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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ウォルトン(管弦楽曲) 2012/3までのまとめ

2012年04月09日 | Weblog
ウォルトン

<(1902-1983)論客アルトゥール・オネゲルが、才能に満ち溢れているにもかかわらず今一つ評価されていない作曲家として名を連ねた一人、イギリス20世紀前半を代表する作曲家である。故三浦淳史氏が愛して止まなかった名匠でもある。

ランカシャーはオールダムに生まれ、父親から私的な音楽教育を受けたのち、オックスフォードで聖歌隊学校に入学。ほぼ独学で作曲を身につけたといわれ(この時代の著名作曲家は(今と違って?)皆こういった天性を備えていたようである)、たまにブゾーニやアンセルメなどの助言を受けるのみだったそうである。イディス・シットウェルの一連の詩を用いた朗読と6人の器楽演奏家による「ファサード(豪奢な建物の豪奢な門のことだったか?)」は1922年作曲23年シットウェル朗読によって初演され、じつに大きな反響をあたえた。コクトーではないが「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」の呼び名がふさわしい有望な作曲家としてかなりの期待を集めたようである。ちなみに後年改訂がなされたが、作曲家自身の指揮によっても両方の録音記録がかなりの数残されている。以後初期の作風は世界的には幾分遅れ馳せながらも無調的書法を取り入れ、ベルクらとの交流も交えてすこぶる前衛的になっていたが、路線変更の先駆けとなったピアノとオーケストラの為の協奏的交響曲(27)、最高傑作の呼び声高いが本国の名ヴィオリスト、ライオネル・ターティスに拒絶されヒンデミットに初演されることとなったヴィオラ協奏曲(29)では、新浪慢主義のもとに叙情性を示すようになっている。

透明感ある清新な響きとリズムの明快さに支えられ矢継ぎ早に繰り出される憂愁の旋律は、しばしば粘り強くしつこく繰り返されるものの、微温的な曲を好むイギリスという国にあっても結局一定の人気を勝ち得ることに成功した。アメリカにわたりプロコフィエフやガーシュインと交流したことが彼の作風確立に一役果たていしたのは疑う余地が無い。ヒンデミットとは長く交流を暖めていたが、直接的影響はプロコフィエフのほうが大きいように思う。同じ作曲手法を使いながら各曲に異なる心象風景を織り込む手腕もなかなかのもので、後年霊感の衰えかいくぶん流してこなした様子も聞き取れるものの、それなりに聞かせてしまう手際の良さは没年に至るまで衰えなかった。映画音楽や劇音楽にも優れた作品を残しているが、初期に影響を受けたといわれるストラヴィンスキー同様金銭的な理由で引き受けた仕事が多かったともいわれる。ドライなアメリカ的感性はこの作曲家のイギリスでの特異性を良くあらわしている。ドライといえばジョージ・セル(指揮者)との交流も有名だが、音楽以上に性格的な一致性を感じる(セルは第2交響曲(1960)等をCBSに残しているが現在は絶版でかなり手に入りにくくなっている。)ちなみにジャズ要素を最も効果的にクラシカル・ミュージックに取り入れた作曲家としても、かなりの評価を受けていた。いくつかの先駆的な曲は今でもしばしば演奏される(ポーツマス・ポイント序曲など)。1951年ナイトに叙せられた。

代表作としては以後、歌劇「トロイラスとクレシダ」(1954ロンドン初演。自作自演、シュヴァルツコプフ他の演奏がCDになっている)、前述のポーツマス・ポイント序曲(1926、ジャズをクラシカル・ミュージックの枠内に本格的に組み込んだ曲としては、かなり早いものといえるだろう)、人気曲の交響曲第1番(1935)、ヴィルツオーソ向け新ロマン協奏曲としてバーバーと並び貴重なレパートリーとなっているヴァイオリン協奏曲(1939)、原曲を分かりやすく美しく纏め上げた傑作ヒンデミットの主題による変奏曲(1963)、交響曲に負けず劣らずの人気オラトリオ、ベルシャザールの饗宴(1931)、さらに一番有名で吹奏楽でも頻繁に演奏される戴冠式行進曲2曲(現エリザベス2世及び其の前の王のための曲であり、エルガーの打ち立てた高貴な行進曲スタイルを現代の手法によってよみがえらせた傑作中の傑作。)やヨハネスブルク祝典序曲、映画音楽的要素を昇華させた隠れた名作スカピーノなどいくつかの管弦楽曲はウォルトン成熟期の真骨頂。その他歌曲や室内楽においても優れた大衆的作品を残している。「大衆的」といってもかなりの技巧を要求する曲が多いところが、かつては前衛でもあった「20世紀の作曲家」であることの証しである。>

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交響曲第1番(1932-35)

<遠くから、幽かに響くオーボエ。前期シベリウスを思わせる神秘的で壮大な開始部は、しかしシベリウスよりもロマンティックで「世俗的」だ。シベリウスの影響下にネオ・ロマンティックな交響曲を書いた音楽的辺境の作曲家は数多いが、ウォルトンのそれはとりわけリズムの多彩さと旋律のわかりやすさ、さらに新ウィーン楽派の洗礼を受けた作曲家であることを窺わせる冷たい響きによって明確に記憶に残る。やや長大なきらいもあり、終楽章など弦の一部パートを細分化しすぎてアンサンブルがまとまりづらくなっているところもあるし、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲(2番)といった曲とほぼ同じ曲想構成の中で、同じ事を言おうとしているのだから、芸が無いといえば芸が無い(但し本作はそれら一連の作品の嚆矢に近い)。音楽としての質でいえば「至高」と言うわけにはいかないだろうし、シベリウスの高みとは比ぶべくもない。わかりやすいのか難解なのかわからないところもある。一番特徴的なのは2楽章で、最もウォルトンらしい嗜虐的スケルツオだが、人を惹きつけるのはやはり畳み掛けるような息の長い旋律を繰り返す1楽章、3楽章印象的な深みある音楽から再び立ち上がり終結へ向かって轟進する4楽章だろう。結部において、大団円を打ち切るようなティンパニの連打があるが、皮肉屋のウォルトンらしいアイロニーであり、戦争の影でもある。(1995記)>

