湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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ミヨー 管弦楽曲、協奏曲(2012/3までのまとめ)

2012年04月18日 | Weblog
男とその欲望

作曲家指揮

○ロジェ・デゾルミエール・アンサンブル(SACEM他)1948/6/21・CD

自作自演にはVOXの新しいものも有るのでこれがどの程度価値を持つものなのか評価は分かれよう。ただ、作曲時の息遣いを感じさせる一種の生生しさがあるのは事実。古い演奏家の艶めいた表現様式のせいもあるだろう。曲はミヨーの代表作の一つと言ってもいいとても演奏効果の高いもので、原始主義的な嬌声と打楽器主義的なオケ・アンサンブルのかもす雰囲気は、ジョリヴェより簡潔でストラヴィンスキーより人好きするも
のだ。この曲の裏に南米体験があるのは言わずもがなで、旋律性は失われない。旋律の重要性はミヨーが著書で力説していたものだが、ここには確かに旋律が有る。後半では第一室内交響曲の終楽章と同じ楽天的なメロディが使われていことも親しみやすさを増す元になっている。暑苦しくはなく、乾いた都会的な雰囲気もあり、ミヨーの欠点である音響の徒な肥大も殆ど無い。最初から最後まで太鼓の音にのせて気分良く聞いていられる楽曲です。近いといえばストラヴィンスキーの「結婚」が近いか。演奏は古く聞きづらいが十分楽しめる力がある。○。

○BBC交響楽団他(BBC,IMP)1970'放送LIVE?・CD

BBCの放送録音。非常にクリアで明晰な録音である。余りに音がいいためなんだか堅苦しい感じもあるが、かなり完成度が高い演奏と言っていいだろう。音はBBCだけあって冷たく硬質であり、曲構造が物凄くよく浮き立って聞こえる。レントゲンをあてたような演奏で、客観性が勝り熱気や本能的な舞踊を行うための音楽としてはいささか薄い。この曲を分析的に聞きたいかたにはとても向いている。改めてこれを聞くと、どういう曲なのかをよく理解できる。小交響曲の気分をもった序奏部から、リオのカーニバルのような笛やサイレンが鳴り2拍3連的なリズムの交錯ががしゃがしゃ五月蝿いシンバルに彩られる南米的な感興に包まれた主部にうつり、その気分のうちに華やかに終わるのが筋だが、この演奏では序奏があまりにクリアで美しくまた複調性が硝子の砕けるような響きそのままで耳を攻撃してくるのがちょっとうざい。その次に俄かに南米的音楽が盛り上がるが、音響的には完璧なのにどことなく空々しくイマイチ乗れない。綺麗すぎるのだ。BBCは現代曲に馴れすぎてミヨーの尖鋭さを叙情性以上に引き出してしまっているようにも感じる。ライヴでこの精度というのも凄いし、演奏レベルを鑑みると○より下は付けられないが、終わり方もなんだか謎を残すような感じで今一つ締まらない。これとデゾルミエール・アンサンブルの録音を足して二で割ると丁度いいのに。○。

プロテー組曲(第二組曲)

○フルニエ指揮ヴェルサイユ管弦楽団(ARIES)LP

エキゾチックでもかっこいい出だしから、平易という意味ではなく、大人が非常に聴きやすい娯楽的なミヨー節が展開。ルーセルのように力強いリズム表現にメカニカルな構造のかっこよさはミヨーの南米ふう作品の中でも極めてよく作られており魅力的なものだ。力溢れる演奏ぶりは楽しむのに十二分なもので古いものとしては音響的にも不足はない。ステレオ的な音場の広がりもいい。古い録音がメリットになるのは難しいフレーズや調性が崩れる細部がほどよく「ぼやかされて」聞こえ、耳易いところだけに集中できるところだが、演奏自体もミュンシュ的にわかりやすい音を選んで強調しているようにも感じた。イキのいい楽しい曲に演奏であるから楽しみましょう。録音マイナスで○。

○モントゥー指揮オケ名不詳(サンフランシスコ交響楽団?)(DA:CD-R)1952/4/19live

元はクローデルのための劇伴音楽で合唱付。1910年代初期ミヨーの「穏健なほうの」作風が同時代のストラヴィンスキーのバレエ作品や前時代のロマン派音楽の香りを嗅ぎながらも、しかし極めて緻密で完成度の高い作品としてあらわれている。映画音楽的に楽しく聞ける牧歌的な音楽ではあるが、浅い曲感をもつ南米的・南部フランス的な民謡編曲作品群にはない、オネゲルに匹敵する鮮やかな技巧的手腕を楽しめる楽曲だ。のちにアメリカ・アカデミズムへ与えた影響の現れ方やヒンデミットとの必然的な交流(第二曲のがちゃがちゃした構造的な音楽はヒンデミットやその影響下にあるもっと「わかりやすい」作曲家の作風を思わせる)などいろいろなことも考えさせられる。しかしミヨーの特に六人組時代に威を張っていた才気がもっともわかりやすい形であらわれた曲であることには変わりはない。

