映画音楽「ヘンリー5世」
~二曲
○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE
録音は荒いが一応ステレオ。映画音楽からのごく短いパヴァーヌふうの弦楽アンサンブル曲二曲でスタンダードなショートピースとしてお馴染みである。バルビならでは、という強いインパクトはないがLAにしてはかなりニュートラルな美感をはっし、このいかにもイギリス的感傷をあおる楽曲~なんの「新しさ」もないが美しい~を爽やかに重くならず、しかし中低音域の充実した響きで描ききっている。
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映画音楽「ハムレット」
~葬送音楽
○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD
映画音楽のしかも典型的な葬送音楽で特に言うことは何もないオーダメイド臭ふんぷんの曲で、あきらかにラヴェルやプロコから剽窃してきたような楽想・和声の巧く組み合わされた感じに僅かにウォルトンらしい妙な装飾音を織り交ぜた強い旋律によって突き通された悲劇的な曲だが(綺麗は綺麗である)、ボールトはそれほどウォルトンを得意としていないせいかどうも透明感がなく、いやこれはこれで完全にハムレットの悲劇的シーンを描ききった名演と言えるが、ウォルトンを聴いている感じがしないのである。とにかくコノ曲では評価のしようがないが、ボールトにそもそもウォルトンの根幹に流れるシニシズムを表現する気もないわけで、まあ、これは小曲を表現できる範囲で表現した、といった感じか。○。
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ヴァイオリン協奏曲(1939)
<ウォルトンは20世紀後半という時代にまで後期ロマン派風の音楽を継承し続けたイギリスの保守的作曲家である。天才作曲家の常として幼時より異常な楽才を示し、10代のうちに既に作曲家としての名を英国じゅうに轟かせていた。シットウェル嬢とのコラボレーション、軽妙辛辣な「ファサード」は出世作。初期においては当時の前衛音楽の影響を受けることもしばしばあった。無調の技法による作品も残されている。だが彼の名を世界に轟かせたのは第二次大戦前夜の不安な心持ち、そしてそれを乗り越えて行く勇気?を劇的に(通俗的に)描き切った交響曲第1番であり、これは全くもってロマン的な作品である。彼の転身はイギリス社会が保守的で前衛的なものを受け容れないためやむを得ず、ということではない。ただ音の珍奇さやリズムの面白さ、数学的で「聴く」ことに配慮しない芸術的音楽の満ち溢れる作曲界に背を向け、演奏家が楽しんで弾け何よりも聴衆が熱狂できる地に足の着いた活動を自らの使命と感じたのだ。このヴァイオリン協奏曲はハイフェッツの依頼で半ばハイフェッツと共に書き上げられた作品である。ウォルトンは37歳、若いとはいえ既にいくつかの代表作を書いたあとであり、実績としては十分大家たる様子だった。書法はこんにち最高傑作とされるヴィオラ協奏曲(1928ー9/61)や交響曲第1番(1932ー35)よりも研ぎ澄まされ、曲構造は無駄が無くごく効果的に組み立てられている。30分前後という大曲ゆえ冗長の感もあり、改訂も加えられているが、独奏者の技巧を無駄無く存分に発揮させる独特の音線は、ウォルトンの全曲中でも瑞逸の名旋律の数々に彩られて聞きごたえ十分だ。プロコフィエフの影響は万人が認めるところであろう。2楽章のプロコ・ヴァイオリン協奏曲第1番 2楽章との近似性、3楽章冒頭からの旋律線のプロコ・ピアノ協奏曲第3番3楽章との類似性は、わざとではないかと思わせるくらいだ。ここにウォルトンが既にしてその才を衰えさせている様を読み取ることも可能だ。しかし生き生きとした躍動感、透明感溢れるハーモニーは健在であり、技巧家の技を披露するだけの曲ではないことは確かである。遠い想い出を熱く語るような終楽章第2主題、最後のピッコロとの掛け合いから雪崩れ込むきっぱりした終止部など気持ちが悪いはずが無い。(1991/9記) >
○ハイフェッツ(Vn)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA Victor)1950/7
ハイフェッツにはアメリカで録音した初演に近い録音(グーセンス指揮シンシナティ交響楽団、 BIDDULPH)もある。また作曲家指揮としてはEMIからメニューヒン盤も出ているが独奏者の衰えが感じられ余り薦められない。ハイフェッツはまさに彼自身のためにある超難曲、数々の技巧的パッセイジを見事に弾き切っている。どこにも瑕疵のないいつもの調子がこの曲においても存分に発揮され却って物足りない程だ。即物的ゆえウォルトンの曲の持つ抒情的で哀切なロマン性を生かした演奏とは言い難い。固く太い音色がいくつもの優美な旋律を殺している。古い演奏の為録音も良いとはいえず、バックのフィルハーモニア管もこの異常な天才についていけていない部分が目立つ。ウォルトン自身の指揮はこの録音のために長期にわたる指揮の実践を行っただけあって、作曲家指揮の録音に良くあるような指揮の不備は余り感じられず、寧ろよくこのオケを引っ張れているものだと感心させられる。いずれにしろウォルトンの個性はハイフェッツの強烈さの影に隠れはっきりとは見えない、が、協奏曲指揮とはこうであるべきなのであろう。初演は1939年の7月、ロジンスキー指揮クリーヴランド交響楽団で、当然ハイフェッツにより行われた。(1991/9記)
ハイフェッツ(Vn)グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(biddulph)1941/2/18(世界初録音)
作曲家自作自演前に録音されたオリジナル版による演奏。グーセンスの棒は重ったるく、ロマンティックですらあるがオケは余り巧く表現できていない。オリジナル版であるからということもある。ハイフェッツはそれに反して異常なほど即物的であり、速さを誇示するかのような終楽章など少し
違和感すら覚える。自作自演版での演奏にもまして感情の無い演奏である。
セノフスキー(Vn)作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964
ソリストがいい意味でも悪い意味でも個性的。粗々しく音になっていない部分が多々聞かれるのは致命的だが、情熱的で、響きに独特のざらざらした肌触りがあって何か惹きつけるものがある。乱暴な重音の多用される曲なので、ふつうのソリストはいくぶん客観的にきっちり響かせる方に専念するものだが(ハイフェッツは別格)、この人は非常に歌い廻しに凝っていて(特徴的なボウイングはたしかに参考になる)、響きは何となくだけ聞こえればいいというような(それで語弊があるなら必要な音だけ響けばあとはどうでもいいというような)、ある意味誤魔化し的な演奏を突き通している。ライヴでこの速さは非常に巧いと評するべきだとは思うが、現代のテクニカルな水準からすると決して上には置けないだろう。個人的には倍音だけ響いてくるような独特の弾き方には惹かれるものはある。ウォルトン自身ソリストが勝手につけるルバートに付き従っているような場面が見られる。こういう演奏もアリだと思っていたのかな、と思った。もちろん終楽章が聞き物だが、2楽章も弾けていないわりに特徴的な歌いかたで聞かせる演奏なので聴いてみてください。終楽章ではバックオケにこの曲の構造的で畳み掛けるような管弦楽効果がすこぶる明快に響いてきて耳を惹く。ウォルトンの作曲の腕の良さもよく伝わる優秀な演奏。でも無印。この前に「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が演奏されている。
フランチェスカッティ(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)
音色を売るヴァイオリニストの系譜に確かにその足跡を残したフランチェスカッティ、大振り高速で滑らかなヴィブラートと、ある程度音程を犠牲にした太さの一定しない艶めく音は、個性的であるがゆえ慣れてくると単調でもあり、聴くうちに飽きてくる。またさすがにこれほど技巧的な曲になると、音程を外したり弓を外したり(特にウォルトン独特の高音域表現)と結構怪しい箇所がある。美しい演奏だが・・・
○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1968/1/25-27live・CD
これはセルと浅からぬ縁のウォルトンの作品である。パルティータなど愛奏していたが恐らく書法上の冒険よりも演奏上の効果を重視したプロフェッショナリズムに、演奏側の人間として共感したのだろう。セルはピアニストでもあるがピアノ的な機械的なスコアもやりやすさとしてあったのかもしれない。ただこの曲はわかりやすすぎて長さがネックになるため、それを凝縮させていこうとしても割と体力のないこのオケでは、特に後半部盛り上がるところにもかかわらず薄い書法に思わず無理矢理整えているようなぎくしゃくぶりが出てしまっている部分も否定できない。まあ自作自演でもいちいちリズムを整えないとまとまらなかった曲だし、寧ろ同曲の録音ではいいほうで、オーマンディによるスタジオ録音よりも、特にソリストの流麗な表現、あと[セルのリズム]が個性を放ち面白いといえば面白い。○。
○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/1/25live
正規盤で出ていたものの無編集盤になるがこれが面白いのだ。やはり協奏曲はライヴ、一期一会の一回!二楽章でメロメロになりながらも気迫で弾き切り、美音がただの音程不安定に陥りあるいはノイズだけになってもなお、この三楽章は名演といっていいだろう。最後クリーヴランドが前につんのめっていく、こんなセルは初めてだ。本人不本意かもしれないがこのスピードがウォルトンには必要なのだ。むろん◎にはならないが、好き。
○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live
独奏者が巧い。なかなかの演奏である。(2005以前)
ライヴならではの瑕疵が独奏者・オケともども相当にあるものの、しかしそれを力技で押し切ったような演奏。技量に沿わない高速で、「良く言えば」若々しさを前面に出し切ったような力感、結果指が回らなかったりとちったり何弾いてるんだかわからない部分が散見されたりと、コンクール的視点からだと「悪い意味で」やばい。だが何かしら、英国やその他「綺麗に弾こうとする」国々の演奏家と違った、「これでいいのだ」の魅力がある。フェドもフェドで褒められたバックアップではないが、独奏者とマッチしてはいる。技巧的にめろめろと言ってもいい演奏だが、ウォルトンのバイコンと言われて真っ先に思い浮かぶのは、この演奏だったりするのだ。○。前は細部まで聴くスタンスじゃなかったのでベタ褒めしてしまっていましたねえ。 (2009/10/8)
イダ・ヘンデル(Vn)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI)
