<(1892-1974)ロシア五人組を模して評論家が名づけた所謂「フランス六人組」の旗手。エクス・アン・プロヴァンスのユダヤ人集落に生まれ、パリに出て流行の印象派音楽にアンチテーゼを唱える若き作曲家集団の中心となる。反ドビュッシストと目された単純の作曲家にして、ダダイストの祖
エリック・サティを理念上の師としたジャン・コクトー周辺では、最もサティに近しかった存在であり、「家具の音楽」の共同作業に象徴される前衛的な気風を最も受け継いでいる。ピアノ曲にはほぼサティに倣ったような曲もみられる(但しこの時代ラヴェルを始めとしてサティの影響範囲は広かったのだが)。サティ自身のエピゴーネンを忌み反骨精神を貴ぶ考え方は、即物的で新古典的というだけで、作風がバラバラの六人組のゆるやかな結束にマッチした考え方であった。ソーゲやデゾルミエールの「アルクイユ派」のサティ取り巻き的様相とはまったく異なる。ストラヴィンスキーやシェーンベルクにも深く傾倒していたが、ミヨーの個性を根本的に変えるものにはならなかった。また、歌唱を伴う曲ではドビュッシーの影響も指摘される。反ドビュッシイストのレッテルはミヨーに限って言えばあてはまらなかったのだ。
ミヨーの得意とした複調性に代表される新鮮なハーモニーや、ポール・クレーデルの秘書として渡った南米での音楽経験を肥やしにした、自由で楽天的な旋律の創造は、ラヴェルの言葉を借りればまさに天賦の才と呼べるものであった。あらゆる分野のあらゆる規模の曲を残した多産家であるが、頂点は初期の6人組時代前後にあったともいえる。単純化・古典/アルカイズムへの傾倒があらわれた、短編歌劇や室内交響曲などごくごく短い曲の群れは、類希な美しい芸術的結晶であり、其の時代のフランスにおける最も優れた作品群である。反じて言えば作曲活動開始時よりほぼ独自の作風を確立していて、長い生涯はその純化や複雑化の循環に終始していた。とくに後年戦争のためアメリカに避難して後は、ロマンティックな傾向が強まるのと並行して凡作が増えたようである。戦後パリ音楽院に復帰したときにはすっかり時代遅れであり、メシアン門下のブーレーズらから攻撃される側にいたように感じるが、著作を読む限り晩年まで現代音楽に非常に好意的で、自身の作風とは別物であったようだ。教育者としてもヒンデミットとならび非常に優れており、日本人作曲家も多数学んでいた。 >
交響曲第1番(1939)
○作曲家指揮 CBSso(cascavelle/columbia他)CD
このプロヴァンスの作曲家は膨大な数の作品を残しているし、20世紀音楽史上にも名を残した人物であるにもかかわらず、その音楽はマニアとプロ以外には殆ど知られていないのではないでしょうか。CDにしてもフランス6人組時代の喜遊的な表題音楽が、「ジャズの影響」「ラテンのリズム」と称して出る程度。弦楽四重奏曲など純音楽指向の曲もたくさんあるので、もっと聞かれて欲しい、と思います。交響曲については、小交響曲と題されたミニアチュールが集中的に書かれた後、円熟期より本格的に取り組まれたもので、晩年まで15曲位(?)作曲されました。分かりやすさという点では、1桁番号のもののほうが良く、番号が若いほどみずみずしい感性が溢れた才気溢れる歌を聴くことができます。1番は冒頭のフルートソロから古雅な雰囲気を漂わせ、春の陽のように美しい曲想は小交響曲1番によく似ています。旋律の流れを時折不協和音が横切るところは好悪別れると思いますが、私などはエリック・サティの思想の昇華といった好意的な聞き方をしてしまいます。各楽章に共通する楽想はなく、全体に組曲風ですが、総じてある種の心象風景を描写したようでもあり、RVWの田園交響曲に共通する思考の発露すら見出してしまいます(出てきたものは全く違いますが)。新古典的といいながらはっきりとした古典回帰はなく、「空想の古典主義者」といった趣であります。終楽章は対位的な構造を用いながらも独特の複雑なハーモニーを乗せて、祭典の気分を盛り上げています。LP時代にはミヨー自身の指揮のものがありました。4番8番の組み合わせでエラートから出ているCDもお勧めです。他3、10番と小交響曲が2組までは確認していますが、他にも振っているかもしれません。(註:1番自作自演盤は2003年CD復刻した)
交響曲第2番
○ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)1953/11・CD
かつて日本では協奏曲の伴奏指揮者としてのみ知られる知る人ぞ知る存在であったが、比較的多数の録音を残したモノラル期の名匠であり、EMIの復刻は再評価への恰好の指標となるものである。ドイツ偏重のこの国にもこれら復刻によってフランスやラテン諸国の十字軍指揮者への評価が一過性のものではなしに定着すればいいのだが。
手堅いながらも非常に計算された演奏で、散漫でアイヴズ的カオスを呼びがちなミヨーの音楽に一本筋を通している。複調性によるフレーズも聞きやすい響きに整理され、繊細で牧歌的な色彩を強めている。2楽章あたりの硬質で烈しい楽想もオネゲルふうに緊密に仕立てられ飽きや理解不能といった事態を避けることに成功している。リズムにみられる南米ふうのズラしは余り強調されないが、このスタイルにはそれが正解だろう。半音階的な奇妙な旋律も奇妙と感じさせないまっとうさに○つけときます。