コープランドの円熟期における「丸くなった」作風がいかにミヨーのこのての作品の影響を受けているか、しかし入り組んだ管弦楽法の巧みさはいかに「アンファン・テリブル」コープランドをもってしても上をいかれている気がする。ラヴェルが嫉妬したのもうなずける才能というよりほかない。ただ、作品をよく吟味し選ぶという態度にやや欠けていた(というかオーダーメイドで作曲しすぎた)のが今もって正当な評価を受けられないゆえんだろう。膨大な作品数が邪魔しているのだ、ラヴェルのように容易に全集化できないから、名前の通った作品(おおむね通俗的なもの)以外音源数的にも選びようがない「と思われてしまっている」のが惜しい。「フランス組曲」「プロヴァンス組曲」なんかよりよほど内容も濃く深く楽しめると思うんだけどなあ。あ、モントゥーの弾むリズムと推進力のせいも多分にある。スピーディにこの曲を通して楽しめる演奏だ。録音もこの時代の非正規記録としては悪くはない。ミヨーの複雑晦渋な響きも全体のわかりやすい流れの中に的確に織り込まれ、勘違いして現代性ばかり強調する余りわけのわからない聴感にしてしまう指揮者とは一線を画している。終盤のドラマツルギーはドイツ的な重さを伴うロマンティックな趣があり、これはもうちょっと透明感が欲しい人もいるかもしれないが、高音でポリフォニックに織り交ざる通奏旋律の断片がフランス的な牧歌性を辛うじて保っている。作曲の妙に救われている。最後の締め方ももうちょっと盛り上がりが欲しい気もした。全般楽しめたが、客席反応もそれほどよくはなく(贅沢な客だな)○としておく。おそらくこの安定した音なら既に他レーベルでCD化していてもおかしくはないが、いちおうDAとしておく。

○スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団(ASCAP)1952live・LP

編成が大きいためか押し出しが強いので牧歌的な同曲の美観を楽しむ向きにはすすめないが、理知的な指揮者のしっかりした構成感にもとずく演奏であるためミヨーらしい重なり合う響きがよく聞こえる。和音の衝突が楽しめる向きには薦められる。リズム取りは単調で浮き立たない。録音良好。○。

バレエ音楽「青汽車」

○マルケヴィッチ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(ConcertHallSociety/SCRIBENDUM)1972/7・CD

ブルートレインである。ディーアギレフのロシアバレエ団のための軽音楽で擬古典的な書法を基調としつつ特徴的なリズム(コープランドなんて影響受けまくりですな)と解放感のある清新な和声(楽器法~プロヴァンスに材をとった一連の牧歌的作品と共通点がある)を織り交ぜることによって「上流階級のランチキ騒ぎ」のようなものを仕上げている。繊細な音響表現が綺麗すぎるきらいもあるマルケだがミヨーでもかなり日寄った作品ではあり、フランセあたりを聴くような軽い気分でどうぞ。ヴァイオリンソロなんてありえない。ブルッフじゃないんだから。

フランス組曲

チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(AUDIOR)LIVE

おそらくCD-Rで出ているものと同じ。録音状態は劣悪。ラジオ・ノイズがひどく、まるで戦前の録音のようだ。でも、思ったより熱い演奏だ。チェリものっている。大した曲ではないが、いたずらに壮大にやるでもなく、等身大の演奏をしているところが意外だし気に入った。楽しい。ま、録音が悪すぎるので無印。

プロヴァンス組曲

◎ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA/brilliant)CD

こりゃ名演だ。大変だ。南フランス国民楽派(南欧ユダヤ人集落民謡楽派)ともいえる楽曲をしばしば書いたミヨーだが、アメリカ時代はとりわけ民族問題をこえて自国を心配しこのような楽天的な民謡に基づく牧歌や舞曲による組曲をえがいている。しかしそれは敢えてローカライズを演じたような薄っぺらい演奏様式でやられることが多く、ミヨーがとくにアメリカで軽音楽作家とみられがちなゆえんの一つでもあるのだが、ガウクは全く異なる地方からフランスを応援するかのような(ステレオのきわめて明瞭な録音ゆえ戦後演奏ではあるのだが)気合の入った演奏をしかけており、ミュンシュのような我の強いやり方ではなく、とても整えられたうえの揺れの無い力強い表現が「ローカル音楽ではないプロヴァンス組曲」の純粋な発現と感じられた。自作自演もあったと思うが全然に巧い。ガウクってこんな技術に至っていたのか・・・もっと復刻され、普及されるべき「ムラヴィンスキーの師匠」である。プロヴァンス組曲の一流の名演。◎。

◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(BMG,RCA)1960/11/21・CD

ミュンシュがミヨーの曲にすぐれて適性をもっていたことが伺える演奏である。ミヨーの曲の演奏ではしばしば声部間がスカスカにあいてしまい、高音域と低音域が完全に分離して、結果として音線もリズムも派手で明瞭な高音だけが耳に届くようになるケースが多い。書法に問題があるといえばそれまでだし、曲によってはそもそも複層的な音楽の流れを狙った意図でもあるのだが、ミュンシュの場合そういったスカスカ感は皆無といっていい。そのためこの曲のようないかにもミヨーの民族的素養が発揮された職人的作品と見られがちなものにおいても、中声部まで目の詰まった響きがしっかりと噛み合って重くひびき、メカニカルなリズム構成にみられる構造的創意も、雑然と堆積させられるのではなくきちんと納まるところに納まって、最大限の威力を発揮している(ここを理解しないでやるとたんなる民謡旋律音楽に聞こえてしまうのだ、ミヨーは・・・そしてミヨー自身の指揮も決して自作の威力を発揮しきれているとは言えないのがまた難しい)。ピストンらアメリカ・アカデミズムに多大な影響を与えたことが理解しやすい演奏ともいえよう。じっさい、アメリカ60年代テレビ音楽などに聴かれる特徴的なひびきをラッパなどの重奏に聴き出すこともできる。ジャズ的な表現と民謡素材が不可分なほど融合した変則リズムは冒頭から聞かれるところだが、ここでは明るく開放的な民謡としてより暗くテンションの高い動きの絡みで楽しませるジャズ的な側面がより強く感じられる。ミヨーのやたら楽天的なところが苦手な向きでも聞けると思う。