透明感がある。
○チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団
敢えてその理由を書くまでもないだろう。巧い。
チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮フィルハーモニア管弦楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1982/3/29LIVE
「表現が曲の内容を超えた!!!ウォルトンの協奏曲をここまで崇高に仕上げた演奏は他にない!緻密な音楽づくりで知られるアンドレ・プレヴィンとチョン・キョン・ファという
組み合わせの最高傑作。プレヴィンとフィルハーモニア管というのも珍しい。」・・・そうか?重音は荒くてうまく響いていないし、ソリストとオケのバランスも悪い(ソリストが
小さい!)。チョン・キョンファは正規盤があるのでそちらで堪能すべきだ。この演奏はハイフェッツを凌駕しているとはとても思えない。叙情性ではいくぶん長があるかもしれないが。
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ヴィオラ協奏曲
<ウォルトンの名を広めた傑作協奏曲。ヴィオリストでこの曲を演奏しない人はいないと言われるほど。ライオネル・ターティスが演奏拒否して、結局初演は親交深かったヒンデミットにより行われ大成功。ウォルトンの全作品中もっとも深みに達した、でもエンターテインメント性もふんだんに盛り込まれた作品である。3楽章のメランコリックな雰囲気が印象的。技術的にはそれほど難しくないと聞くが、名手プリムローズは2楽章の一部をオクターブ上げて録音したりしている。>
◎プリムローズ(Va)サージェント指揮ロイヤル・フィル(DECCA)LP
ウォルトンを語るに、この曲を避けて通る事はできまい。ごく若い頃のウォルトンの深い思索性(当人がそれに見合う思索を行ったかは別)の残響と完成期の要領良い娯楽性が見事に絡み合い、ヒンデミットをして初演者たらしめたのも肯ける。ターティスも惜しいことをしたものだ。ドイツ的と言って良い重く厚みのあるひびき(後年自身の手で軽い響きに変更されたのだが)のオーケストラが、彼の交響曲よりも重厚壮大な世界を展開する中で、中性的な存在であるヴィオラが縦横に駆けめぐり、時にはオケの一角に沈潜し、時には(ヴァイオリン協奏曲のソロヴァイオリンのように)激しく技巧を見せつける。だが決して派手ではなく、色彩的ではなくそれがかえって「わかりやすいがゆえに中身がカラッポ」との評価を受けがちなウォルトンの作品群中にあって、唯一名曲の評価を受けている要因でもあろう。思索的な二曲の弦楽四重奏曲とこのヴィオラ協奏曲は、ベートーヴェンが好きな堅物にもまあまあの印象を与えることだろう。プリムローズは異常なまでの技巧でヴィオラという楽器の可能性を大きく広げたソリストだが、この曲でもその技巧は冴え渡っている。このサージェントのバックで弾いた演奏にしても、あいかわらず技巧は冴えているし、またサージェントも持ち前の要領良さが極めて美しく反映されている。音もプリムローズの録音にしては良い。オケも「まだ」上手い頃のロイヤル・フィルだ。なかなか。この盤のカップリングはヒンデミットの白鳥を焼く男。なかなか要領を得た選曲である。(1994記)
比較的明晰な録音でプリムローズのヴァイオリン的な響きを堪能できる。近代ヴィオラ協奏曲の嚆矢に挙げられる傑作だがサージェントのリズムよさが特に三楽章中間部で発揮され輝かしく気分を高揚させる。ウォルトンはこの符点音符のリズムをいかにカッコよく切るかで決まってしまう。やや映画音楽ぽい俗っぽさも醸してしまう指揮だがロイヤル・フィルの美しい弦がバランサーとなっている。自作自演盤より音がいいだけに見逃せない録音。◎。 (2006/6/27)
○プリムローズ(Va)サージェント指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(DA:CD-R)1945/3/11live
録音が壊滅的に悪くオケが潰れてウォルトン特有のオーケストレーションが形骸化して聞こえてしまうなど音盤としては難が多い。ソリストの音程すら明確に捉えられず甚だ心もとない。終楽章では音飛びすらある。だが、ライヴでプリムローズのこの曲の演奏を聴けるだけでも幸せと言うべきだろう。スタジオ録音も残している職人的指揮者サージェントとのコンビで、かつ手だれのNBC響が相手である。演奏的には実際かなりスタジオよりも烈しいものとなっている。プリムローズはとにかくよく歌うし、2楽章ではエッジの立った音で突っ走る。まことヴィオラにおけるハイフェッツだと思うのはそれでも殆ど技術的瑕疵が無いことである。音程が多少ブレて聞こえるのは恐らく録音のせいだろうと考えるとこの技術は驚異的である。もちろんライヴならではのオケとの乖離はあるように聞こえるし、サージェントもさばききれない箇所があるようにも思うが(すべて録音が悪いため推定である)補って余りある彫りの深い表現にヴィブラートの美しさ、起伏の大きなダイナミックで迫力のある演奏ぶりには感嘆させられる。ライヴのプリムローズはこんなにも激しかったのである。○。前プロがアイアランドのロンドン序曲、メインがホルストのパーフェクト・フール組曲となっている。
◎プリムローズ(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD,メニューイン(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD
自作自演の2枚。同じオケで同じレーベルへの録音、メニューインはヴァイオリン協奏曲とのカップリングでステレオ録音である。比べてプリムローズ盤のほうが音が悪いが秀演。プリムローズ自身の出来はサージェントのものより上か?メニューインは音に問題あり。ウォルトンの指揮も晩年のせいかやや鈍重。聴き易い音なのに、正直余り良い出来とは言えない。(1994記)
○リドル(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(DUTTON)CD
リドルはオケの首席奏者として長い現役生活を送り、30年代から数々のイギリス作曲家作品を演奏してきた。このごく古い演奏は良い意味でも悪い意味でも、リドルの無個性的表現が出ている。プリムローズがオクターブ上げて弾いた2楽章を原曲通り弾いているのだが、それでもなおかつ技巧的にプリムローズの表現に劣っていると言わざるを得まい。ただ、バックオケの演奏表現は自作自演の3盤中いちばんしっくりきた。作品が生まれた頃の生々しい雰囲気が感じられるせいだろう。重厚さとしなやかさの同居がいい感じ。(1994記)
バシュメット(Va)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ音楽院管弦楽団(YEDANG)1988/5/5
バシュメットが崩壊間近なソヴィエトで録音したものである。プレヴィンとの新録は未聴。管楽器のひびきがいかにもロシアな音をしているが、ときどきペットソロを諧謔的な響きとして使うウォルトンの意図はうまく表現されている。ただ、とちりもいくつか聞こえ、技巧の問題もちょっと感じさせるオケだ。1楽章の暗い幻想はよく表現されている。2楽章はずいぶんと荒いタッチで、しかもかなりゆっくりとしたテンポにちょっとびっくりする。
思いっきり速弾きでヴィルツオーソ性を打ち出すことのできる唯一の楽章なのに、古楽器ふうの不思議な響きを響き渡らせることに専念しているようだ。この楽章はちょっと拍子抜けである。バシュメットにテクがないようにまで聞こえてしまう。プリムローズと比べるのがおかしいのかもしれないが、プリムローズの異常なまでの炎の音楽とは隔絶したものである。
3楽章はどこまで深い音楽を聴かせられるかがポイントだが、バシュメットのロシア離れした洗練された音、黒髪が光るような深く透明な音がもっともその特質を発揮している。旋律を謡い込むためにかなりテンポを落とすことがあるが、特異な解釈である。ロシアオケの音色が時にバシュメットの音楽を邪魔するが、合奏部分の壮大さはなかなかいい。中声部がやや弱いか。テンポが遅いがゆえにとても丁寧に表現されていくから、ウォルトンの洗練されたハーモニーをゆっくり楽しむことができる。反面演奏が近視眼的になりがちで全体としては尻すぼみになってしまっているのはマイナス。ウォルトンの協奏曲でロシアで録音されたものとしてはフェドセーエフの振った(ソリスト失念)ヴァイオリン協奏曲があったが、あちらはかなりウォルトンの音楽を忠実に再現している。
◎バシュメット(Va)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(rca)1994/2/14・CD
バシュメットの、時には撫でるように優しく時にはしっかり雄弁に(けして骨太ではないが)、丁寧に一音一音に情感を込めて一縷の隙もなく連綿と解釈し続ける演奏ぶりに惚れ惚れとする。2楽章などやや遅めだがそのスタイルにより飽きさせない。またプレヴィンのサポートも実に堂に入って美しくスケール感があり、厚みの有る演奏ぶりだ。この曲に時折感じる「薄さ」や退嬰的なところがそのような演奏によってしっかり内容あるものに仕立て上げられており、とくに終楽章の後半の音楽の大きさは、普通の演奏には聞かれない大きな設計に基づくもので特筆できる。しっかりした終わり方に納得。全編納得した演奏には初めて触れた。◎。
○Matthias Maurer(Va)L.ヘーガー指揮ACO(放送)1986/2/6LIVE
ビニル盤音源をレストアしたものがweb配信された。改訂版だが重厚さを失わず、ライブ的な勢いのあるバランスいい演奏。協奏曲というより交響的な迫力を示し、ソリストは上手いがテンポはけして激することなく、中間楽章はやや遅い。この曲のしっかりした記録としては特徴的で面白かった。○。
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チェロ協奏曲
○フルニエ(Vc)作曲家指揮ロイヤル・フィル(Arlecchino)1959/8/12live・CD
堂々たるもので輝かしい音で磐石のフルニエにすべらかにつけていく作曲家の棒、ノーブルで美しいオケの響きもろとも、小粒ではあるが完成度の高い演奏になっている。ライヴならではのスピードが胸のすく思い、丁々発止のやり取りが作曲家指揮モノにしては結構うまくいっており、録音が悪いのが惜しまれるが、○はゆうにいく。こういうものを聴くとヴィルトーゾの演奏が凡百のソリストのそれとはまったく違う次元にいることがわかる。またピアティゴルスキーのような「冷たい」演奏家ではこうはいかなかったろうことも思わせる。
○ピアティゴルスキー(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(hervest classics:CD-R)1957/1/28live