交響曲第3番「テ・デウム」
ロジェストヴェンスキー指揮ロシア国立交響カペッラ(OLYMPIA)1993/4LIVE
現役盤(CD)としては自作自演盤があるのみだと思う。神秘を孕んだ2楽章がいい。1楽章はどことなく野暮ったく、ミヨーの欠点とも言うべきぶよぶよな面が強調されてしまった感があるが、緩徐楽章における合唱の教会音楽的効果が印象的だった。オケがコレなので、どうにも今一つノれないのだが(たぶん演奏者たちもあまり乗り気ではない)、この楽章だけは別、です。3楽章パストラレ、あまりに南仏の雰囲気が「無い」ためがっくり。もっと暖かく、もっと軽やかな音楽のはず。妙にハマっている木管が唯一救いであった。終楽章もまあ原曲がコレなので(さっきからこればっかりや)、無難にこなした、といったふう。才人ロジェストヴェンスキーもわざわざこんな曲を持ってくるとは恐れ入った。このひとのフランスものは悪くないので期待はしたのだが、ライヴではこれが限界なのだろう。無印。オケ名は国立交響楽団と国立室内合唱団の総称とのこと。
交響曲第6番
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1955/10/8LIVE・CD
ミュンシュはオネゲルばかり振っていたわけではなく、ルーセルとともにミヨーも好んで演っていたと言われる。ミヨーは構造的にオネゲルより緩く聞きづらさもあるように思われるかもしれないが、決してアマチュアリスティックだからではなく、先鋭な響きや複雑な運動性を大胆な持論で実現しようとしていたからこそ、座りの悪さや聞きづらさ、疎密の粗さを感じさせる部分が混ざるだけである。保守的な態度を示した交響曲など平易な趣旨の作品では、おおむねそつのなさが美しくあらわれ楽しく収束する。ミュンシュは意外と勢いだけでやっているわけではなく、フランスの作品ではスコアにあらわれる響きの繊細な交感をとらえ、演奏上適切に整理して提示する。ラヴェルくらいになると整理できない複雑さがあるため強引な処理がみられることがあるけれども、精密さにそこまで重きが置かれていないミヨーでは、無造作なポリトナリティを絶妙のバランスで調え、これはしっかりかかれているポリリズムはしっかりなおかつ弾むような明快さをもって表現し、ミヨーの「難点」に滑らかな解釈を加えている。この曲は田園ふうの雰囲気が支配的で聴きやすいので、ひときわ演奏効果があがっている。緩徐楽章にはくすんだミヨーらしい重い楽想が横溢しているが、さほど長くないことと、これは少し適性の問題かもしれないが、北の内陸のほうの曲をやるときのミュンシュのようながっちりした構築性が、ミヨーの意図を直接汲めているかように板についている。最後の壮麗な盛り上がりはミヨーの交響曲録音ではなかなか無い感情的な表現でききもの。ただ録音は悪い。せっかくプロヴァンス的な旋律から始まる一楽章も、無造作に始まりデリカシーなくきこえる(録音のせいだけでもないか)。○。
メスター指揮ルイスヴィル管弦楽団(FIRST EDITION)1974/11/12・LP
不思議な魅力をもった曲でいつものミヨー節(物凄い高音でトリッキーなリズムの旋律をきざむ弦と低く斉唱するブラスといったかんじ)ではなく中欧的であり、もろヒンデミットふうでもある。ミヨーはシェーンベルクに惹かれていた時期があり弦楽四重奏曲にはかなり影響を受けた硬質な作品も残されているが、その部分がとくにこのような「どっちつかずの団体」によって演奏されると浮き立ってくる。フランス人がやったらこんな演奏にはならないしドイツ人だったらまた違うだろう。非常に工夫の凝らされた曲なのだが、演奏、いかんせん下手だ。合奏がなってないし、流れも悪い。盤数をこなすように録音していた指揮者・団体のようで、これは同年の半年前くらいになくなったミヨーを偲んだものと思われるが、アマチュアっぽさは否めない。指揮者も同様である。印はつけられません。
○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD
有名な録音で出た当初は決定版の趣すらあった。ミヨーの「田園」である。まあ、これまでもミヨーは田園ふうの大交響曲(少なくとも楽章)はいくつも書いてきているわけで、これだけを田園と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、古典的な4楽章制でありながら、気まぐれな楽想がただ管弦楽だけにより綿々と綴られていくさまは自然の移りゆく様を彷彿とさせ、牧歌性をはっきりと示している。いきなりミヨー特有のヴァイオリンの超高音の煌くところから筆舌に尽くしがたい美観を魅せ、ヒンデミットに近い管楽器の用法には古雅な音色が宿り、いつもの「踏み外したミヨー」は殆ど姿を見せない。構造的にも円熟したものがあるがそれは余り重要ではなく、素直に聴いて、プロヴァンスの大地にひろがる広大な畑のビジョンを受け取り、ウッスラ感傷をおぼえる、それだけの曲なのである。それ以上もそれ以下も必要ない。プラッソンはゆったりとしたテンポで、繊細な音の綾を紡いでいく。ミュンシュとは対極の「印象派的な」表現である。晦渋な主題にも余り暗さが感じられない。終楽章もミヨー的なあっさりした断裂は無く自然に終焉するように盛り上げられる。オケは上手い。というか、曲をよくわかって、それにあう表現をとっている。解釈がやや茫洋としているため交響曲というより組曲であるという印象がとくに強くなってしまっていて、そこに違和感がなくはなかったので○にするが、本格的なミヨー入門としては相応しい出来だ。
