すらある。オケも前時代の演奏様式を引きずるような感傷的なフレージングに音色で曲のあからさまな魅力の素直な反映を示している。ビーチャムはときどきこの曲をやっていたが、ここまでロマンティックなものは聞かない。私は面白かった。ビーチャムだからそれでも、爽やかで仄かなのだ。

~Ⅰ、Ⅳ

○ビーチャム指揮ビーチャム交響楽団(SYMPOSIUM)1918・CD

かなり意外なことにずいぶんとクリアで生々しい音だ。木管がド前に出ていて非常に聴き易い。とはいえ古い録音に慣れないかたには薦められないが、ビーチャムとは思えぬ恣意的な解釈(シンバルの強調とか極端なテンポ・ルバートとか)が入り、しかしそれがまた程良い個性となって自然に耳に入ってくる。是がまたいいんです。軽く透明感があり品の良い派手さに浮き立つ音楽性には、フランスものがやっぱりあっている。ひょっとするとディーリアスのくぐもりよりもこっちのほうがあっているのではないか、と個人的には思うくらいフランス音楽になっているこの演奏、◎にしたいが録音マイナスで○にしておく。いい。

~Ⅳ.バレエ

○バルビローリ指揮ニューヨーク・フィル(DUTTON/CBS)1940/12/16・CD

以前書いたラプソディと一緒に録音されたもの。NYPらしいしなやかな表現力が駆使され、バルビらしい歌謡的な流れを重厚に彩っている。この曲の演奏としてはまさに特異で、ロマン派そのもの、ウィンナー・ワルツすれすれの舞曲表現に驚かされると共に意外とすんなりハマって聴くことができる。スウィング、スウィング!バルビにしかできない揺れまくり(でもスタジオ録音だからそれほどズレない(全くとは言わない))の演奏、3分強と短いが一聴価値あり。復刻添付残響がややうざいが聴き易いことは聴き易い。全曲聴きたかった。○。このアルバムはNYP版のラ・ヴァルスなんかも入っている(が、この曲のほうが演奏的には楽しめる)。

(ヴァイオリンとピアノ編)

~Ⅰ.小舟にて

○クリモフ(Vn)スヴェトラーノフ(P)(LANNE:CD-R/MELODIYA)1982/4/13音楽院live

板起こし。個人的にはこの日の雑多なプログラムの中で一番惹かれたもので、性急な表現になってしまいがちなその他の曲にくらべ平坦でのっぺりとしており、ほっと落ち着くのである(しかし聴衆反応はどの曲でも判で押したように大喝采だが・・・)。編曲がかなり簡素で検証はしていないが恐らく原曲のピアノ連弾をそのままヴァイオリンとピアノに分け持たせただけだろう。ヴァイオリンにとってこういう音数の少なく要求表現の幅の小さい曲は難しい。逆にソリストの技量が試される。その点クリモフは高音の伸びがいまいちというか、長い音で音程が不安定になるところが気になった(ただ板起こしのため原盤が歪んでしまっているだけかもしれない)。でもそれくらいで、違和感しきりの編曲であるにもかかわらず、ほんわかした。何じゃこの感想。○。

(オレネフ独奏編)

○スヴェトラーノフ(p)(MELODIYA)

独奏用の編曲。妙に軽く、ちょっと変な感じの編曲だ。いくらなんでも二手では違和感は拭えないか。旋律の盛り上げかたはスヴェトラそのもの、これが管弦楽だったらさぞアクの強い演奏になったろう、というような演奏。音色はあいかわらずぶっきらぼうだが、弱音部の陶酔的なテンポの落とし方など専門ピアニストじゃ絶対やらないだろう。ふつうは絶対やらないことをしているからスヴェトラは面白いのだ。曲には違和感しきりだが、一歩一歩踏みしめるような表現は耳を惹く。ピアノ独奏ならではの崩しかた、なかなかです。

(原曲)

ベロフ、コラール(P)(EMI)1982/4

ちょっと力強すぎるか。余りに明確でハリキリすぎてる気がする。単純な曲だし、力を入れる必要はないのだから、もっと詩情を前面に打ち出したほうが曲想にあっている気がする。どうもこの曲は管弦楽で弾いてはじめて知ったもので、ピアノのスカスカな響きには違和感がある。。無印。但し終楽章は明るく溌剌としていていい。
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ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(楽園への道) (2012/3時点でのまとめ)

2012年04月05日 | Weblog
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(1901)

間奏曲「楽園への道」


○ビーチャム指揮ABCネットワーク交響楽団(DA:CD-R)1945/4/7LIVE

パレーの後に聴いたのだがやっぱりオーソリティは違う!パレーはただただ美しかったが、ビーチャムはドラマがある。最初の余りに繊細で小さな動き・響きからクライマックスの即物的なほど強く速い(ビーチャムらしいケレン味の無い縦のしっかりした颯爽としたものだ)表現までのコントラストが凄まじい。ただ、いつもだけど、叫んだり数えたりはやめてほしい。。プロオケなんだから。。オケ名はおそらく正確にはNYの有名オケのどこかだろう。もっともこの団体名はオーストラリアにも実在する。雑音は最悪。放送音源自体がLPで状態が悪いものと思われる。しかし静かな場面は引くでも押すでもない絶妙な情趣をかもすのに、なんでフォルテになると棒みたいなテンポで強くもあっさりやってしまうんだろうなあビーチャム。古典のやりすぎか?ディーリアスの歌劇でもそうなんですよね。

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(aura,HMV/ermitage)1957/10/20アスコーナlive・CD

スイスの作家ケラー「村のロメオとユリア」(岩波文庫)に基づく歌劇「村のロミオとジュリエット」からビーチャムのたっての要望で管弦楽曲として編み直された間奏曲。ドイツ・ロマン派的な耽美性と民謡旋律の鄙びた情感が妖しく絡み合うディーリアスの代表作。ビーチャムの指揮はいつ聴いてもそうなのだがディーリアスの退嬰的な音楽を表現するには生命力がいささかありすぎる感がある。このHMVの超お得盤セットに収録されたライヴ録音はきわめて明瞭な擬似ステレオだが、それだけにいっそう冒頭からビーチャムの力強く前進的な表現が耳につく。途中弱音部にはディーリアスの淡い色彩が柔らかく描き出されるが、その間の起伏にドラマがありすぎる。間奏曲にしては余りに自己主張する曲でもありしょうがない面もあるし、原作はディーリアス夫妻による脚本に比べ結構ドラマティックな内容になっており、廃墟の「楽園」へ向かう場面も実はかなり騒々しいように読めるので、この表現でいいのかもしれない。ただやはり颯爽とした速いスピード感が最後まで気にはなった。あと観客の雑音・・・よくこの陶酔的な音楽の中で不躾に咳できるものだ。○。

トーイェ指揮ロンドン交響楽団(DUTTON)CD

これは古い録音だけれども、即物的というか古い録音にしばしばある、全く感傷的な音を出さずに機械的に構じられたものの印象が強い。ビーチャムを更にあっさりしたような速度に、悉く「棒吹き」の管楽器、無難に「イギリス的」な範疇を出ない弦楽器、いずれもバルビとは対極の表現である。それでもアーティキュレーションはしっかりつけられておりオケ自体も非常にいいわけで、聴けてはしまうのだけれども、いささか職人的に過ぎる。

○バルビローリ指揮ウィーン・フィル(DUTTON)1947/8/20ザルツブルグlive・CD

補正と擬似ステレオ化が過ぎており原音の音色や響き具合が全くわからない。元がウィーン・フィルかどうかですらわからないような悪い音であった可能性もあるが、とにかくウィーンの音の特質は響いてこないし、技術的にすぐれているオケというくらいしか読み取れない。恍惚的な解釈をするバルビではあるがここではいくぶん抑え気味のようにも感じる。バルビ特有のフレージングの柔らかさやすべらかなデュナーミク変化も殆ど伝わらないが、じっさいに中欧的に多少感情を抑えてスマートなふうをしているのかもしれない。○。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(VAI:DVD/DA:CD-R他)1959/1/29live

荘重にたゆたうような音楽はやや遠く、いつもの感情的なバルビとは少し異質な感じもするが単純に録音の悪さゆえだろう。とにかくホワイトノイズがきつく、音場も安定しないステレオでヴァイオリンが右から聞こえてきたりといろいろ問題は大きい。表現の起伏のなさはそれでも特記できるかもしれないが、バルビらしくない。そのぶんボストン響の表現力・・・とくに木管ソロの美しさ・・・が際立って聞こえてくるのは相対的なものかもしれない。○。vaiの映像は30日か2/3のものかもしれないが未確認。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1959/1/30live

録音状態に問題がある。聞き覚えのある音ゆえ恐らくM&Aなどで出ていたものと同じだろう。ステレオだが音場がじつに安定せず傷も多く、管楽器の音色もやや古びて聞こえ、全体の造形が人工的に感じられ違和感をおぼえさせる。解釈は他の盤とほぼ一緒の非常に感情的なフレージングが多用されたものゆえ、冷徹なオケと意思的なバルビが噛みあっていないだけともとれる。相対的に無印。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1964/11/7live

ステレオで聴きやすい音。バルビのディーリアス適性をもっともよくあらわすことのできる感傷的な曲である。伸縮自在のルバートが曲の流れを邪魔することなくスムーズに聴かせ、これを聴くと他が素っ気無くて聴けなくなるという、バルビがごく一部の曲にみせた異常な適性を聞き取ることができる。基本的な解釈はどの盤も変わらないが、ここではフィルハーモニア管を操るようになめらかに板についた表現をみせており秀逸。まあ、放送エアチェックなりの録音なので○にとどめておくが。50年代のものにくらべテンポはかなり速くなっている(2分弱)。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

このコリンズのディーリアス集の中では小粒でぱっとしない。すんなり聴けてしまう。楽曲はおそらくディーリアスの代表作で、かつ、ビーチャムの依頼で後から付け加えられた(時期的に既に病魔が表だって体を蝕んでいた時期だと思われる)事実上歌劇とは別の曲なのだが、それもさりなんという感じだ。○。

○グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(RCA)LP

重厚でがっしりした「楽園への道」だがワグナーふうのぬるま湯い表現が無くオケの音もニュートラルなので、ドイツ的という感じは無い。ちょっと面白い、寸止めの感傷性が良いが、この曲には多少しっとりした、多少フワフワした部分も欲しいわけで、録音もそれほどよくない点含め、機会があればどうぞ、というところか。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/4/7LIVE

録音がやや辛いのとあけすけな演奏ぶりに違和感を感じなくもなかったので無印にしてもよかったのだが、こういう明るくボリューム感ある音色のディーリアスも珍しいので○。しっかりしたディーリアスの曲はこういう即物様式にもしっかり映える(テイストは無いが)。整え研かれた立体的な音楽には構造への配慮が不要なくらいになされ、モノラルでも滑稽なほど雄弁に語られるさまが聴いてとれる。オケの技術の高さというか、オシゴトとしてソロをこなす管に余裕すら感じられるのは少し気になる。メンデルスゾーンやウォルトンなどと一緒に行なわれたオールイギリスプログラムの中の一曲。

<全曲>

○マッケラス指揮オーストリア放送交響楽団シェーンベルク合唱団、黒髪のヴァイオリン弾き(汚い男)役:トマス・ハンプソンほか (argo)1989

ディーリアスの歌劇における代表作。4作めで手慣れた物だがまだ若い分少し2大リヒアルトの香りが残っている。放蕩息子ディーリアスの、名声が確立したあと画家イエルカとの出会い、そして半ば共同作業のようにして仕上げた作品の一つ。ふたりは決して中むつまじかったわけではなく愛人問題などもあったらしいが、この結婚前においては或る程度素直な共感の中にこの純粋な、純粋にすぎる愛の物語も紡がれたわけである。名指揮者ビーチャムたっての願いにより付け加えられた、後半クライマックス前の間奏曲「楽園への道」は、ディーリアス全作品のうちでも疑いの無い代表作だ。聴くうちに限りなく哀切のひろがる曲、もうそこにはない幼き頃の夢の花園にむかって、肩を寄せ合い歩き向かう情景を描いている。街の喧騒につかれ故郷を目指す二人の姿に自ずを映し出す向きもいらっしゃるのではないだろうか。純粋に曲としても恍惚の絶品だ。単独で演奏されることが圧倒的に多いが、筋の流れで聴くのが最も効果的であり、全曲盤で触れることには絶対意味がある。ビーチャム盤表記では2場による作品となっているが、実際は 6場(2幕)の比較的長い作品である。前半はディーリアスらしい自然の美しさをうたう情景描写と織り交ざるゆるやかなドラマに満ち、かなり単調な起伏の繰り返し~英国の広大な大地のうねりを想起してほしい~であるもののディーリアンには堪らない果てしない流れが続く。この作品の白眉は圧倒的な後半、主人公の男女が生地を追われ街に出るところから始まり、たまたまの祭りのダイナミックな音響(マッケラス盤にはサーカスの観衆拍手迄入る)と圧倒される印象的な旋律の交錯に、初端より傑作であることの証しを見せ付けられる。疲れのままに「楽園」への逃避行を描く間奏曲は前記のとおり、そして既に楽園ではなくなった荒れたガーデンで絶望感に呉れるふたりを誘うジプシーのヴァイオリン弾き(ジプシーヴァイオリンと意味の無い奇矯な発声、兵士の物語をふと思い出すがこちらがずっと先)の存在感が前半で顕れたときにもまして、しっかりと印象付けられる。

音楽映画ディーリアス(一時期NHKでさかんに放映されていた)のなかの「楽園への道」は花を積んだ一艘のボートがながれゆく様で耐え難い余韻をのこすが、そのとおりの結末である。最後男女の嘆きの交換が幾分雄弁であるものの、沈める舟のまさに退嬰の幕切れを、遠い船頭の呼び声が、耐え難く演出する。・・・

