湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(楽園への道) (2012/3時点でのまとめ)

2012年04月05日 | Weblog
ディーリアス:歌劇「村のロメオとジュリエット」(1901)

間奏曲「楽園への道」


○ビーチャム指揮ABCネットワーク交響楽団(DA:CD-R)1945/4/7LIVE

パレーの後に聴いたのだがやっぱりオーソリティは違う!パレーはただただ美しかったが、ビーチャムはドラマがある。最初の余りに繊細で小さな動き・響きからクライマックスの即物的なほど強く速い(ビーチャムらしいケレン味の無い縦のしっかりした颯爽としたものだ)表現までのコントラストが凄まじい。ただ、いつもだけど、叫んだり数えたりはやめてほしい。。プロオケなんだから。。オケ名はおそらく正確にはNYの有名オケのどこかだろう。もっともこの団体名はオーストラリアにも実在する。雑音は最悪。放送音源自体がLPで状態が悪いものと思われる。しかし静かな場面は引くでも押すでもない絶妙な情趣をかもすのに、なんでフォルテになると棒みたいなテンポで強くもあっさりやってしまうんだろうなあビーチャム。古典のやりすぎか?ディーリアスの歌劇でもそうなんですよね。

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル(aura,HMV/ermitage)1957/10/20アスコーナlive・CD

スイスの作家ケラー「村のロメオとユリア」(岩波文庫)に基づく歌劇「村のロミオとジュリエット」からビーチャムのたっての要望で管弦楽曲として編み直された間奏曲。ドイツ・ロマン派的な耽美性と民謡旋律の鄙びた情感が妖しく絡み合うディーリアスの代表作。ビーチャムの指揮はいつ聴いてもそうなのだがディーリアスの退嬰的な音楽を表現するには生命力がいささかありすぎる感がある。このHMVの超お得盤セットに収録されたライヴ録音はきわめて明瞭な擬似ステレオだが、それだけにいっそう冒頭からビーチャムの力強く前進的な表現が耳につく。途中弱音部にはディーリアスの淡い色彩が柔らかく描き出されるが、その間の起伏にドラマがありすぎる。間奏曲にしては余りに自己主張する曲でもありしょうがない面もあるし、原作はディーリアス夫妻による脚本に比べ結構ドラマティックな内容になっており、廃墟の「楽園」へ向かう場面も実はかなり騒々しいように読めるので、この表現でいいのかもしれない。ただやはり颯爽とした速いスピード感が最後まで気にはなった。あと観客の雑音・・・よくこの陶酔的な音楽の中で不躾に咳できるものだ。○。

トーイェ指揮ロンドン交響楽団(DUTTON)CD

これは古い録音だけれども、即物的というか古い録音にしばしばある、全く感傷的な音を出さずに機械的に構じられたものの印象が強い。ビーチャムを更にあっさりしたような速度に、悉く「棒吹き」の管楽器、無難に「イギリス的」な範疇を出ない弦楽器、いずれもバルビとは対極の表現である。それでもアーティキュレーションはしっかりつけられておりオケ自体も非常にいいわけで、聴けてはしまうのだけれども、いささか職人的に過ぎる。

○バルビローリ指揮ウィーン・フィル(DUTTON)1947/8/20ザルツブルグlive・CD

補正と擬似ステレオ化が過ぎており原音の音色や響き具合が全くわからない。元がウィーン・フィルかどうかですらわからないような悪い音であった可能性もあるが、とにかくウィーンの音の特質は響いてこないし、技術的にすぐれているオケというくらいしか読み取れない。恍惚的な解釈をするバルビではあるがここではいくぶん抑え気味のようにも感じる。バルビ特有のフレージングの柔らかさやすべらかなデュナーミク変化も殆ど伝わらないが、じっさいに中欧的に多少感情を抑えてスマートなふうをしているのかもしれない。○。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(VAI:DVD/DA:CD-R他)1959/1/29live