交響曲第7番
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD
ミヨーの人好きするほうの交響曲といえる。晦渋な部分は殆どなく、新古典にたった合奏協奏曲的な音楽は緻密で胸のすくような聞き応えがあり、自在な旋律が複雑なリズム構造をまじえ魅力をはなっている。ミヨーの旋律はときどき失敗するがこの曲の旋律は素晴らしい。形式に縛られたような構成感は好悪あるかもしれないが、普通の人には面白いだろう。オケは個性はちょっと弱いかもしれないが透明感ある響きと技巧レベルは十分。
○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD
掴みが完璧なミヨーの傑作。この並びの交響曲群は初期の不格好な前衛性や末期に表題的に交響曲名称を避けただけの才気が職人的技法に凌駕される頃と比べても、構成はややワンパターンだが聴きやすい。演奏も透明でミヨーを邪魔しない。○。
交響曲第10番
作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)1960年代live・CD
分解して聞けばわかりやすく頭の体操的に楽しめる曲なのだが、まあ、曲が悪いと言うべきか指揮技術の問題と言うべきか、かなり崩壊的な演奏である。とくに1楽章は無茶な装飾音が旋律線を崩壊させ、無闇に縦を揃えようとする余り却って各声部がバラバラになってゆくさまが痛々しい。音程が狂うのも仕方ない跳躍的な展開が多くヴァイオリンは特に大変だ。結果としてタテノリなだけの物凄くたどたどしい演奏になっている。装飾音は個々人の表現は綺麗ではあるがまとまらず、また残響の多いホールのせいもあって細部が殆ど聞き取れないのが痛い(クリアなモノラル録音ではある)。ただ、この残響のおかげでなんとなくごまかされて聞けてしまう部分もあると思う、一長一短だろう。リズムのズレだけはごまかしようが無いが。緩徐楽章は心象的で硬質な響きがモダン好きミヨーの感覚未だ新鮮なところを聞かせて印象的である。チェコ・フィルを使ったのは正解(技術的にはアメリカのバリ弾きオケのほうがよかったのだろうが)、金属質で抜けのいい音がすばらしく美しい音風景を形づくっている(部分的にはこの楽章に限らないが)。3楽章になると入れ子的な構造が面白く、まあ殆どヒンデミットなのだが、厳しく叩き付けるような打音で縦を揃えたのがここではきっちりハマってきて耳心地いい。スケルツォ的表現の中に寧ろ安心して聞けるものがある、ミヨーならではの逆転的な感覚だ。4楽章フィナーレではスケルツォと違い横の流れが必要になってきて1楽章同様ぎごちないリズム処理に弾けてない装飾音がひたすらのインテンポに無理やり押し込められていく。その軋みが音程の狂いとなって全体を崩壊させてゆく。フィナーレ前の静寂にヴァイオリンが一生懸命左手で音程を確かめている音が聞こえるが、この無茶な高音多用では全楽章を通してその繰り返しだったのだろう。結局ほんとにわけのわからないクラスター状の音楽のまま断ち切られ終了し拍手と僅かに戸惑いの声が聞かれる。新ウィーン楽派的であったりプロヴァンス民謡的であったりといった(ミヨーにとっての)同時代要素がぎっしり緻密に詰め込まれているがための雑然~まるでいくつもの美しい原色の絵の具を点描にせずぐちゃっと混ぜ合わせたら灰色の汚い色になってしまったような感じ~が残念だ。これはしかし、ほんとにちゃんと音楽に仕上げるのは演奏技術的にそうとう大変である。机上論理の産物であることは否定できない。でも、現代なら可能だろう。曲が面白いのは確かで、もっと録音が増えてくると真価が認められるものと思う。
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD
全集盤の一枚。よく整理された分析的な演奏で、透明感や細部の仕掛けの聞き易さに一長がある。美しい反面勢いに欠け(もっとも三楽章は素晴らしく愉悦的)、ミヨー自身が強調していたメロディを始めとする曲の聴かせどころが明確でないところや、弦楽器の薄さ(じっさい本数が少ないのだろう)も気になるところだが、全体のバランスがいいので聞きづらいほどではない。戦後ミヨーの職人的なわざが先行し実験性や閃きを失った、もしくは単にオーダーメイドで流して作ったというわけではない、しっかりした理論の範疇において交響曲という分野で4番で確立した自分の堅固な作風を純化していった中でのものであり(ヒンデミットを思わせる明快な対位法がこのようなしっかりした構造的な演奏では非常に生きてくる)、アメリカのアカデミズムにあたえた影響を逆手にとったような響きがいっそう際だっている点はこれがオレゴン州100周年記念作だからというより元々の作風の純化されたものという意味あいの中にあるにすぎない。余りにあっさりした断ち切れるようなフィナーレも元々旧来のロマン派交響曲の御定まりの「形式感」に反意を持っていた証であろう。もっとも単純にこの曲の四楽章の落としどころを失敗しただけかもしれないが。録音秀逸。ミュンシュらやミヨー自身のやっていた流れ重視の主観的な指揮とは違う、繊細な響きと構造の明快さの魅力がある棒だ。○。
○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP
恐らくライヴ。引き締まったリズミカルな演奏でミヨー自身の演奏スタイルによく似ている。細部はともかくちゃんと押さえるところ押さえているので楽曲の把握がしやすい。聴き所のスケルツォ的な三楽章などなかなか面白く仕上がっている。四楽章は勢いに流されてしまった感もあり雑然としてやや凡庸だが、ライヴだから仕方ないかと思う。全般「誰かと置き換え可能な演奏」だとは思うが、この曲の数少ない音盤としては価値があるだろう。二楽章などの静謐さの描き方はやや要領を得ない。四楽章の途中でハープ等から出てくる音列技法的な主題は、委属元であるまんま「OREGON」の文字を織り込んだものとミヨー自身が言及している。こういった名前を織り込むやり方は古来特に珍しいものではなく、現在ショスタコーヴィチの専売特許のように見られがちなのは何か変な気がする。フランセもそうだが、わかりやすい楽曲に突然無調的な静謐な音列が導入されると、曲にワサビがきくというか耳に残りやすくなる。この演奏では旋律性と強引な流れがある程度重視されているがゆえに、そこだけに流される凡庸な印象というものが、無調的主題により覆されるというのは逆説的にミヨーの作曲技法の巧さでもある。晩年作では比較的有名であるのは、単に演奏録音機会が多かっただけでもなかろう。
交響曲第11番「ロマンティック」
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD
全集の一部。ミヨーもこの頃には依属による作曲が多くなり、最終的に交響曲の名を捨てて「~のための音楽」という露骨な皮肉な?題名の曲を量産することになるわけだが、これはダラス交響楽団とダラス・パブリックライブラリーの共同依属作品である。当然初録音だが初演はクレツキ。内容はけして過度にロマンティックに寄っているわけではない。アメリカ新ロマン主義に近い表現はあっても複調性による独特の響きと、これは新たな試みの一つとして投入されているようなダンサブルなリズムがミヨーという未だ挑戦的な作曲家の刻印を刻んでいる。もっとも、型にはまった戦後様式、という主として「内容」にかんする評は変わらない。3楽章制をとっている。演奏は立派である。ちょっと硬くて冷たい感もあるが、ジュネーブで亡くなったミヨーが目指したものに近いところがきっと、この演奏にはあらわれている。○。
交響曲第12番「田舎風」
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD
全集の一部。カリフォルニア大デイヴィス校農業科の依属により作曲されたものだが、パストラルから始まる短い4曲にもかかわらず、昔の小交響曲にみられた牧歌的雰囲気は薄く、わりとラジカルな印象をあたえる。複調性のミヨーというイメージにとらわれない新鮮な書法もあらわれる。演奏は過不足ない。
小交響曲
~第1、2、3、5番
○作曲家指揮ミュージカル・マスターピース室内楽団(MMS他)
頒布盤で出ていたモノラル録音でCDになったことがあったような気がする。楽団名は臨時のもの。わりとクリアな音で迫真味がある録音。楽団は緊密でみな力がある。いかにもフランスのアンサンブルの音を、牧歌的な曲想の発露のなかで愉快に楽しめる。曇った響きの曲も愉快。後年のステレオ録音全集よりミヨー自身の指揮もアグレッシブで前のめりなテンポだ。抜粋だが価値はある。○。 voxにステレオ全曲別録音あり。
~第1~5番
○ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィルのメンバー(MELODIYA/WESTMINSTER)
恐らくCD化されている。合唱入りの6番を除く五曲が収録。同曲の早い時期の録音であり古い人には馴染みのある盤だろう。一番いきなりのゆったりスローテンポでびっくり。しかしさすがオケが違う、指揮者の粗さや激しさが抑制され非常に繊細なアンサンブルが聴く者を引き付ける。極めて美しく、しかし空疎さがなく、暖かい。ミヨー特有の重層的な響きも美観を損ねないように精密に解釈されている。◎に近い○!