この底本は同時代スイスの詩人ゴットフリート・ケラーによってかかれた短編小説。「村のロメオとユリア」名で1989年岩波文庫化されているが、現在は絶版の状態につき図書館を当たって欲しい。以上の書き口では伝わらないかもしれないが(泣)、発表当時内容的に物議をかもしたという、単純ではない筋書きだ。もっと詳しくは底本ならびに是非マッケラス盤に付いた故三浦淳史氏渾身の分厚いライナーを読んでいただきたいのだが(見方に偏りもあるにせよ、これは力の篭った名文であり、他に得られぬ情報もあり、英文対訳も付いているので是非一見の機会をお勧めする)、何等罪の無い素朴な農夫たちが、近代社会の業・・・「金」により不幸に陥れられ、かれらの子供として、幼なじみのまま恋人になり夫婦になり子孫を育てることが約束されているはずの男女は、屍肉にたかるハイエナのような畠の領分争いの末、有無をいわさず引き裂かれてしまう・・・ロメオとジュリエットの剽窃というわけではない。あくまでその状況を、言わばジャーナリスティックな観点から「なぞらえた」ものとして描写される。溯ってしまうが、幼い二人の無邪気な戯れは冒頭よりかなりの長さが費やされている。しかし争いの時は長くつづき(このあたりがかなり省かれているが) 6年ののちにふたりの両親は、退嬰のままともに舞台から消え去ってしまう。解き放たれると同時に行き場を失った二人。再会のよろこびも束の間美しき自然と田畑を追われ、街に出る。騒がしい喧騒、生まれて初めての人人人の群れ、しかも祭りの最中で「天井桟敷の人々」になりかねぬ・・・優しきふたりの田舎びとは、”近代社会”の混乱に馴染めず、次いで森で、幼き頃以来に再会したヴァイオリン片手のヒッピーふうの男・・・この台本においてはすっかり狂言廻しであるが重要な役所で、じつは相続権を失ったかつての地主の私生児で、酒手に徘徊しながら仲間とホームレス生活を送る。そもそもふたりの両親はこの地主の所有権の無い土地を争ったのであり、原作ではもっと肝要な位置にいるのだが、ここでの飄々とした吟遊詩人風の位置づけは、とくに冒頭においてはまるで小泉八雲最晩年の詩的随筆「向日葵」そのもの。森の中のジプシー風大男というのは、英国人にとって特別の感傷的素材なのだろう・・・の誘いにも乗ることが出来ず、どこにも居場所を失った挙げ句、遂に、心中する。

彼等は妥協もできたし、様々な誘いも得た。すべてを退けてまでなぜ死ななければならなかったのか・・・自らを時代に合わせて変容させることもできないほど、純粋な愛をおもんじる素朴な男女すぎたのか。かつての時代であれば、日々に悩み無く余計な夢すら抱かずに、朝は日の出より畠に出て、夜は家族で楽しいひとときをすごす。先祖代代そうやって生きてきた連環が、、、、時代、金と多くの人の争いに満ちた俗世、によって断ち切られた。自然主義者ディーリアス、若き頃の放浪生活の気分、そして保守的な英国において異邦人として生まれ育ち(両親はドイツ人でドイツ語のほうが堪能だった)マーラーのように「故郷を持たない」人生であったこと(この作品の直前に、のちの妻イエルカの財力により生涯の住居をパリ郊外グレ(シェーンベルクの「グレ」)に定めた・・・イギリスではなく、フランスにであった。尤も英国への愛着はあり、死後はイギリス近代音楽の第一人者とまで祭り上げられ、分骨すらされたのであるが。)、それら個人的な気分が内容への共感となってあらわれている。生き残る手段はいくらでもあったのに、生まれ育った自然に永遠に消え入ることを選んだふたりの姿は、野暮のかけらもない重奏音楽の絶妙により、水上の美しい死をもって永遠にわれわれの心の中に生き続ける。・・・ふたりは狂詩曲をかなでるあの男を尻目に、藁を積んだ小舟に乗り身をよこたえると、流れの中で栓を抜き、森のやわらかな霞のなかに姿を消す・・・非常に世紀末的なペシミズムに彩られているが、ディーリアス自身若き頃フロリダの農園をはじめ放浪してまわり、異邦人として生まれ故境外で生涯をおえているのも重ね重ね思い出す・・・あ、結局全部を語ってしまった!できれば事前情報なしに英語版を聞いて(観て)ほしいものだが。

シェークスピアの素材を殆ど題名とシチュエイションのみ借りて描かれた現代的な複雑な作品である(架空の近代国家セルトヴィラの住人に起こった出来事の一つとして書かれたもので、現代風刺の気がある)。けっこう日本的な心中物で、筋は近松のそれに近いような気すらする。その情景は殆ど広大な田畠や森、川の中に描かれており、前半は物語の性格上とくに著しくきかれる。柔らかな鳥のこえ、ひろがる朝霧の田畑、森のさざめき、遠い角笛の交歓・・・。私じしんかつて恋に敗れたとき、ひどく心を打たれた覚えがある。結末もそうだが、寧ろその始まりの美しさに涙を得た。イギリス人はこのドイツ系の血を引く作曲家をことのほか愛し、70年代にはさかんにイメージ映像化がなされている。同作品も映像化されており(レーザーディスクと聞いた)、私は未見だが機会があれば見てみたい(マッケラスの音源らしい)。映像もしくは上演形式で観たい。切におもう。理由のひとつに、この作品の抱える根本的な問題点が挙げられる。これはディーリアスとイエルカの手により抄訳されているのだが、抜粋が過ぎるために、全編噎せ返るような音楽の雰囲気が、本質的な黒いテーマを隠してしまい、(豆知識:これはドイツ語と英語台本両方自ら(夫婦)の手で作られている。それはこの歌劇に限らずで、ディーリアス自身ドイツ語で育ったことが理由。イエルカはフランス語にも長じた万能だったがそれ以上の天才ディーリアスの為に生涯を尽くした。)最近手ごろなペーパーバックで復刻された「私の知っているディーリアス」(晩年作曲家の手足となった故フェンビー氏著、ドーヴァー)にはディーリアスの晩年を映像に描いた有名なケン・ラッセルについても触れられていて興味深い。ラッセルの作曲家シリーズはチャイコフスキーなどをみればわかるとおり(「惑星」は傑作だが)かなり恣意的なシニックが感じられるゆえ、優しいディーリアンはショックを受ける可能性があるが。

つらつらと書いてしまっている。しかしそれだけの曲なのだ。マッケラスについては言うまでもなくかつてはヤナーチェクの権威、そして疑いなく現代ディーリアスの最高の指揮者である。argoに集中して録音しており、ブリッグの定期市など美しすぎ透明すぎて却ってすんなり聴けすぎてしまうところもあるが、明瞭な音作りにはビーチャム(初演者)のはっきりした香りも残り、聴き易い。オーストリアのオケの音がこれほど透明にも表現可能ということを初めて知った盤だった。

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、マーガレット・リッチー(sp)ほか(EMI)1948

ビーチャムはイギリス初演のあとに作曲家に終幕への間奏曲を書く事を薦めた。そこで「楽園への道」が書き上げられたのは1915年ごろといわれており、ディーリアスの最高傑作とされるとおり完成度の非常に高いものとなっている。他の部分yろい密度が高く感じる方もいるだろうがそういうことなのだ。ビーチャムは3管編成を2管編成に改めたが、現行版はほとんどそれによっている。ここには全曲版録音をあげたが音がモノラルで余り良くない。だが典雅で決して耽溺しないビーチャムの作り上げたお墨付きの世界を味わいたい方は是非一聴を。以下、間奏曲「楽園への道」について少々。

”「楽園への道」と田舎村の事件”(1993記)

いちばん重要な最後のシーンへのつなぎとなった曲で、使徒ビーチャムのたっての願いで上演版に付け加えられた、でも今や手ごろなディーリアス入門曲として単独で奏されるのが殆の作品である。スイスの荒涼とした田園風景。閉鎖的な村落での農夫生活が、時代の流れによって理不尽にも失われ、神に約束された男女が、手に手をとりあい村を抜け出すところから展開する悲劇的な話し。幼なじみはかつて争いの無い平和な田園にて美しくはかない若さのうちにうつし出される俊やかな風景の中、緩やかに愛をはぐくんでいた。ふたりには共通の「秘密の花園」があった。それはパブの庭で、店には「楽園」という名がついていた。美しい草花に満ち溢れた夢のような光り溢れる場所であった。逢瀬はいつも花のベッドの中。雲雀のからかいが時折耳元に滴り落ちる。若い二人には聞こえない。穏やかな生活、貧しいけれども密やかな花々に彩られた人生の小道を二人でゆっくりと歩み、静かに終わる贅沢。約束された土地は彼らの目の前にあったはずだった。

それを変えたのがさすらいのヴァイオリニスト(フィドラー)だった。たまたま森できいたエキサイティングな狂詩曲、そしてその言葉が、かれらの両親の耕している耕地の権利問題を明らかにしてしまった。両親は境界線や所有権を争いだし、二人は引き裂かれる。ところが長年の争いは所詮ちいさな農家の僅か数人の間の話し、じっさいに争っていたのは二人の父親のみで、皮肉なことに何の解決も無いまま、消えてしまう。再会に喜ぶ二人はもう立派な大人だが知っていることは自然のことと畠のことだけであった。都会へ出てしまうが、それは未知の汚い世界であった。彼等の頭に、引き裂かれる前の記憶が美しく儚く蘇る。「楽園」。ふたりの足取りは堅い石から柔らかな土のうえに優しく音をたて、想い出がノスタルジックな音の交響となってふたつの頭を覆い隠す。二人の世界がある・・・「楽園」に。

さてこういう知識をもって曲を聞き直してください(そんなの知っている、というかたでも是非・・・)。そして、「楽園」がどうなったかは・・・想像してください。唯一の手がかりは、想い出は余りに美しすぎる、ということです。・・・
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ヴォーン・ウィリアムズ 室内楽、器楽、合唱・歌劇

2012年04月04日 | Weblog
ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏曲第1番(1908/21)

○エオリアン四重奏団(delta/REVOLUTION)1964発売・LP

恐らく初録音盤。そのせいか現行譜と異なっている箇所があり、目だって違うのは冒頭提示部?の奇妙な繰り返しである。演奏自体も情緒たっぷりと言えば聞こえはいいが、異様に伸び縮みするもので演奏箇所を見失う。いささか聞きづらい部分もある。テンポは全般遅いが、技術的に難があるからというわけではなく終楽章のコーダではちゃんとスピードをあげている。初録音なのにこう書くと変だが、特異な演奏であり、資料的に聴く価値はある。

◎ミュージック・グループ・オブ・ロンドン(MHS)LP

これはメディチ四重奏団を越える名演だ。とにかく美音、それもイマドキの磨かれた音ではなく感傷的なヴィブラートと完璧なアーティキュレーションの産物、更にバランスも完璧で、個々の演奏としてではなくアンサンブルとして表現の機微まで完璧に組み合い、不要な突出や雑然がなく(ラヴェルの弟子RVWには三和音の響きのバランスへの配慮は不可欠である)、必然的に多少の客観性は否めないものの、本気度が伝わってくる。音色から聞き取れる思い入れがまた並ではなく、普通流してやってしまうような決して有名ではないこの曲の中に微細にいたるまで解釈を施し驚くほど細かいボリューム変化や計算されたルバートが有機的に表現できている。終楽章はもっと速さが欲しいところだがしかし、世に溢れる客観音響主義演奏のたぐいに比べれば余程速い。すばらしい演奏。この絶対に一般にもアピールするたぐいの秘曲の紹介盤としても最適だろう。◎。

○メディチ四重奏団(NIMBUS) NI5191・CD

ラヴェル師事直後のRVWはその経験を元に、極めて透明で美しい室内(声)楽を相次いで描きました。連作歌曲集<ウェンロックの断崖にて>と、この四重奏曲です。ラヴェルのそれとの類似性を指摘されるも、 あくまで調性など表面上にすぎず、メランコリックな民謡風の旋律と眩いばかりの清新な響きが見事に調和するさまは、まさにRVW芸術の確立期を告げるものとなっております。とにかく他に類を見ない個性的な曲であるにも関わらず耳触り は良いし、2、3楽章あたりはややあざとさも感じますが、4楽章の聴くものを飽きさせない溌剌としたアンサンブルは聞きごたえありです。演奏する側も無理なく楽しめる曲。英国近代室内楽の頂点。ウルスラ婦人監修のこの盤お勧めです。

ブリテン四重奏団(EMI)CD

最近惜しくも解散した。技巧的に優れ怜悧な音響によって曲の一面美質を引き出している。

イギリス弦楽四重奏団(unicorn-kanchana)CD

RVWの室内楽では私はいちばん好きな曲である(2番の2楽章は別格)。フランス風の軽く明るく硝子のようなハーモニーに、惚れ惚れするようなロマンチシズムを秘めた印象的な旋律が乗る。この曲をラヴェルの四重奏のパスティシュと断じた評を見たことが有るが、調性の一致はともかく、具体的にどこが似ているのか指摘して欲しいくらい似てない。RVWは本質的にロマンティックな作曲家であり、旋律にはラヴェルのような一歩引いた「古典的な」佇まいは皆無。民謡なら民謡そのものを使うし、大昔の同郷の作曲家に通じる教会旋法への傾倒ぶりは書法上には感じられるものの、旋律自体は紛れも無いロマンチシズムをたたえ、確実に末流ロマン派の範疇にある。しいていえばラヴェルのものよりドビュッシーに近い(それもあまり近くないとは思うが)。だからフランスの曲のようにエスプリだけでは曲にならず、力強い表現も必要となる。この盤、直線的な解釈は正直あまり好きではないが、その音の力強さには惹かれる。その路線で行くならもっともっとガシガシ弾いてもいいと思うくらいだが、まあ、2楽章などかっこよくはある。でもはっきり言ってメディチQの演奏に溢れる豊かな感性はここには無い。それでも十分曲になってしまう曲ではあるのだが、終楽章などもっとクライマックスに向かって突き進むような前進性が欲しかった。やや譜面にかじりつきすぎである。最後の下降音形、難しいんだけれど、ファーストもうちょっと頑張って欲しかった。全般どうもファーストの表現に余裕が無い。高音が怪しい。無印。