恐らく既出海賊盤の再発だと思う(EMIの映像とは未照合)。ピアティゴルスキーの音はやや力がなく、しかしこのウォルトンにしては深みのある曲には程よくマッチしている。ウォルトンの作曲人生の後半は全て蛇足だったとして、そこを除いた最も最後のあたりの作品と思われる(いーかげんな書き方)この曲、私はけっこう苦手だったのだが、なぜか今日は染みた。ウォルトンはもともとからっと明るくわかりやすい。そういうイメージをちょっと逸脱した大人の音楽ということなのか。不可思議な響きとシニカルな表現の中にも叙情的な旋律が流れ、速い楽章も技巧を見せびらかすものにはならず終始一貫した実を感じさせる。この組合せには有名な正規録音があるので別にこれを聞かなくてもいいとは思うが、微温的というか、朝には丁度いいかんじの聴感でした。○。
○ピアティゴルスキー(Vc)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI,BBC)1957/2/13live・DVD
作曲家にmagnificentと評されたイギリス初演時のライヴ映像である。まあ誰しも巨漢ピアティゴルスキーの左手、とくに2楽章の唖然とする超絶技巧に釘付けになるだろう。音だけ聴いていたら余り魅力をかんじないかもしれない、個性的ではない音の人だが、映像の力はこのオーダーメイド作品(もちろんピアティゴルスキーの委属)が決して皮肉屋ウォルトンのドル獲得の道具であったわけではないことを直感させるに十分である。
耳で聴くならせめてスコアと首っぴきで聞かないとわからない込み入ったところのある(ウォルトン自身は事故で入院中であったためラジオで聴いたようだ)、ウォルトンの長い滑空的晩年の入口際に咲く最後の花のような作品であるだけに、映像で見るとこのチェロに要求するには首を傾げざるを得ない跳躍の多さ音線のわかりにくさ、音響の複雑さとリズムのせわしなさ、そして変則的な重音の多用、確かに映画音楽のように煌びやかな叙情をたたえているはずの、旋律的な「はず」の楽曲をどうまとめるかがじつに難しげで、そこの巧妙な描き出しかた、やはりフルヴェンのオケで長年鍛えられた現代作品に対する確かな耳と腕が「ウォルトンなんてわかりやすい、簡単カンタン」と言わんばかりの余裕をもって楽曲をまとめてみせる。
そう、チェロのハイフェッツと言われてもおかしくはなかった(ハイフェッツのガルネリもそうだが楽器がかなり小さいのもヴァイオリン的なカンタービレをあわせもつ超絶技巧的な演奏を可能とした一つのゆえんだと思われるが)ピアティゴルスキーの腕はやはり音盤オンリーではわかりにくい。録音よりライヴを重視したためか録音媒体には渋さと技巧ばかり目だったものが多い。これは確かにライヴだし、何より弦では最も有用音域が広く難しく筋力もいるチェロだから、ウォルトンのような弦楽器に無為に苛烈な要求をする人の作品においては、音が決まらなかったり指が滑ったりするのは仕方がなく、いやコンチェルトでは敢えて要る音要らない音の強弱を強調するためになめらかに音を飛ばしたりひっかけたりして味にすることもあるのだが、ピアティゴルスキーは超スピードの間断ない流れを重視しているがゆえ、音符を全てしっかり音にできているかといえばそうではない。
でも、この白黒映像でもうかがえる伊達男、いやテクニシャンのサージェントとピアティのコンビにおいてそんな瑣末さは大した問題ではない。新曲をまとまった大きな絵画として描き出すためには細部へのこだわりは寧ろ仇となる。
BBCはそつない。しかしその冷たい音とじつに規律正しい・・・ドイツ楽団の「締め上げられた規律」とは明らかに違う・・・キビキビ正確に決まるアンサンブルはウォルトンの冷え冷えしたランドスケープに非常によくあっている。イギリスの楽団はじつにいいなあ、と思いつつ、その冷静さに若干の物足りなさを感じることもあるが、だがこの2楽章、「ウォルトンの2楽章」のピアティの超絶さには、結部でさっと弓を引く顔色変えないピアティに対し、会場から「舞台上からも」ざわめきが起こり一部拍手まできこえる。背後でささやきあう楽団員の姿を見ても・・・BBC交響楽団ではそうそうないことだ・・・恐ろしい技巧を目の当たりにした人々の「恐怖」すらかんじとれるだろう。ピアティは心をこめて演奏している、でも、まったく体は揺らがないし、表情を歪めたり陶酔したりすることもない。ラフマニノフを思わせる顔つき髪型で、性格的なふてぶてしさを表に出すこともなく、ルビンシュタインやハイフェッツにやはり似ている天才的技巧家特有の肩の力の抜き具合と演奏のすさまじさのギャップがすごい。
ハイフェッツの演奏を見て何人のヴァイオリニスト志願者が弓を置いたろうか。ピアティについてもそれはあてはまることだったろう、そういったことを思う。近現代チェリストにとっての神様カサルス~ピアティにとってもその存在は神であった~、あらゆる意味で20世紀最高のチェリスト故ロストロ先生(嘆きの声は次第に盛り上がっている、カサルスがなくなったときもそういえば楽器違いの演奏家からも悲痛な声があがっていたなあ・・・)のような天上の存在は別格として、しかし、あの大きなかいなをまるで機械のように正確にフィルムのコマよりも速くうごかし、工業機械のように力強く目にも止まらぬ速さで指を連打しつづける姿を見てしまうと、今現在目にすることのできるチェリストの何と弱弱しく、音の小さいことか、と思ってしまう。
このような演奏は、コノ曲においてはとくに絶後だろう。終わったあと、曲が静かで心象的であるだけにそれほど盛り上がらないのだが、それ以上に通り一辺ににこにこと挨拶したあと、左手でネックをつかみ軽々高々とチェロを持ち上げ楽団員の間をぬってさっさと袖にはけていく大柄のうしろ姿に・・・つまり全く疲れていないのだ・・・、亡命時にチェロを頭上に持ち上げ川をわたったというエピソードはマジかもしれない、とおもってしまった。恐るべき国ロシア。短命はその能力と体力のひきかえにもたらされるものか。純粋に音楽としては○。
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ピアノ四重奏曲(1918)
<音盤になっているものの中ではウオルトン最若年の作だが、ラヴェルの有名なピアノ・トリオの影響下に有りながら、バルトークの影響もそこはかとなく感じられ、直後の弦楽四重奏曲(第1番)に繋がる現代的な視点も持つ。何よりその旋律と和音の耳心地良さは秀逸だ。(4楽章制の)3楽章、憂いを秘めたノスタルジックな音楽には心打たれる。だが旋律に溺れず、冷たい構築性も併せ持つ。音の少ない(特にピアノ・パート)譜面は後のウオルトンを考えれば珍しいが、16で着手、改訂版を19で完成、出版20歳過ぎという異様
な早熟の才であればこのくらいのことは「あばたもえくぼ」。コープランドは25で「舞踏交響曲」を仕上げたとき、その年でこんなものを書いたなら、後に人殺しもするのではないかとその早熟の才を称えられたそうだが、ベルクもシェーンベルクも括目した上記弦楽四重奏曲(これが本当に”ゲンダイのベートーヴェン”とでもいうべきカイジュウ且つ斬新な曲)が10代の作であることを思えば、ちょっと比較にならないシニカルなガキだったんじゃないかと思う。コープランドの「ロディオ」が1930年代の作であるのに対し、ウオルトンの「ポーツマス・ポイント序曲」は1927年、25歳の作である。もっとも個性的な語法を確立してからも闊達でたのしい音楽を書き続けたコープランドに対し、高みからヒタスラ滑降するような作曲人生に入った後年のウオルトンの姿は、賛否分かれよう。
ただこれだけは言える。20世紀イギリスの純管弦楽作曲界で、最も才気溢れる俊英であったのだ。・・・それは戦前の短期間であったかもしれないが。ガーシュイン、プロコフィエフのサークルに輝く天才肌であったのだ。>
シリト、ミルンほか(CHANDOS)CD
ロバート・マスターズ四重奏団(WESTMINSTER)LP
シャンドス盤、今でも版を重ねていると思うが、例のウオルトン・シリーズの1枚だ。他ものすごく古い盤を持っているけれども(下)、シャンドスのシリーズはどれも大変高水準にあり、これは其の中でもトップ・クラスのアンサンブルだ。この1枚でとりあえず事は足りる(何の?)。
○マッケイブ(P)イギリス四重奏団(Meridian)CD
イギリス音楽のスペシャリストと言うべき組み合わせだろうか。明瞭な音符の表現(音符自体の少ない曲だけれども)が生硬なテンポにつながってしまうクセもあるが、若書きのロマンティックな部分が目立つ曲で、ウォルトンにありがちな焦燥感に満ちた曲でもないので、割と落ち着いた音楽となって安心して聞ける。若書きといってもシニカルで硬質な響きへの志向ははっきりあらわれており、英国貴族の気取った風ではなく、いかにも現代人の気取ったふうである。その点でも変に揺らしたり音色を工夫したりしていないのでそのまま素直に聞ける。いい演奏とまではいかないが、聞いてそつのない演奏か。○。
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弦楽四重奏曲
○ハリウッド四重奏団(CAPITOL/TESTAMENT)1949/11/2,3,1950/8/22
作曲家お墨付きの録音として知られるものだ。ライナーによると演奏家たちは文通でウォルトンのアドバイスを受け、49、50年に録音を行った。なぜ二年にわたったかというと、49年(作曲から僅か二年後)のテープを作曲家が蹴ったからだ。「ウォルトンのプレスト」、激烈な速度の2楽章の「繰り返し」を彼等が勝手にカットしたからで、さすが胆汁気質のウォルトンは、これにはそれだけの長さが必要だと言い張って、再録音を強いたらしい。但し1年後再録音が届いたときウォルトンはとても満足していたそうである。私などが聴くにつけ、もう少し柔らかいニュアンスや音色への繊細な配慮、そして落ち着いたスピードが、とくに緩徐楽章(これは極めて透明で美しい、名作である)に必要な気がしなくもないのだが、作曲家が満足したのだからそれでいいのだろう。そういえば自作自演の交響曲第1番(弦楽四重奏曲と構成上も楽想上も近似している)もさっさと進む解釈で、かなり即物的だった。この四重奏曲では1楽章がそうだが、ウォルトンの曲は時折繰り言を言うように粘りに粘って長くなるところがある。なるほどスピードを早めれば演奏時間も短縮されるわけで、これはそもそもそういうふうに猛スピードで演奏すべく作られていると言っていいのかもしれない。内省的な1楽章、せわしなく焦燥感に満ちているが旋律性も失われていないウォルトンらしいプレスト2楽章、透明な抒情の中に「ボレロ」などのエコーを散りばめた(リズムが不規則で聴くよりけっこう難しい)諦念すら感じさせる3楽章、そして異常な緊張感のある終楽章。ウォルトンは「飛ばし」の刻みをよく使うが、2、4楽章、とくに4楽章の異常な飛ばし刻みの応酬は若干世俗的で楽天的な旋律(メランコリックでイイ旋律がいくつも投入されてます。コード進行もじつに洒落てるし、かっこいい!)をモザイク状に組み立てていくさまが壮絶だ。もっとももっとマトモな演奏(失礼)で聞けば壮絶とまではいかないのだが、この演奏の異常な速さと信じられない曲芸的なアンサンブルにはただただ唖然とさせられる。自分で弾こうとはとても思わなくなるだろう。激烈なフィナーレ、傾聴!