◎作曲家指揮フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD

この自演集が手に入らなければプレヴィンでもスラットキンでもいいので聞いてください。シベリウスの子、ネオ・ロマンティック交響曲の双璧(もう一壁はハンソンの「ロマンティック」)・・・←勝手に決めてますが。同時代の音ということで、ここでは古い演奏を推します。でっかい波が延々と寄せては返すような1楽章の盛り上がり、氷のように透明な諦感と葛藤する気持ちが蒼く燃える3楽章。ささくれ立った中にも希望の光に溢れた終楽章。最後の空虚な連打音。うーんイイッス。但し・・・ウォルトンの有名曲はみんなこんな感じだったりする・・・

音さえ良ければ抜群の名演として推せるのだが。このテの曲はモノラルで音が悪いと評価が半減する(といいつつここではボールト旧盤も推薦してしまっているが)。ウォルトンは自演指揮者としても一流だ。ダイナミックな起伏に浸りきる。オケの響きも凝縮されしかも激しく素晴らしい。

作曲家指揮ロイヤル・フィル(BBC)1959LIVE・CD

ウォルトンの交響曲第1番は難曲である。管楽器はすべからく酷使されるし、弦楽パートは何部にも別れて演奏する場面もあり辛い。アンサンブルを保つのが大変だ。付点音符のついた独特の音型が充溢しているが、これなども難しいところがあると思う。ロイヤル・フィルは決して弦楽の弱いオケではないと思うが、一楽章アレグロなどを聞くと、ファーストヴァイオリンがコンマスが突出した薄い響きになってしまっていたり(音色は非常に綺麗なのだが)、低音弦楽器が何をやっているのか、蠢きしかつたわってこなかったりしている。無論録音のせいもある。但し作曲家の指揮にしては非常に巧いと思う。二楽章プレストなど音楽の描き分けがはっきりとしていてすばらしい。余りルバートせずインテンポで突き進むところなども翻って格好良かったりする。EMI盤のほうが良くできているが、この盤も聞いて損は無いだろう。併録の「ベルシャザールの祭典」はかなりの名演で、拍手も熱狂的だ。

作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964LIVE・CD

このレーベル未だあったんだ・・・。驚かされたニュージーランド・ライヴ集二枚組。ニュージーランドはイギリス連邦の国だからこれはお国モノと言うべきなのか、ゴッド・セイヴ・ザ・クィーンから始まるこの録音。オケはあまりふるわないように聞こえる。これは管弦の録音バランスが悪いことに加え残響が煩わしい擬似ステレオで、音楽の座りが悪く、技術的には決して悪くないとは思うのだが、アンサンブル下手に聞こえてしまうのだ。ウォルトンの指揮ぶりは比較的ゆるやかなテンポを維持する即物的スタイルと言うべきもので、完成
度は他演に譲るが、内声部の主としてリズムパートが明確に磨き上げられているところなど作曲家のこの曲への見解を示していて面白い(録音のせいかもしれないが)。弦が弱いのでブラスばかりが吠えまくるハッタリ演奏に聞こえなくもないけれども、凄く悪いというわけでもないので、機会があれば聴いてみてもいいかもしれない。他ヴァイオリン協奏曲等。無印。(2004/3記)

◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管(ロンドン・フィル)(NIXA/PYEほか)モノラル

BBCのクリアさも良いが、愛着あるのは古いスタジオ盤だ。LPでもレーベルによって音が違い、CDでも多分そうなのだろうけど(LPしか持ってません)、フルートを始めとする木管ソロ楽器の巧さ、音色の懐かしさ、ボールトの直截でも熱く鋭くはっきりと迫る音作り(1楽章、終楽章など複雑な管弦楽構造をビシッと仕切って、全ての音をはっきり聞かせてしまうのには脱帽・・・ここまで各細分パートしっかり弾かせて、堅固なリズムの上に整え、中低音からバランス良く(良すぎてあまりに”ドイツ的”に)響かせている演奏はそう無い)はどの盤でも聞き取れる。揺れないテンポや感情の起伏を見せない(無感情ではない。全て「怒っている」!)オケに、野暮も感じられるものの、表現主義的なまでの強烈なリズム表現は曲にマッチしている。50年代ボールトの金属質な棒と、曲の性向がしっかり噛み合った良い演奏。もっとも、ウォルトンの曲に重厚な音響、淡い色彩感というのは、違和感がなくはない。

ボールト指揮BBC交響楽団(BBC)1975/12/3LIVE

ボールトならLPO盤を薦める。決して悪い演奏ではないが、BBCsoの音は如何にも硬い。客観が勝りボールトの即物的な面が引きずり出されているようで、風の通るようなオケの音が適度にロマンティックな解釈とつりあっていないようにも思う。ライヴならではの堅さ、というのもあるかもしれない。ノりきれなかったライヴというのはえてして崩壊した奇演になるか、解釈のぎくしゃくとした機械的再現に終わる。後者のパターンだろう。とはいえ、ステレオの比較的良い音で、技巧も決してまずくはなく(うまくもない)、初めて聞いたときはそれなりに楽しめた覚えはある。

○スラットキン指揮セントルイス交響楽団(RCA)

オケがややばらけるところもあるが、熱演であり、尚且つすっきりとした透明感に彩られている佳演。明瞭な色彩もこの曲の美質を良くとらえている。

○ハミルトン・ハーティ指揮LSO(DUTTON/DECCA)1935/12/10-11

恐らく初録音だろう。中仲の秀演だが音が悪い。オケのノリがすこぶる良い。

○ハーティ指揮LSO(decca他)1935/12/9-10・SP

DUTTON復刻盤と同一だが、web配信されている(ノイジーだが)音源についているデータが微妙に異なるので、別に挙げておく。リンクは書かないが明るく抜けのいい復刻音源なので探して、初演者ハーティの真価を見てください。くぐもった骨董音源のイメージがあったのだが、トスカニーニ的な即物性が勢いを生み、リズム感がとにかくいい。もちろん現代のレベルとは違うのだが、何かしら生々しく、胆汁気質の楽曲がまんまダイレクトに耳をつき、とくに初演に間に合わず後日改めてハーティが全曲振り直したという終楽章のけたたましさ、最後の息切れするような和音と同時にこちらも息切れ。いやノイズキャンセルしない(高音域を切らない)というのは鼓膜負担が激しいので、実際疲れるは疲れるのだが、改訂を重ねられる前の凄まじさというか、管弦楽の迫力が感じられる点は嬉しい。○。