荘重にたゆたうような音楽はやや遠く、いつもの感情的なバルビとは少し異質な感じもするが単純に録音の悪さゆえだろう。とにかくホワイトノイズがきつく、音場も安定しないステレオでヴァイオリンが右から聞こえてきたりといろいろ問題は大きい。表現の起伏のなさはそれでも特記できるかもしれないが、バルビらしくない。そのぶんボストン響の表現力・・・とくに木管ソロの美しさ・・・が際立って聞こえてくるのは相対的なものかもしれない。○。vaiの映像は30日か2/3のものかもしれないが未確認。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R他)1959/1/30live

録音状態に問題がある。聞き覚えのある音ゆえ恐らくM&Aなどで出ていたものと同じだろう。ステレオだが音場がじつに安定せず傷も多く、管楽器の音色もやや古びて聞こえ、全体の造形が人工的に感じられ違和感をおぼえさせる。解釈は他の盤とほぼ一緒の非常に感情的なフレージングが多用されたものゆえ、冷徹なオケと意思的なバルビが噛みあっていないだけともとれる。相対的に無印。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1964/11/7live

ステレオで聴きやすい音。バルビのディーリアス適性をもっともよくあらわすことのできる感傷的な曲である。伸縮自在のルバートが曲の流れを邪魔することなくスムーズに聴かせ、これを聴くと他が素っ気無くて聴けなくなるという、バルビがごく一部の曲にみせた異常な適性を聞き取ることができる。基本的な解釈はどの盤も変わらないが、ここではフィルハーモニア管を操るようになめらかに板についた表現をみせており秀逸。まあ、放送エアチェックなりの録音なので○にとどめておくが。50年代のものにくらべテンポはかなり速くなっている(2分弱)。

○A.コリンズ指揮LSO(decca/PRSC他)1953・CD

このコリンズのディーリアス集の中では小粒でぱっとしない。すんなり聴けてしまう。楽曲はおそらくディーリアスの代表作で、かつ、ビーチャムの依頼で後から付け加えられた(時期的に既に病魔が表だって体を蝕んでいた時期だと思われる)事実上歌劇とは別の曲なのだが、それもさりなんという感じだ。○。

○グーセンス指揮シンシナティ交響楽団(RCA)LP

重厚でがっしりした「楽園への道」だがワグナーふうのぬるま湯い表現が無くオケの音もニュートラルなので、ドイツ的という感じは無い。ちょっと面白い、寸止めの感傷性が良いが、この曲には多少しっとりした、多少フワフワした部分も欲しいわけで、録音もそれほどよくない点含め、機会があればどうぞ、というところか。

○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1960/4/7LIVE

録音がやや辛いのとあけすけな演奏ぶりに違和感を感じなくもなかったので無印にしてもよかったのだが、こういう明るくボリューム感ある音色のディーリアスも珍しいので○。しっかりしたディーリアスの曲はこういう即物様式にもしっかり映える(テイストは無いが)。整え研かれた立体的な音楽には構造への配慮が不要なくらいになされ、モノラルでも滑稽なほど雄弁に語られるさまが聴いてとれる。オケの技術の高さというか、オシゴトとしてソロをこなす管に余裕すら感じられるのは少し気になる。メンデルスゾーンやウォルトンなどと一緒に行なわれたオールイギリスプログラムの中の一曲。