ユニゾンでのパウゼ頻発によりいちいち止揚するリズムというのもミヨーの特質であるが、流れを損なうそういった要素は極力抑えられている。とにかく耳なじみがいい旋律音楽というのではなく、純音楽として聴きやすい。二つの大戦で戦乱の渦中でありつづけたフランス南部、それでも陽気で美しいエクサンプロヴァンスの情景が描かれた、戦争とは不可分の作品と扱われることが多いが、だからこそノーテンキにナショナリズムを歌う、と見られがちなところ、ミュンシュのように「この曲は新古典主義にしっかり立脚したうえでの独創的な作品で、ストラヴィンスキーの擬古典様式にひけをとらない巧緻な設計のもとに創り上げられたなかなかに複雑で抽象化された作品なのだ」と主張してくれる演奏は、ミヨーがプロフェッショナルな作曲家として如何にすぐれた技巧と創意を持って作品に真摯にのぞみ、創作の場に「他意」がなかったのかを改めて認識させられる。いや、他意は多分にあったろう、故郷への思い、心痛は通奏低音のように流れていたと思うが、それは創作の場には影響していないのではないか、とこのようながっしりしたヨーロッパ的演奏をきくと思う、いや、演奏がそう聞かせているのだろう。独墺系の分厚い響きをもつボストンの弦、とくに中低音域の弦が「たとえ自身わけがわからなくても」オケの1つのパーツとして割り切り、大編成のもとに要求されるまま主張したら、ミヨーはこのように合理的にひびくものなのだ。その点ラヴェルなどの機械的な書法を思わせるところもあり、ミヨーが硝子職人ラヴェルと互いによきライヴァル関係にあり、鉄鋼職人オネゲルが六人組でプロの職人作曲家として唯一認めていたのもわかる気がする。オネゲルは低音域の弦をわかっていたからともかく、ラヴェルは完全にわけのわからない「パーツ」を受け持たせることがままあった。ミヨーはどちらかというとヴァイオリンからせいぜいヴィオラの人なのでラヴェル同様のところがある。補うのは解釈者と奏者の役割である。

インディアナ州のための音楽

◎作曲家指揮BBC交響楽団(bbc,carlton,imp)1970/9/21

3楽章の瞑想的な音楽の美しさよ!硬質なひびきが仄かな感傷性をはらみ、とくにヴァイオリンのかなでる高音ヴィブラートの美しさといったらない。BBC響の怜悧な響きが、逆に怜悧であるがゆえの蒼白い光彩をはなっているところが秀逸で、これは作曲家本人にしか為し得ない神懸かり的な技かと思わせる。長い楽章で、不協和音も頻出のアイヴズ風雰囲気音楽だが、素直に清潔で爽やかな空気感を楽しもう。重ったるいミヨーの
ハーモニーも、透明で軽いBBCの音で聞くと意外といけます。2楽章などもミヨーらしからぬわかりやすさがあり、完成度が高いのでおすすめ。4楽章のトライアングルも戦後ミヨーにしては新手で面白い。インディアナ州150周年記念作品。戦後ミヨーの書いたオーダーメイド的作品群のひとつで、一連の大交響曲群と似通った作風ではあるが、「4楽章の組曲」としての完成度の高さはさすがである。

プラハのための音楽

○作曲家指揮チェコ・フィル(multisonic)live・CD

交響曲第10番と共に録音されたもの。いい音で、ミヨーらしい折り目正しい演奏だが、曲もまたいい。管弦楽組曲的に見られがちな題名だが、むろん楽器の用法や旋律に皆無とは言えないまでも「~のための音楽」というのはたまたま受けた仕事にかこつけて「交響曲」という題名のかわりにつけられた即物的な命名方法に基づく、と「幸福だった~」に書いてある。言葉どおりに受け取って素直に交響曲として聴くとなるほど、しかも更にそれまでで「完結」したはずの大交響曲とまったく同内容の、いい意味でも悪い意味でも「ミヨーの常套的な型式音楽」になっているのが面白い。しかも既に数多の中でも出来はいいほうだと思う。3楽章構成だが、1楽章中のブラスの用法、それに伴う響きの饗宴が耳をひく。管弦楽法はいよいよ簡素化しリズム的にはユニゾンが目立ち一種型にはまった不協和音を重ねるという戦後ミヨーそのものの音楽だが、そこにもいつも、「一つ」違うものを挟んでくる。得てしてそれはシェーンベルクふうの前衛的なパセージであったりもするのだが、ここではチェコのブラスの音色を聴かせるため挿入された、ととって不思議はない、そこがヤナーチェクとまではいかないまでも、中欧的な硬質さを音楽にもたらし、南欧風のマンネリズムに陥らないで済んでいる。この1楽章、弦楽器なんかは常套的でつまんなさそうだが、耳には適度に新鮮だった。そのあとはますます常套的だがライヴであるせいか作曲家の権威のせいか、とても引き締まったオケの好演が目立つ。ミヨーは腐ってもミヨー、構築的なアンサンブル技術はしっかり要求し、ヒンデミット的ではあってもちっともヒンデミットではない聞き応えの結末まで面白く、弛緩なく聞けた。きっぱり短くしすぎたり、変に展開させすぎたりするものもある中、いいバランスだと思う。○。multisonicは録音データが明示されないことが多く困る。