○サージェント指揮ニュー・フィル(EMI)

作曲家臨席のうえで録音された盤である。作曲家はサージェントに賛辞の手紙を送っている。だがこれは自作自演と比べてまったく異なる演奏である。弦など異様に細かく分けられた各パートすべて、細部までテンポ通りきちんと揃えて聞かせるやり方はちょっと新鮮だが(ここまで内声部まで揃ってちゃんと弾いている演奏も他にないのではないか)、音をひとつひとつ確かめるように進んでいくがためにスピード感がなくなり、結果かなりゆっくりしたテンポになってしまっている。ひょっとするとウォルトンが晩年に指揮していたらこういう演奏になったのかもしれない、と、リリタの自作自演アルバムを思い起こしながら思った。構造的な部分に興味のある方には非常に貴重な資料であろうが、長い曲だから飽きてくる。一音一音の発音は太くハッキリしていて男らしい足取りをもった演奏になっており、伊達男サージェントのスマートなイメージをちょっと覆すようなところもあって面白いが、3楽章あたりの情緒はもう少し柔らかく表現してほしくなる。目先を変えるという意味では興味深い演奏である、○ひとつつけておく。

○ホーレンシュタイン指揮ロイヤル・フィル(INTA GLIO)1971LIVE・CD

この曲の演奏を語るときには必ず口辺にのぼる録音である。
またホーレンシュタインのぎくしゃくした音楽か、と思うなかれ。この人の演奏としては稀に見る名演である。ぴりぴりと張り詰めるような演奏ぶりは意外なほど外していない。テンションはこの決して短くはない曲の最初から最後まで持続する。とくに弦楽器の凄まじい気合に感動する。すべての音符にアクセントが付き、しょっちゅう弦が軋む音がする。音の整えかたは重低音のドイツ風でホーレンシュタインらしい重厚なものだ。テンポは速くないが決してそれを感じさせない空気がある。ライヴでこの完成度はホーレンシュタインにしては珍しいと言っていいだろう。聴きどころは2楽章以外、と言っておこうか。2楽章は個人的には俊敏で飛び跳ねるようにやって欲しいところ。でもこれで良しとする人も少なくないだろう。苛烈なティンパニ、大きく吹き放つようなブラスのひびき、これはニールセンともシベリウスとも違うドラマティックな音楽だ。この曲の演奏史に独特の位置を占める名演と言っておこう。残念ながら録音がよくない。古いテープ録音のようでときどき音像が不安定になる。そのため○にとどめておく。

ブライデン・トムソン指揮LPO(CHANDOS)

やや莫大にやりすぎているか。ウォルトンの胆汁質が間延びしてしまったように聞こえた。この人の演奏の特徴は、大掛かりだが透明で感情をあらわにしないところだろうか。この曲では違和感を感じた。

ギブソン指揮スコティッシュ・ナショナル管(CHANDOS)1983

オケが弱く、ギブソンの発音もややアクが強すぎる。

○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

イギリス20世紀産交響曲で1,2を争う名作とされるが、プロコフィエフ的に分断され続けるシニカルな旋律にシベリウス的なキャッチーな響き、壮麗で拡散的なオーケストレーション(弦のパートが物凄く細かく別れたりアンサンブル向きではない華麗だが細かい技巧的フレーズが多用されたり)が、粘着気質のしつこく打ち寄せる波頭に煌くさまはちょっとあざとく感じるし、最終音のしつこい繰り返しも含め、長々しくもある。改訂で単純化というか響きを軽く聴きやすくされたりしているようだが、演奏スタイルも両極端で、ひたすら虚勢を張るような音楽を壮大にしつこく描き続け(て飽きさせる)パターンと、凝縮的かつスマートにまとめて聞きやすくさっと流す(ので印象に残らない)パターンがある。

そもそもライヴ感があるかどうかで印象が大きく違う。ロシアの大交響曲のように、ライヴでは力感と緊張感でしつこさを感じさせない曲なのである。ただ言えるのはよほど腕におぼえのあるオケに技術を持った指揮者でないと聴いてられない曲になってしまう恐れが高いことである。

プレヴィンの新録は日本では長らく手に入る唯一の音盤として知られてきた。RVWの全集など英国近代交響曲録音にやっきになっていたころの延長上で、RVWのそれ同様無難というか「整えた感じ」が「素の曲」の魅力の有無を浮き彫りにし、結果名曲とは言いがたいが演奏によっては素晴らしく化けるたぐいの曲では、図らずも「化けない」方向にまとまってしまう。旧録のLSOに比べロイヤル・フィルというあらゆる意味で透明なオケを使ったせいもあろうが、凝縮というより萎縮してしまったかのように表現に意思が感じられず、プレヴィンの技のままにスピーディかつコンパクトにまとめられてしまっている(この稀有壮大な曲でそれができるプレヴィンも凄いとは思うが)。ライヴ感が皆無なのだ。ステレオ録音の音場も心なしか狭いため、50年代押せ押せスタイルならまだしも、客観的スタイルでは入り込めない。

4楽章コーダの叩き付けるように偉大な楽曲表現にいたってやっと圧倒される思いだが、1楽章冒頭から長い序奏(構造的には提示部?)の間の次第に高揚し、主題再現で大暴れするさまがもっと演出されないと、両端のアーチ構造的な「爆発」が「蛇頭龍尾」という形に歪められてしまう。スケルツォと緩徐楽章はこのさいどうでもいいのだ。形式主義の産物にすぎない。いずれ後期プロコフィエフの影響は否定できないこの曲で、絶対的に違う点としての「無駄の多さ」が逆に魅力でもあるわけで、無駄があるからこそ生きてくるのが壮大なクライマックス。無駄を落としすぎているのかもしれない。