○マッジーニ四重奏団(naxos)CD

イギリスの生んだ最も美しい弦楽四重奏曲と思う。マッジーニはそれを恐らく最も美しく演奏した団体である。しかし、余りに隙の無い100%の演奏をしてしまったがために、若きRVWの持ち込んだ借り物のような構造性や不協和音が不要に強調されて聴こえてしまい、そこまで精度を上げると不恰好だ、と思う箇所がいくつかある。また、両端楽章は基本遅いインテンポでハーモニーの調和を重視したやり方をとっているため、もっともっと盛り上がりを演じて欲しい、と思うところもある。もっとも終楽章のコーダは異様な緊張感とスピードで(ファーストがやや弱いが)カタルシスを与えてくれる。譜面には忠実な演奏だと思うので、参考にするにはいいと思う。これを聴いて自分の読みの誤りに今さら気づいたりもした。メディチ盤では気づかなかった。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏曲第2番「ジーンの誕生日に」(1942-44)

<こんな曲を誕生日に贈られても…と思ってしまう晦渋な1、3楽章(実際は4楽章のみが愛人?ジーンさん(奥さんともども恐らく健在)への献呈)、個人的にはRVWの最高傑作と思う、絶望に枯れ果てても尚遥かな思い出の中に生きる希望を見出そうとするような(意味わからんな)ロマンツアの2楽章、そして苦難の果てにささやかで暖かな死を迎えるような終楽章に涙を禁じ得ません。「バグパイプの効果を狙った2楽章」のひとことで片づけた浅薄な評を見たことが在りますが、あのノンヴィブによる長大なソロ旋律は、バグパイプとかパイプオルガンとかいった音色効果を狙っただけの職人的作曲だとは思えないし、いよいよ熾烈化していく戦争と無関係ではないと思うし、…奥深いぞ…。単純な譜面の割に拍節感を保ちづらく結構難しい曲でもある。あと3楽章の譜面はラヴェルの四重奏3楽章が透けて見える。雰囲気はマツツツツツタク違うけど、オマージュのような気もする。最近オントモ・ムックで出た室内楽の本(マニアック!)ではさすがわかりやすい1番やファンタジー・クインテットを排してこの曲を推薦している。>(2000)

◎メディチ四重奏団(献呈者と作曲家の二度目の奥さん監修)(NIMBAS)CD

~驟泣。2楽章と4楽章。私はすくなくともこの盤以外は必要としていない。1、2、ファンタジー・クインテットとのカップリングで1枚なのでオトク。最近RVW選集としてさらにオトク盤が出た。

イギリス弦楽四重奏団(unicorn-kanchana)CD

この曲は後期RVWの特徴がよく顕れている。2楽章の長大な悲歌が圧倒的に大きな存在感をもって配置されている他は、晦渋で不協和音に満ち、この人なりの現代的な書法が展開された楽章ふたつと、あざといくらいに単純で短く美しい終楽章(これが誕生日の贈り物)からなる。4番シンフォニーから6番シンフォニーに至るあたりの音楽が室内楽の形で実験的に展開されたと見るべきだろう。この演奏は肝心の二楽章が、どうもすっきりしない。ヴィオラソロの活躍する曲で、ヴィオラ奏者はかなり感性ゆたかな演奏を施しているのだが、いかんせんヴァイオリンが馬力不足。ヴィオラから盛り上げられた音楽を引き継いでさらに高みへ持っていく力に欠けているのだ。終楽章は美しいが誰でも弾ける音楽なので評価対象外。無印。

○ミュージック・グループ・オブ・ロンドン(MHS)LP

没後50年のRVWの後期作品である。ひんやりした硬質の太い音でしっかりつくりあげられた演奏で、そういう意味ではバルトークやヒンデミットと同じ時代を生きたことを感じさせる複雑な心情を反映した現代的な1,3楽章には向いているが、2楽章や4楽章のRVWの真骨頂とも言うべき美しい音楽において仄かな温かみを感じさせるにはやや「強すぎる」かんじもする。ただ、よほど奏法でも工夫しないと、響きの硬質な美しさを維持しながら「柔らかく淡く優しく表現する」ことが難しいというのはRVWでもディーリアスでも言えることで、RVWのほうが単純な響きや書法を使用するからディーリアスよりはやり易いものの、この団体よりは作曲家の後妻さんと献呈されたジーンさんの監修を受けたメディチ四重奏団のもののほうが、深く染み込んでくるものがあるのはその違いだろう。こちらは音色がやや単調なのと、録音がクリアすぎるのかもしれない。○。

○マッジーニ四重奏団(naxos)CD

ジーンに捧げられたのは厳密には終楽章である。偶数楽章のロマンチシズムと奇数楽章のささくれ立った現代性が対比的に示された作曲家晩年の境地をよくあらわしている作品だ。ここでも同楽団の技術の高さと演奏精度へのこだわりがはっきり聴き取れる。響きへのこだわりは尋常ではないが、録音が新しいために響きのバランスが本来あるべきバランスと離れちょっと耳を衝く様なエキセントリックさを帯びているのは気になった。あと、2楽章はバグパイプかオルガンを模したノンヴィブの重なりが全ての鍵になる楽章だが、譜面どおりではあるのだがちょっと雰囲気が足りない気もする。○。

フィーデル弦楽四重奏団(fontec)1979/4/24

この団体は(このデビュー後10数年時点では)柔らかく暖かい音がどうにも出せないというか、でも、RVWの曲はかなり明瞭で鋭角的な音を要求する場合が多いからどうしてもしょうがないのかもしれないが(ここらへんまさにラヴェル的なのだが)二楽章の荒涼はそういう鋭角的な音でいながら遠く霞むような・・・非常に、非常に難しいのだが・・・灰白色の霧の世界を描かねばならない、その点、ちょっと4本が不揃いということもあって(RVWが折角構造的に書いているのだから内声部にもっと頑張って欲しいものだ)いかにも巷にありがちな表現に止まってしまった。だからこれを聴いてRVWってどの程度の作曲家かわかった、というのは大間違いである。4楽章にはがらっと変わって温もりが欲しい。このコントラストが肝の曲なのだから。クリスマスの夜の小さな思い出のようなこの暖かい誕生日プレゼントは、もっと素直に感情を入れないと余りに軽すぎてバランスが悪い。全般感情の起伏が巧く音に出ていない。だが1、3楽章の焦燥感に満ちた音楽は確かにある程度成功はしているので、マイナスにはしないが、やはり、本国物には負けるのか・・・日本人奏者がんばれ。ム印。

ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏のためのスケルツォ 他(遺作)

ナッシュ・アンサンブル(HYPERION)

先日レコード屋でみつけたCDの背にはこうあった。「ヴォーガン・ウィリアムズ」。知っている者には噴飯モノだが、一般的な認知度などこんなものである。「RVW」などという省略形も某三浦氏の著作がなければこれほど浸透しなかったろう(「これほど」とはあくまでクラヲタ内での話)。だが、この作曲家が20世紀前半のイギリスを代表する作曲家であることは疑いのない事実である。だから当然英国では崇拝され、演奏され続けてきているわけであり、そこから有名レーヴェルを通じて流れてきた音盤を聴いて悦に入る私のようなヲタが日本にも少なからずいるわけである。この盤はそんな英国近代音楽ヲタにとって寝耳に水のお宝であった。2000年に作曲家未亡人(まだご健在なのである・・・但しかなり年若い後妻ではあったのだが)が封印されてきた遺作群に出版と演奏の許可を出したというので、早速ロンドン交響曲の初版が演奏されCD化したわけだが、この2枚組はその中にあった主に習作期の室内楽をはじめて集成録音したものである。だが、やはり習作期は習作期、とくに2枚目に収録された曲は擬古典的(もしくは教会
音楽的)なずいぶんと大昔の情緒を漂わせるものであったり(RVWらしいといえばらしいのだが)、民謡風旋律の用法においてはドヴォルザークなどの影響も明確に感じられるし、ブルッフに師事したせいであろうドイツの前代室内楽に接近している所も大きく、まあ「そういうもの」としての出来は素晴らしく緊密な書法からも完成度が高いともいえようが、はっきり言って、われわれが20世紀の作曲家RVWに求める「もの」は、あまりないと言っていい。

ラヴェル師事(1908)後の、フランス近代音楽(とくにドビュッシー)への著しい傾倒、そして咀嚼吸収という経過をへるまでの状況を知る上では確かに興味深い。その時期の代表作とされる合唱曲「未知の世界へ」(1907)に聞かれるような明瞭なロマン性はこれら作品群に通底しているが、ここではまさに古い世界から未知の世界への到達をとげる道程が示されている。連作歌曲集「ウェンロックの崖にて」および番号付きの最初の弦楽四重奏曲(1909)は最初の代表作とされる作品で、ラヴェル師事直後のものだが、これらの示す異様な完成度の高さの影には、この2盤に収録された習作群があったわけで、聴くにつけRVWの仕事場で未完成の品々を覗き見ているような感覚をおぼえる。

この盤の収録曲を作曲年順に並べて、「あ、変わった」と最初に感じさせるのが、2枚目に収録のこの「スケルツォ」(1904)だ。これはラヴェル師事前に既に新しいものへの興味を示していたことを裏付ける作品であろう。国民楽派ふうの仰々しい開始部からしばらくは手だれのロマン派作曲家の工芸品的作品を見るような想いだが、和声(転調)にちょっと新鮮な味が混ざりだし、それがたんにドヴォルザークの「アメリカ」の世界に止まらないものであることを、調性感がいささか曖昧になる中間部、とくにフラジオ4本による音の交錯と、その後に雄弁な主題が戻ったあとの、半音階的な不思議な下降音形に感じさせる。結局は雄弁な音楽が戻って国民楽派ふうに終わり、ドイツ臭は依然抜けないものの、それなりに面白く聞ける曲だ。演奏は立派。技術的に不安のない団体。

この次に聴くべきは1枚目の弦楽五重奏による「夜想曲とスケルツォ」(1906)である。夜想曲は「スケルツォ」とはかなり異なった作風で驚かされる。リヒャルトやシェーンベルク初期の「感じ」も感じるが、それらよりもやっぱり一番影響を感じるのはディーリアスの薄明の音楽だろう。かなり半音階的な作品であり、旋律に、より明瞭な音楽を志向する萌芽はみえるものの、この曲はディーリアンだったRVWを象徴する面白い(かなり面白い)作品といっていいだろう。スケルツォはディーリアスを離れ清新なフランス風作品を意識しているのは間違い無い。ラヴェル前夜で到達できた最後の領域だろう。ホルストの「惑星」がふと頭をよぎったが、あながち外れてはいまい。

次のフルートとピアノのための「バレエ組曲」(1913~1924?)はドビュッシーのRVW式翻案といえようが、ちょっとどっちつかず。楽器の選択を誤ったかも。フルートによる民謡表現がピアノのモダンな響きとアンマッチな感じもする。まあ、このあたりになるともうRVWは完成期を迎えているわけで、「習作」というより「未発表曲」といってもいいはずなのだが、はずなのだが、、、この盤には、「RVW工房の床に転がったままの作品」が入っている。つまり、それまでの作品だったのだな、というところ。ヴァイオリンとピアノのための「ロマンスとパストラレ」(1914)などはじつは近年既に出版されており、私も持っている。ヴィオラとピアノのための「ロマンス」(1914)も出ていたのではないか??言わずもがなのターティス献呈作品である。これら、あまり名作とは言い難い。2枚目の最後に入っている弦楽四重奏による「ウェールズの讃美歌調による三つの前奏曲」(1940/41)は後期RVWらしい曲で、地味だが、他の曲と対比させて聞くと面白い。

ヴォーン・ウィリアムズ:幻想五重奏曲(1912)
<RVWの室内楽では最も有名なものだろう。これ一曲じつに独特の雰囲気があり、田舎旋律にフランス風の洒落た音響を載せて、緊密な構造に纏め上げた様子はなんとも不思議だ。好き嫌いが分かれるかもしれないが、完成前の前期RVWらしい組曲。民謡旋律の露骨な引用のため、弦楽四重奏曲第1番のほうが寧ろ洗練されて聞こえるかもしれない。でもこの曲の方がRVWの個性がより反映された曲といえる。>

○ミュージック・ソサエティ四重奏団、プーネット(Va)(NGS/BS)1925/6,12

貧弱な録音だが演奏は個性的で、恐らく本来の意図に忠実なものだ。ミュージック・ソサエティ弦楽四重奏団はチェリストとしてバルビローリが加わっておりこのSP盤も協会盤LPで再版された。録音方式以前に、使われた原盤自体が悪いらしく、目下協会絡みの復刻CDにも収録されていない。丁寧なリマスタリングが好評のNGS復刻PJからの配信が待たれるところである。バルビは後年の私的録音を聴くにつけ決して下手ではなかったと思われるが(DUTTONでも小品のチェロ演奏が復刻されている)RVWの曲ではチェロは通奏低音的な役割を与えられるパターンが多く、この曲でも目立たない。そういう興味で聴くには意味が無いかもしれない。

RVWのヴィオラ偏愛ぶりは同じくヴィオラのための曲を書いた同時代の英国作曲家の中でも飛びぬけており、この曲でも五音音階の鄙びたメロディを冒頭よりソロで弾くヴィオラ(これをファーストヴァイオリンが追ってソロ弾きするのがパターン)、更にヴィオラ二台という編成自体偏愛振りを裏付けている。

ただここでは古典志向の強かったRVWの音色趣味のみならず、意識的なものであったとも言える。

同曲は12年に作曲され初演はその二年後であったが、出版は実に21年まで待たなければならなかった。当時アマチュアヴァイオリニストで室内楽演奏会の主催者として知られた実業家W.W.コベットの依属による作品だったのだ。コベットが始めた英国室内楽作曲賞の規定に象徴的に示されている・・・変奏曲の初期形態である「エリザベス朝時代のファンシィもしくはファンタジーの形式」に倣い、「一楽章制か、連続して演奏される四部からなる作品」でなければならない・・・RVWはその「持論」に忠実に、古い音楽を意識して作曲したのである。だから妙に軽々しく、短く、構造的に簡潔で(民謡メロディ以外は)癖のないものに仕上がっている。個人的に番号付きカルテットにより惹かれるのは、この曲がどうもそう「仕立てられた」ものであることが逆にRVWの個性とのバランス感覚を崩してしまっているように思うからだ。もっとも、RVWの室内楽で最も人気がある作品であることは言うまでも無い。別記したと思うが当時英国留学中の某氏もロンドン四重奏団他の演奏を聴いて強く印象付けられたと記している。