4つのブラジル舞曲

○ストコフスキ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1944/1/9live

録音が近くて物凄い重い音!それこそ大砲を連射されるような感じだ。冒頭のペットからして強烈。重いし強いし前進力はあるし、まさにミュンシュを思わせる。一曲めはあきらかにストラヴィンスキーのバーバリズムを意識しており、ハルサイぽい音や楽想が頻発する。曲感は「男とその欲望」に近く、リズムと旋律の南米性はストラヴィンスキーと全く違う地平を指し示している。二曲目からミヨーらしさははっきりしてくる。一筋縄ではいかないのはやはり新古典末期のストラヴィンスキーの三楽章のシンフォニーや同時代英米圏の管弦楽曲の感じに近い。ただ、ストコは(というかNBCは)重い!書法のせいもあろうが、録音のせいもあろうが。最後のヴァイオリンの超高音の動きはミヨーの特許的なものだろう。三曲めはポルタメントが荒れ狂う。音色は明るく硬いが、録音が近いから生々しく迫力がある。四曲めは「フランス組曲」あたりの舞曲に近く、楽天的なミヨーらしさが完全に支配した楽曲である。物凄いわかりやすいのに現代的な書法のワサビもきいている。楽しめます。ただ、ミヨーマニアは何と言うかな。

「ニューヨークのフランス人」組曲

○フィードラー指揮ボストン・ポップス(RCA VICTOR)初録音盤

この演奏以外知らないので相対評価のしようがないが、ノリの良さを買って○ひとつとしておく。ただ、「ノリの良さ」とはいえこの曲は全くもってポップスの雰囲気を汲んでいない。もともとRCAビクターがガーシュウィンの「パリのアメリカ人」に対抗する曲としてミヨーに委属したもので(無論、”この”録音のためである)、当初からガーシュウィンとは対照的な異なる雰囲気の曲が求められていたようである。そして出来上がった音楽はいかにもミヨーらしい牧歌と複調性のおりなす心象風景、最初のほうなどガーシュウィンというよりアイヴズの情景音楽だ。ガーシュウィンのことをほとんど意識せず我が道を行っている。とても美しい明朗さ、肉太の快活さ、ミヨーの晩年作風の典型かもしれないが、ガーシュウィンとは「階層の違う」立派な曲。フランス組曲やプロヴァンス組曲に並ぶものだ。オケも当然のことながら好演。クラシカル・ミュージックの語法も難なくこなしている(まあ、主にボストン響のメンバーで構成されているのだから当たり前か)。フィードラーの俊敏な棒はミヨーの複雑な構造やリズム、楽器法も難なくクリアして曲の魅力を引き出している。もっと演奏されても、聞かれてもいい曲だ。

オパス・アメリカナム

~2番「モーゼス」

作曲家指揮ORTFのメンバー(CAPITOL)LP

陰鬱とした大管弦楽曲である。しょうじき聴きとおしても何か腑に落ちないような感じは否めなかった。大交響曲の晦渋な緩徐楽章をえんえんと聞かされるかんじである。それでもオネゲル風の構造の面白さや真面目な顔のミヨーを真摯に受け止められる局面もあるのだが、録音が古いのも手伝って少々辛い。別に演奏だけのことを言っているわけではないが、無印。

劇音楽「エウメニデス」前奏曲

○モントゥ指揮ボストン交響楽団の管楽メンバー(DA:CD-R)1958/7/25live

モントゥらしい脈絡無く詰め込まれたロシア&フランスプログラムの中の一曲で、とち狂ったようなチャイ4の後休憩を挟んで演奏されたものか。チャイ4同様性急かつ覇気漲り、このブラスバンド曲として単品で演奏されることの多い荒んだ楽曲を演じきり、上品なお客さんがたに少し戸惑いある拍手を促している。ミヨーでもコエフォールのようなかなりやり過ぎたあたりの作風に近く、それだけに楽天的なものは求めるべくもないが、モントゥの職人的なさばきがこういう曲に寧ろ向いているのではないかと思わせる意味でも貴重な記録。

バレエ音楽「屋根の上の牛」

○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(CAPITOL)LP

このてのメタ・クラシック音楽はたくさんあるが、ルーツをたどればミヨーあたりがその原流になるのでは。品のよい美しい音の楽団だが、薄いヴァイオリンあたりがフレージングにケレン味を出そうとしてポルタメントめいた「うにょーん」を入れているところなど面白い。なつかしい音色だ。ゴルシュマンはリズム感のしっかりした指揮者らしくそのテンポには乱れがなく颯爽とした歩みをしるしている。音は優しいがテンポ的には即物主義的
指揮者の範中に入る人だろう。○ひとつ。それにしてもこの雑音なんとかしてくれー(LP)。音も飛びすぎだ。