かなり前、これしか聴けなかった頃はよく聴いたものだが、録音のよさはあるとはいえ、もっと気合の入った、もっと演奏者が懸命に弾きまくる演奏でないと、複雑なスコアの行間に篭められた(はずの)真価が出てこないように思う。入門版としては適切かもしれないので○にはしておく。カップリングの有名な戴冠式行進曲2曲のほうは非常におすすめである。ひょっとして録音が引きになりすぎているのかな。プレヴィンはモーツァルト向きの指揮者になってしまったのだなあ、と思わせる演奏でもある。だからこそ、1966年8月録音のLSO旧盤のほうが再発売され続けるのだろう。

◎プレヴィン指揮LSO(RCA)1966/8/26,27ロンドン、キングスウェイホール・CD

作曲家墨付きの凄演だ。力ずくで捻じ伏せるように、腕利きのLSOをぎりぎりと締め上げて爆発的な推進力をもって聴かせていく。部分においてはサージェント盤はすぐれているが全体においてはこちらが好きだ、と作曲家が評しているのもわかる、部分部分よりも大づかみにぐいっと流れを作り進めて行くさまが清清しい。とくに叩きつけるような怒りを速いスピードにのせた1楽章が素晴らしい。しかし部分よりも全体、というそのままであろう、これだけあればいいというたぐいの盤ではないが、これだけは揃えておきたい盤である。クラシックの音楽家としてはまだ駆け出しだったはずのプレヴィンが一切の妥協なく集中力を注いだ結果がこのまとまり。まとまらない曲で有名なこの曲がここまでまとまっている。ベストセラーさもありなん、この非凡さはまだその名を知らなかった作曲家の心をとらえのちに交流を深めたようである。◎。

○コリン・デイヴィス指揮LSO(LSO)CD

この曲はスコアリングに問題があるといわれ、細かい仕掛けをきっちり組み立てていこうとすると妙にがっしりしすぎてしまったり・・・曲自体はシベリウスよりも軽いくらいなのに・・・リズムが重くなってしまったり、だいたい過去の録音はそのようなものが多い。新しい自作自演ライブや、たとえばスラットキンの有名な録音などは逆に明るい色調が浅はかな曲であるかのような印象を与えてしまっている、これは恐らくスコアを綺麗に整理しようとする意思が過剰になってしまったのか、単にオケのせいなのか・・・コリン・デイヴィスの演奏はそれらに比べ非常にバランスがよい。決して重過ぎず、明るすぎもしない。一つにはオケの力量があると思う。ヴァイオリンの細かいポルタメントがその気合を裏付けているとおり、演奏に一切の弛緩がなく、技術も十分であるからそれが音になって現れている、更にプラスして音響に適度の重さが加えられ整えられている。ファーストチョイスには素晴らしく向いているし、逆にこれだけでいいという向きもあっていいだろう。3楽章のような冷えた響きの緩徐楽章に旋律のぬくもりを加えて独特の感傷をかもすところ、これはコリン・デイヴィスの得意とする世界だろうか。かなりの満足度。○。

ほかグーセンスなど・・・

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交響曲第2番(1959)

○セル指揮クリーヴランド管(sony)1961

~全編焦燥感に満ち唖然とするほど精妙な管弦楽法に彩られているが、過去のスカピーノのような曲で使われていた「つなぎ」の部分を寄せ集め、交響曲第一番かチェロ協奏曲ふうの暗い雰囲気の中にがちっと組み合わせて作ったような感じで、正直楽想の貧困さは否定できない。ヒンデミットのようなアクの強さがあれば律動だけでも曲は作れるが、両端楽章は彼自身の祝典音楽を彷彿とさせながらも旋律自体に魅力が薄く、「映画音楽」としては万全な伴奏となりうるだろうが、純管弦楽としては今一つだ。中間の緩徐楽章が数十年前にはやったようなロマンティックな音なのも意外だし気になる。3楽章制。余りに流麗な筆致を持て余して作ったような・・・これほど複雑精巧なスコアはセル・クリーヴランドくらいの技術がないと再現無理である。逆に、こういう演奏で入らないとこの曲には馴染めまい。音響構造物の複雑な響きにただ溺れよう。演奏的にも非常に集中力が高い。録音もまあまあである。長らく店頭より消えていたが国内盤で復刻嬉しい限りである。

○クリップス指揮NYP(vibrato/DA:CD-R)1964/10live

例によって録音拠れが激しくクリアなステレオなのに不安定なところが多々、とくに1楽章の瞬断頻発などちょっと鑑賞のレベルを超えているが、2楽章以降は普通に聞けるし、俊敏でリズミカルな演奏ぶりはこの両者の能力をよく示しているといえるので○。あ、曲ですか、曲についてはウォルトン晩年の技術を示したもので内容はありません。刹那のアンサンブルの饗宴を楽しむ曲で、旋律もへったくれもない。