この演奏では非常に速いテンポがとられている。あっという間だ。この演奏時間?抜粋か?と思ったのだが、実際には四楽章が完全にアタッカで繋げられており、現在新しい録音として聴かれる演奏が一応憂いをもたせて少しの間を設けているのに比べ、「単一楽章感」が強い。独特であるが、前記の(ライナーからの抜粋でございますが)とおり依属者がそう指示しているのであるから、こちらのほうが正しいのだ。テンポの速い演奏はある程度腕に覚えのある室内楽団にとっては楽なものだ。ヴァイオリニストも単音で表現するより細かい音符を左手の小手先で廻していく音楽のほうが楽なものである。ただ、小手先とはいえここではまさに前時代的なフィンガリングで憂いある表現がどうにも懐かしい。安定感もあり一切不安感がない。鄙びた音になったり不安定に聴こえたりする箇所も恐らく録音のせいで、元々はきちんとなっていると思う。アンサンブルも緊密で、ソロが動き回る感の強い曲ではあるが一方変則リズムを伴うメカニカルなパズル構造が重要で、ボロディン2番のようになかなか難しい部分もあるのだが、ロマンティックでまだ若いアンサンブルにもかかわらず、全くばらけず集中力が保たれている。変な仰々しさがなくストレートでよい。当時まだ18歳のプーネットが第二ヴィオラで参加していることも特筆すべき。○。

◎マッジーニ四重奏団、ジャクソン(Va)(naxos)CD

推しも推されぬnaxosのスタープレイヤーで英国音楽集はこのヴォーン・ウィリアムズを始め数々の賞をとっている。ヴォーン・ウィリアムズ集にかんしては満場一致で第一に置かれているが、確かに素晴らしい隙のない出来。驚いたのは先達のメディチ四重奏団の懐かしい音によく似ているところだ。感情的な揺れが技巧のほつれになってしまっているメディチのものにくらべ、一切のほつれのない安定感はヴォーン・ウィリアムズの静謐な世界を楽しむのに向いている。解釈もメディチに似ているが、終楽章のヴァイオリンソロは独特の揺れが面白い。◎。

◎メディチ四重奏団、ローランド・ジョーンズ(Va)(nimbus)CD

大田黒元雄氏がロンドン滞在中に初演を聴き、その透明な美観を賞賛した曲である(氏はロンドン交響曲初演も聴き2楽章を賛じた)。氏は接いでサモンズのロンドン四重奏団他による演奏をも聴き、日本にも通じる感覚として「尺八のよう」ともしている。これは両国に共通する民謡音律が多用されていることからくる表層的な感想と思われる半面、ラヴェル師事後「フランス熱」をへてから極度に単純化していったRVWの書法を言い当てている部分もある。この曲にはまったく民謡ふうの旋律線と単純な響き、それほど特殊ではない変則リズムがある他にこれといって複雑な構造もなく(構造的ではある)、RVW特有のノンヴィブによる全音符表現がしんと静謐な田園風景の象徴としてあらわれる(これが「幻想」でもあり、オルガンやバグパイプの模倣と言われることもある)ところが最も印象的である。田舎ふうの音線も洗練された音響感覚によって下品さが感じられず、氏はフランスとロシアの影響を指摘してはいたが、寧ろこれはロシア→フランス→と変化進展していった室内楽書法のひとつの末なのである。この演奏は震えるようなヴァイオリンの音が美しく、ヴィオラが支配的な書法(RVWやバックスは室内楽で常にヴィオラを重用した)ではあるものの天空にひとり舞い上がる雲雀の滴らす一声のように高らかに哀しく響くのがあっている。ここまで装飾的要素が削ぎ落とされた作品はRVWでも珍しいが(しかも五本の楽器を使用しているのだ)、その意図がどこまでも透き通った「幻想」にあることを思うと、そこにささやかな感傷の震えをくわえた演奏ぶりは一つ見識であると思う。◎。

○イギリス弦楽四重奏団、ブルーム(2ndVa)(unicorn-kanchana)CD

わりと即物的な演奏をする団体だが音のバランスが良く、声部同志の絡み合いがきっちり組み合って聞こえてくるのが印象的だった。この曲は野暮な民謡旋律と透明なハーモニーのミスマッチがひとつの魅力になっているが、ここでは敢えて野暮さを排し硬質の音でガチガチの演奏が繰り広げられている。弓圧をかけてギリギリ音を出すたぐいの演奏は私は非常にキライなのだが、ラヴェル譲り?の特殊なハーモニーを美しく響かせるためには正確な音程感が必要で、柔らかく甘い響きでは精度が落ちるのは確か。これが正しい姿なのかもしれない。速いインテンポで流れるこの演奏はけっこうすっと聞き流せてしまうが、ひっかかりの無さ、癖の無さは
ひとつの魅力ではあると思う。○をひとつつけておきます。メディチQの演奏に慣れていると若干物足りないが。

ヴォーン・ウィリアムズ:ヴァイオリン・ソナタ(1954)

メニューイン(Vn)ヘプツィバ・メニューイン(P)(EMI)CD

ここまでくればRVW遍歴も極北?2本しか楽器が無いだけに、この焦燥にまみれた珍しく技巧的な曲は、露骨に錯綜し晦渋な印象を与える。凡庸作曲家であれば才尽きて技に走るという典型のようにも見えようが、このあとにもう少し新しい音響世界への冒険を続ける老大家という点を考えると、過渡期的なものであるとともに、ある種の強烈な心情吐露的なものが現れたのではないか、と思う。何かあったのかもしれないが調べてないのでわかりません。ごめんなさい。ききどころは2楽章、ラヴェルのとおいエコー下に展開されるがしゃがしゃした刺々しい音楽、次いで終楽章の途切れ途切れ旋律変奏進む過程に、初めて顔を出すRVW的な、儚くも枯れた美しい断片の数々。ここではメニューイン晩年の痛々しい演奏をあげたが、できればほかの演奏を聞いて欲しい。この曲で特徴的な連綿たる重奏のかもす複雑なハーモニーがうまく響いてゆかず、錯綜をさらに錯綜させてしまっている。最近CD化。

◎グリンケ(Vn)マリナー(P)(DECCA)LP

この底から響く深い音で初めて曲がわかった。メニューヒンでは音が明る過ぎたのだ。献呈者による演奏だが、二楽章の不恰好な変奏曲も変奏としてではなくひとつひとつの音詩として解釈し、最後に変奏であったことを思い出す程度の表現をすることによって、新古典派の影響を受けて以降型にはまったような書法に縛られるようになる作曲家の本質的な美質を別のところにしっかり構築し直している。ソリストとしての技量は高く、殆ど本国でしか活動しなかったため知名度は無いが数々の同時代の作曲家の献呈を受けていた「英国的なヴァイオリニスト」(フレッシュとブッシュの弟子であるが)の面目躍如たる大人の演奏をきかせる。サモンズとは別の音色の落ち着いた華麗さがある。同じ曲なのか、と思うくらい・・・それはDECCA盤の重量感がそう聞かせているだけかもしれないが・・・転脳を余儀なくされた。まったく、楽譜から入ると誤解したまま演奏を評するようになるなあ。というか、名曲ではない佳作程度の作品は往々にして積極解釈を施さないと意図通りの音楽として聞こえないものである、だからファーストインパクトは重要だ、と改めて思わされた次第。ちなみに曲の説明は面倒なのであんまりしないけど、RVW後期もしくは晩年の作風に拠るやや晦渋な新古典的作品、とだけしておこう。◎だ。

ヴォーン・ウィリアムズ:山上の湖
○マッケイブ(P)(DECCA)

ドビュッシーの影響が色濃い幻想的な曲。ただ、民謡風の旋律とRVWの偏愛する奇妙なコードが独自の世界を持ち込んで、やや野暮になってしまっているものの、心の深層に訴えかけるような何か心根の深いものを感じさせる。フレーズの繰り返しや硬質な節回しにサティの影響を感じるのは私だけだろうか。なかなか美しいし独自性の有る煌く曲だ。マッケイブの理解力は並ならぬものがある。 ○。

ヴォーン・ウィリアムズ:讃美歌による前奏曲(1928)

○マッケイブ(P)(DECCA)

旋律だけの、非常に単純な曲。RVWのピアノ曲はえてして単純だが(根本に音の少ない弦楽的発想があるのは言うまでもない)この曲はとくに寂しいまでに音が少なく、素直で、音符の行間に思わず幼い頃教会で遊んだことを思い出して涙してしまいそうになるくらいだ。RVWの「賛美歌チューンによる前奏曲(讃美歌13番(ギボンズ)に基づく)」(正式名称)には明らかに田園交響曲などの代表作との書法上の関連性が認められる。あからさまな対位法的構造(衝突する微妙な音がいかにもRVW的)においてはミサ曲により近いかもしれない。だがここに聞かれる一抹の寂しさはそれらの曲には認められないもっと聴くものの身に寄り添った暖かいものがある。その意味では弦四2番終楽章に非常に近い。技法がどうとか尖鋭性がどうとか言わず、余り多くを期待せずに(たとえばドビュッシーやラヴェルの音の多い曲とは対極の作品だから)素直な気持ちで聴きましょう。旋律だけの曲なので飽きる事は認めるが、他に類を見ない曲ではある。モノラル時代にはハリエット・コーエンの名演があるが(山野でCD化)、マッケイブのさらりとしていてそれでそこはかとない情感もなかなかのものがある。やっぱりRVWの音楽は諦念が決め手だ。その哀しさが立っている。上手い。○。決してピアノが上手ではなく、また余りに単純な書法のせいかピアノ曲においてはまったく知られていないRVWだが、私は非常に好きだ。機会があれば他にもあたってみてください。ピアノ好きよりは、書法的に却って管弦楽好きに受けるかも。余りに構造的でかっちりしすぎている。

○コーエン(P)(EMI)CD

ヴォーン・ウィリアムズ:6つの小品組曲(1920)


<RVWのピアノ曲は独特だ。讃美歌の旋律に基づく曲がしばしば演奏されるが(別項のハリエット・コーエンの演奏はCDになっている)、ピアノの曲というより、単旋律楽器2本を線的に絡めたような、ごく単純な構造の曲が多い。同胞ホルストの晦渋な曲に比べ浅薄と取られかねないほどに、エチュードと聴きまごう程に、無邪気な美しさをたたえている。この曲は決して全てが傑出しているとは思わないが、他には聴けない明らかな個性の刻印を感じる。「田園交響曲」と「ミサ曲」の旋法的共通性は良く指摘される(というか何れも殆ど教会音楽そのものの部分がある)が、この小品組曲の中にも同じ物を見出せるだろう。>

マッケイブ(P)

ヴォーン・ウィリアムズ:連作歌曲集「ウェンロックの崖にて」(1909)

<この曲は僕の或る心象風景と結びついている。学校を卒業し、部屋を引き払って東京へ戻ったあと、会社が始まるまでの三日間…それはどこまでも澄んだ青い空と柔らかな春の風に包まれた日々だった。人生のひとつの時代が終わって、次の時代へ渡る三日間だった。僕はこの曲を渋谷のWAVE(クラシック・ブースが未だロフトにあり、比較的こだわった品揃えをしていた頃の、である)で知った。ラトルの清新な管弦楽の中で、深い情感をたたえて、しかし溜め息のように密やかな独白を続けるテノール。原詩の諦観と暗い想いに満ちた雰囲気が昇華され、美しい余韻を残す。RVWの特質が最も早く、そして最もストレートに示されている。原曲のピアノ4重奏伴奏と改編版(かなり後の編曲)の管弦楽伴奏、共に一長一短であるが、オケ・バックはRVW後期特有の華美さがやや大仰すぎるかもしれない。
…否、「ブリードゥンの丘」は別だ。「田園」を聞いているようだ…この連作歌曲集の白眉。

ちなみに原詩はハウスマンの「シュロップシャーの若者」から。この詩集は数々の曲に引用されている。R
VWが選らんだのは以下の6つ。
1:ウェンロックの断崖にて
2:夕方から朝まで、ずっと
3:私の仲間は耕しているか
4:嗚呼、私があなたを愛していたころ
5:ブリードゥンの丘
6:クラン
>(1995)

○ロンドン四重奏団、キドル(p)、エルウェス(T)(OPAL)1917・CD

最古の録音。独唱者とピアニストは初演を担いました。特に特色有るテノールでもないし、どちらかといえばすっと流れるそつのない演奏。しかし、微妙な解釈が巧い。連作歌曲全体の流れを計算した非常にこなれた演奏という感じがした。ブリードゥンが素っ気無い様子もあるが、次のクランの落ち着いた雰囲気が余韻を保って良い。OPAL CD 9844。ELWESの歌唱によるイギリス歌曲が多数併録されています。大正時代の貧弱な録音なので過剰な期待はしないほうが無難…。

○マラン(T)ニュートン(P)ロンドン四重奏団(alto)1955・CD

これは原曲より伴奏管弦楽編曲版のほうが美麗で好きだったのだが、年を重ねるうちに若さと素朴さの素直な発露たる室内楽曲としての姿のほうが染み入るようになってきた。管弦楽は大仰で曲の内容をロマンティックに展開しすぎる。原曲ですら即物的なロマンチシズムが原作者に嫌われたのだし。

これは同曲の古典的演奏の一つ。時期的にはブリテンの録音に近い頃の盤だが、こちらのほうが情緒的で自然な演奏となっており聴きやすい。このレーベル、廉価盤ではあるが(廉価盤にはしかしよくあることで)なかなかの隠れた名演をCD復刻してくれており、同シリーズにウォルトンの曲集もある。ロンドン四重奏団は当然あのSP期の楽団とは違う面子ではあるが特徴は薄いにせよいかにもイギリス的な優しく剣のない音でRVWの世界を邪魔せずに彩っている。ピアニストは主張しないけれども曲に音色をあわせてきておりマッチしている。マランはちょっと生臭い。オペラティックとまでは言わないが仰々しさを感じさせるところが若干ある。