さて、ウォルトンはこの団体を気に入ったわけだが、とくにヴィオリストには自分のヴィオラ協奏曲を弾いて欲しいと間接的に伝えるほどだったそうである(結局実現しなかったのだが)。1953年9月にレセプションのハイライトとして、作曲家臨席の場でハリウッド四重奏団によるこの曲の実演があった。作曲家はその後日スラトキン家に招かれたとき、「もう二度と他の誰も私のカルテットを録音しないでくれることを願う。君たちは私が何を望んでいるか、いかに的確につかんでいたことか。私たちはそのころまだ6000マイルも離れていたというのに」と語ったそうである。皮肉屋のウォルトンにここまでストレートに賞賛されるとは、なかなかすばらしいではないか。さて、ハリウッド四重奏団は指揮者スラトキンの両親、フェリックス・スラトキン夫婦を核としたアメリカの弦楽四重奏団で、並ならぬ集中力と緊密で凝縮された火の出るようなアンサンブルで知られている。張った弓を思い切り弦に押し付けるような奏法のせいだろう、力強いものの音色が単調で若干押し付けがましく、窮屈に感じなくもないが(復刻録音の音場が狭いせいもある)、即物主義的なストレートな演奏はトスカニーニなどが活躍した時代の空気を伝えるものとして貴重である。とくに現代曲においてはその類希に高度な技術を駆使して演奏不能すら演奏可能としてしまう力がある。残念ながらメンバーの活躍期間は決して長いものではなく(まあカルテットはえてして短命なものだが)、50年代にヴィオリストは演奏活動をやめ、フェリックスはライナーのもとで指揮活動に専念するようになったが(このころのレコードが残っている)、50になる前に亡くなってしまった。ちなみにウォルトンの弦楽四重奏曲というと普通この曲をさすが、ごく若い頃に無調的な弦楽四重奏曲を書いており(CHANDOSに録音あり)、そのため第2番と呼ばれることがある。
○イギリス四重奏団(Meridian)CD
録音は最近ありがちな「丸く磨かれすぎた音」にホール残響的なものが加わっているもので好き嫌いあると思う(私は生音を余り残響なしで聴きたい派)。演奏はやや大人しめである。といっても技術的な限界が見えるとかいったことはなく、3楽章までは他盤と大差ないカタルシスが得られるのだが、4楽章がいけない。余りに落ち着いているのである。ウォルトン本人が好んだハリウッド四重奏団の録音のような、エッジの立った鋭い音で躁状態で突っ走る爽快感がなく、3楽章までと同じような調子で「4楽章」として終わらせている。ハリウッド四重奏団もやり過ぎだと思うが、もうちょっと本気、見せてほしかった。○。
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ヴァイオリン・ソナタ
○メニューイン(Vn)ケントナー(P)(EMI/HMV)
ヴォーン・ウィリアムズなどと一緒にCD化したそうだが入手し損ねて古いLPで聞いてます。このメニューインの浄瑠璃を唸るような(?)生々しく不安定な音はCDでも巧く入っているだろうか。メニューイン夫人とケントナー夫人に献呈された曲、もうコテコテの内輪録音です。ウォルトンの地味なほうの作品だがとてもウォルトンらしいフレーズや響きが散りばめられている。2年前の弦楽四重奏曲にも近いといえば近いが、寧ろ初期のピアノ五重奏曲を思い出した。この作曲家のピアノはけっこう面白い。硬質で冷たい抒情があるというか、ウォルトン固有の繊細で精妙な響きを最も理想的な形で表現できる楽器として特別な位置にあったと言えよう。地味で通好みの楽想は10年前の華美なヴァイオリン協奏曲よりも7年後のチェロ協奏曲に通じるものがある。宇宙空間のような暗い幻想だ。しかしけっして旋律の才が枯れているわけではなく、単純ではないが耳を惹くものがある。ウォルトン・マニアにはとても面白く感じられるだろう。逆に初心者はもっと派手な曲で入った方がいいでしょう。演奏は音程に疑問があるが美しいことは美しい。○。
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オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31)
◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)&cho.ほか
名演だ。安定感のある響きをささえとして、表出意欲の高い合唱が嵐のように勇壮にひびきわたる。この音響、構成感はあきらかに西欧の伝統的表現にもとづいている。オラトリオらしいオラトリオになっており、また管弦楽も負けじと歌いまくっているように聞こえる。ウオルトンらしさ(めくるめくリズムの表現やシニカルな不協和の響きなどの表現)は稀薄で、音の透明感も皆無といってよいが、総じてじつにダイナミックな演奏で、曲を未知のまま聞くうえでは最良の紹介盤たりえよう。通常きかせどころとなる場面が逆に埋没しがちで、最後もあっさり収束するのは意外だったが、「意外」といえば全編ウオルトンらしくないロマンティックな構成感に支えられているのだから、ウオルトン好きには違和感があるかもしれない。だが面白いことだけは確かだ。
◎作曲家指揮BBC交響楽団&合唱団他・Mclntyre(B)(bbc)1965live
「ベルシャザールの饗宴」はウォルトンでも人気曲のひとつだ。独唱バリトンに二重の合唱団、管弦楽に二組の吹奏楽という巨大編成でおおいに歌い上げられる、聖書の一節。ベルシャザール(バビロン王子)が宴を催しているところに神の手があらわれ壁に文字を描くという場面、ルネサンス絵画の画題にもなっている有名な話し(筆者は旧約聖書をあまり知らないので間違っていたらすいません)。但し曲に宗教色は薄い。ウォルトン独特の垢抜けた響きにリズミカルな旋律が跳ね回るところが何といっても特徴的であり、魅力的。ウォルトン二十代の最後に書き上げられた、若々しさに溢れる清新な曲といえよう。さて、この演奏はウォルトン自作自演としてはかなり成功しているものだ。EMIの自演盤よりも音が鮮明で、合唱もよく響いている。ウォルトンの棒は演奏者たちをよく統率し、完全にコントロールできており、ライブとしては演奏上の瑕疵がほとんどないのが凄い。奇跡的な演奏だ。終演を待たずしてフライング気味に入る拍手喝采もこの演奏の成功を伝えている。聞いて損は無い盤。カップリングは交響曲第一番のライヴ。
◎ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル、スコラ・カントゥルム合唱団、トッツィ(B)(NICKSON)1957/5/12LIVE
名演!後半の怒涛のような推進力は圧巻。合唱にオケに独唱にと大編成のオケに対して歌劇指揮者としても名高かったミトプーの、密度が濃く隙の無い音響の取りまとめかたに感服させられる。ウォルトンは不規則なリズムに細かい休符を混ぜ込むため、熱い楽曲にところどころ冷たい隙間風が入ってしまったような感じがすることがある。とくに新しい録音では演奏精度が上がるがゆえに余計にその感を強くする。だがこのくらいの悪いモノラル音で聞くとそのあたりがカバーされ丁度いい。いや、べつに録音マジックだけというわけではなくて、ライヴならではの気合が舞台の隅々にまで満ち満ちており、リズムは飛び跳ねるようにイキがよく休符が気にならない強さを持っている。フィナーレの非常に速いテンポに音楽の攻めの良さはまったく聞いたことのない「ベルシャザール」の演奏、びっくりした。どこにも弛緩がない。面白い!最後は盛大な拍手。音は悪いけどいいです、これ。但し・・・強いて言えば前半が地味かも。
○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD
前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。
○ロジェ・ワーグナー指揮ロイヤル・フィル、合唱団、ジョン・キャメロン(B)(CAPITOL、ANGEL/PACO)1960/9/19-22
スピーディで明るく魅力的なベルシャザールだ。シャープで攻撃的な声楽のコントロールぶりはさすが合唱指揮で名をはせたロジェー・ワーグナーといったところである。オケコントロールもたいしたもので透明感あふれる響きから迫力ある表現を引き出している。ミスもあるがそれくらい熱した演奏になっている。ダイナミックで速い。曲の内容などどうでもよい。他演が単線的な旋律表現を追いがちなのにたいしこれはただ立体的に重層的に迫ってくる。何も考えず楽しもう。SP初出。
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劇音楽「ファサード」
組曲
~ポルカ、タンゴ・パソドブル、タランテラ・セビリアーナ
○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1950/2/26live・CD
ウォルトンの諧謔性は鋭い金属質の肌触りのする響きと機械的な混み入ったアンサンブルに裏付けられているものの、バルトークのオケコンの「中断された間奏曲」のような、あるいはストラヴィンスキー渡米後のオーダーメイド作品のような皮肉を確かに提示しながら、穏やかな空気の中から穏健に提示される。そこが限界でもあり魅力でもある。間違えるとほんとに穏健な音楽になってしまうので注意だ。モントゥの前進性はここでも目立ち、音楽が決して弛緩しないから穏健さは煽られない。組み立ても決して旋律の組み合わせの人工性を露わにせずじつに板についたもののように聞かせている。オケにどうも艶がなく機能性ばかりが目立つのが気になるが、ファサードはもっとソリストに多彩な表現を自由にとらせてもいいのではと思う。速いです。
~二曲
○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE
録音は荒いが一応ステレオ。映画音楽からのごく短いパヴァーヌふうの弦楽アンサンブル曲二曲でスタンダードなショートピースとしてお馴染みである。バルビならでは、という強いインパクトはないがLAにしてはかなりニュートラルな美感をはっし、このいかにもイギリス的感傷をあおる楽曲~なんの「新しさ」もないが美しい~を爽やかに重くならず、しかし中低音域の充実した響きで描ききっている。
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映画音楽「ハムレット」
~葬送音楽
○ボールト指揮ロンドン・フィル(LYRITA)1973/11/13・CD