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戴冠式行進曲「王冠」

◎ボールト指揮BBC交響楽団、メイソン(ORG)(VAI)1937/4/16・CD

初演者による覇気溢れる演奏。現代のウォルトンの清新なイメージとは違い、行進曲の伝統・・・特にエルガーの流儀・・・をしっかり踏んだ非常に格調高い演奏だ。ニキシュを彷彿とさせる(といっても私には伝ニキシュ指揮のロシアの行進曲「ドゥビーヌシュカ」のイメージしかないが、そのスタイルはかなり似ている)前進力に胸がすく。重量感ある響きがドイツ後期ロマン派的な音楽を形づくっているが、ウォルトンの明るい作品にきかれるからっとアメリカ的に透明感ある響きを好む人には薦められないかというと、けしてそんなことはない。ジョージ六世戴冠式のために作曲されたこの曲は、一度聴けばはっきりわかるが「威風堂々第1番」を踏まえてそれにのっとったような作品であり、このような流儀も十分受け容れる素養はあるのだ。聴けばそのちょっと聴きの古さに躊躇するかもしれないが、技術を超えた表現の力が、そしてボールトの確かな棒の紡ぎ出す国王戴冠式のための勇壮な音楽が、現在でも愛好される素晴らしい旋律をそのまま旋律の魅力で聴かせるのではなく、総体として充実した響きをもって、圧倒的な迫力で向かってくる。いや、向かってくるというのは適切な表現ではないかもしれない。喜びに満ちた大団円の行進といった感じだ。大団円とはいえ莫大にはけしてならない。ボールトはそういう指揮者ではなかった、最後まで。締まった解釈はオケの技術を越えてしっかりしたフォルムの音楽を作り出す。それが個性的か個性的でないかは関係ない。大体個性とはどんなものなのか、一つの尺度だけで測り出せるものではあるまい。ボールト晩年の不遇?の原因はスター性がなくなったことだけだ、私はそう思っている。なぜって、この録音のなされた時代には少なくとも確実に、スターだったのだ。同時代の作曲家の作品をこのニキシュの弟子は初演しまくっている。感情的な録音記録もなくはない。ボールトのキャリアは早すぎて、長かった。しかし長かったけれども手抜きは一つとてない。これぞプロフェッショナル、である。ちなみにこのスコアは現行版とはかなり違っている。第一主題の展開部に比較的長いフレーズの挿入(もしくは現代は削られている原形部分)が聴かれる。オーケストレーションも重心が低めに聞こえるので詳細検討はしていないが違っている可能性は高い。上記「ドイツ的」という感想はそのせいもあるだろう。いずれにせよこの演奏は現行版の威風堂々的なあっさりした構成の作品としてではなく、一つの交響曲の終楽章を聴いているかのように充実したものとして聴ける。録音の悪さなどどうでもいい。自身も優れた指揮者であったエルガーが認めた指揮者なだけに、ちょっと前のエルガー指揮の録音に聴かれるスタイルにも似た力強い演奏。◎しかありえない。

バルビローリ指揮王立軍楽学校のトランペッター&バンド(BBC/IMG)1969/11/19LIVE

バルビにウォルトンの録音があるとは!と驚かされた盤だ。演奏はといえば正直溜めすぎ揺らしすぎ(とくに緩徐的な第二主題)。行進曲なんだからケレン味を持ち込むのはよくない。大変に開放的で派手な演奏となっており、最晩年のバルビにしては生命力に溢れているが(まあライヴということもあるのだが)持ち込み方が間違っている。曲が悪いか。威風堂々第1番のパクリ的楽曲でありながらも決してエルガー的ではないこの曲、バルビも威風堂々では素晴らしいがここではやや落ちるか。まあ、一期一会の演奏をどうこう言うのも無粋だろう。最後ブラヴォーが叫ばれる。

○プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

エルガーの跡を継ぐ名行進曲としてブラスバンドでも頻繁に取り上げられる、非常に演奏効果の高い曲だが、ここでもカップリングの交響曲第1番と比べて比較にならない迫力ある表現がとられており(「ロイヤル・フィル」ですからね)感情的効果の高いものになっている。弛緩もせっかちさもなく、これでしかありえない、という気高くも浮き立つ気分が素晴らしい。かといって他にもこのくらいの演奏はあるので最高評価にはしないが、引いたような交響曲の演奏スタイルとのギャップがあった。

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戴冠式行進曲「宝玉と杖」

◎プレヴィン指揮ロイヤル・フィル(TELARC)CD

「王冠」よりはマイナーだが同じく色々な式典で使われる名行進曲である。比較してややメロウで感傷的であるかもしれない。現エリザベス2世の戴冠式用行進曲。この演奏は併録「王冠」よりも更に迫力があり、なまじ二番煎じ(威風堂々を一番茶とすれば三番?)の曲なだけにこれだけ威力を発揮する輝かしい演奏は◎にしなければならないと思わせるものがあった。

○サージェント指揮ロンドン交響楽団(alto他)1954・CD

威風堂々と並び余りにも有名なウォルトンの二曲の行進曲の後のほう。サージェントは程よく雄渾で響きも絶妙に艶めいて出色だが(シベリウスが得意だっただけある)、それゆえ世俗的な雰囲気が出過ぎているように聴こえる。軽めで、リズム取りがやや「格好をつけている」ような感を受ける。弾むようなフレーズの切り方に若干遅めのテンポが、娯楽性を煽り過ぎて戴冠式行進曲というよりジョン・ウィリアムズ全盛期の映画音楽のようになっている(もちろん曲はJWが真似たのであるが)。録音が一部撚れたり古くなってしまっている部分もある。展開部の緩徐主題は雰囲気があって懐かしい感じがしていい。◎にする人もいると思う。○。

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喜劇序曲「スカピーノ」(1940/50)