でも録音の古さを置いておけば常に脇に備えておきたいと思う、同曲の佳演の一つと言える。

ピアース(T)ブリテン(P)ゾーリアン四重奏団(decca,pearl)1945/7・CD

最近やっとCD化したもの。モノラル。壮年のブリテンが盟友ピアースと息の合ったところを見せている。やや客観的で強靭すぎるところがあるが、第一級といっていいだろう。(2005以前)

RVW完成期(ラヴェル師事後)初期の代表作として弦楽四重奏曲第1番と並び賞される作品。私にとって詩も含め今も大好きな曲。鬱屈の無い素直な感傷がぽっかり明いた青空のように響く。単純さと繊細さの表現がなかなかに難しい作品でもある。録音が古いとどうにも突き抜けた透明感が出ないし、最近の演奏のほうが純度が高く自己主張も弱いので、曲には寧ろあっている。つまりこの演奏は録音が悪いし自己主張が強い。パール盤は恐らく板起こしで、パールにありがちな余り状態のよくないLPからの余り質のよくない素材の盤へのコピーというわけで、正直勧めるまではいかない。この中ではブリテンが一番リリシズムを醸しており、ゾーリアンは長短ない表現、ピアースははっきり、主張が強すぎる。詩が即物的な感もあり、そこは歌唱法で抑えて欲しいところだ。こうあけっぴろげにオペラティックな世界を展開されると、イマイチ入り込めない。○にしてもいいが、ブリテンもリズムやテンポ的には醒めており、今は無印にしておく。前に評したときはLPだったので印象が変わっているかもしれないが容赦願う。 (2007)

○ブリテン四重奏団、ラングリッジ(p)、シェリー(T)(EMI)1990/3/4-6

澄み切った美しさを誇るこの曲の特質を最も良く引き出している。ブリテンQのガラス細工のような精密なアンサンブルがテノールをひきたてている。ブリテンQも解散してしまったが惜しい。

ロンドン・ミュージック・ソサエティ、パートリッジ(T)

ややテノールの表現力が弱いが、楽団は巧い。良い意味で個性の無い演奏であるが、「クラン」あたりの寂々とした表現は中仲のものである。カップリングがウオーロックの唯一の傑作「カーリュー」であるのは嬉しい。「アウトサイダー」の著者で評論家コリン・ウィルソンの若き評論集を読みながら聞き比べて欲しい。われわれに数々の秘曲をつたえてくれた故三浦淳史氏の記を読みながら聞いて欲しい(“ライ”の意味を誤解した話が面白い)。共にこの曲にはやや不利な内容ではあるけれども、晦渋である事が意味深い事、わかりやすいことが浅薄である証左とされた時代の記述だから…

<管弦楽伴奏編曲>

ボールト指揮LPO、ルイス(T)(INTA GLIO)1972/8/12live・CD

管弦楽版をオーソリティであるボールトの指揮で聞けるのはこれだけである。ライヴのため、ボールト特有の「雑然さ」がやや邪魔をするが、原曲の美しさは損なわれない。微妙な解釈がさすがと思わせる。

◎ラトル指揮バーミンガム市立SO、ティアー(T)CD

スタジオ録音だけあって美しくまとまっている。ロバート・ティアーの声のすばらしさもあるが、ラトルの現代音楽に対するサエが見られる。「ブリードゥンの丘」が素晴らしいが、そのあとの終曲「クラン」が、前曲の余韻を邪魔するほどに力強すぎる。カップリングがトマス・アレンの「旅の歌」(RVWの、です)であるのが良い。「フランス熱」前後の変化が良く分かる。

ヴォーン・ウィリアムズ:野を渡り(1927)

マルフィタノ(VN) C.マルフィタノ(SP)(MHS)(MHS1976)

ハウスマンの詩に基づく連作歌曲集として「ウェンロックの断崖」につぐ2作目にあたる本作は、エルウェスらによる同年初演後、1954年まで出版されなかった。ソロ・ソプラノとソロ・ヴァイオリンの組み合わせで、8つの小歌から成る。 ウェンロックの断崖に連続するような哀歌風の曲ばかりだが、透明感に満ちている。交響曲でいえば5番あたりの雰囲気だ。一部、半音階的で複調的な和声を伴う旋律の絡みあいは 寧ろ「野の花」の世界に近いかもしれない。1曲めは単純な2本のソプラノ楽器のからみあいが美しく、ウェンロックの「クラン」を想起する。2曲めからは独唱部分も多い。ヴァイオリンは序奏部を除き伴奏に潜む。テノール音域で 支えつつ、時折駆け上り、あるいはフーガのように水晶のソプラノ独唱と絡み合っている。余り録音が無くここでもLPを挙げたが、小さい曲ではあるものの、一聴の機会があればぜひ。 ここにあげた盤にはホルストやヴィラ・ロボスなどの佳曲も収録されている。
(一部ウルスラ・ヴォーンウィリアムズさんのLPコメントに拠る)

ヴォーン・ウィリアムズ:カンタータ「ドナ・ノビス・パセム」
○作曲家指揮BBC交響楽団、合唱団、フライン(Sp)ヘンダーソン(B)(SOMM他)1936/11放送・CD

SOMMは正規盤としての初リリースとのことだが既出盤と音質的にはそれほど変化はないようだ。ダイナミックな演奏で覇気があり(そういう曲なのだが)、歌唱・合唱のドライヴの仕方が非常にプロフェッショナルに感じる。比較的有名な録音であり、曲自体も合唱曲好きには知られているもので、私は余り合唱曲は得意ではないけれども、人によっては楽しめるだろう。○。(2007/12/25)

よくレストアされノイズカットされた音源が流通している。初演直後の30年代の録音とは思えない迫力(やや音場は狭くなったが)の音楽を楽しめる。テキストはけして聖書だけではなく複数の文学的な要素を構成したもので、両大戦間の不安と希望が投影された代表作の一つと言っていいだろう。美しい宗教的旋律と中欧的に底深くもフランス的な精妙さを併せもった響き、不協和音と激しいリズムの未だ現れない頃の作品として、もちろんヤワな音楽が嫌いという人の中には「ただの美しい宗教曲」と感じる人もいるだろうが、よく構成された楽曲は交響曲的なまとまりと盛り上がりを作り上げ、5番交響曲を思わせる終曲の壮麗さと判りやすい神秘性は特筆すべきだろう。演奏は作曲家自身によるものだが、他の曲の録音同様、構築的で少々固い。オケも録音のせいもあるだろうがやや非力に感じる(本来大編成向けの曲なのでこの時代の録音用編成では実際薄すぎたのだろう)。一方直裁で突き進むような覇気に満ちた棒はこの作曲家の優しいイメージからは意外でもある。スタジオ録音のためミス等の心配はない。RVWが好きならお勧め。○。 (2010)

ヴォーン・ウィリアムズ:音楽へのセレナーデ
○ロット、ミルン他、ノリントン指揮LPO(DECCA)CD

コントラストははっきりしているが、響きが澄んで美しく、LPOの淡い色調がうまく載っている。歌唱も高らかに安定し、合唱人数が少ないにもかかわらず違和感はない。曲がいいだけによほど変なことをしない限り悪く聞こえることはないのだが、ノリントンらしくない感傷すら醸しており、おしなべていい演奏。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:この日に クリスマス・カンタータ(フーディ)1953-54

ヒコックス指揮ロンドン交響楽団 ロバーツ、ティアー

~やや晦渋な印象も…

ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:5つのチューダー朝のポートレイト

○ハリソン(ca)ウォーカー(b)ボールト指揮BBC北合唱団、管弦楽団(inta glio)CD

これはどちらかというと田園交響曲の時代の音楽を彷彿とさせRVWの真骨頂を聴く思いだ。但し最初のバラードから決してわかりやすいだけではなく適度な陰影が付けられている。実際には4番交響曲直後の作品であり、余りの作風の違いに驚かされるが、RVWはそもそもそういういくつかの異なる作風を使い分けて作曲活動を続けていた作曲家なのであり、ただ「タリス」の作曲家なのではなく、突然「4番」を書く作曲家でもなかった。当時の人々は驚いたとは伝えられるが。1936年ノーウィッチ音楽祭のために作曲され、初演された。テキストは15世紀の古い詩人のもの。5曲の組曲となっており、歌曲にしては意外な「バラード、間奏曲、ブルレスカ、ロマンツァ、スケルツォ」という名前が付けられている。スケルツォが楽しい。長さで言えばロマンツァが21分弱もあり圧倒的。12分半のバラードを除けば3、4分の曲ばかりなのでいささか不格好だが、「怒りの日」の主題が織り交ざる暗示的な音楽。演奏は楽しめるレベルに至っている。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:勝利への感謝の祈り


○スダビー(sp)ボールト指揮BBC合唱団、子供合唱団、交響楽団(inta glio)CD

南極交響曲あたりを思わせる響きを持った前向きな楽曲で、後期RVW特有の重さもあるがおおむね聴き易い。題名が暗示するとおりこれは第二次世界大戦の勝利への希望を託して制作された管弦楽付歌曲(+合唱+ナレーションのオラトリオ的な壮大なもの)であり、ファンファーレからソプラノの高らかなエコーに続く冒頭からして殆ど勝利してしまったかのような祝祭的雰囲気がある。ライナーにあるとおり、その8ヶ月後には広島に原爆が投下されるという悲惨な出来事が起こるのであるが・・・。テキストは聖書、シェークスピア、キプリングの簡潔だがパワフルな言葉による。恐ろしい状況の下でも力強く勝利へと突き進む内容は、後期RVWにしては意外なほど屈折が無く、大戦中も戦争ものを含む映画音楽を数本手がけるといったけっこうアグレッシブな活動を続けていたRVWの実態を裏付けるものとなっている。RVWと第二次大戦の関係を語るとき、必ずといっていいほど5番交響曲と6番交響曲のみが挙げられ、前者は戦争の悲惨さに対する限りない平安の祈り、後者は戦争の悲惨さそのものの深刻な音楽とされ、それだけがRVWの戦争中の作曲活動であるかのように言われる事が多い。実際にはそんなに単純な反戦感情的作曲家ではなかったのであり、プロフェッショナルとしてきっちり仕事していたわけである。もっとも、この曲には部分的に「天路歴程」との近似性が強く感じられ、わかりやすすぎるほどわかりやすい非常に耳馴染みの良い歌には、5番交響曲との関連性も指摘できなくはない。演奏はそれほど魅力的とは感じなかったが、ボールトらしい決然としたしっかりした演奏である。録音はモノラルでやや悪い。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:ミサ曲ト短調

○ロジェ・ワーグナー指揮マックネリー(SP)他合唱アンサンブル(CAPITOL、ANGEL/PACO)1960ハリウッド・LP

合唱指揮者として名をはせたアメリカのロジェー・ワーグナーのステレオ録音である。曲は田園交響曲と同時期かつ同傾向のしめやかなもので、それにしては押しが強い。人数が五名と少ないせいもあろう。強弱がはっきりした50年代(+)アメリカらしい表現、ともいえるか。もう少しクリアな録音で聴きたい気もする。PRISTINE配信ではウォルトンのベルシャザールの饗宴ならびにバッハのカンタータの抜粋がカップリング。○。

◎ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:真理のために勇敢に


ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:神の祝福されし息子

ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:Lord, Thou hast been our refuge

ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:味わい、見よ


ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:3つのシェイクスピアの歌

○ダーリントン指揮オックスフォード・クライスト・チャーチ合唱団(nimbus他)

ヴォーン・ウィリアムズ:歌劇「天路歴程」(1948-49)

◎ボールト指揮ロンドン・フィル ティアー、ノーブルほか(EMI)1970-71・CD

~堂々たる大曲です。素材は既に戦中より存在(5番交響曲に転用)。RVWの歌劇中最も長く、充実したもの。RVWに期待される牧歌的な雰囲気が存分に味わえる。リハーサル付。
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ヴォーン・ウィリアムズ その他管弦楽曲、協奏曲(2011/3までのまとめ)

2012年04月04日 | Weblog
ヴォーン・ウィリアムズ:グリーンスリーヴス幻想曲(1908)
<通常RVW(ヴォーン・ウィリアムズの略称。故三浦淳史氏が自著で用いたところから普及した)の代表作とされるが、そもそも古謡をもとに編曲された単純な曲であり、「恋するサー・ジョン(バルビローリのことではない)」の間奏曲かなにかで使われたもので、RVWの個性が積極的にあらわれたものとは到底言えない。録音は多いがなにしろかなり平易な曲なのでプロの演奏だと違いが表にあらわれにくい。いくつか下に挙げたが、いずれもそれほど差の無い内容である。ちなみに副主題は別の民謡からとられている。>

オーマンディ指揮フィラデルフィアO
バーンスタイン指揮NYP 1960年代
バルビローリ指揮シンフォニア・オブ・ロンドン
ボールト指揮LPO(フィルハーモニック・プロムナード)
ボールト指揮ウィーン国立歌劇場O 1959
メニューイン指揮イギリス室内O 1986/7/21-23
ヤニグロ指揮イ・ソリスチ・デ・ザグレブ
ラスキーヌ(HRP) ランパル(Fl)

○ヘンリー・ウッド指揮クイーンズホール管弦楽団(DECCA,DUTTON)1936/4/22・CD

グリーンスリーヴズといえばRVWの編曲によるこの抜粋曲をさす、しかしウッド卿による演奏はグリーンスリーヴス「ではない」中間部主題を異常に強くスピーディに扱ってコントラストをつけており、SP録音特有の金属質の響きとあいまってやや、情緒的に足りない感じも受ける。もともとトスカニーニやビーチャムのやり方に近いものを持っている指揮者なだけに、RVWのしっとりした抒情とは本質的に相容れないものがあるのかもしれない。中間部が引き立った特異な演奏として○にはしておく。