管弦楽のためのセレナーデ

◎スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD

すごくいい曲!きよらかで抒情的で、いやミヨーは決して抒情の欠けた作曲家ではないのだが、音やリズムを重ねすぎて一般聴衆を寄せ付けない雰囲気を作ってしまっている事が多い。この人のどんな尖鋭な曲でも一声部の旋律を取り出して聞けば楽しく素直な抒情を歌っていることがわかる。一般受けするにはその歌の扱いかた、手法に問題があった(もちろんミヨーは一般受けを狙う事などしなかったろうが)。だがこの21年作品ではもう「春のコンチェルティーノ」に近い素晴らしく聴き易く耳に優しい音に彩られており、晦渋な響きは皆無に近い。この素直さはオネゲルの「夏の牧歌」を彷彿とする。南欧のあたたかい空気を感じることができる。演奏も素晴らしい。溌剌とした音楽は引き締まって且ついかにも楽しげに跳ね回っており、とにかくリズム感がいい。素晴らしい。このオケの本来の力量をつたえる水際立った演奏ぶりだ。乗りに乗りまくっていて、いつもの乱雑の微塵も無い。あるいはこのオケの好演のために曲が良く聞こえてしまうのかもしれない、とさえ思った。ミヨーでここまでのめりこむ曲・演奏には久し振りに出遭った。◎。ウィーン響ブラヴォー!

エクスの謝肉祭

マデルナ指揮ローマ放送交響楽団、ボジャンキーノ(P)(ARKADIA)1960/12/23LIVE

「サラダ」からの編曲。サラダは悪巧みの意味。ラヴェルが賞賛したバレエ音楽であるが、このピアノ協奏曲ふうの編曲の方が有名である。ただ、この演奏どうもソリストが鈍い気がする。また、オケもラテンのオケなのに遊びが無く、魅力に欠ける。ミヨーの音楽は「お祭り」だ。調性を失うほど派手に騒いでジャンジャンジャンで終わる、それでいい。この演奏は堅苦しさを感じた。まあ、曲も内容の薄い断章の堆積にすぎないものだし、そんなに深く考える音楽ではない。ミヨーを聞きなれた耳からすると典型的なミヨーであり、ジャズふうの楽想にいたってはいささかライト・ミュージック臭く感じる。真剣に聞くと馬鹿をみるので、遊びながら聞きましょう。無印。

バレエ音楽「世界の創造」

○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1953/7/26live

壊滅的な録音状態で酷いノイズが支配的だが、けたたましくも迫力のオケの表情がしっかり聞き取れそれなりに魅力がある。ミヨーが借りてきたようにジャズ表現を取り入れて、ガーシュインのシンフォニックジャズと共時的に制作したバレエ音楽だが、ここでは舞踏要素よりも、純粋に音楽的な魅力を刳り出し比較的透明度を保っているさまが新鮮だ。ミュンシュにはスタジオ録音もあったと思うのでこれを取り立てて聴く必要はないが、ライヴならではのひときわの集中力を味わうことはできる。○。

○ミュンシュ指揮?(DA:CD-R)1961LIVE

ミュンシュは基本的に4拍子の人でリズム系の楽曲には向いていない。しかし楽曲を自分のほうに引き寄せ直線的にとりまとめて換骨奪胎するのが無茶うまいので、このシンフォニックジャズふうのバレエ曲もアメリカ楽団の表現力の助けを借りておおいに楽しませてくれる。メロディの多いガーシュイン、といったていでパリの異国趣味を露骨に示した曲、それを異国の側から見事にハスッパにやってのけた。楽しいです。ミヨーじゃないけど。

ブラジルの思い出(ソーダード)

○ロザンタール指揮ORTF(INEDIT,Barkley)LP

薄く莫大なステレオ期ロザンタールらしい演奏。私にはミヨーの肉汁垂れ滴るような感じがちっとも伝わってこないので、ただすらっと長々しく聴きとおすだけになってしまった。繊細で美しい響きはよいがリズムの表現に難があるように思う。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(SARDANA:CD-R)LIVE

新古典主義的な面を強く打ち出した透明感のある響きが特徴的な演奏。特殊楽器の新奇な音よりもペットのアカデミックな響きや構築的な弦楽器の動きに耳が惹かれる。ポリリズムやポリフォニーが余り奇矯さを目立たせることなく、結果として凡庸な軽い曲に聞こえてしまうところがウマイだ
けに付けられるケチとなっている。ブラジルの熱気は微塵も無いのでご注意を。軽く聴くにはマジメすぎるしじっくり聴くには底の浅い音楽。ミヨーが苦手というかたにはいい演奏だろう。ミヨーだとシンフォニーをよく聞くというかたには、この構築的でしっかりした演奏は面白く聞けるかもしれない。雑然とした不協和音もここでは気にならない。「らしくない」ところが好悪分かつ気もするが。キレイなので○をつけときます。チェリの響きへの拘りを損なわない録音状態。

○チェリビダッケ指揮シュツットガルト放送交響楽団(GREAT ARTISTS/DA:CD-R)1979/10/31LIVE

録音時間が異なるため恐らくサルダナ盤とは違うもの。正規盤が出ていたかもしれない。録音は最悪。しかしチェリビダッケが何故この曲を得意としていたかわかるくらいには楽しめる。ともすると旋律とリズムだけに単純化された形で猥雑に演奏されがちなミヨーを、精妙な響きの作曲家として意識的に構築している。ミヨーの真価が伝わる演奏スタイルは、ただでさえ単純化される録音音楽を、楽器個々の独立し統制されたさまを体感させる生演奏に近づける。まあ、録音のいいにこしたことはないけど。オケは表記のまま。シュツットガルトか。ペットの高音が出てないところが気になる。○。