つづく
エリック・サティを理念上の師としたジャン・コクトー周辺では、最もサティに近しかった存在であり、「家具の音楽」の共同作業に象徴される前衛的な気風を最も受け継いでいる。ピアノ曲にはほぼサティに倣ったような曲もみられる(但しこの時代ラヴェルを始めとしてサティの影響範囲は広かったのだが)。サティ自身のエピゴーネンを忌み反骨精神を貴ぶ考え方は、即物的で新古典的というだけで、作風がバラバラの六人組のゆるやかな結束にマッチした考え方であった。ソーゲやデゾルミエールの「アルクイユ派」のサティ取り巻き的様相とはまったく異なる。ストラヴィンスキーやシェーンベルクにも深く傾倒していたが、ミヨーの個性を根本的に変えるものにはならなかった。また、歌唱を伴う曲ではドビュッシーの影響も指摘される。反ドビュッシイストのレッテルはミヨーに限って言えばあてはまらなかったのだ。
ミヨーの得意とした複調性に代表される新鮮なハーモニーや、ポール・クレーデルの秘書として渡った南米での音楽経験を肥やしにした、自由で楽天的な旋律の創造は、ラヴェルの言葉を借りればまさに天賦の才と呼べるものであった。あらゆる分野のあらゆる規模の曲を残した多産家であるが、頂点は初期の6人組時代前後にあったともいえる。単純化・古典/アルカイズムへの傾倒があらわれた、短編歌劇や室内交響曲などごくごく短い曲の群れは、類希な美しい芸術的結晶であり、其の時代のフランスにおける最も優れた作品群である。反じて言えば作曲活動開始時よりほぼ独自の作風を確立していて、長い生涯はその純化や複雑化の循環に終始していた。とくに後年戦争のためアメリカに避難して後は、ロマンティックな傾向が強まるのと並行して凡作が増えたようである。戦後パリ音楽院に復帰したときにはすっかり時代遅れであり、メシアン門下のブーレーズらから攻撃される側にいたように感じるが、著作を読む限り晩年まで現代音楽に非常に好意的で、自身の作風とは別物であったようだ。教育者としてもヒンデミットとならび非常に優れており、日本人作曲家も多数学んでいた。 >
交響曲第1番(1939)
○作曲家指揮 CBSso(cascavelle/columbia他)CD
このプロヴァンスの作曲家は膨大な数の作品を残しているし、20世紀音楽史上にも名を残した人物であるにもかかわらず、その音楽はマニアとプロ以外には殆ど知られていないのではないでしょうか。CDにしてもフランス6人組時代の喜遊的な表題音楽が、「ジャズの影響」「ラテンのリズム」と称して出る程度。弦楽四重奏曲など純音楽指向の曲もたくさんあるので、もっと聞かれて欲しい、と思います。交響曲については、小交響曲と題されたミニアチュールが集中的に書かれた後、円熟期より本格的に取り組まれたもので、晩年まで15曲位(?)作曲されました。分かりやすさという点では、1桁番号のもののほうが良く、番号が若いほどみずみずしい感性が溢れた才気溢れる歌を聴くことができます。1番は冒頭のフルートソロから古雅な雰囲気を漂わせ、春の陽のように美しい曲想は小交響曲1番によく似ています。旋律の流れを時折不協和音が横切るところは好悪別れると思いますが、私などはエリック・サティの思想の昇華といった好意的な聞き方をしてしまいます。各楽章に共通する楽想はなく、全体に組曲風ですが、総じてある種の心象風景を描写したようでもあり、RVWの田園交響曲に共通する思考の発露すら見出してしまいます(出てきたものは全く違いますが)。新古典的といいながらはっきりとした古典回帰はなく、「空想の古典主義者」といった趣であります。終楽章は対位的な構造を用いながらも独特の複雑なハーモニーを乗せて、祭典の気分を盛り上げています。LP時代にはミヨー自身の指揮のものがありました。4番8番の組み合わせでエラートから出ているCDもお勧めです。他3、10番と小交響曲が2組までは確認していますが、他にも振っているかもしれません。(註:1番自作自演盤は2003年CD復刻した)
交響曲第2番
○ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(EMI)1953/11・CD
かつて日本では協奏曲の伴奏指揮者としてのみ知られる知る人ぞ知る存在であったが、比較的多数の録音を残したモノラル期の名匠であり、EMIの復刻は再評価への恰好の指標となるものである。ドイツ偏重のこの国にもこれら復刻によってフランスやラテン諸国の十字軍指揮者への評価が一過性のものではなしに定着すればいいのだが。
手堅いながらも非常に計算された演奏で、散漫でアイヴズ的カオスを呼びがちなミヨーの音楽に一本筋を通している。複調性によるフレーズも聞きやすい響きに整理され、繊細で牧歌的な色彩を強めている。2楽章あたりの硬質で烈しい楽想もオネゲルふうに緊密に仕立てられ飽きや理解不能といった事態を避けることに成功している。リズムにみられる南米ふうのズラしは余り強調されないが、このスタイルにはそれが正解だろう。半音階的な奇妙な旋律も奇妙と感じさせないまっとうさに○つけときます。