映画音楽のしかも典型的な葬送音楽で特に言うことは何もないオーダメイド臭ふんぷんの曲で、あきらかにラヴェルやプロコから剽窃してきたような楽想・和声の巧く組み合わされた感じに僅かにウォルトンらしい妙な装飾音を織り交ぜた強い旋律によって突き通された悲劇的な曲だが(綺麗は綺麗である)、ボールトはそれほどウォルトンを得意としていないせいかどうも透明感がなく、いやこれはこれで完全にハムレットの悲劇的シーンを描ききった名演と言えるが、ウォルトンを聴いている感じがしないのである。とにかくコノ曲では評価のしようがないが、ボールトにそもそもウォルトンの根幹に流れるシニシズムを表現する気もないわけで、まあ、これは小曲を表現できる範囲で表現した、といった感じか。○。
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ヴァイオリン協奏曲(1939)
<ウォルトンは20世紀後半という時代にまで後期ロマン派風の音楽を継承し続けたイギリスの保守的作曲家である。天才作曲家の常として幼時より異常な楽才を示し、10代のうちに既に作曲家としての名を英国じゅうに轟かせていた。シットウェル嬢とのコラボレーション、軽妙辛辣な「ファサード」は出世作。初期においては当時の前衛音楽の影響を受けることもしばしばあった。無調の技法による作品も残されている。だが彼の名を世界に轟かせたのは第二次大戦前夜の不安な心持ち、そしてそれを乗り越えて行く勇気?を劇的に(通俗的に)描き切った交響曲第1番であり、これは全くもってロマン的な作品である。彼の転身はイギリス社会が保守的で前衛的なものを受け容れないためやむを得ず、ということではない。ただ音の珍奇さやリズムの面白さ、数学的で「聴く」ことに配慮しない芸術的音楽の満ち溢れる作曲界に背を向け、演奏家が楽しんで弾け何よりも聴衆が熱狂できる地に足の着いた活動を自らの使命と感じたのだ。このヴァイオリン協奏曲はハイフェッツの依頼で半ばハイフェッツと共に書き上げられた作品である。ウォルトンは37歳、若いとはいえ既にいくつかの代表作を書いたあとであり、実績としては十分大家たる様子だった。書法はこんにち最高傑作とされるヴィオラ協奏曲(1928ー9/61)や交響曲第1番(1932ー35)よりも研ぎ澄まされ、曲構造は無駄が無くごく効果的に組み立てられている。30分前後という大曲ゆえ冗長の感もあり、改訂も加えられているが、独奏者の技巧を無駄無く存分に発揮させる独特の音線は、ウォルトンの全曲中でも瑞逸の名旋律の数々に彩られて聞きごたえ十分だ。プロコフィエフの影響は万人が認めるところであろう。2楽章のプロコ・ヴァイオリン協奏曲第1番 2楽章との近似性、3楽章冒頭からの旋律線のプロコ・ピアノ協奏曲第3番3楽章との類似性は、わざとではないかと思わせるくらいだ。ここにウォルトンが既にしてその才を衰えさせている様を読み取ることも可能だ。しかし生き生きとした躍動感、透明感溢れるハーモニーは健在であり、技巧家の技を披露するだけの曲ではないことは確かである。遠い想い出を熱く語るような終楽章第2主題、最後のピッコロとの掛け合いから雪崩れ込むきっぱりした終止部など気持ちが悪いはずが無い。(1991/9記) >
○ハイフェッツ(Vn)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(RCA Victor)1950/7
ハイフェッツにはアメリカで録音した初演に近い録音(グーセンス指揮シンシナティ交響楽団、 BIDDULPH)もある。また作曲家指揮としてはEMIからメニューヒン盤も出ているが独奏者の衰えが感じられ余り薦められない。ハイフェッツはまさに彼自身のためにある超難曲、数々の技巧的パッセイジを見事に弾き切っている。どこにも瑕疵のないいつもの調子がこの曲においても存分に発揮され却って物足りない程だ。即物的ゆえウォルトンの曲の持つ抒情的で哀切なロマン性を生かした演奏とは言い難い。固く太い音色がいくつもの優美な旋律を殺している。古い演奏の為録音も良いとはいえず、バックのフィルハーモニア管もこの異常な天才についていけていない部分が目立つ。ウォルトン自身の指揮はこの録音のために長期にわたる指揮の実践を行っただけあって、作曲家指揮の録音に良くあるような指揮の不備は余り感じられず、寧ろよくこのオケを引っ張れているものだと感心させられる。いずれにしろウォルトンの個性はハイフェッツの強烈さの影に隠れはっきりとは見えない、が、協奏曲指揮とはこうであるべきなのであろう。初演は1939年の7月、ロジンスキー指揮クリーヴランド交響楽団で、当然ハイフェッツにより行われた。(1991/9記)
ハイフェッツ(Vn)グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(biddulph)1941/2/18(世界初録音)
作曲家自作自演前に録音されたオリジナル版による演奏。グーセンスの棒は重ったるく、ロマンティックですらあるがオケは余り巧く表現できていない。オリジナル版であるからということもある。ハイフェッツはそれに反して異常なほど即物的であり、速さを誇示するかのような終楽章など少し
違和感すら覚える。自作自演版での演奏にもまして感情の無い演奏である。
セノフスキー(Vn)作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964
ソリストがいい意味でも悪い意味でも個性的。粗々しく音になっていない部分が多々聞かれるのは致命的だが、情熱的で、響きに独特のざらざらした肌触りがあって何か惹きつけるものがある。乱暴な重音の多用される曲なので、ふつうのソリストはいくぶん客観的にきっちり響かせる方に専念するものだが(ハイフェッツは別格)、この人は非常に歌い廻しに凝っていて(特徴的なボウイングはたしかに参考になる)、響きは何となくだけ聞こえればいいというような(それで語弊があるなら必要な音だけ響けばあとはどうでもいいというような)、ある意味誤魔化し的な演奏を突き通している。ライヴでこの速さは非常に巧いと評するべきだとは思うが、現代のテクニカルな水準からすると決して上には置けないだろう。個人的には倍音だけ響いてくるような独特の弾き方には惹かれるものはある。ウォルトン自身ソリストが勝手につけるルバートに付き従っているような場面が見られる。こういう演奏もアリだと思っていたのかな、と思った。もちろん終楽章が聞き物だが、2楽章も弾けていないわりに特徴的な歌いかたで聞かせる演奏なので聴いてみてください。終楽章ではバックオケにこの曲の構造的で畳み掛けるような管弦楽効果がすこぶる明快に響いてきて耳を惹く。ウォルトンの作曲の腕の良さもよく伝わる優秀な演奏。でも無印。この前に「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が演奏されている。
フランチェスカッティ(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)
音色を売るヴァイオリニストの系譜に確かにその足跡を残したフランチェスカッティ、大振り高速で滑らかなヴィブラートと、ある程度音程を犠牲にした太さの一定しない艶めく音は、個性的であるがゆえ慣れてくると単調でもあり、聴くうちに飽きてくる。またさすがにこれほど技巧的な曲になると、音程を外したり弓を外したり(特にウォルトン独特の高音域表現)と結構怪しい箇所がある。美しい演奏だが・・・
○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1968/1/25-27live・CD
これはセルと浅からぬ縁のウォルトンの作品である。パルティータなど愛奏していたが恐らく書法上の冒険よりも演奏上の効果を重視したプロフェッショナリズムに、演奏側の人間として共感したのだろう。セルはピアニストでもあるがピアノ的な機械的なスコアもやりやすさとしてあったのかもしれない。ただこの曲はわかりやすすぎて長さがネックになるため、それを凝縮させていこうとしても割と体力のないこのオケでは、特に後半部盛り上がるところにもかかわらず薄い書法に思わず無理矢理整えているようなぎくしゃくぶりが出てしまっている部分も否定できない。まあ自作自演でもいちいちリズムを整えないとまとまらなかった曲だし、寧ろ同曲の録音ではいいほうで、オーマンディによるスタジオ録音よりも、特にソリストの流麗な表現、あと[セルのリズム]が個性を放ち面白いといえば面白い。○。
○フランチェスカッティ(Vn)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/1/25live
正規盤で出ていたものの無編集盤になるがこれが面白いのだ。やはり協奏曲はライヴ、一期一会の一回!二楽章でメロメロになりながらも気迫で弾き切り、美音がただの音程不安定に陥りあるいはノイズだけになってもなお、この三楽章は名演といっていいだろう。最後クリーヴランドが前につんのめっていく、こんなセルは初めてだ。本人不本意かもしれないがこのスピードがウォルトンには必要なのだ。むろん◎にはならないが、好き。
○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live
独奏者が巧い。なかなかの演奏である。(2005以前)
ライヴならではの瑕疵が独奏者・オケともども相当にあるものの、しかしそれを力技で押し切ったような演奏。技量に沿わない高速で、「良く言えば」若々しさを前面に出し切ったような力感、結果指が回らなかったりとちったり何弾いてるんだかわからない部分が散見されたりと、コンクール的視点からだと「悪い意味で」やばい。だが何かしら、英国やその他「綺麗に弾こうとする」国々の演奏家と違った、「これでいいのだ」の魅力がある。フェドもフェドで褒められたバックアップではないが、独奏者とマッチしてはいる。技巧的にめろめろと言ってもいい演奏だが、ウォルトンのバイコンと言われて真っ先に思い浮かぶのは、この演奏だったりするのだ。○。前は細部まで聴くスタンスじゃなかったのでベタ褒めしてしまっていましたねえ。 (2009/10/8)
イダ・ヘンデル(Vn)ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団(EMI)
透明感がある。
○チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団
敢えてその理由を書くまでもないだろう。巧い。
チョン・キョンファ(Vn)プレヴィン指揮フィルハーモニア管弦楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1982/3/29LIVE
「表現が曲の内容を超えた!!!ウォルトンの協奏曲をここまで崇高に仕上げた演奏は他にない!緻密な音楽づくりで知られるアンドレ・プレヴィンとチョン・キョン・ファという