~「ラランジェイラス」

○チェリビダッケ指揮フランス国立管弦楽団("0""0""0"CLASSICS:CD-R)1974/9/17LIVE

サウダージかソーダードか、それとも端的に「思い出」か、けっこう訳しづらい題名ではある。リオ・デ・ジャ・ネイロの細かい地名や通りの名前、名所などのついた12もの小品により構成される即物的発想の曲で、ピアノ曲に序曲を加えて管弦楽編曲されている。ミヨーの代表作のひとつだ。
チェリのアンコールは1分程度の曲がいくつもいくつもやられてそのどれもがけっこうマニアック。これはフランスだからだろうか、チェリ自身も何度か取り上げている作品の断片をアンコールの一曲としてやっている。前後にラヴェルやストラヴィンスキー、ドヴォルザークがやられているわけだが、その中でもやはり強い個性を放っている。ミヨーはしばしば忘れられがちだがなんだかんだ言ってもフランス20世紀音楽の巨匠。ごつごつした調性同志の衝突、同時にふたつのリズムが進み独特の音響を醸す場面、それはしかしすべて南米の音楽体験をベースとしているので娯楽的に楽しめるようにはなっている。ミヨーの複雑で錯綜した音楽はじつのところチェリのような砥ぎ師に砥ぎ上げてもらうとその意図する所が明瞭な名演が生まれたろうに、残念。アイヴズのような混沌一歩手前の音楽断章、これは無難にそれほど盛り上がらずに終わるが客席の反応はいい。○。

~ピアノ版

○スコロフスキー(P)(COLUMBIA)LP

わりと著名な南米系作品であるが、しっかり落ち着いた表現でミヨーの内面的な部分を意外と的確に表現している演奏。サティよりも作風として確立している常套的な手法(ミヨーのピアノソロ作品の作風のすべてがここにある)によるとはいえ、魅力的な旋律の醸す儚げな楽天性の魅力は南米のリズムにのって、パリの社交界を彷彿とさせる都会的な不協和音を織り交ぜた抽象化をへたものになっている。古さもあってちょっと感傷的になれる演奏。けして旋律の魅力や民族的な舞踏リズムを煽るほうに逃げないどちらかといえばクラシカルなスタイル。なかなかに引き込まれる演奏ぶりで傾倒していることが伺える。ミヨーにレパートリーとして4番協奏曲をオーダメイドしてもらった気鋭のピアニストが同曲の裏面に収録したもの(作曲家自伝に記述がある)。協奏曲のみ最近CD化されたようだ。

二つの行進曲OP.260

~Ⅰ.思い出に(パール・ハーバーの日の)

○作曲家指揮コロンビア放送(CBS)交響楽団(CASCAVELLE/COLUMBIA)1947/1/8NY・CD

なんだか派手なブラスの響きでヒンデミットの戦後作品を彷彿とさせる感じで始まる、行進曲というより挽歌。基本的に分厚いミヨーの響きだが、リズムは単純で踏みしめるように進む暗いながらもどこか楽天性も無くはない音楽だ。だいたい主題が主題なので(戦後すぐ、1945/9/23-30 の作品)ひとしきり重厚に歌ったあとは静かにレクイエム的終結を迎えるのだが、ここはとても美しい。全編通して戦後作品らしく前衛性の微塵もない曲で、戦前の牧歌性も無く、後期ミヨーの典型的作風の発露といえる。演奏は手慣れている感じだが短くてよくわからない。カスカヴェッレはラヴェルやミヨーなどの貴重な歴史的録音を2年位前から続々と出してきていたがいずれも非常に高価なうえ大部分は再発なので今一つヒットしていない(それでも15分くらいのために買う私みたいなのもいるわけで)。まったく歴史的録音を所持していなくて、これからフランスを中心に集めようという向きにはお勧めではある。ANDANTEも似たような位置づけにあるが、あちらのほうはちょっと信用できないところがあるので言及は避けておく。ちなみにラヴェルやストラヴィンスキー集は殆ど他のCDの再発。

序奏とアレグロ(原曲クープラン)

○ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(cascavelle/RCA)1941・CD

隠れたフランスもの指揮者として知られるセントルイス響の名シェフ、ゴルシュマンの依頼によりアメリカ到着間も無いミヨーが管弦楽に編じたクープランのサルタネスからの二つの抜粋。まったく古典的な書法で、アレグロに関してはやや分厚く、ブラスによりゴージャスな響きを加えているが、ミヨーらしい油っぽさや近代的美質は皆無といっていい。いずれにせよ後年は名教師としても知られたミヨーの名技のみが投入された作品といえるだろう。オークランドで二日で書き上げられた。演奏は嫌味が無くしっかりしたもの。

四季のコンチェルティーノ(1934/1950-53)

○ミヨー指揮ラムルーO、ゴールドベルク(Vn)他(PHILIPS)CD

「春」だけはゴールドベルクの記念盤CDでミヨー指揮オランダ室内o伴奏の演奏がきけます(後註:全曲盤もCD化しました(2003年))。ゴールドベルクの硬質の音がミヨーの生暖かい音響をすっきりとまとめて、春の未だ霜のおりる朝の情景のように、ひんやりとしていても陽の温もりを感じることの出来る清浄な印象を与えます。ミヨーの紹介版として格好の曲です。ジャズ風のフレーズも明るくきれいに決まり、キラキラ流れて実に格好良い。他の季節も各々独奏楽器を立てたコンチェルティーノになっていますが、それらはやや時代が下りミヨーが複雑化していったころの作品であるため,耳ざわりのよさでは「春」と比べようがありません。このLPは当初モノラルで発売されましたが、国内ではステレオで出ました。