○アンソニー・コリンズ指揮新交響弦楽合奏団(LONDON)LP

ストレートな演奏だがこの曲で何かしようとするのが無理なわけで、力強く聞ける。○。

○マリナー指揮セントマーチン・イン・ザ・フィールズ(london)CD

過不足ない演奏。こういう曲に過度なカンタービレなどいらない、という向きにはとてもお勧め。

ヴォーン・ウィリアムズ:歌劇「すずめばち」~序曲

○サージェント指揮ハレ管弦楽団(COLUMBIA)1942/7/3

復刻有無不明の旧録。RVWが民謡旋律を使って頬を赤らめてしまうような恥ずかしい軽い音楽を編曲していたことは周知のことと思うが、これもそのうちになる。但し今でもたまに演奏されるように、RVW特有のコードが頻繁に挿入され「南極」のような晩年作品に聴かれる、あるいは親友ホルストの作品に見られるようなちょっと「呪術的な」雰囲気もあり、聞き込むとそれほど単純ではない。演奏はやや脇が甘い。サージェントはどうもスマートなようでいてきっちりとはしていない場合があるように思う。ただ、時代が時代なだけに、といっても40年代だけれども、録音としてはこんなものか。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:歌劇「すずめばち」~鍋の前の行進曲

○ボールト指揮ニュー・フィル(LYRITA)1973/9/19・CD

RVWらしい民謡旋律の横溢する鄙びた雰囲気満点の曲で好みは別れるだろうがRVW好きには「いつものRVW」である。ボールトはお手の物であろう。この小品集には他より洩れた珍曲が多いがこの曲も序曲以外余り紹介されないので、こういう復刻は歓迎だ。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:イギリス民謡組曲

○ボールト指揮LPO(PRT他)CD

浅薄なほうのRVWの手仕事の一つだが、ボールト最盛期の「プロムナードシンフォニーオーケストラオヴロンドン」とのセッションでリズムがよく響きが充実していて音楽の薄さを補う力がある。オケのソロがなかなか。○。

◎マリナー指揮セントマーチン・イン・ザ・フィールズ(london)CD

この曲は両端楽章の行進曲ではRVWの職人的でややチープな民謡編曲能力が発揮されているが、2楽章インテルメッツォでは「タリス」「田園交響曲」あたりでみせた素直で深遠な世界が垣間見えるものになっていて非常に印象的である。壮年のマリナーがやや性急ではあるが非常に繊細な音響バランスと精度をもって提示したRVWの管弦楽曲の記録はどれも素晴らしい。ゆったりとしすぎることも厳しく整えすぎることもなく(室内楽団の演奏はえてして後者になりがちであるが・・・後者のスタイルだと楽曲が要求する以上の精度が発揮されることで出なくてもいい楽曲自体のボロが出たりすることもある)、自国ものならではの染み渡った解釈と言うべきか、聞きやすい。この頃のRVWは特にユニゾンで動くことが多く、往々にしてただ和声的な変化だけで曲を作っていくが、それだけに縦と横のバランスが難しい。ドイツ系の指揮者だと前者に過ぎて重くなってしまうしバルビみたいな指揮者だと後者に過ぎ好悪分かつ演奏になってしまう。センスが問われる書法であり、マリナーは確実にセンスがある。◎。

(ヤコブ管弦楽編)
○バーロウ指揮コロムビア放送交響楽団(Columbia)1939/12/19・SP

ネットで配信されている。録音年代からはあり得ないクリアでしっかりした音となっており十分鑑賞にたえる。曲が曲だけにヴォーン・ウィリアムズというよりは一般的な民謡編曲音楽(原曲はブラスバンド用)として認識すべきところがあり、もちろん書法にあからさまな対位法があらわれ二曲の民謡が独立して絡み合うような場面では(異見があるのを承知でいうが)RVWの管弦楽法の素晴らしさが味わえるが、同時にその内容の浅さも露呈する。こういう曲が好きな向きには薦められる録音だし、同時代でも人気のあった録音というのはわかるが、(私のスタンスとして曲と演奏と録音は不可分として評価する)RVWそのものを楽しめるモノではない。

ヴォーン・ウィリアムズ:8つの民謡舞曲のシリーズ
作曲家指揮国立民謡舞曲管弦楽団(pearl他)1930/1・CD

やや生硬な演奏ぶりで楽団もひなびた音をしている。録音だけのせいではあるまい、むしろ時代からすればいい音であろう。じつに無個性な民謡編曲でありこういう曲もRVWには多いのだが、旋律だけではどうにも弱いのが英国民謡である。何故か民謡というのは旧東側諸国のほうがリズムも特殊でインパクトがある。清清しい響き、職人的な無駄の無いオーケストレーションで今でもブラスアンサンブルなどで演奏されることは多いけれども、RVW好きはそれほどそそられない。無印。

ヴォーン・ウィリアムズ:賛美歌調の前奏曲第1番「EVENTIDE」(原曲:モンク)
◎ハースト指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(CHANDOS)CD

静かな時代、もう還らぬ時代への追憶。RVWの賛美歌や古楽編曲はいずれも殆どRVWの曲となっていることが多い。これもその一つである。とてつもなく長い全音符の、そくっとした導入部からこれがRVWの「あの作風」によるものだとわかる。暖かな幸福感に満ちた曲である。ハーストは非常に遅いテンポで音が途切れることなく注意深く進めており、非常に長いスパンでのデュナーミク変化が実に自然につけられており、それはRVWにとてもマッチしたものである。よく似た作品がいくつかあり、田園交響曲などもその一つに数えられようが、書法が進んだものがあり、ホルストの作品を彷彿とさせるくぐもりも現れる。しかし全般を支配するこの諦念、素直な旋律と単純なコラールによる伴奏の中にたち現れては消える儚い夢の断章は、それが思い出の中にしかなく、遠く高い碧空の中にふと現れた幻影に、晴れやかな絶望をおぼえた者のみの知る心象の限りなく美しい結晶として心刻まれる。演奏の素晴らしさにも深く感銘を受けた。もっと適切な言葉がいくつか浮かんだのだが、これは素直な曲である、美辞麗句でゴテゴテ飾るべき曲ではない。バーバーのアダージオを思い浮かべる曲想だが、ペルトのフラトレスに寧ろ近い。◎。

ヴォーン・ウィリアムズ:戴冠式のためのファンファーレ
○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(WSA/DA:CD-R)1937/4/1live

オケはWPとあるがロイヤル・フィル。協会盤としてLPにもなっていたもの。ジョージ6世の戴冠式のために作曲されたものとしてはウォルトンの行進曲「王冠」が余りに有名だが、このファンファーレ(正式名称はわからないのであとで詳細資料みつかったら書きます)はオラトリオと言ってもいい壮大なスケールの楽曲で、壮麗なオルガンのひびきわたる中、合唱がまるで海の交響曲冒頭のような強靭な歌唱を続け、ビーチャムがまた物凄い推進力でぐいぐい引っ張っていく。この力感はトスカニーニともまた違う質感のもので、ビーチャムならではといっても後年のビーチャムにここまでアグレッシブなものは余り聴かれないが、曲の性格上力づくで押し通すやり方をやらないと、微温的な「薄くて軽いRVWの軽音楽」に落ちてしまいがちだと思うので、そういう芸風をとっているのか、たんに戴冠式が近いからか。後半部でRVWらしい心象的な表現もみられるがおおむね覇を威る音楽なので、滅多に振らないRVWを振るはめになったのだろう、ビーチャムも。クライマックスの盛り上がりは凄い。ただ、録音悪。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:栄えあるジョンのためのファンファーレ(1957)

スラットキン指揮フィルハーモニアO

~バルビローリに献呈されたごく短い珍曲。

ヴォーン・ウィリアムズ:クリスマス幻想曲

○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/GUILD)1943/12/19LIVE:CD

板起こしで録音はひどい。ストコに繊細な表現は求むべくもないが、RVWのドイツ的な重い響きと強い旋律性を的確にとらえ、浮き彫りにしてみせる手腕はここでも健在である。ちょっと古風な趣のある曲だけれどもRVWならではの奇妙な移調がささやかなアクセントになっている。ストコの音楽は余りRVW的な部分にこだわったものにはならないが、聴きやすさは一倍にある。○。2010年夏CD化。

ヴォーン・ウィリアムズ:コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)

◎マリナー指揮セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ(LONDON)CD

ロンドンのブリティッシュ・コレクションの421 329-2はほんとおすすめで、ヴォーンウィリアムズの入門盤としては最適。中でもこの名作は非常に精妙なマリナーの合奏音響操作が生きて原作以上の魅力を引き出されている。中低弦のふくよかさはヴォーンウィリアムズがラヴェルの焼き直しではないことをはっきりと示すがマリナーの盤でしか聞けないとても充実した、でも透明感も失わない絶妙の響きだ。わずか15分弱の至福の牧歌世界、イギリス音楽のそこはかとない世界に興味のあるかたは、ぜひ。一緒に収録されたハーモニカのためのロマンスは同作最高の演奏と疑わない(別項)しオーボエ協奏曲の高速絶技(ソロだけでなく弦楽のパキパキした反応の良さに感激)も聴き所。グリーンスリーヴスも収録。(2005以前)

ヴォーン・ウィリアムズが「タリス」の美しく哀しき時代をへて晦渋を帯び始めた、新古典主義の影響を露骨に受けた頃より現れてきた後期の技巧的作風がここに反映されており、「イギリス民謡組曲」のような素直さはやや失われている。単純な曲を忌んだ一昔前の向きにはこちらのほうが受けるだろうし、一般的には捉えづらいと感じられるところもあるかもしれない。室内楽団にはそれまでの余りに単純であるがゆえに整えづらい楽曲より取り組み易いところはあるだろう。マリナーでなくてもいいのではないか、という感もなくはないが、やや硬質のRVW新古典時代の作品の魅力を曲なりに引き出している。他の曲にも言えるが、ややマリナーが性急なテンポを取りすぎている感もなきにしもあらず。○。(2007)

ヴォーン・ウィリアムズ:富める者とラザロの五つの異版

○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(EMI)CD

モノラル。バルビ壮年期のアグレッシブな表現ぶりが伺える。曲自体は幻想的な淡いRVW世界のためやや生命力が旺盛すぎるきらいがあり、アタックが激しすぎる気もするが激情的な演奏が好きな向きにはアピールするだろう。

○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/7放送live

RVWの人気作品だが引用旋律を強調する余りいささか平易に流れ過ぎるところがあり、ストコフスキのわかりやすさを意識したスタイルだとライトクラシック的でむず痒さを感じる。ただ編成を絞った弦楽オケがやや冷たさを保った強靭な表現をとっているため、生臭いところまではいかない。まさに中庸のイギリスオケのための楽曲のようなものだから、滑らかな感傷以上の表出意欲を余り受け入れられないといったところか。技術的には素晴らしい。

映画音楽「南極のスコット」より

アーヴィング指揮(作曲、録音:1948、オリジナルサウンドトラック)、 (pearl)2000年発売"BRITISH FILM MUSIC volume1"CD収録

~これがオリジナル音源とのこと。今後英国映画音楽シリーズは続くらしい。新しい録音もあったような気がするが、私は初めて聞いた。前奏からペンギン、ブリザード等の曲が続き計7曲となっているが、総じて短い。南極交響曲の壮大なフレスコ画が、こま切れとなっている。本当は逆なのだが、違和感を感じてしまう。交響曲にそのまま導入された異界の歌と、省かれた卑近な民謡旋律が交錯するさまが不思議。後者は2曲め「ポニーの行進曲」(スコット隊は無謀にも南極点をポニー馬をつかって極めようとした)のことを言っているのだが、後半には歌劇「天路歴程」風の牧歌的な風景も入り交じって、蒼い悲愴感に満ちた南極風景の描写とのコントラストが激しい。RVW自身の作風の幅を極端なさまに並列している。いかにも往年の映画音楽といったふうの厚く颯爽とした響きは、RVW音楽の重厚感を却って強調した如くで、RVWの白眉たる茫洋と浮遊する幻想風景と、奇妙なミスマッチをみせる。音楽だけを只とおして聴く限り、かなりイってしまった感じだが、いかんせん音楽だけでは片手落ちで、本来まず映画を見るべきだな、と思った。

ヴォーン・ウィリアムズ:仮面劇音楽「ヨブ」
○ボールト指揮ロンドン・フィル(intaglio)1972/10/12ロイヤル・フェスティバルホールlive

仮面舞踏劇という特殊なものでアグレッシブなRVWが現れた最初期の作品として記念碑的意味をもつが、長大な内容はむしろ天路歴程のようななだらかで美しい音楽に、野暮ったい田舎リズムが攻撃的な趣を持ち込むくらいのもので想定外の部分はそれほどない。職人的に巧い表現はホルストに近い管弦楽の多彩さを示し、それでもシベリウスの露骨な模倣やその他同時代もしくは前の時代のロマン派音楽からの影響を拭えず、決して新しさを聴くべき曲ではないだろう。

ここで素晴らしいのはボールトであり、そのブラームス的とも言うべき力強い表現はヴォーン・ウィリアムズムのともすると削ぎ落とし過ぎてやわになった音構造をしっかり立て直し、中欧的なオーケストレーションの重さとフランス・北欧的な響きの明るさを併せ持つその魅力を最大限に引き出す。こういう演奏だからRVWは生きてくるのである。透明で繊細な表現ばかりしていても印象には残らないし、児戯にすら思えるパセージに苦笑を禁じえない向きもあるだろうし。

もとよりRVWがキリスト教的主題によって作曲していた時期の作品でウィリアム・ブレイクの代表作である「ヨブ記」挿絵に着想を得たもので、しかしながら毒を孕むそういった原作品から完全にアクを抜き、素晴らしく聴きやすく仕立てる(そこが物議をかもす点でもあるが)ところが、好きな向きにはたまらない。長大なヴァイオリンソロがひたすらアルペジオを繰り返す場面はすっかり「あげひばり」であるが、少ないコードを際限なく繰り返しいささか長すぎて、効果はあげひばりのほうが上であろう。

但し、終曲の連綿と続く感傷的な「田園」風景とともに、ボールトにかかると非常に印象的なものに変わる。ヴァイオリンソロはまるで二胡のような非常に特殊な音を出していて、(東洋を意識しているのではなく英国民謡が元々そうなのだそうだが)五音音階に拘っている曲だからこそまるで中国や日本の静かな音楽を聴く思い。終幕のあと、永遠に続くかと思われる沈黙もボールトの作り上げた音楽の大きさを実感させる。演奏的にはとても素晴らしく、ボールトのいくつかある演奏の中でも聴くべきところは多いが、ライヴであることから○にはとどめておく。RVWは録音がよくないと繊細な魅力が聞き取れない作曲家だ。