組み合わせの最高傑作。プレヴィンとフィルハーモニア管というのも珍しい。」・・・そうか?重音は荒くてうまく響いていないし、ソリストとオケのバランスも悪い(ソリストが
小さい!)。チョン・キョンファは正規盤があるのでそちらで堪能すべきだ。この演奏はハイフェッツを凌駕しているとはとても思えない。叙情性ではいくぶん長があるかもしれないが。
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ヴィオラ協奏曲
<ウォルトンの名を広めた傑作協奏曲。ヴィオリストでこの曲を演奏しない人はいないと言われるほど。ライオネル・ターティスが演奏拒否して、結局初演は親交深かったヒンデミットにより行われ大成功。ウォルトンの全作品中もっとも深みに達した、でもエンターテインメント性もふんだんに盛り込まれた作品である。3楽章のメランコリックな雰囲気が印象的。技術的にはそれほど難しくないと聞くが、名手プリムローズは2楽章の一部をオクターブ上げて録音したりしている。>
◎プリムローズ(Va)サージェント指揮ロイヤル・フィル(DECCA)LP
ウォルトンを語るに、この曲を避けて通る事はできまい。ごく若い頃のウォルトンの深い思索性(当人がそれに見合う思索を行ったかは別)の残響と完成期の要領良い娯楽性が見事に絡み合い、ヒンデミットをして初演者たらしめたのも肯ける。ターティスも惜しいことをしたものだ。ドイツ的と言って良い重く厚みのあるひびき(後年自身の手で軽い響きに変更されたのだが)のオーケストラが、彼の交響曲よりも重厚壮大な世界を展開する中で、中性的な存在であるヴィオラが縦横に駆けめぐり、時にはオケの一角に沈潜し、時には(ヴァイオリン協奏曲のソロヴァイオリンのように)激しく技巧を見せつける。だが決して派手ではなく、色彩的ではなくそれがかえって「わかりやすいがゆえに中身がカラッポ」との評価を受けがちなウォルトンの作品群中にあって、唯一名曲の評価を受けている要因でもあろう。思索的な二曲の弦楽四重奏曲とこのヴィオラ協奏曲は、ベートーヴェンが好きな堅物にもまあまあの印象を与えることだろう。プリムローズは異常なまでの技巧でヴィオラという楽器の可能性を大きく広げたソリストだが、この曲でもその技巧は冴え渡っている。このサージェントのバックで弾いた演奏にしても、あいかわらず技巧は冴えているし、またサージェントも持ち前の要領良さが極めて美しく反映されている。音もプリムローズの録音にしては良い。オケも「まだ」上手い頃のロイヤル・フィルだ。なかなか。この盤のカップリングはヒンデミットの白鳥を焼く男。なかなか要領を得た選曲である。(1994記)
比較的明晰な録音でプリムローズのヴァイオリン的な響きを堪能できる。近代ヴィオラ協奏曲の嚆矢に挙げられる傑作だがサージェントのリズムよさが特に三楽章中間部で発揮され輝かしく気分を高揚させる。ウォルトンはこの符点音符のリズムをいかにカッコよく切るかで決まってしまう。やや映画音楽ぽい俗っぽさも醸してしまう指揮だがロイヤル・フィルの美しい弦がバランサーとなっている。自作自演盤より音がいいだけに見逃せない録音。◎。 (2006/6/27)
○プリムローズ(Va)サージェント指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(DA:CD-R)1945/3/11live
録音が壊滅的に悪くオケが潰れてウォルトン特有のオーケストレーションが形骸化して聞こえてしまうなど音盤としては難が多い。ソリストの音程すら明確に捉えられず甚だ心もとない。終楽章では音飛びすらある。だが、ライヴでプリムローズのこの曲の演奏を聴けるだけでも幸せと言うべきだろう。スタジオ録音も残している職人的指揮者サージェントとのコンビで、かつ手だれのNBC響が相手である。演奏的には実際かなりスタジオよりも烈しいものとなっている。プリムローズはとにかくよく歌うし、2楽章ではエッジの立った音で突っ走る。まことヴィオラにおけるハイフェッツだと思うのはそれでも殆ど技術的瑕疵が無いことである。音程が多少ブレて聞こえるのは恐らく録音のせいだろうと考えるとこの技術は驚異的である。もちろんライヴならではのオケとの乖離はあるように聞こえるし、サージェントもさばききれない箇所があるようにも思うが(すべて録音が悪いため推定である)補って余りある彫りの深い表現にヴィブラートの美しさ、起伏の大きなダイナミックで迫力のある演奏ぶりには感嘆させられる。ライヴのプリムローズはこんなにも激しかったのである。○。前プロがアイアランドのロンドン序曲、メインがホルストのパーフェクト・フール組曲となっている。
◎プリムローズ(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD,メニューイン(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD
自作自演の2枚。同じオケで同じレーベルへの録音、メニューインはヴァイオリン協奏曲とのカップリングでステレオ録音である。比べてプリムローズ盤のほうが音が悪いが秀演。プリムローズ自身の出来はサージェントのものより上か?メニューインは音に問題あり。ウォルトンの指揮も晩年のせいかやや鈍重。聴き易い音なのに、正直余り良い出来とは言えない。(1994記)
○リドル(Va)作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(DUTTON)CD
リドルはオケの首席奏者として長い現役生活を送り、30年代から数々のイギリス作曲家作品を演奏してきた。このごく古い演奏は良い意味でも悪い意味でも、リドルの無個性的表現が出ている。プリムローズがオクターブ上げて弾いた2楽章を原曲通り弾いているのだが、それでもなおかつ技巧的にプリムローズの表現に劣っていると言わざるを得まい。ただ、バックオケの演奏表現は自作自演の3盤中いちばんしっくりきた。作品が生まれた頃の生々しい雰囲気が感じられるせいだろう。重厚さとしなやかさの同居がいい感じ。(1994記)
バシュメット(Va)ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ音楽院管弦楽団(YEDANG)1988/5/5
バシュメットが崩壊間近なソヴィエトで録音したものである。プレヴィンとの新録は未聴。管楽器のひびきがいかにもロシアな音をしているが、ときどきペットソロを諧謔的な響きとして使うウォルトンの意図はうまく表現されている。ただ、とちりもいくつか聞こえ、技巧の問題もちょっと感じさせるオケだ。1楽章の暗い幻想はよく表現されている。2楽章はずいぶんと荒いタッチで、しかもかなりゆっくりとしたテンポにちょっとびっくりする。
思いっきり速弾きでヴィルツオーソ性を打ち出すことのできる唯一の楽章なのに、古楽器ふうの不思議な響きを響き渡らせることに専念しているようだ。この楽章はちょっと拍子抜けである。バシュメットにテクがないようにまで聞こえてしまう。プリムローズと比べるのがおかしいのかもしれないが、プリムローズの異常なまでの炎の音楽とは隔絶したものである。
3楽章はどこまで深い音楽を聴かせられるかがポイントだが、バシュメットのロシア離れした洗練された音、黒髪が光るような深く透明な音がもっともその特質を発揮している。旋律を謡い込むためにかなりテンポを落とすことがあるが、特異な解釈である。ロシアオケの音色が時にバシュメットの音楽を邪魔するが、合奏部分の壮大さはなかなかいい。中声部がやや弱いか。テンポが遅いがゆえにとても丁寧に表現されていくから、ウォルトンの洗練されたハーモニーをゆっくり楽しむことができる。反面演奏が近視眼的になりがちで全体としては尻すぼみになってしまっているのはマイナス。ウォルトンの協奏曲でロシアで録音されたものとしてはフェドセーエフの振った(ソリスト失念)ヴァイオリン協奏曲があったが、あちらはかなりウォルトンの音楽を忠実に再現している。
◎バシュメット(Va)プレヴィン指揮ロンドン交響楽団(rca)1994/2/14・CD
バシュメットの、時には撫でるように優しく時にはしっかり雄弁に(けして骨太ではないが)、丁寧に一音一音に情感を込めて一縷の隙もなく連綿と解釈し続ける演奏ぶりに惚れ惚れとする。2楽章などやや遅めだがそのスタイルにより飽きさせない。またプレヴィンのサポートも実に堂に入って美しくスケール感があり、厚みの有る演奏ぶりだ。この曲に時折感じる「薄さ」や退嬰的なところがそのような演奏によってしっかり内容あるものに仕立て上げられており、とくに終楽章の後半の音楽の大きさは、普通の演奏には聞かれない大きな設計に基づくもので特筆できる。しっかりした終わり方に納得。全編納得した演奏には初めて触れた。◎。
○Matthias Maurer(Va)L.ヘーガー指揮ACO(放送)1986/2/6LIVE
ビニル盤音源をレストアしたものがweb配信された。改訂版だが重厚さを失わず、ライブ的な勢いのあるバランスいい演奏。協奏曲というより交響的な迫力を示し、ソリストは上手いがテンポはけして激することなく、中間楽章はやや遅い。この曲のしっかりした記録としては特徴的で面白かった。○。
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チェロ協奏曲
○フルニエ(Vc)作曲家指揮ロイヤル・フィル(Arlecchino)1959/8/12live・CD
堂々たるもので輝かしい音で磐石のフルニエにすべらかにつけていく作曲家の棒、ノーブルで美しいオケの響きもろとも、小粒ではあるが完成度の高い演奏になっている。ライヴならではのスピードが胸のすく思い、丁々発止のやり取りが作曲家指揮モノにしては結構うまくいっており、録音が悪いのが惜しまれるが、○はゆうにいく。こういうものを聴くとヴィルトーゾの演奏が凡百のソリストのそれとはまったく違う次元にいることがわかる。またピアティゴルスキーのような「冷たい」演奏家ではこうはいかなかったろうことも思わせる。
○ピアティゴルスキー(Vc)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(hervest classics:CD-R)1957/1/28live
恐らく既出海賊盤の再発だと思う(EMIの映像とは未照合)。ピアティゴルスキーの音はやや力がなく、しかしこのウォルトンにしては深みのある曲には程よくマッチしている。ウォルトンの作曲人生の後半は全て蛇足だったとして、そこを除いた最も最後のあたりの作品と思われる(いーかげんな書き方)この曲、私はけっこう苦手だったのだが、なぜか今日は染みた。ウォルトンはもともとからっと明るくわかりやすい。そういうイメージをちょっと逸脱した大人の音楽ということなのか。不可思議な響きとシニカルな表現の中にも叙情的な旋律が流れ、速い楽章も技巧を見せびらかすものにはならず終始一貫した実を感じさせる。この組合せには有名な正規録音があるので別にこれを聞かなくてもいいとは思うが、微温的というか、朝には丁度いいかんじの聴感でした。○。