ヴィオラ協奏曲第1番

○ルモイン(Va)ロザンタール指揮ORTF国立管弦楽団(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

近代ヴィオラ協奏曲の隠れた名作と言われ新古典的な趣はストラヴィンスキーよりはやはり同曲の立役者ヒンデミットを思わせる。ただ先すぼみの感も否めず、牧歌的な1楽章においてもヴィオラの音域が浮き立ってこず音色の魅力も余り引き立たないように思った。30年代くらいのミヨーは可聴音域ギリギリの超高音で旋律を響かせその下でメカニカルな構造を面白く聞かせていく魅力的な方法をとっていただけに、更に音盤にあっては高い音が引き立たないとよくわからない音楽に聴こえてしまう。このソリストも力は感じるがそれほど魅力的ではない。ロザンタールが意外ときびきび動きを聴かせて来て、そこは魅力になっている。第二番のまだ作曲されていない50年代前半のモノラル放送用録音か。

ピアノ協奏曲第1番

アントルモン(P)作曲家指揮パリ音楽院管弦楽団(cbs/towerrecord)CD

ミヨー自作自演の新録は若きアントルモンとの競演。ロン盤に比べて遅くもたつくようなテンポ感があり、録音も(ステレオのせいでもあるが)拡散気味で、ミヨーの和声的に噛み合わないアンサンブルの妙を聞かせるには少々音場同士が遠すぎる感がある。じっと聞けば特にイマイチな2楽章でも繊細な音色の世界を感じることができないことはなく、決して悪くはないのだが。両端楽章はこの曲を特徴付けるじつに敏捷で無邪気な楽章だ。明るく旋律的な音楽は初期ミヨーらしさ全開で、ミヨーのプロヴァンス風牧歌が好きな向きには堪らないものだ。多数のピアノ協奏曲の中でこの嚆矢の曲が一番受けるのもそういった素直さが原因だろう。ただ、あまりに素直すぎて飽きるのも確か。そうなるとソリストがどのようにもってくるか次第だが、アントルモンはやや生硬で解釈にキレがない。指先の細かいニュアンスが無く、そのまま音にしているような感じがする。全般に、ミヨーにしては素直すぎる曲がゆえに演奏を立派にゆっくりやった結果底の浅さが見えてしまった、そんな感じを受けた。でもこの曲、親しみやすさのみならずちょっと聞いただけでミヨーとわかる独自性はラヴェルの作品に比肩しうるものがあり、フランス近現代ピアノ協奏曲の系譜の中にも確実にその足跡を残したと言えると思う。ようは演奏次第でしょう。無印。

○ジャッキノー(P)フィストゥラーリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(naxos他)1953

テンポ取りなどややたどたどしさを感じる。ミヨーの特殊性を意識せず古典的な協奏曲をやるように正面から取り組んだ結果のようにも。モノラルというとどうしてもロンの演奏と比べてしまうが、細かいリリカルな表現にはオケもろとも惹かれるものの、何かプロヴァンスではない、北のどこかの協奏曲に聞こえる。アントルモンのようにやたら派手に一気呵成に攻めるのが良いとも言わないが、半分は篭りがちな録音のせいと思うが、勢いや説得力が足りない気もした。オケは上手い、美しい。ソリストも繊細で技巧に陰りはない。○。

ピアノ協奏曲第4番(1949)

○ザデル・スコロフスキー(P)、作曲家指揮ORTF(COLUMBIA他)

~この曲は壮麗な第4交響曲の後、弦楽四重奏曲第14、15番(一緒に演奏すると八重奏曲としても「いちおう」演奏可能)と前後して書かれた作品。アメリカ時代以降の典型のようなところがあり、多くの弦楽四重奏曲と同様、折角魅力的な旋律と明晰な和音が、複雑なテクスチュアの中に沈殿し結局かなり晦渋な印象を残す。オネゲルのチェロ協奏曲あたりを思わせるところもある。 1楽章ではいきなりの律動的なソロ、対してヴァイオリンのピチカートにはじまるバックオケの煌くような音響的伴奏が鮮烈な印象を与えるものの、曲想は複雑怪奇となり、わけがわからなくなってゆく。ヒンデミット張りに疾走しつづけるソロと対位的な構造の豊潤さにだけ耳を傾ければ面白く聞けるだろうが(3楽章も同様)、 1番にみられるような素直な美感は失われているといわざるをえない。依属作品としてやや軽く書き流したのかもしれないが、それにしては2楽章の晦渋な重みが少し奇異にもおもう。ミヨー好き向きの作品とはいえるが一般向けとはいえない。同盤2003年CD化済。(2005以前)