作曲家指揮フィルハーモニア管(EMI)1952/LSO(LYRITA)1971

ヒンデミットとウォルトンは作風に一定の共通点を感じる。無論前者全盛期の尖鋭なスタイルは後者円熟期のロマンティックなスタイルとは全く異なる視座にあったわけだが、ウォルトンのヴィオラ協奏曲初演以来、終生の友情を持った背景には、何か「時代」に対する皮肉めいた調子、音楽ゲイジュツに対する揶揄の感があるように思う。作曲技巧の点でひとつの高みに達していたこの二者が、一般庶民向けの作品を送り出すことに一つの意味を見出していたのは、同時代の流れとだけでは捉え切れない本質的な類似性を感じる。まあ難しいことを考えずに聞いてもなんとなく共通点を感じることもあるだろう。ミヨーもヒンデミットと似た音響感覚を持っていたように思うが、後者の凝縮・吟味された曲構造は前者の多分に感覚的なものとは掛け離れている。「キレの良い構築性」とでもいおうか、ウォルトンとヒンデミットは少し似ている。覚めている。「時代」に対して、さめている。ヒンデミットの主題による変奏曲など、ウォルトン以外の誰が思い付くだろうか?書こうと思うだけ凄い。しかもこれが後年のウォルトンには珍しいキレの良い大曲だったりする。ヒンデミットの晦渋な作品への揶揄ともとれるほど、明快だ。後年のウォルトンはさっさと南の暖かい島に隠居?して、「作曲技巧の披露」とそれに対するそれなりの「対価」を得るという”売音商売”に割り切った感もあるが、その楽天的ともいえる態度にはヒンデミットの密度が濃く深刻な作風とは異なる、肩の力の抜けた、すっきりした美質を備える作風が宿った。かつての作品のぶあつい管弦楽を、薄くアクを抜くように改訂していったことにもその心境の変化が伺える。二曲の戴冠式行進曲、ヨハネスバーグ祝典序曲という吹奏楽でもお馴染みの超名曲(威風堂々のパクリだあ?曲をちゃんと聞き給え!)はそのエッセンスが詰まった曲だ。そこに加えてここで挙げるのは「ティル・オイレンシュピーゲル」を彷彿とさせる下敷に基づく「スカピーノ」(改訂版)である。ひとことで言って”新しいリヒャルト”、といった雰囲気の曲。冷鋭なウォルトンのイメージより少し離れた、ややドイツ的な体温の高い抒情がある。さらに、最初にヒンデミットとの共通点を挙げたのは、同曲が戦時下でフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルにより演奏された*、ということを書きたかったからである。勿論録音は残っていないが、有名なヒンデミット事件も想起する現代(しかも敵国の)曲の採用にフルトヴェングラーの音楽にたいする公平な態度も伺える。もちろん「マチス」とは比較にならない「純娯楽的作品」であり、ここに凝縮されたじつに美しい響きや憧れに満ちた旋律の数々、簡潔で目覚ましいオーケストレイション、アメリカ的な突き抜けたリズム感覚は全く最高のストレス解消剤だ。それどころかこの凝縮された小曲、ウォルトンの代表作といっても過言ではないだろう。映画音楽以上に映画音楽的(スカピーノという劇は作られていない。序曲だけ)。EMIの自演盤には実に優美な歌が溢れ(やはりフィルハーモニアの弦楽器の音におおいに魅了される)、ウォルトンの水際立った指揮ぶりにも胸がすく思いだ。スピー
ド感に満ち駆け抜けるこの演奏に対して後年のロンドン交響楽団との演奏は精彩に欠け只ソロ楽器の音の透明さに惹かれるのみ。モノラルだろうが何であろうが、EMI盤のドライヴ感には是非接してみて頂きたい。いや新しい演奏もあるので、スラットキンあたりで聞いて頂いてもよい。ウォルトンを知っていてこれを聞かないのは、どう考えても損だ。

*(後記)この曲がフルトヴェングラーに初演されたというのは疑わしい。シカゴ交響楽団50周年委属作ですし。

◎ストック指揮シカゴ交響楽団(HISTORY)1932?/4/14パリ

うわ、無茶かっこいいな。速いしシャープだし、こういう演奏じゃないと作曲家の諧謔性は浮き立ってこない。シカゴ交響楽団の技量に驚嘆。中間部で各声部が有機的に絡み合う場面など完璧に表現してなお艶めかしてポルタメントまで交えたりなんかしちゃったりして。弦楽器の水も切れるような鋭い演奏ぶりは胸がすく思いで、それらを牽引する非常に前進的なテンポもいい。また、リズム感のいい演奏家じゃないとウォルトンの演奏は勤まらない(晩年のウォルトン自身も自作自演がつとまらなかった)。その点シュトックは立派にお勤めしている。即物主義的に凝縮されつつも娯楽的な光彩を放ちつつ突き進む姿は同曲演奏の理想形だ。古い録音だが、そもそもウォルトンの演奏は同時代の古い演奏のほうが時代の空気を共有しているせいか強い意志とそれを煽る焦燥感があり曲にマッチしているように思う。晩年オーケストレーションを合理化して軽く響かせるように編曲したウォルトンであるが、私は鈍重でも激しく動こうとする葛藤が見られる古いオーケストレーションのほうが好きです。これ、おすすめです。20世紀の指揮者ボックスまだまだ異常に安いですし。演奏日がおかしい。作曲前に演奏?

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「スピットファイア」前奏曲

○ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(WING)1948LIVE

冒頭序奏部分に大きなタメを作って壮大に始まる演奏。映画音楽の作曲家による編曲だが、ウォルトンらしい行進曲は楽曲だけでも魅力十分。かれの戴冠式行進曲が好きな人はぜひ聞いてみましょう。じつに爽快な楽曲をストコフスキは主部ではさほど揺れずに颯爽と振り抜けている。もっといい録音で聴きたかった。通常「フーガ」と組みで演奏される。

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ポーツマス・ポイント序曲

○ボールト指揮BBC交響楽団(VAI)1937/4/16・CD

速い速い。このくらいの速さじゃないと締まらない。意外と、かなり意外と面白く聞ける演奏で、この曲に名演がないなあ、と思っていたらこんなところに名演が、といった感じだ。演奏流儀が所謂ドイツ風なので、しかも多分初版にのっとった重いオーケストレーションをとっているため、今のこの曲のアメリカ的なリズミカルな明るさというのがちっとも出ていないが、音楽的にはとても充実しているし、こういう曲として聞けばこれしかない、と思うだろう。私は持っている演奏の中ではこれが一番好きかもしれない。コープランドのように流麗ではなく、敢えてリズムを断ち切る休符が頻繁に挿入されるがゆえに、しっかりアンサンブルしようと組み立てにかかると音楽が途切れ途切れになってイマイチ莫大になってしまう。現代の演奏(晩年の自作自演含む)はいずれもこの穴に落ちている。まずは推進力なのだ、こういう喜遊的な曲は。録音の悪さを差し引いて○。