○ピアティゴルスキー(Vc)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI,BBC)1957/2/13live・DVD
作曲家にmagnificentと評されたイギリス初演時のライヴ映像である。まあ誰しも巨漢ピアティゴルスキーの左手、とくに2楽章の唖然とする超絶技巧に釘付けになるだろう。音だけ聴いていたら余り魅力をかんじないかもしれない、個性的ではない音の人だが、映像の力はこのオーダーメイド作品(もちろんピアティゴルスキーの委属)が決して皮肉屋ウォルトンのドル獲得の道具であったわけではないことを直感させるに十分である。
耳で聴くならせめてスコアと首っぴきで聞かないとわからない込み入ったところのある(ウォルトン自身は事故で入院中であったためラジオで聴いたようだ)、ウォルトンの長い滑空的晩年の入口際に咲く最後の花のような作品であるだけに、映像で見るとこのチェロに要求するには首を傾げざるを得ない跳躍の多さ音線のわかりにくさ、音響の複雑さとリズムのせわしなさ、そして変則的な重音の多用、確かに映画音楽のように煌びやかな叙情をたたえているはずの、旋律的な「はず」の楽曲をどうまとめるかがじつに難しげで、そこの巧妙な描き出しかた、やはりフルヴェンのオケで長年鍛えられた現代作品に対する確かな耳と腕が「ウォルトンなんてわかりやすい、簡単カンタン」と言わんばかりの余裕をもって楽曲をまとめてみせる。
そう、チェロのハイフェッツと言われてもおかしくはなかった(ハイフェッツのガルネリもそうだが楽器がかなり小さいのもヴァイオリン的なカンタービレをあわせもつ超絶技巧的な演奏を可能とした一つのゆえんだと思われるが)ピアティゴルスキーの腕はやはり音盤オンリーではわかりにくい。録音よりライヴを重視したためか録音媒体には渋さと技巧ばかり目だったものが多い。これは確かにライヴだし、何より弦では最も有用音域が広く難しく筋力もいるチェロだから、ウォルトンのような弦楽器に無為に苛烈な要求をする人の作品においては、音が決まらなかったり指が滑ったりするのは仕方がなく、いやコンチェルトでは敢えて要る音要らない音の強弱を強調するためになめらかに音を飛ばしたりひっかけたりして味にすることもあるのだが、ピアティゴルスキーは超スピードの間断ない流れを重視しているがゆえ、音符を全てしっかり音にできているかといえばそうではない。
でも、この白黒映像でもうかがえる伊達男、いやテクニシャンのサージェントとピアティのコンビにおいてそんな瑣末さは大した問題ではない。新曲をまとまった大きな絵画として描き出すためには細部へのこだわりは寧ろ仇となる。
BBCはそつない。しかしその冷たい音とじつに規律正しい・・・ドイツ楽団の「締め上げられた規律」とは明らかに違う・・・キビキビ正確に決まるアンサンブルはウォルトンの冷え冷えしたランドスケープに非常によくあっている。イギリスの楽団はじつにいいなあ、と思いつつ、その冷静さに若干の物足りなさを感じることもあるが、だがこの2楽章、「ウォルトンの2楽章」のピアティの超絶さには、結部でさっと弓を引く顔色変えないピアティに対し、会場から「舞台上からも」ざわめきが起こり一部拍手まできこえる。背後でささやきあう楽団員の姿を見ても・・・BBC交響楽団ではそうそうないことだ・・・恐ろしい技巧を目の当たりにした人々の「恐怖」すらかんじとれるだろう。ピアティは心をこめて演奏している、でも、まったく体は揺らがないし、表情を歪めたり陶酔したりすることもない。ラフマニノフを思わせる顔つき髪型で、性格的なふてぶてしさを表に出すこともなく、ルビンシュタインやハイフェッツにやはり似ている天才的技巧家特有の肩の力の抜き具合と演奏のすさまじさのギャップがすごい。
ハイフェッツの演奏を見て何人のヴァイオリニスト志願者が弓を置いたろうか。ピアティについてもそれはあてはまることだったろう、そういったことを思う。近現代チェリストにとっての神様カサルス~ピアティにとってもその存在は神であった~、あらゆる意味で20世紀最高のチェリスト故ロストロ先生(嘆きの声は次第に盛り上がっている、カサルスがなくなったときもそういえば楽器違いの演奏家からも悲痛な声があがっていたなあ・・・)のような天上の存在は別格として、しかし、あの大きなかいなをまるで機械のように正確にフィルムのコマよりも速くうごかし、工業機械のように力強く目にも止まらぬ速さで指を連打しつづける姿を見てしまうと、今現在目にすることのできるチェリストの何と弱弱しく、音の小さいことか、と思ってしまう。
このような演奏は、コノ曲においてはとくに絶後だろう。終わったあと、曲が静かで心象的であるだけにそれほど盛り上がらないのだが、それ以上に通り一辺ににこにこと挨拶したあと、左手でネックをつかみ軽々高々とチェロを持ち上げ楽団員の間をぬってさっさと袖にはけていく大柄のうしろ姿に・・・つまり全く疲れていないのだ・・・、亡命時にチェロを頭上に持ち上げ川をわたったというエピソードはマジかもしれない、とおもってしまった。恐るべき国ロシア。短命はその能力と体力のひきかえにもたらされるものか。純粋に音楽としては○。
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ピアノ四重奏曲(1918)
<音盤になっているものの中ではウオルトン最若年の作だが、ラヴェルの有名なピアノ・トリオの影響下に有りながら、バルトークの影響もそこはかとなく感じられ、直後の弦楽四重奏曲(第1番)に繋がる現代的な視点も持つ。何よりその旋律と和音の耳心地良さは秀逸だ。(4楽章制の)3楽章、憂いを秘めたノスタルジックな音楽には心打たれる。だが旋律に溺れず、冷たい構築性も併せ持つ。音の少ない(特にピアノ・パート)譜面は後のウオルトンを考えれば珍しいが、16で着手、改訂版を19で完成、出版20歳過ぎという異様
な早熟の才であればこのくらいのことは「あばたもえくぼ」。コープランドは25で「舞踏交響曲」を仕上げたとき、その年でこんなものを書いたなら、後に人殺しもするのではないかとその早熟の才を称えられたそうだが、ベルクもシェーンベルクも括目した上記弦楽四重奏曲(これが本当に”ゲンダイのベートーヴェン”とでもいうべきカイジュウ且つ斬新な曲)が10代の作であることを思えば、ちょっと比較にならないシニカルなガキだったんじゃないかと思う。コープランドの「ロディオ」が1930年代の作であるのに対し、ウオルトンの「ポーツマス・ポイント序曲」は1927年、25歳の作である。もっとも個性的な語法を確立してからも闊達でたのしい音楽を書き続けたコープランドに対し、高みからヒタスラ滑降するような作曲人生に入った後年のウオルトンの姿は、賛否分かれよう。
ただこれだけは言える。20世紀イギリスの純管弦楽作曲界で、最も才気溢れる俊英であったのだ。・・・それは戦前の短期間であったかもしれないが。ガーシュイン、プロコフィエフのサークルに輝く天才肌であったのだ。>
シリト、ミルンほか(CHANDOS)CD
ロバート・マスターズ四重奏団(WESTMINSTER)LP
シャンドス盤、今でも版を重ねていると思うが、例のウオルトン・シリーズの1枚だ。他ものすごく古い盤を持っているけれども(下)、シャンドスのシリーズはどれも大変高水準にあり、これは其の中でもトップ・クラスのアンサンブルだ。この1枚でとりあえず事は足りる(何の?)。
○マッケイブ(P)イギリス四重奏団(Meridian)CD
イギリス音楽のスペシャリストと言うべき組み合わせだろうか。明瞭な音符の表現(音符自体の少ない曲だけれども)が生硬なテンポにつながってしまうクセもあるが、若書きのロマンティックな部分が目立つ曲で、ウォルトンにありがちな焦燥感に満ちた曲でもないので、割と落ち着いた音楽となって安心して聞ける。若書きといってもシニカルで硬質な響きへの志向ははっきりあらわれており、英国貴族の気取った風ではなく、いかにも現代人の気取ったふうである。その点でも変に揺らしたり音色を工夫したりしていないのでそのまま素直に聞ける。いい演奏とまではいかないが、聞いてそつのない演奏か。○。
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弦楽四重奏曲
○ハリウッド四重奏団(CAPITOL/TESTAMENT)1949/11/2,3,1950/8/22
作曲家お墨付きの録音として知られるものだ。ライナーによると演奏家たちは文通でウォルトンのアドバイスを受け、49、50年に録音を行った。なぜ二年にわたったかというと、49年(作曲から僅か二年後)のテープを作曲家が蹴ったからだ。「ウォルトンのプレスト」、激烈な速度の2楽章の「繰り返し」を彼等が勝手にカットしたからで、さすが胆汁気質のウォルトンは、これにはそれだけの長さが必要だと言い張って、再録音を強いたらしい。但し1年後再録音が届いたときウォルトンはとても満足していたそうである。私などが聴くにつけ、もう少し柔らかいニュアンスや音色への繊細な配慮、そして落ち着いたスピードが、とくに緩徐楽章(これは極めて透明で美しい、名作である)に必要な気がしなくもないのだが、作曲家が満足したのだからそれでいいのだろう。そういえば自作自演の交響曲第1番(弦楽四重奏曲と構成上も楽想上も近似している)もさっさと進む解釈で、かなり即物的だった。この四重奏曲では1楽章がそうだが、ウォルトンの曲は時折繰り言を言うように粘りに粘って長くなるところがある。なるほどスピードを早めれば演奏時間も短縮されるわけで、これはそもそもそういうふうに猛スピードで演奏すべく作られていると言っていいのかもしれない。内省的な1楽章、せわしなく焦燥感に満ちているが旋律性も失われていないウォルトンらしいプレスト2楽章、透明な抒情の中に「ボレロ」などのエコーを散りばめた(リズムが不規則で聴くよりけっこう難しい)諦念すら感じさせる3楽章、そして異常な緊張感のある終楽章。ウォルトンは「飛ばし」の刻みをよく使うが、2、4楽章、とくに4楽章の異常な飛ばし刻みの応酬は若干世俗的で楽天的な旋律(メランコリックでイイ旋律がいくつも投入されてます。コード進行もじつに洒落てるし、かっこいい!)をモザイク状に組み立てていくさまが壮絶だ。もっとももっとマトモな演奏(失礼)で聞けば壮絶とまではいかないのだが、この演奏の異常な速さと信じられない曲芸的なアンサンブルにはただただ唖然とさせられる。自分で弾こうとはとても思わなくなるだろう。激烈なフィナーレ、傾聴!