交響曲第3番「テ・デウム」
ロジェストヴェンスキー指揮ロシア国立交響カペッラ(OLYMPIA)1993/4LIVE
現役盤(CD)としては自作自演盤があるのみだと思う。神秘を孕んだ2楽章がいい。1楽章はどことなく野暮ったく、ミヨーの欠点とも言うべきぶよぶよな面が強調されてしまった感があるが、緩徐楽章における合唱の教会音楽的効果が印象的だった。オケがコレなので、どうにも今一つノれないのだが(たぶん演奏者たちもあまり乗り気ではない)、この楽章だけは別、です。3楽章パストラレ、あまりに南仏の雰囲気が「無い」ためがっくり。もっと暖かく、もっと軽やかな音楽のはず。妙にハマっている木管が唯一救いであった。終楽章もまあ原曲がコレなので(さっきからこればっかりや)、無難にこなした、といったふう。才人ロジェストヴェンスキーもわざわざこんな曲を持ってくるとは恐れ入った。このひとのフランスものは悪くないので期待はしたのだが、ライヴではこれが限界なのだろう。無印。オケ名は国立交響楽団と国立室内合唱団の総称とのこと。
交響曲第6番
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1955/10/8LIVE・CD
ミュンシュはオネゲルばかり振っていたわけではなく、ルーセルとともにミヨーも好んで演っていたと言われる。ミヨーは構造的にオネゲルより緩く聞きづらさもあるように思われるかもしれないが、決してアマチュアリスティックだからではなく、先鋭な響きや複雑な運動性を大胆な持論で実現しようとしていたからこそ、座りの悪さや聞きづらさ、疎密の粗さを感じさせる部分が混ざるだけである。保守的な態度を示した交響曲など平易な趣旨の作品では、おおむねそつのなさが美しくあらわれ楽しく収束する。ミュンシュは意外と勢いだけでやっているわけではなく、フランスの作品ではスコアにあらわれる響きの繊細な交感をとらえ、演奏上適切に整理して提示する。ラヴェルくらいになると整理できない複雑さがあるため強引な処理がみられることがあるけれども、精密さにそこまで重きが置かれていないミヨーでは、無造作なポリトナリティを絶妙のバランスで調え、これはしっかりかかれているポリリズムはしっかりなおかつ弾むような明快さをもって表現し、ミヨーの「難点」に滑らかな解釈を加えている。この曲は田園ふうの雰囲気が支配的で聴きやすいので、ひときわ演奏効果があがっている。緩徐楽章にはくすんだミヨーらしい重い楽想が横溢しているが、さほど長くないことと、これは少し適性の問題かもしれないが、北の内陸のほうの曲をやるときのミュンシュのようながっちりした構築性が、ミヨーの意図を直接汲めているかように板についている。最後の壮麗な盛り上がりはミヨーの交響曲録音ではなかなか無い感情的な表現でききもの。ただ録音は悪い。せっかくプロヴァンス的な旋律から始まる一楽章も、無造作に始まりデリカシーなくきこえる(録音のせいだけでもないか)。○。
メスター指揮ルイスヴィル管弦楽団(FIRST EDITION)1974/11/12・LP
不思議な魅力をもった曲でいつものミヨー節(物凄い高音でトリッキーなリズムの旋律をきざむ弦と低く斉唱するブラスといったかんじ)ではなく中欧的であり、もろヒンデミットふうでもある。ミヨーはシェーンベルクに惹かれていた時期があり弦楽四重奏曲にはかなり影響を受けた硬質な作品も残されているが、その部分がとくにこのような「どっちつかずの団体」によって演奏されると浮き立ってくる。フランス人がやったらこんな演奏にはならないしドイツ人だったらまた違うだろう。非常に工夫の凝らされた曲なのだが、演奏、いかんせん下手だ。合奏がなってないし、流れも悪い。盤数をこなすように録音していた指揮者・団体のようで、これは同年の半年前くらいになくなったミヨーを偲んだものと思われるが、アマチュアっぽさは否めない。指揮者も同様である。印はつけられません。
○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD
有名な録音で出た当初は決定版の趣すらあった。ミヨーの「田園」である。まあ、これまでもミヨーは田園ふうの大交響曲(少なくとも楽章)はいくつも書いてきているわけで、これだけを田園と呼ぶのは相応しくないかもしれないが、古典的な4楽章制でありながら、気まぐれな楽想がただ管弦楽だけにより綿々と綴られていくさまは自然の移りゆく様を彷彿とさせ、牧歌性をはっきりと示している。いきなりミヨー特有のヴァイオリンの超高音の煌くところから筆舌に尽くしがたい美観を魅せ、ヒンデミットに近い管楽器の用法には古雅な音色が宿り、いつもの「踏み外したミヨー」は殆ど姿を見せない。構造的にも円熟したものがあるがそれは余り重要ではなく、素直に聴いて、プロヴァンスの大地にひろがる広大な畑のビジョンを受け取り、ウッスラ感傷をおぼえる、それだけの曲なのである。それ以上もそれ以下も必要ない。プラッソンはゆったりとしたテンポで、繊細な音の綾を紡いでいく。ミュンシュとは対極の「印象派的な」表現である。晦渋な主題にも余り暗さが感じられない。終楽章もミヨー的なあっさりした断裂は無く自然に終焉するように盛り上げられる。オケは上手い。というか、曲をよくわかって、それにあう表現をとっている。解釈がやや茫洋としているため交響曲というより組曲であるという印象がとくに強くなってしまっていて、そこに違和感がなくはなかったので○にするが、本格的なミヨー入門としては相応しい出来だ。