<全曲>

○マッケラス指揮オーストリア放送交響楽団シェーンベルク合唱団、黒髪のヴァイオリン弾き(汚い男)役:トマス・ハンプソンほか (argo)1989

ディーリアスの歌劇における代表作。4作めで手慣れた物だがまだ若い分少し2大リヒアルトの香りが残っている。放蕩息子ディーリアスの、名声が確立したあと画家イエルカとの出会い、そして半ば共同作業のようにして仕上げた作品の一つ。ふたりは決して中むつまじかったわけではなく愛人問題などもあったらしいが、この結婚前においては或る程度素直な共感の中にこの純粋な、純粋にすぎる愛の物語も紡がれたわけである。名指揮者ビーチャムたっての願いにより付け加えられた、後半クライマックス前の間奏曲「楽園への道」は、ディーリアス全作品のうちでも疑いの無い代表作だ。聴くうちに限りなく哀切のひろがる曲、もうそこにはない幼き頃の夢の花園にむかって、肩を寄せ合い歩き向かう情景を描いている。街の喧騒につかれ故郷を目指す二人の姿に自ずを映し出す向きもいらっしゃるのではないだろうか。純粋に曲としても恍惚の絶品だ。単独で演奏されることが圧倒的に多いが、筋の流れで聴くのが最も効果的であり、全曲盤で触れることには絶対意味がある。ビーチャム盤表記では2場による作品となっているが、実際は 6場(2幕)の比較的長い作品である。前半はディーリアスらしい自然の美しさをうたう情景描写と織り交ざるゆるやかなドラマに満ち、かなり単調な起伏の繰り返し~英国の広大な大地のうねりを想起してほしい~であるもののディーリアンには堪らない果てしない流れが続く。この作品の白眉は圧倒的な後半、主人公の男女が生地を追われ街に出るところから始まり、たまたまの祭りのダイナミックな音響(マッケラス盤にはサーカスの観衆拍手迄入る)と圧倒される印象的な旋律の交錯に、初端より傑作であることの証しを見せ付けられる。疲れのままに「楽園」への逃避行を描く間奏曲は前記のとおり、そして既に楽園ではなくなった荒れたガーデンで絶望感に呉れるふたりを誘うジプシーのヴァイオリン弾き(ジプシーヴァイオリンと意味の無い奇矯な発声、兵士の物語をふと思い出すがこちらがずっと先)の存在感が前半で顕れたときにもまして、しっかりと印象付けられる。

音楽映画ディーリアス(一時期NHKでさかんに放映されていた)のなかの「楽園への道」は花を積んだ一艘のボートがながれゆく様で耐え難い余韻をのこすが、そのとおりの結末である。最後男女の嘆きの交換が幾分雄弁であるものの、沈める舟のまさに退嬰の幕切れを、遠い船頭の呼び声が、耐え難く演出する。・・・

この底本は同時代スイスの詩人ゴットフリート・ケラーによってかかれた短編小説。「村のロメオとユリア」名で1989年岩波文庫化されているが、現在は絶版の状態につき図書館を当たって欲しい。以上の書き口では伝わらないかもしれないが(泣)、発表当時内容的に物議をかもしたという、単純ではない筋書きだ。もっと詳しくは底本ならびに是非マッケラス盤に付いた故三浦淳史氏渾身の分厚いライナーを読んでいただきたいのだが(見方に偏りもあるにせよ、これは力の篭った名文であり、他に得られぬ情報もあり、英文対訳も付いているので是非一見の機会をお勧めする)、何等罪の無い素朴な農夫たちが、近代社会の業・・・「金」により不幸に陥れられ、かれらの子供として、幼なじみのまま恋人になり夫婦になり子孫を育てることが約束されているはずの男女は、屍肉にたかるハイエナのような畠の領分争いの末、有無をいわさず引き裂かれてしまう・・・ロメオとジュリエットの剽窃というわけではない。あくまでその状況を、言わばジャーナリスティックな観点から「なぞらえた」ものとして描写される。溯ってしまうが、幼い二人の無邪気な戯れは冒頭よりかなりの長さが費やされている。しかし争いの時は長くつづき(このあたりがかなり省かれているが) 6年ののちにふたりの両親は、退嬰のままともに舞台から消え去ってしまう。解き放たれると同時に行き場を失った二人。再会のよろこびも束の間美しき自然と田畑を追われ、街に出る。騒がしい喧騒、生まれて初めての人人人の群れ、しかも祭りの最中で「天井桟敷の人々」になりかねぬ・・・優しきふたりの田舎びとは、”近代社会”の混乱に馴染めず、次いで森で、幼き頃以来に再会したヴァイオリン片手のヒッピーふうの男・・・この台本においてはすっかり狂言廻しであるが重要な役所で、じつは相続権を失ったかつての地主の私生児で、酒手に徘徊しながら仲間とホームレス生活を送る。そもそもふたりの両親はこの地主の所有権の無い土地を争ったのであり、原作ではもっと肝要な位置にいるのだが、ここでの飄々とした吟遊詩人風の位置づけは、とくに冒頭においてはまるで小泉八雲最晩年の詩的随筆「向日葵」そのもの。森の中のジプシー風大男というのは、英国人にとって特別の感傷的素材なのだろう・・・の誘いにも乗ることが出来ず、どこにも居場所を失った挙げ句、遂に、心中する。