ヴォーン・ウィリアムズ:ヴァイオリン協奏曲「アカデミックな協奏曲」(1924-25)

<ヴォーン・ウィリアムズのコンチェルトは、チューバやハーモニカなど特殊な楽器をソリストにむかえたものが有名だが、中高弦のための作品においても佳作をいくつか残している。ヴィオラ・ソロのための「組曲」や歌詞の無い合唱を伴う傑作「野の花」は、まさにRVW的な夢幻郷を垣間見せてくれる。RVWはライオネル・ターティスのヴィオラ演奏を好んで聴いたというが、ヴィオラを活躍させる曲がしばしば見られるのはそのせいだろうか。しかしヴァイオリンのための曲となると趣がやや異なり、ラプソディックに技巧(決して難しくはないが)を散りばめたものが特徴的となる。「揚げ雲雀」は言うまでもなくRVWのエポックメイキング的な傑作だが、それより幾分時代の下るこの「ヴァイオリン協奏曲」は、新古典主義の影響を受けた時期を代表する佳作である。ソロ部分だけでなく、弦楽合
奏の美しさも聞き物だ。明快且つ緊密な対位構造を持つ曲で、短いながらも独特の美的感覚に貫かれている。1楽章のみずみずしく古雅な響き、2楽章RVWの真骨頂ともいえる瞑想的雰囲気、終楽章のまさに新古典的な律動の応酬は耳を楽しませるのに十分だ。全般に湿めり気が少なく、さっぱりしていて聴きやすい。最後バックオケが消え、ヴァイオリン・ソロのラプソディックな律動だけが残る静かな終結は特記できる。ディーリアスの「村のロメオとジュリエット」の一景を思い起こすが、しかしずっと新鮮で、透きとおった曲だ。>

○グリンケ(Vn)ボイド・ニール合奏団(DECCA他)1939/6/8

初録音盤。ソナタもグリンケが初録音だったのではないか。英国デッカのSP盤だが、DUTTONがCD復刻していたようにも思う。演奏は比較的面白い。意外に個性的な解釈が施され、作品の新古典性を意識したようなレガートやスタッカートの機械的表現が新鮮。しかし最古の録音なのだからその印象は逆か。技術的には手堅くうまい。少し硬直したテンポである。音はいい。○。

○メニューイン(Vn)ボールト指揮LPO(EMI)CD

このごく古いメニューインの録音しか聴けなかったころは、深く渋い音からRVW独特の虚無を感じ取ったものだった。他のヴィルトウオジティを主張する類の演奏も聴くようになって、この曲が「深み」よりも「瞬発力」を見せ付けるものと感じはじめるに至り、メニューインの音色が甘美すぎるような気もしてきた。とはいえこのビッグネームは、その名に劣ることなく独自の境地を示しており、ボールトの手慣れたバックに充分応えるものとなっている。(2005以前)

この古いモノラル録音でも技術的な問題は既に顔をもたげてきている。弓返しや運指の不明瞭さが気になる人は気になるだろう。しかしここでより重く聞き取れるのはそういう子供でもわかるたぐいの浅い問題点より、何かもっと「本質的なもの」を表現しようとした・・・RVWが本質的に内包する自然主義的・哲学的宗教性を抉り出そうとしているとでも言おうか・・・メニューヒンの崇高な意思である。3楽章のジプシー音楽的な(注:ジプシーは差別用語です)無窮動では細かい音符を悉く機械的に組み上げていくことが必要とされるのに対し、メニューヒンは若干ぎごちなさを感じさせるが、音線だけを追っていては見えてこない有機的に組み込まれている「聞かせどころ(もしくはロマンチシズム)」に着目し、余り技巧を見せびらかす方向だけに行かないよう寧ろ気を配っているようにも聞こえる。カスレに近い表現的な音がシゲティに似ているのもその思いを強くさせる。音楽自体は所謂(厄介な定義や知識が跋扈する最近は余り使われない曖昧な言葉だが)新古典主義の範疇にあり、といっても当然擬古典とは違い現代的な和声リズム感覚に明快な構造を与え理知的に組み上げていく方法、特に対位的手法のみをバッハへ帰れとばかりに使いまくる風情は勿論あるし、元々クリスチャンで古楽や宗教音楽に造詣の深かったゆえにドビュッシーの影響を待たずとも既に教会旋法の流用は多数見られた、ところに尚更非西欧的な瞑想的な響が加わり、このあたり前後の作品は楽団も小編成に留められいっそうブリティッシュ・アルカイズムといった感じが強くなっている。いっぽうで前記の「ロマン」というものは流麗な旋律の中に多くも無くしつこくも無く、でもしっかり盛り込まれており、ここを強調させすぎずかといってさらっと流さないように如何に表現し切るか、普通に流してやっても名技性だけでそれなりに聞けてしまう完成度のある曲だとしても、(じっさい短いが)小曲風情に纏まってしまい「もっと表現の広げ方はあったろうに」と残念な気持ちを残してしまう、メニューヒンが避けようとしたのはそういった理に落ちることだったのだ。はっきり伸び縮みはしないがギリギリそこを追求しようとした感じはある。ボールトはまったく重心の低く落ち着いた、かつ適切なテンポ感のもとにメニューヒンをサポートしている。技巧だけ聞ければいいや、RVWなんてそもそも興味惹かれない、なんて人には向かない演奏だろうが(RVWにしては明快スッキリ系なので寧ろそういう人には向く曲)RVWのウェットな薄明の世界が大好きな向きは惹かれると思う。緩徐楽章の平易な二楽章が印象に残る演奏というのは案外ない。そこがRVWの本質だというのに。これはそこがある。○。 (2007)

カウフマン(Vn)ダーンデン指揮チューリッヒ放送交響楽団(CONCERT HALL SOCIETY)

~カウフマンはミヨーなどフランス周辺の現代曲演奏も多い。フックス盤に比べ幾分緊密さに欠けるが、速い楽章は聴き応えがある。2楽章の表現がやや平板か。とにかく指が回るのと懐かしい音色が聞き物。

カウフマン(Vn)ダーンデン指揮ウィンテルトゥール弦楽合奏団(ORION)

~チューリッヒの演奏と同じかもしれない。録音状態は異なる。

カウフマン(Vn)ゲール指揮コンサート・ホール交響楽団(CONCERT HALL SOCIETY:RARITIES COLLECTION)

グリュムリコーワ(Vn)マーク指揮プラハSO

◎フックス(Vn)ジンブラー弦楽シンフォニエッタ(DECCA)

フックスも亡くなってしまったが、このソリスト、そして室内楽団(ボストン交響楽団のメンバーからなる)が、極限まで曲を磨き上げ作り出したものは恐ろしいまでに完璧な演奏なのである。大草原を一気に馬が駆け抜ける、そういった感触が残った。

ヴォーン・ウィリアムズ:幻想曲「あげひばり」

○ワイズ(Vn)サージェント指揮リバプール・フィル(COLUMBIA他)1947/4/18初録音盤?

元がSPゆえノイズがひどく(現在はWEB配信で手に入る)、楽曲の本質といえる静謐さを損なうことしきりだが、ソリストの安定した表現にもまして弦楽オーケストラの繊細な味わいの音表現が印象に残る。ソリストと構造的に絡んでいくような曲でもないのだが、民謡旋律の平易な表現が目立つ曲ゆえそこでの掛け合いに強く挑んでいく演奏もある中、ここではあくまでバックに沈んで、「ひばり」の舞う情景を浮き立たせている。○。

○グリッフィツ(Vn)プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

やや技巧的に生硬で不安定なところもあるがさすがRPOのコンサートマスターだけあってオケと融合して柔らかな世界を作り上げていく。この曲はけして協奏曲ではなくヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲なのだ。印象的なアルペジオの連続をかなり極端にデフォルメして弾いているところなど面白い。まさに舞い上がり静止し急降下する雲雀の気まぐれな動きである。なかなかいい演奏。○。

ケネディ(Vn)ラトル指揮バーミンガム市立交響楽団(EMI)CD

面白くない。音色がまったく変わらずただ野太いまま、少しの綾も演出せずに楽譜を音にしていくだけ。この「幻想曲」は音色勝負。RVWはそもそも金属質の細い音で正確な音程を明瞭に示しながらも木の楽器の醸す包み込むような柔らかい響きを一貫して保っていく必要がある作曲家で、しょうじき楽譜に見えているよりも遥かに難しい楽曲を書いた人だ。そこをまるで理解しないかのように、まるで若手ヴィルツオーソにありがちな芸風で、「棒弾き」するだけではガッカリしてしまう。しかも強いパセージでは荒さが目立ち細かいミスのようなものが聞こえる。雲雀が舞い上がり急降下する情景は浮かばない。譜面がかなり自由に書かれているソロの場面でも、印象的な分散和音を揺らすことも張り詰める長い音符をじっと保つこともなく、ただ譜面のままに豪快に弾いてみせる。確かに若さゆえの面白みを感じる人もいるだろうが、私はひたすら残念だった。無印。

ガルシア(Vn)メニューイン指揮イギリス室内管弦楽団(ARABESQUE)CD

なだらかな、ほとんどが全音符ではないかという心象風景をうつした弦楽アンサンブルの上、トリルを駆使して上がり下がりを繰り返す雲雀のさまをヴァイオリン小協奏曲の形式にうつした音画である。元になっている詩があることだし内容的に音詩と言ったほうがしっくりくるか。私はRVWにこの曲から入った。ラジオで聴いて何て曲だ、とすぐに譜面を取り寄せ弾いてみた。この譜面がまた小節線が省かれたカデンツァが有機的に織り交ざりリズムもラヴェルのように自由で、しかしそこから浮かび上がってくる世界は紛れも無い素朴な民謡音楽の世界。リズムの切れが感じられない、全曲がスラーで繋がったような何とも不思議な譜面である。聴いた演奏のせいか五音音階が際立ちひときわ日本民謡に近いものを感じさせ、清澄で単純な宗教性すら醸す響きにかかわらず、卑近で世俗的な面も持ち合わせた不可思議さが何とも言えない魅力をはなっていた。なんとなく坂本龍一の音楽を彷彿とさせた。それほど難しい技術を要するものでもなく(バックオケは尚更単純ではあるのだが)、だからこそ解釈しがいがあり、学生時分はずいぶんと弾いたものである。発表の機会はついぞなかったが、ここまで内面的な曲に発表の機会なぞ不要とも感じた。

あくまで意図は雲雀の飛ぶさまを描写する点にあり、極力抑制されるバックオケはいわば緩やかな起伏に彩られたどこまでも続く農地や草原をあらわせればそれでよい(だからコンサートの演目にしにくいのかもしれない)。雲雀は重要である。最初に聴いて以降この曲に対して私はまったく譜面しか相手にしていなかったので、自分の中で消化したうえのテンポとアゴーギグを、雲雀のさまとして投影しようとした。

・・・楽器はもうずいぶん弾いていない。この曲となれば、若さの表徴のようなこの曲となれば尚更、弾けない。しかし頭の中ではずっと鳴り響いていたものがあり、それは私自身の解釈によるものであった。

最近聴いた演奏で私は少し驚いた。

物凄く遅いのである。

雲雀は優雅に滑空してまわる大鳥ではない。鳶とは違う。不意にぴいっと鳴いてひらりと舞い降り、またのぼっていく、見えない羽虫を巧みに捕らえながら、碧空に軌跡をひくのである。

何もなく平和に飛んでいる、しかし急にせわしなく、その瞬発力をどう表現するか。

ある程度のスピードが必要であり、その変化はテンポだけに留まらず音にもあらわれなければならない。牧歌的というRVWのイメージに統一してはいけないのだ。ソリストは俊敏でなければならない。

だが・・・この演奏もそうなのだが、ソリストも含め、遅すぎる。トリルがのんべんだらりと歌われすぎていて、雲雀は落下しそうだ。テンポも表現も生硬で一定にすぎる。純音楽的にやろうとした、と好意的に言うこともできるが、それでは曲が死んでしまう。描写対象のない描写音楽は空疎にしかなりえない。こういうやり方では空疎で印象に残らない音楽にしかならない。これがこの曲が余り演奏されない真の理由にも思えた。

音色にも何もあらわれない。いや音色は金属質でいいのだ、しかしそのぎらっと輝く瞬間を、アクセントのきいた下降音形に投影しないと、それが雲雀が羽を翻して下降するように聞えないのである。

この盤は全般にまずい。生硬でアンサンブルもぎくしゃくしておりスムーズさがない。解釈はまったく一直線で素人臭い。せっかくのいい曲も、凡庸に聞える。メニューヒンたるもの・・・と思ってしまう。この協奏曲はソリストはメニューヒンではないが、技術的に安定しないのは晩年のメニューヒンに似ている。この簡便な曲でそれでいいのか、という怪しい箇所すら見える。うーん。。

無印。

ヴォーン・ウィリアムズ:ヴィオラと小管弦楽、合唱のための「フロス・カムピ(野の花)」(1925?)