○ボールト指揮ロンドン・フィル(EMI)1967/7/27アビーロードスタジオ・CD

リズムのキレは悪いが歯ごたえのある演奏で、当たりの厳しさ重厚さはならではの魅力。スピード感もそれほど悪くはなく、諸所でマニアックな構造がきちんと整理されないごちゃっとした響きがきかれるものの、これは作曲家・指揮者の相性の問題で、ボールトがそれほどウォルトンに執心でなかったのもわかる気がする。同曲でアメリカンな面を強調したウォルトンに対しボールトはドイツ派であることにこだわったということだろう。ステレオの好録音。 (2006)

ステレオで、時代なりではあるが明快な録音状態。それだけにボールトのリズム感が気になる。前に向かわずブラームスのような縦型の取り方なのだ。自作自演でもステレオのものは似たような感じになっているのでそもそも曲がまとまりにくいせい(改訂のせい?)かもしれないが、自作自演よりはいいものの、ちょっと気になる。音響感覚もやや鈍重だが、ボールト的にはまだいいほうかもしれない。確か初演もボールトで古い録音は改訂前のものだったと思うが、古いほうが寧ろ若気の至り的な曲の若々しさを引き出していたようにも思う。オーケストレーションは明らかに中欧ふうの重いものだったんだけど。○。 (2008/12/19)

ミトロプーロス指揮ミネアポリス管弦楽団?(NICKSON/COLUMBIA)1946/3/10・CD

きちんと折り目正しい演奏で意外。オケがメロメロなので縦を揃えないとどうしようもないと考えたのかもしれない。ただ、硬直化した遅めのテンポはドイツ的で、最初は違和感を拭えなかった。でもそういうスタイルのために内部崩壊が抑えられ、最後は込み入ったウォルトンの書法を楽しむことができた。ウォルトンのジャズの影響を受けたリズムパターンは変則的でちょっとノりづらく、演奏に弾き辛さが出てしまっていることが結構多い。それを考えるとこの演奏は健闘しているほうだと思う。この曲はアホのようにからっと明るい演奏が多いが、録音が古いせいもあってここではちょっとくすんでいる。演奏技術と録音状態(それでもニクソンの復刻は篭りを抑え良くできている)の問題から○はつけられないが、ミトプーの意外なレパートリーとして、マニアは聞いといていいかもしれない。これはミトプー専門個人?レーベル(最近はミトプー以外も出しているようだが)ニクソン初期のSP復刻CD盤で、小品集の中の一曲。この10年後にドキュメントレーベルの超廉価ボックスが主要な収録音源であったプロコ「古典」ミヨー「屋根の上~」ラヴェル「クープラン」を一気に復刻してしまったので価値が下がったが、デュカスやグリエールといった入っていないものもあるので、マニアなら探してもいいかもしれない。安いし。

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管弦楽のためのパルティータ

作曲家指揮ニュージーランド交響楽団(BRIDGE)1964

作曲家の筆のすさびの典型のような曲で、ウォルトン好きはこのマニアックで効果的な管弦楽法にめくるめく快感をおぼえるかもしれないが、個人的にはあまり好きな方ではない。とても内声部がすっきり聞こえる演奏で(この曲にかぎらないが)スコアを観ながらだと楽しめるかも。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1967/9/28live

ウォルトンの人気作にしてセルのレパートリーでもある。これは録音に難あり。ノイジーなエアチェックものでステレオではあるものの昔よくあった左右の分離の激しいアレに近い。オケの響きも浅く薄く聴こえ、それでもやはり底力のあるオケだから瑕疵はそれほど目立たないのだが(セルにしては普通の出来か)、軽快な曲であるからこそ重みある響きを求めたい部分もある。セルはとにかくウォルトンの込み入った書法をさばくのが無茶苦茶上手い。客席反応もいい。○。

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1968/2/7ボストンlive

筆のすさび系の曲だがスカピーノやヨハネスブルグ祝典序曲系のわかりやすい組曲で旋律美からも一部で人気がある。セルはオケの機能性を活かした迫力のサウンドを繰り出し、旅演ということもあってか緊張感も漲り、内容空疎な面もあるが、楽しめる。

○バルビローリ指揮バヴァリア放送管弦楽団(DA:CD-R)1970/4/10

フランス語放送のエアチェックのようだが元は正規録音か。同時代音楽の要素を貪欲に己が作風に取り入れていったウォルトンであるが、この曲は冒頭トッカータからはっきりルーセルの舞踏要素が取り込まれていることがわかる。新古典的な題名からして似通った作風になるのは必然かもしれない。ルーセルのようなアクの強さがなく、50年代の作品らしい円熟味をみせており、チェロ協奏曲と共通する構造もみられる。2楽章パストラーレ・シシリアーナはヴァイオリン協奏曲などより過去の自分の作風に近い世界に回帰している。同曲内では晦渋な楽章だが円熟期後のウォルトンにしては聞きやすい。マーラーなどかつてのウィーンの作曲家の世界を仄かに思わせるところがベルクらとも交流のあったこの人の才気煥発な頃を思い起こさせる。プロコを想起する向きもあるかもしれないが、ウォルトンはプロコから甚大な影響を受けていてアメリカで直接的交流もあり、その関係性は一言では言えない。ブラスとハープによる空疎でも独特の冷え冷えした感傷を秘めたひびきがこの人の鋭敏な耳を証明している。3楽章ジーガ・ブルレスカはウォルトンの作品らしい~ほぼ同時期のヨハネスブルグ祝典序曲を思わせる~喜びに満ちた、しかしどこか暗くシニカルな調子も含む楽曲で、調性にルーセルを思わせる雰囲気もある。この後やや才気に陰りをみせ60年代以降には代表作と呼べる作品がなくなるのだが、パルティータは現代でもよく演奏される洒脱な大規模管弦楽作品としてウォルトン評価に欠くことのできないものである。