彼等は妥協もできたし、様々な誘いも得た。すべてを退けてまでなぜ死ななければならなかったのか・・・自らを時代に合わせて変容させることもできないほど、純粋な愛をおもんじる素朴な男女すぎたのか。かつての時代であれば、日々に悩み無く余計な夢すら抱かずに、朝は日の出より畠に出て、夜は家族で楽しいひとときをすごす。先祖代代そうやって生きてきた連環が、、、、時代、金と多くの人の争いに満ちた俗世、によって断ち切られた。自然主義者ディーリアス、若き頃の放浪生活の気分、そして保守的な英国において異邦人として生まれ育ち(両親はドイツ人でドイツ語のほうが堪能だった)マーラーのように「故郷を持たない」人生であったこと(この作品の直前に、のちの妻イエルカの財力により生涯の住居をパリ郊外グレ(シェーンベルクの「グレ」)に定めた・・・イギリスではなく、フランスにであった。尤も英国への愛着はあり、死後はイギリス近代音楽の第一人者とまで祭り上げられ、分骨すらされたのであるが。)、それら個人的な気分が内容への共感となってあらわれている。生き残る手段はいくらでもあったのに、生まれ育った自然に永遠に消え入ることを選んだふたりの姿は、野暮のかけらもない重奏音楽の絶妙により、水上の美しい死をもって永遠にわれわれの心の中に生き続ける。・・・ふたりは狂詩曲をかなでるあの男を尻目に、藁を積んだ小舟に乗り身をよこたえると、流れの中で栓を抜き、森のやわらかな霞のなかに姿を消す・・・非常に世紀末的なペシミズムに彩られているが、ディーリアス自身若き頃フロリダの農園をはじめ放浪してまわり、異邦人として生まれ故境外で生涯をおえているのも重ね重ね思い出す・・・あ、結局全部を語ってしまった!できれば事前情報なしに英語版を聞いて(観て)ほしいものだが。

シェークスピアの素材を殆ど題名とシチュエイションのみ借りて描かれた現代的な複雑な作品である(架空の近代国家セルトヴィラの住人に起こった出来事の一つとして書かれたもので、現代風刺の気がある)。けっこう日本的な心中物で、筋は近松のそれに近いような気すらする。その情景は殆ど広大な田畠や森、川の中に描かれており、前半は物語の性格上とくに著しくきかれる。柔らかな鳥のこえ、ひろがる朝霧の田畑、森のさざめき、遠い角笛の交歓・・・。私じしんかつて恋に敗れたとき、ひどく心を打たれた覚えがある。結末もそうだが、寧ろその始まりの美しさに涙を得た。イギリス人はこのドイツ系の血を引く作曲家をことのほか愛し、70年代にはさかんにイメージ映像化がなされている。同作品も映像化されており(レーザーディスクと聞いた)、私は未見だが機会があれば見てみたい(マッケラスの音源らしい)。映像もしくは上演形式で観たい。切におもう。理由のひとつに、この作品の抱える根本的な問題点が挙げられる。これはディーリアスとイエルカの手により抄訳されているのだが、抜粋が過ぎるために、全編噎せ返るような音楽の雰囲気が、本質的な黒いテーマを隠してしまい、(豆知識:これはドイツ語と英語台本両方自ら(夫婦)の手で作られている。それはこの歌劇に限らずで、ディーリアス自身ドイツ語で育ったことが理由。イエルカはフランス語にも長じた万能だったがそれ以上の天才ディーリアスの為に生涯を尽くした。)最近手ごろなペーパーバックで復刻された「私の知っているディーリアス」(晩年作曲家の手足となった故フェンビー氏著、ドーヴァー)にはディーリアスの晩年を映像に描いた有名なケン・ラッセルについても触れられていて興味深い。ラッセルの作曲家シリーズはチャイコフスキーなどをみればわかるとおり(「惑星」は傑作だが)かなり恣意的なシニックが感じられるゆえ、優しいディーリアンはショックを受ける可能性があるが。