交響曲第7番
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD
ミヨーの人好きするほうの交響曲といえる。晦渋な部分は殆どなく、新古典にたった合奏協奏曲的な音楽は緻密で胸のすくような聞き応えがあり、自在な旋律が複雑なリズム構造をまじえ魅力をはなっている。ミヨーの旋律はときどき失敗するがこの曲の旋律は素晴らしい。形式に縛られたような構成感は好悪あるかもしれないが、普通の人には面白いだろう。オケは個性はちょっと弱いかもしれないが透明感ある響きと技巧レベルは十分。
○プラッソン指揮トゥールーズ市立管弦楽団(DG)1992/10・CD
掴みが完璧なミヨーの傑作。この並びの交響曲群は初期の不格好な前衛性や末期に表題的に交響曲名称を避けただけの才気が職人的技法に凌駕される頃と比べても、構成はややワンパターンだが聴きやすい。演奏も透明でミヨーを邪魔しない。○。
交響曲第10番
作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)1960年代live・CD
分解して聞けばわかりやすく頭の体操的に楽しめる曲なのだが、まあ、曲が悪いと言うべきか指揮技術の問題と言うべきか、かなり崩壊的な演奏である。とくに1楽章は無茶な装飾音が旋律線を崩壊させ、無闇に縦を揃えようとする余り却って各声部がバラバラになってゆくさまが痛々しい。音程が狂うのも仕方ない跳躍的な展開が多くヴァイオリンは特に大変だ。結果としてタテノリなだけの物凄くたどたどしい演奏になっている。装飾音は個々人の表現は綺麗ではあるがまとまらず、また残響の多いホールのせいもあって細部が殆ど聞き取れないのが痛い(クリアなモノラル録音ではある)。ただ、この残響のおかげでなんとなくごまかされて聞けてしまう部分もあると思う、一長一短だろう。リズムのズレだけはごまかしようが無いが。緩徐楽章は心象的で硬質な響きがモダン好きミヨーの感覚未だ新鮮なところを聞かせて印象的である。チェコ・フィルを使ったのは正解(技術的にはアメリカのバリ弾きオケのほうがよかったのだろうが)、金属質で抜けのいい音がすばらしく美しい音風景を形づくっている(部分的にはこの楽章に限らないが)。3楽章になると入れ子的な構造が面白く、まあ殆どヒンデミットなのだが、厳しく叩き付けるような打音で縦を揃えたのがここではきっちりハマってきて耳心地いい。スケルツォ的表現の中に寧ろ安心して聞けるものがある、ミヨーならではの逆転的な感覚だ。4楽章フィナーレではスケルツォと違い横の流れが必要になってきて1楽章同様ぎごちないリズム処理に弾けてない装飾音がひたすらのインテンポに無理やり押し込められていく。その軋みが音程の狂いとなって全体を崩壊させてゆく。フィナーレ前の静寂にヴァイオリンが一生懸命左手で音程を確かめている音が聞こえるが、この無茶な高音多用では全楽章を通してその繰り返しだったのだろう。結局ほんとにわけのわからないクラスター状の音楽のまま断ち切られ終了し拍手と僅かに戸惑いの声が聞かれる。新ウィーン楽派的であったりプロヴァンス民謡的であったりといった(ミヨーにとっての)同時代要素がぎっしり緻密に詰め込まれているがための雑然~まるでいくつもの美しい原色の絵の具を点描にせずぐちゃっと混ぜ合わせたら灰色の汚い色になってしまったような感じ~が残念だ。これはしかし、ほんとにちゃんと音楽に仕上げるのは演奏技術的にそうとう大変である。机上論理の産物であることは否定できない。でも、現代なら可能だろう。曲が面白いのは確かで、もっと録音が増えてくると真価が認められるものと思う。
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD
全集盤の一枚。よく整理された分析的な演奏で、透明感や細部の仕掛けの聞き易さに一長がある。美しい反面勢いに欠け(もっとも三楽章は素晴らしく愉悦的)、ミヨー自身が強調していたメロディを始めとする曲の聴かせどころが明確でないところや、弦楽器の薄さ(じっさい本数が少ないのだろう)も気になるところだが、全体のバランスがいいので聞きづらいほどではない。戦後ミヨーの職人的なわざが先行し実験性や閃きを失った、もしくは単にオーダーメイドで流して作ったというわけではない、しっかりした理論の範疇において交響曲という分野で4番で確立した自分の堅固な作風を純化していった中でのものであり(ヒンデミットを思わせる明快な対位法がこのようなしっかりした構造的な演奏では非常に生きてくる)、アメリカのアカデミズムにあたえた影響を逆手にとったような響きがいっそう際だっている点はこれがオレゴン州100周年記念作だからというより元々の作風の純化されたものという意味あいの中にあるにすぎない。余りにあっさりした断ち切れるようなフィナーレも元々旧来のロマン派交響曲の御定まりの「形式感」に反意を持っていた証であろう。もっとも単純にこの曲の四楽章の落としどころを失敗しただけかもしれないが。録音秀逸。ミュンシュらやミヨー自身のやっていた流れ重視の主観的な指揮とは違う、繊細な響きと構造の明快さの魅力がある棒だ。○。
○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP
恐らくライヴ。引き締まったリズミカルな演奏でミヨー自身の演奏スタイルによく似ている。細部はともかくちゃんと押さえるところ押さえているので楽曲の把握がしやすい。聴き所のスケルツォ的な三楽章などなかなか面白く仕上がっている。四楽章は勢いに流されてしまった感もあり雑然としてやや凡庸だが、ライヴだから仕方ないかと思う。全般「誰かと置き換え可能な演奏」だとは思うが、この曲の数少ない音盤としては価値があるだろう。二楽章などの静謐さの描き方はやや要領を得ない。四楽章の途中でハープ等から出てくる音列技法的な主題は、委属元であるまんま「OREGON」の文字を織り込んだものとミヨー自身が言及している。こういった名前を織り込むやり方は古来特に珍しいものではなく、現在ショスタコーヴィチの専売特許のように見られがちなのは何か変な気がする。フランセもそうだが、わかりやすい楽曲に突然無調的な静謐な音列が導入されると、曲にワサビがきくというか耳に残りやすくなる。この演奏では旋律性と強引な流れがある程度重視されているがゆえに、そこだけに流される凡庸な印象というものが、無調的主題により覆されるというのは逆説的にミヨーの作曲技法の巧さでもある。晩年作では比較的有名であるのは、単に演奏録音機会が多かっただけでもなかろう。
交響曲第11番「ロマンティック」
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD
全集の一部。ミヨーもこの頃には依属による作曲が多くなり、最終的に交響曲の名を捨てて「~のための音楽」という露骨な皮肉な?題名の曲を量産することになるわけだが、これはダラス交響楽団とダラス・パブリックライブラリーの共同依属作品である。当然初録音だが初演はクレツキ。内容はけして過度にロマンティックに寄っているわけではない。アメリカ新ロマン主義に近い表現はあっても複調性による独特の響きと、これは新たな試みの一つとして投入されているようなダンサブルなリズムがミヨーという未だ挑戦的な作曲家の刻印を刻んでいる。もっとも、型にはまった戦後様式、という主として「内容」にかんする評は変わらない。3楽章制をとっている。演奏は立派である。ちょっと硬くて冷たい感もあるが、ジュネーブで亡くなったミヨーが目指したものに近いところがきっと、この演奏にはあらわれている。○。
交響曲第12番「田舎風」
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD
全集の一部。カリフォルニア大デイヴィス校農業科の依属により作曲されたものだが、パストラルから始まる短い4曲にもかかわらず、昔の小交響曲にみられた牧歌的雰囲気は薄く、わりとラジカルな印象をあたえる。複調性のミヨーというイメージにとらわれない新鮮な書法もあらわれる。演奏は過不足ない。
小交響曲
~第1、2、3、5番
○作曲家指揮ミュージカル・マスターピース室内楽団(MMS他)
頒布盤で出ていたモノラル録音でCDになったことがあったような気がする。楽団名は臨時のもの。わりとクリアな音で迫真味がある録音。楽団は緊密でみな力がある。いかにもフランスのアンサンブルの音を、牧歌的な曲想の発露のなかで愉快に楽しめる。曇った響きの曲も愉快。後年のステレオ録音全集よりミヨー自身の指揮もアグレッシブで前のめりなテンポだ。抜粋だが価値はある。○。 voxにステレオ全曲別録音あり。
~第1~5番
○ロジェストヴェンスキー指揮レニングラード・フィルのメンバー(MELODIYA/WESTMINSTER)
恐らくCD化されている。合唱入りの6番を除く五曲が収録。同曲の早い時期の録音であり古い人には馴染みのある盤だろう。一番いきなりのゆったりスローテンポでびっくり。しかしさすがオケが違う、指揮者の粗さや激しさが抑制され非常に繊細なアンサンブルが聴く者を引き付ける。極めて美しく、しかし空疎さがなく、暖かい。ミヨー特有の重層的な響きも美観を損ねないように精密に解釈されている。◎に近い○!
つづく