バルビは同曲初演直後より取り組み演奏記録も数多い。この録音はバイエルンとの最晩年のもののわりにスピードがあり弛緩傾向がない。オケが鈍重でウォルトンの洒落たリズムを壊しているところも2楽章などに見られるが、おおむねバルビのドライヴィングの巧さが光る。3楽章ももっと飛び跳ねるような感じが欲しいがある程度は書法のせいでもあろう。リズムと楽想の洒脱なわりに音響が重い。そのへんもルーセル的ではあるのだが、バルビだから尚更気になるといえば気になる(もともとリズム系の指揮は巧いとは言えない人だ)。ゴージャスな響きはそれでも旋律とともに気を煽るに十分であり、胆汁気質の長々しい楽章を気品と下品の行き来する表現の切り替えの巧さで壮大に仕上げている。前半楽章のほうが締まっていていい感じもする。演奏自体は恐らくスタジオ録音なりの過不足ない出来である。ステレオで少し篭る感じもするがおおむね聞きやすい。一箇所放送撚れが残念。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/29live

初演後まもない演奏でDAはエアチェックの音のみ。一部情報ではVAIの映像が同じものとされるが(ブラ2など30日のライヴとのカップリングという説)VAI盤には2月3日の表記と同日プログラム写真を含む詳細が記載されているので別としておく。ステレオでソリッドで高音域も比較的よく捉えられているがボストンライヴ記録の常、輪郭がちょっとボロけている。演奏はちょっとバルビのコントロールでは無理なくらい早くかなりのバラケ味が感じられる1楽章からあれ、と思わせる感じがある。ごちゃっとしてしまうのがウォルトンの複雑な書法だが、太鼓などのリズム要素強調とアーティキュレーションの強さで力づくで押し切る方法で乗り切っているのはいかにもバルビの50年代といったふうで好きな人は好きだろう。セルを意識しているのかもしれない。アメリカ的ともいえ、比較的軽く明るい感じがある。2楽章はシニカルで末流ロマン派の香りたっぷり。軽妙で妖しい調子はラフマニノフ晩年に似ていなくも無いが、バルビは引き締まった音響表現で魅せている。晩年とはまた違った若いドライヴ感が維持されている。この楽章ではソリストの表現の深さや独特さ含め、合奏協奏曲的な楽曲構成を繊細に、しかし芯の通った表現でまとめて秀逸である。旋律性がよく浮き彫りにされている。3楽章は一段と速く、そのスピードによってリズムを生み出そうとしているような感じがあるが、オケコントロールはさすが巧い。フレージング指示に弛緩がなく、スピードだけにならずリズムだけの舞踏音楽にもせず、アメリカ的な破天荒なペット以下ブラスの咆哮のおかしみ、また中低音域でうねる余りにシニカルな半音階的楽想がバルビの旋律的な音楽美学とあいまって重層的な深みをかもし、単なる表層的な喜遊曲ではないところを魅せて面白い。乱れなのか意図なのかというところもあり、この演奏ではなかなかに聞かせる楽章となっている。やや浅さもあるものの○。

○バルビローリ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1959/1/30live

録音は極めて明瞭で抜けがよく迫力のあるものでダントツなのだが、媒体撚れや放送撚れもかなり目立ち、1楽章前半と3楽章の一部にみられる左右の位相バランスの崩れ、更に2楽章のホワイトノイズは(情報量が増えるぶんホワイトノイズが増えるのは仕方ないのだが)相当に聞きづらい。演奏自体も落ち着いてきており精緻と言えるレベルまでたっしているのでとても勿体無い。バルビの演奏は乱れがちなわけではなく昔のステレオ録音では捉えきれない細部への拘りが縦横に敷き詰められているために乱れて聞こえがちなのだ、という話もうなづける部分がある演奏ぶりで、ボストンの管楽ソリストや弦楽セクションの演奏レベルの高さのほうに耳がいってしまい全体がぼやけて聞こえてしまうほどである。3楽章はそのためにバイエルンとの晩年の録音に近い、テンポを煽るよりゴージャスに落ち着いて響かせるほうに神経がいっているのがよくわかる。そこが長々しくて飽きるゆえんでもあるのだが・・・これは作曲家のせいだろう。○。ボストン初演というナレーションが入るがこなれ具合からして30日のほうの録音であっていると思う。

○シルヴェストリ指揮ボーンマス交響楽団(BBC,MEDICI)1965/5/7・CD

ロヴィツキを思わせるひびきの雑然としたさまがみられるシルヴェストリだがウォルトンで多用されるブラスの破壊的な響きが今ひとつメロウであるのも、鋭く揃った表現を余りとらないこの人らしいところか。弦楽器はよく鍛えられているが今ひとつ強く訴えてこない。ウォルトンらしくない表現であり、何かヤナーチェクとかそのあたりを演奏しているような曇りを感じた。○にはしておく。

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ヒンデミットの主題による変奏曲

○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1970/1/15live

クリーヴランド定期最後のシーズンとなったライヴの記録の一つ。曲はウィーン・フィルとの映像も正規化されているセルのレパートリーで、他愛のない、ウォルトン節陳列棚のような曲だがオケの威力を見せ付けるには適した苛酷な書き口、ここでも冷たく熱したオーケストラのハタラキを聞き取ることができる。円熟も未熟もなく、しかしこの曲はこれでいいのだろう。○。

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ブリテンの即興曲による即興

○クリップス指揮ACO(RO)1972/1/27live

なるほど単純な即興である。構造的な部分の殆ど無い、旋律を厚ぼったく味付けしただけの単線であり、一部、ハープと木管ソロの断片化したフレーズの連環だけによる表現などウォルトンらしくない室内楽的な単純さが却ってブリテン的な冷えた印象派世界を思わせ秀逸だが、全般として筆のすさび感は否めない。ブリテンふう音楽をウォルトン語法でやってみました、というような感じだ。クリップスはさすが流れよくリズミカルな表現が光る部分はあるがおおむねオケの鈍重さに引きずられているように感じた。聴衆もやや戸惑い気味である。録音も正規ものとしてはそれほどよくない。曲はともかく演奏的にまあまあなので○にしておくが、マニア以外は無理して聴くこともあるまい。


つづく

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