つらつらと書いてしまっている。しかしそれだけの曲なのだ。マッケラスについては言うまでもなくかつてはヤナーチェクの権威、そして疑いなく現代ディーリアスの最高の指揮者である。argoに集中して録音しており、ブリッグの定期市など美しすぎ透明すぎて却ってすんなり聴けすぎてしまうところもあるが、明瞭な音作りにはビーチャム(初演者)のはっきりした香りも残り、聴き易い。オーストリアのオケの音がこれほど透明にも表現可能ということを初めて知った盤だった。

○ビーチャム指揮ロイヤル・フィル、マーガレット・リッチー(sp)ほか(EMI)1948

ビーチャムはイギリス初演のあとに作曲家に終幕への間奏曲を書く事を薦めた。そこで「楽園への道」が書き上げられたのは1915年ごろといわれており、ディーリアスの最高傑作とされるとおり完成度の非常に高いものとなっている。他の部分yろい密度が高く感じる方もいるだろうがそういうことなのだ。ビーチャムは3管編成を2管編成に改めたが、現行版はほとんどそれによっている。ここには全曲版録音をあげたが音がモノラルで余り良くない。だが典雅で決して耽溺しないビーチャムの作り上げたお墨付きの世界を味わいたい方は是非一聴を。以下、間奏曲「楽園への道」について少々。

”「楽園への道」と田舎村の事件”(1993記)

いちばん重要な最後のシーンへのつなぎとなった曲で、使徒ビーチャムのたっての願いで上演版に付け加えられた、でも今や手ごろなディーリアス入門曲として単独で奏されるのが殆の作品である。スイスの荒涼とした田園風景。閉鎖的な村落での農夫生活が、時代の流れによって理不尽にも失われ、神に約束された男女が、手に手をとりあい村を抜け出すところから展開する悲劇的な話し。幼なじみはかつて争いの無い平和な田園にて美しくはかない若さのうちにうつし出される俊やかな風景の中、緩やかに愛をはぐくんでいた。ふたりには共通の「秘密の花園」があった。それはパブの庭で、店には「楽園」という名がついていた。美しい草花に満ち溢れた夢のような光り溢れる場所であった。逢瀬はいつも花のベッドの中。雲雀のからかいが時折耳元に滴り落ちる。若い二人には聞こえない。穏やかな生活、貧しいけれども密やかな花々に彩られた人生の小道を二人でゆっくりと歩み、静かに終わる贅沢。約束された土地は彼らの目の前にあったはずだった。

それを変えたのがさすらいのヴァイオリニスト(フィドラー)だった。たまたま森できいたエキサイティングな狂詩曲、そしてその言葉が、かれらの両親の耕している耕地の権利問題を明らかにしてしまった。両親は境界線や所有権を争いだし、二人は引き裂かれる。ところが長年の争いは所詮ちいさな農家の僅か数人の間の話し、じっさいに争っていたのは二人の父親のみで、皮肉なことに何の解決も無いまま、消えてしまう。再会に喜ぶ二人はもう立派な大人だが知っていることは自然のことと畠のことだけであった。都会へ出てしまうが、それは未知の汚い世界であった。彼等の頭に、引き裂かれる前の記憶が美しく儚く蘇る。「楽園」。ふたりの足取りは堅い石から柔らかな土のうえに優しく音をたて、想い出がノスタルジックな音の交響となってふたつの頭を覆い隠す。二人の世界がある・・・「楽園」に。

さてこういう知識をもって曲を聞き直してください(そんなの知っている、というかたでも是非・・・)。そして、「楽園」がどうなったかは・・・想像してください。唯一の手がかりは、想い出は余りに美しすぎる、ということです。・・・

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