◎プリムローズ(Va)ボールト指揮フィルハーモニアO他(EMI)

ソロ・ヴィオラと無歌詞による小混成合唱、そして小管弦楽による組曲というヴォーン・ウィリアムズらしい編成によるこの曲。1925年8月、名手ライオネル・ターティスの独奏によって初演されました。リハーサルの段階で演奏家達がいたく感じいり、作曲家を喜ばせたと伝えられます。タリス~田園の系譜からヨブ~第4交響曲の系譜に至る迄の輝ける小路を飾る美しい野花。惨い世界戦争の傷覚めやらぬ時期の絶望と慰めの曲です。古い録音ですがプリムローズ独奏によるボールト盤で聞いています。ここではほの暗い夢幻のうちにさ迷う美しくも悲しい想いが、密やかに綴られています。新しい明快な音でないからこそ、心の深層に響く。初めてこの演奏を聞いたとき、あのどこまでも続く灰色の野と冷ややかな霧を思い起こしました。其の中から立ち現れる夢ともうつつともつかない人影。それは恋人の姿か、いにしえの廃虚の住人か、やがて幻の祭列が現れ、過ぎ去ったあと、雲間に薄く光が射し、希望の温もりをもたらす。宗教的な雰囲気の濃厚な曲ではありますが、一聴をお勧めします。新しいものでは、作曲家ゆかりのリドル/デル・マーによる録音が、CHANDOSより出ています。

○リドル(Va)デル・マー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(CHANDOS)CD

○フランシス・トゥルシ(Va)フル指揮コンサートホールソサエティ室内管弦楽団(CHS)LP

これ、存外拾い物だったんです。新しい録音より古いほうが、戦争もあったばかりで、真実味があるのかなあ。ヴィオラソロもプリムローズやリドルとは違った陰影がある。イギリスの靄のかかった荒野、浮かんでは消える幻影、最後に陽さす光景・・・歌劇「天路歴程」に通じる美の極致。リドル/デル・マー盤のクリアなステレオ録音より数倍悪い録音なのに、管弦楽、無歌詞合唱の胸に迫ることといったら。リアルなのだ。久々に擁護感なしに○。録音とレア度をマイナスとした。トゥルシはいくつか現役盤がある名手。

ヴォーン・ウィリアムズ:ヴィオラのための組曲

○リドル(Va)デル・マー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(CHANDOS)CD

廉価盤にもかかわらずamazonの中古なんかを見ると異様な高値がついている。リドルは線が細くやや不安定だが技巧的には不十分なところはない。この散文的な小品集を弾ききっている。曲はヴァイオリン協奏曲(「アカデミックな協奏曲」)に似た印象を与える、少々新古典様式の入ったもの。3グループに別けられ全部で8曲からなるが、1,2グループにかんしてはいわゆるRVW後期様式に拠っており、いい意味でも悪い意味でも無害な小品集である。5番交響曲的な世界と言えばいいのか、3番や「野の花」のような深みは無い。3グループ目はRVW晩年様式と言えばいいのか、この人にしては実験的な方法で洗練された民族音楽を聞かせる。一曲めのミュゼットはほぼ鉄琴だけの伴奏にヴィオラが低いメロディをかなで、この時期のRVWだからやや旋律的には弱いのだが、印象的な雰囲気をかもす。ほかフィドルふうの奏法を取り入れたり、これもヴァイオリン協奏曲を思わせるのだけれども、なかなか快活で楽しい。ここでのリドルは安定してはいるが少し真面目すぎるかもしれない。ライヴだと面白い曲だろう。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:二台のピアノのための協奏曲(1926ー31)(46)
<ピアノ協奏曲の改作。>

アーサー・ウィットモア&ジャック・ローウェ(P)ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル(NICKSON)1952/2/17LIVE

この演奏でこの曲に触れた人はどう思うのだろう、あまりいい出来とはいえない曲ではあるが、この演奏だとソロが完全にオケに呑まれてしまい(呑まれてしまいがちな曲ではある)尚更わけがわからないのではないか。わりと後期の作品に見られるような鮮やかな旋律に派手なオーケストレーションとなんとなく憂鬱なひびきが聞かれる曲で、ただただ美しく茫洋とした曲の中に唐突に顕れるギスギスしたフレーズは、「ヨブ」や交響曲第4番同様、はっきり姿を現したヴォーン・ウィリアムズ作品の新たな面~晦渋でささくれだった暴力的な面~が感じられる。この曲の場合はいささかとってつけたような不自然さがあるが。その展開においてはプロコフィエフなどの同時代のピアノ協奏曲に共通するものが感じられる。新たな作風を模索していたRVWの実験であったのか、不穏な空気が漂いだした第二次大戦前の雰囲気をふとうつしとってみたものなのか。30分近い立派な作品ではあるが、過渡期的な作品であり、またRVW自身あまりピアノが得意な作曲家ではなかったせいもあって、鮮やかなピアニズムというものは殆ど聞かれず、緩徐部の「タリス」的な美しさにピアノが加わった程度の印象しか残らない。二台でやっていてもあまりその絡み合いの面白さというものはない。演奏もいささか地味。元々1台のピアノで演奏される趣向だったが難しすぎるということで(その「難しさ」というものも聴いているとよくわからないのだが)二台用に編曲したもの。名女流ピアニスト、ハリエット・コーエンに献呈された。コーエンはいくつかのピアノ小品を録音している。それらもいかにもピアノを知らない人間の作品のように聞こえるが、ひとつの個性として認識できる程度には完成されたものである。ちなみにラヴェルに師事したとき、「ピアノの無い部屋で作曲をするなんて信じられない」と言われたという。RVWはまずは歌唱がその根底にあり、次に弦楽が来る。そう、このピアノコンチェルトも、緩徐部がピアノだとちょっと固すぎる感じがして、これ弦楽器だったらなあ、と思わせるものがあるのだ。

○アーサー・ウィットモア&ジャック・ローウェ(P)ゴルシュマン指揮ロビンフッド・デル・フィラデルフィア管弦楽団(RCA)LP

RVWはピアノが不得手という近代作曲家には珍しいタイプの作曲家で、ピアノのための曲を書いていなくは無いがきわめて単純な旋法的書法に拠り、専門ピアニストがレパートリーとするにはいささか物足りなさを感じさせるような代物だ。壮年期のものには旋律の平易さとハーモニーの美感に特有の魅力があるため、それが何故弦楽器ではないのか疑問に思う部分もあるにせよ、私は好きである。この曲はまだ「才気だけ」で曲の書けた頃のRVWが、「美しいだけ」の音楽から脱却しようとした境目にあたる「ヨブ」と同様の作品で、原曲のピアノは一台だけである(殆ど演奏されない。二台使うには音数が少なすぎるがそういう問題ではない・・・ほらピアノ不得意でしょ)。いずれの曲も後半突如デモーニッシュで構造的になるが、これらのうちはまだ生温く、4番交響曲をもって諧謔性を含むヒンデミット風の新古典主義に移行することになる。

RVWはしかし真面目な作品となるとどうも単純で美しく描いてしまう。反面シニカルさを表現しようとすると、緻密さに欠けるところもあって、通り越して滑稽に聴こえてしまう。もともとそういうコミカルな部分を聴かせようという意図もあるのだろうが、結局演奏家が取り組むとなると大真面目にやってしまうものだから、楽想に脈絡の無い「ちぐはぐな曲」という側面が強調されてしまう。だから演奏機会が少ないのだろう。でもこの曲の大半は美しくあろうが滑稽であろうが非常にRVWらしい表現の魅力に満ちており、ただ身を浸らせたくなるような部分は多くある。ウォルトンの「オブリガード・ピアノと管弦楽のためのシンフォニア・コンチェルタント」もピアノ向きではない作曲家のぎごちないピアノ協奏曲として記憶される曲だが、聴感も割とこの曲と似ており、旋律やハーモニーの素直な魅力という点ではもっと演奏されてもいいものだ。

同デュオは主として20世紀前半から中盤に活躍し若々しい録音を数多く残している。演奏スタイルはデュオとは思えない融合振りで技巧的にも高いものを感じさせるが同時期主流だったアメリカ的なドライさはそれほど際立たず、でもやっぱり即物傾向はある。音色は特に特徴的ではない。ゴルシュマンは編成を小規模化したため弱体化したオケをそれでもしっかり取りまとめ、モノラルであることも手伝って求心力の強いアンサンブルをこうじている。拡散的で長ったらしい曲に対しこのソリストたちとバックオケはばらけることなく一貫した強い演奏スタイルを貫いており、RVW節では英国風の中庸に軽い響きでかなり意図に肉薄したものを作り上げられていると思う。曲の魅力を汲んだなかなかいい演奏であり、良い復刻が望まれる。

マルカム&ブロードウェイ(P)メニューイン指揮ロイヤル・フィル

ヴォーン・ウィリアムズ:チューバ協奏曲
○カテリーン(tub)バルビローリ指揮LSO(EMI)CD

バルビのRVW小品録音はモノラルが多いので惜しい。とくに煌びやかな晩年作にモノラルの篭った音は向かない。この曲は珍しいせいか、チューバ奏者内にとどまらず聴衆にも名前だけは酷く知られている。しかしRVW晩年の凡作に多い晦渋な響きとよくわからない旋法的旋律による机上曲の雰囲気が、払拭しきれない両端楽章は好みを分かつと思う。低音金管楽器チューバを使ったために象が動いているような滑稽さが加わり、けして他の楽器の協奏曲でみられるような細かい技巧的フレーズは盛り込まれていない(盛り込めない)のだけれど、他に聞かれないような不思議なおかしみはいかにも英国的。

ドビュッシーがドイツに生まれていたらこういう進行を使った曲を書いただろうなあ、というRVWならではのクセが・・・しつこいくらいに独特の近代フランス風コードにもとづく半音階的進行が繰り返される・・・ある反面、同時期よく映画音楽を書いていたこともあり、古びないスペクタクルな感じや、わかりやすさが強く出ている。8番交響曲を楽しめる人にはおおいに向く。9番よりはずっと親しみ易い。

二楽章は本来戦後のRVWなら終楽章に持ってきそうな「あの」RVWの牧歌である。静かな感動を呼びさまし、あざといとさえ思わせない、優しい旋律と綺麗な和声が包み込む。晩年作にしてはマンネリズムを感じさせない5番シンフォニーまでの頃の雰囲気がある。

演奏的には柔らかく程よく表現するソリストはともかく、バックのバルビらしさがどうも無い。二楽章ではオケが出る部分も多いのに、特有の大きくうねるようなフレージングはきかれ無い。優しいが、速い・・・録音時期のせいもあるのだろう。○。

ヴォーン・ウィリアムズ:ハーモニカのためのロマンス(1951)

アドラー(H)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI)

~献呈者の記録(2回録音していたらしいが入手可能なのはこのEMI盤)。ガーシュインと演奏したことでも知られるこのジャズ・ハーピスト(2001年に惜しくも物故)、無茶苦茶巧いが音色がなまめかしすぎてこの曲の微妙な色彩を損なっているような気もする。(1995)

◎ライリー(Hm)マリナー指揮セントマーチン・イン・ザ・フィールズ(london)CD

~静寂の中に響き渡る風のように儚いハーモニカの音に深く感銘を受ける。申し分ない演奏。ヴォーン・ウィリアムズの楽器実験の最も成功した例という認識を持たせる。私はかつて嵐の三宅島にあって黒い溶岩の海辺に座し、この曲を聞いた。それは何か特別の感情を与えるものであった。異界というものがもし存在するのであれば、あの黒と灰色の中からふっと浮き上がりまた消えていくのだろう。朧げに浮かぶ御蔵島の島影を眺めながら、繰り返し繰り返し聞いた。(1995)

ロマンスというのはRVWが幻想曲と共にしょっちゅう使っていた楽曲名であるが、協奏曲未満の短く形式的でない曲に用いられたことが多い。これはアドラーというハーピストを念頭に(ちっともアドラーのアグレッシブな特質を引き出す内容ではないために献呈者には好まれなかったようだが)かかれたRVW晩年の技術的研究のひとつの成果であり、とはいえ殆ど聴感に違和感なくすっと入っていけるのは研究が音楽の本質にいささかの変化ももたらさなかったという、長所とも短所ともとれるものの結果だろう。ピアノと弦楽合奏により進行していく不思議な音響的世界をバックに、半音階的で晦渋を秘めた旋律をしかしその音色の美感によって巧くロマンに昇華させていくハーモニカ、というところはさすがRVWといったところだ。マリナーの驚異的な音響バランスはスピーディでいささか性急なテンポの上で繊細に動き、ライリーの抽象的な美観を保った音とマッチして印象的である。この曲のスコアにあらわれたもの以上に本質を抉り取ったかのような「ロマンス」がここにある。◎。(2007)
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ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2012年04月02日 | 北欧・東欧
○シュヒター指揮NHK交響楽団(KING)1959/3/21live・CD

実直な演奏だが、シュヒターの敷いた「恐怖政治」ぶりも感じ取れる緊張感溢れる演奏。窮屈に感じるほど統制をきかせていて、まあ、この時期の同オケのレベルからして技術的問題が解決しきれていないところも多いのだが、それでも聴いて楽しめるレベルにはなっている。1楽章中盤より音に伸びも出てきて音楽的な呼吸も始まる(がそれほど自由さはないまま最後まで進む)。ドイツ的と言うほど音響や解釈に個性は無いが、シュヒター好きならどうぞ。個人的には惹かれなかった。録音状態は余りよくない。
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シマノフスキ:交響曲第1番

2012年04月02日 | 北欧・東欧
○スティリア指揮ポーランド国立フィル(marcopolo)CD

今でもweb配信販売されている全集の一部。意外と有名な2番より「聴ける」内容かもしれない。基本的にはリヒャルト・シュトラウスの影響下にあるのだが、2番よりもロシア的なハッタリをかます部分もあって変化に富んだ印象がある。3番でスクリアビン後期の影響を示すシマノフスキだがここでは中期以前の管弦楽曲を彷彿とさせる。半音階的な進行は妖しさをかもす。おそらく意図的に構造を簡素にしているのは当時のたとえばマーラーのようないわゆる世紀末音楽の流れ上にあって、その中で旋律線にヴァイオリンソロを導入するところは2番でもそうだが「いかにもリヒャルト」でありながら、後年のアレトゥーザの泉や協奏曲などヴァイオリンへの独自のアプローチを予感させる。スティリアの演奏はよくできていて、オケ的に弱い部分もそれほど感じずに楽しむことができる。○。
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ヒンデミット:画家マチス交響曲

2012年04月02日 | ドイツ・オーストリア
○カンテルリ指揮NBC交響楽団(放送)1949/1/15live

NBCデビューコンサートのメインプログラム。トスカニーニなら振らないであろう曲を積極的にやったカンテッリらしい選曲というか、演奏自体は緊密ではあるが派手さもなくそこそこ、といったところなのだけれども、終演後の聴衆反応はけっこうある。カンテッリの他の録音と比してこれがずば抜けてということはないので、正規で出ているもので十分。
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