さて、ウォルトンはこの団体を気に入ったわけだが、とくにヴィオリストには自分のヴィオラ協奏曲を弾いて欲しいと間接的に伝えるほどだったそうである(結局実現しなかったのだが)。1953年9月にレセプションのハイライトとして、作曲家臨席の場でハリウッド四重奏団によるこの曲の実演があった。作曲家はその後日スラトキン家に招かれたとき、「もう二度と他の誰も私のカルテットを録音しないでくれることを願う。君たちは私が何を望んでいるか、いかに的確につかんでいたことか。私たちはそのころまだ6000マイルも離れていたというのに」と語ったそうである。皮肉屋のウォルトンにここまでストレートに賞賛されるとは、なかなかすばらしいではないか。さて、ハリウッド四重奏団は指揮者スラトキンの両親、フェリックス・スラトキン夫婦を核としたアメリカの弦楽四重奏団で、並ならぬ集中力と緊密で凝縮された火の出るようなアンサンブルで知られている。張った弓を思い切り弦に押し付けるような奏法のせいだろう、力強いものの音色が単調で若干押し付けがましく、窮屈に感じなくもないが(復刻録音の音場が狭いせいもある)、即物主義的なストレートな演奏はトスカニーニなどが活躍した時代の空気を伝えるものとして貴重である。とくに現代曲においてはその類希に高度な技術を駆使して演奏不能すら演奏可能としてしまう力がある。残念ながらメンバーの活躍期間は決して長いものではなく(まあカルテットはえてして短命なものだが)、50年代にヴィオリストは演奏活動をやめ、フェリックスはライナーのもとで指揮活動に専念するようになったが(このころのレコードが残っている)、50になる前に亡くなってしまった。ちなみにウォルトンの弦楽四重奏曲というと普通この曲をさすが、ごく若い頃に無調的な弦楽四重奏曲を書いており(CHANDOSに録音あり)、そのため第2番と呼ばれることがある。
○イギリス四重奏団(Meridian)CD
録音は最近ありがちな「丸く磨かれすぎた音」にホール残響的なものが加わっているもので好き嫌いあると思う(私は生音を余り残響なしで聴きたい派)。演奏はやや大人しめである。といっても技術的な限界が見えるとかいったことはなく、3楽章までは他盤と大差ないカタルシスが得られるのだが、4楽章がいけない。余りに落ち着いているのである。ウォルトン本人が好んだハリウッド四重奏団の録音のような、エッジの立った鋭い音で躁状態で突っ走る爽快感がなく、3楽章までと同じような調子で「4楽章」として終わらせている。ハリウッド四重奏団もやり過ぎだと思うが、もうちょっと本気、見せてほしかった。○。
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ヴァイオリン・ソナタ
○メニューイン(Vn)ケントナー(P)(EMI/HMV)
ヴォーン・ウィリアムズなどと一緒にCD化したそうだが入手し損ねて古いLPで聞いてます。このメニューインの浄瑠璃を唸るような(?)生々しく不安定な音はCDでも巧く入っているだろうか。メニューイン夫人とケントナー夫人に献呈された曲、もうコテコテの内輪録音です。ウォルトンの地味なほうの作品だがとてもウォルトンらしいフレーズや響きが散りばめられている。2年前の弦楽四重奏曲にも近いといえば近いが、寧ろ初期のピアノ五重奏曲を思い出した。この作曲家のピアノはけっこう面白い。硬質で冷たい抒情があるというか、ウォルトン固有の繊細で精妙な響きを最も理想的な形で表現できる楽器として特別な位置にあったと言えよう。地味で通好みの楽想は10年前の華美なヴァイオリン協奏曲よりも7年後のチェロ協奏曲に通じるものがある。宇宙空間のような暗い幻想だ。しかしけっして旋律の才が枯れているわけではなく、単純ではないが耳を惹くものがある。ウォルトン・マニアにはとても面白く感じられるだろう。逆に初心者はもっと派手な曲で入った方がいいでしょう。演奏は音程に疑問があるが美しいことは美しい。○。
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オラトリオ「ベルシャザールの饗宴」(1929-31)
◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)&cho.ほか
名演だ。安定感のある響きをささえとして、表出意欲の高い合唱が嵐のように勇壮にひびきわたる。この音響、構成感はあきらかに西欧の伝統的表現にもとづいている。オラトリオらしいオラトリオになっており、また管弦楽も負けじと歌いまくっているように聞こえる。ウオルトンらしさ(めくるめくリズムの表現やシニカルな不協和の響きなどの表現)は稀薄で、音の透明感も皆無といってよいが、総じてじつにダイナミックな演奏で、曲を未知のまま聞くうえでは最良の紹介盤たりえよう。通常きかせどころとなる場面が逆に埋没しがちで、最後もあっさり収束するのは意外だったが、「意外」といえば全編ウオルトンらしくないロマンティックな構成感に支えられているのだから、ウオルトン好きには違和感があるかもしれない。だが面白いことだけは確かだ。
◎作曲家指揮BBC交響楽団&合唱団他・Mclntyre(B)(bbc)1965live
「ベルシャザールの饗宴」はウォルトンでも人気曲のひとつだ。独唱バリトンに二重の合唱団、管弦楽に二組の吹奏楽という巨大編成でおおいに歌い上げられる、聖書の一節。ベルシャザール(バビロン王子)が宴を催しているところに神の手があらわれ壁に文字を描くという場面、ルネサンス絵画の画題にもなっている有名な話し(筆者は旧約聖書をあまり知らないので間違っていたらすいません)。但し曲に宗教色は薄い。ウォルトン独特の垢抜けた響きにリズミカルな旋律が跳ね回るところが何といっても特徴的であり、魅力的。ウォルトン二十代の最後に書き上げられた、若々しさに溢れる清新な曲といえよう。さて、この演奏はウォルトン自作自演としてはかなり成功しているものだ。EMIの自演盤よりも音が鮮明で、合唱もよく響いている。ウォルトンの棒は演奏者たちをよく統率し、完全にコントロールできており、ライブとしては演奏上の瑕疵がほとんどないのが凄い。奇跡的な演奏だ。終演を待たずしてフライング気味に入る拍手喝采もこの演奏の成功を伝えている。聞いて損は無い盤。カップリングは交響曲第一番のライヴ。
◎ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル、スコラ・カントゥルム合唱団、トッツィ(B)(NICKSON)1957/5/12LIVE
名演!後半の怒涛のような推進力は圧巻。合唱にオケに独唱にと大編成のオケに対して歌劇指揮者としても名高かったミトプーの、密度が濃く隙の無い音響の取りまとめかたに感服させられる。ウォルトンは不規則なリズムに細かい休符を混ぜ込むため、熱い楽曲にところどころ冷たい隙間風が入ってしまったような感じがすることがある。とくに新しい録音では演奏精度が上がるがゆえに余計にその感を強くする。だがこのくらいの悪いモノラル音で聞くとそのあたりがカバーされ丁度いい。いや、べつに録音マジックだけというわけではなくて、ライヴならではの気合が舞台の隅々にまで満ち満ちており、リズムは飛び跳ねるようにイキがよく休符が気にならない強さを持っている。フィナーレの非常に速いテンポに音楽の攻めの良さはまったく聞いたことのない「ベルシャザール」の演奏、びっくりした。どこにも弛緩がない。面白い!最後は盛大な拍手。音は悪いけどいいです、これ。但し・・・強いて言えば前半が地味かも。
○クーベリック指揮シカゴ交響楽団(CSO)1952/3/30LIVE・CD
前半のゆるい場面では録音の悪さもあいまって余り感情移入できないのだが、ウォルトンらしいリズミカルな場面に転換していくとテンションの高いクーベリック・ライヴを堪能できる。音さえよければ◎モノだったのに!ウォルトンの悪い癖である変なパウゼの頻発が主として速いテンポと明確な発音によるテンションの持続性によってまったくカバーされ気にならない。生で聞いたら凄かったろうな、というシカゴの機能性の高さにも瞠目。弦楽器の一糸乱れぬアンサンブルは明るくこだわりがない音であるぶん清清しい響きのこの曲にはあっている(内容どうのこうのは別)。とにかくこの時代の指揮者にこういうスタイルは多いのだが(まるでトスカニーニの後継者を争うが如く)その中でもずば抜けてテクニックとテンションを持っていた怒れるクーベリックの技に拍手。何も残らないけど、残らない曲ですからね。
○ロジェ・ワーグナー指揮ロイヤル・フィル、合唱団、ジョン・キャメロン(B)(CAPITOL、ANGEL/PACO)1960/9/19-22
スピーディで明るく魅力的なベルシャザールだ。シャープで攻撃的な声楽のコントロールぶりはさすが合唱指揮で名をはせたロジェー・ワーグナーといったところである。オケコントロールもたいしたもので透明感あふれる響きから迫力ある表現を引き出している。ミスもあるがそれくらい熱した演奏になっている。ダイナミックで速い。曲の内容などどうでもよい。他演が単線的な旋律表現を追いがちなのにたいしこれはただ立体的に重層的に迫ってくる。何も考えず楽しもう。SP初出。
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劇音楽「ファサード」
組曲
~ポルカ、タンゴ・パソドブル、タランテラ・セビリアーナ
○モントゥ指揮サンフランシスコ交響楽団(M&A)1950/2/26live・CD
ウォルトンの諧謔性は鋭い金属質の肌触りのする響きと機械的な混み入ったアンサンブルに裏付けられているものの、バルトークのオケコンの「中断された間奏曲」のような、あるいはストラヴィンスキー渡米後のオーダーメイド作品のような皮肉を確かに提示しながら、穏やかな空気の中から穏健に提示される。そこが限界でもあり魅力でもある。間違えるとほんとに穏健な音楽になってしまうので注意だ。モントゥの前進性はここでも目立ち、音楽が決して弛緩しないから穏健さは煽られない。組み立ても決して旋律の組み合わせの人工性を露わにせずじつに板についたもののように聞かせている。オケにどうも艶がなく機能性ばかりが目立つのが気になるが、ファサードはもっとソリストに多彩な表現を自由にとらせてもいいのではと思う。速いです。