焦燥感のあるピアノの雪崩れ込みからいつもの牧歌的なミヨーが高音部で鳴り響く。高音部が管弦楽によって前期ミヨー的な暖かな音楽を繰り拡げるいっぽうで中低音域のピアノはひたすら動きまくる。依属者らしく表現に不足はなく危なげなく強靭に弾きまくる。せかせかした音符の交錯する結構入り組んだ楽章ではあるがさくっと終わる。2楽章は低音ブラス合唱で始まるこれもミヨーらしい人好きしない前衛ふうの深刻な音楽だが、ソリストは繊細な表現で音楽の無骨さを和らげている。3楽章は比較的有名なメロディから始まる楽天的な音楽で、打鍵の確かなこのソリスト向きの打楽器的用法が印象的である。喜遊的な雰囲気はミヨーの手馴れたオケさばき(必ずしも最高ではないが)によって巧くバリ弾きソリストをかっちり組み込んだ形で保たれていく。リズムが明確で押さえどころがしっかりしているゆえ、ミヨー演奏の陥りがちなわけのわからない冗長性は免れている。テンポ変化はほとんど無いが、そもそもそういう曲である。作曲家の職人的な腕による手遊びを楽しもう。○。(2008/5/9)

律動、律動、スコロフスキーは流石依属者、嬉々として技巧をきらめかせている。

「ダリウス・ミヨー~幸福だった私の一生」別宮貞雄訳音楽之友社刊(1993)は 20世紀フランス音楽を語るうえでは見逃せない書籍だ。同時代の貴重な証言に満ちており、作品表含めて資料的価値は計り知れない。その279、80ページにこの作品についての記述がある。ミルス・カレッジのミヨーのところへ紹介を受けてやってきた若いヴィルツオーソ・ピアニスト、スコロフスキーが未出版のピアノ協奏曲を欲しがったので、この作品を書き上げた、と簡単に記されている。「それを彼は何度も演奏し、次の冬にパリで、私の指揮で録音しました」そのLP化がこの緑ジャケットのレコードだ。人気曲「ブラジルのソーダード」のほうが大きく記されているけれども。この記述直前に触れられている弦楽四重奏曲第14、15番+「八重奏版」の録音も同じcolumbiaでLP化されている。ブダペスト四重奏団がレシーバ耳に録音した涙ぐましい話しは別項に置いておく。

ピアノと管弦楽のための5つの習作

○バドゥラ・スコダ(P)スウォボダ指揮ウィーン交響楽団(WESTMINSTER他)CD

この曲もいい曲だ。ピアノの音線は感傷的で、選び抜かれた最小限の音符で密やかな美をうたっている。習作とはいうが確かにミヨーらしくない不思議な感傷性を感じさせるものも織り交ざる。しかしそれらを総合してみると、サティという作曲家の姿が浮かんでくる。これはサティの延長上のピアノ曲なのだ、と半ば確信めいたものを感じた。ミヨーのピアノ曲にサティが色濃く影を落としているのは周知のとおりだが、サティよりも美しい
旋律と暖かな感傷性をあわせもったミヨーの真骨頂を見る思いだ。スコダのピアノもじつに要領を得た演奏で、音楽の前進性は際立っている。オケは多少晦渋ないつものミヨー節も聞かれるが短い曲ゆえそれほど気にはならない。 ○。

田園幻想曲

○アンダーセン夫人(P)スターンバーグ指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(OCEANIC)LP・初演者初録音

10分程度のプーランクふうの散文詩だが、ミヨーの職人的なピアノ協奏曲にみられる硬質の響きと機械的な律動が後半目立ってきて、興味深いところもある。美しい六人組的楽想がピアノのとつとつとしたソロに沿うように展開されていき、穏やかだが思索的で、演奏もミヨーらしさを殊更に強調するわけではなく、抽象的にすすめている。○。

マリンバ、ヴィブラフォーンと管弦楽のための協奏曲

○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル、ピーター・サドロ(M,V)(EMI)1992/4/16,17LIVE・CD

チェリの手にかかるとミヨーやルーセルもここまで綺麗に磨かれるのか、という見本のような一枚。両者とも響かせにくい過度に重ねられたハーモニーが特徴だが、チェリの響きへの拘りは余りにあっさりそのくぐもりを取り去って、透明な音響に仕立ててしまった。ミヨーにおいてはそこがとても素晴らしく垢抜けた印象をあたえ、ミヨー本来の田舎臭い野暮ったさが全く感じられなくなる。そこが大きな魅力だ。二回の演奏会のツギハギとはいえライヴでこの精度は尋常ではない。ルーセルの録音には少し無粋な硬さも見え隠れしたが、こちらでは実に気持ちのよい清々しさのみが感じられる。ここまで立派に表現されるとは、草葉の陰のミヨーも照れくさかったろう。これはミヨーのプロヴァンス風味たっぷり盛られた牧歌的作風によった作品であり、やや長々しいが、聴き易い曲である。特徴はやはり二つの鍵盤打楽器の導入であり、木と金属の硬質な響きがミヨーの柔らかな抒情に異質の怜悧な刺激をあたえ、長くぶよぶよしがちな音楽を引き締める役割を巧く果たしている。ただでさえ硬質に磨き上げられたチェリの音楽にこの打楽器の響きは加速度を与える。これはもうミヨーではないかもしれない・・・。とにかく楽想の割に長い曲なのでチェリの熱して前進することのない比較的遅い解釈では、最後には飽きる可能性がある。縦にぎっちり揃えられた音楽は決してフランス的な美質を持てていないわけではないのだが、ミヨーの洒脱を期待すると、どこか違和感がある。非常に盛大な賞賛を受けた演奏であり、私もこの完成度というか立派な構築性には大きな評価をつけるべきだとは思うが、◎をつけるのには躊躇させるものがある。涙をのんで○。

オーボエ協奏曲

○ヴァンデヴィル(Ob)スーザン指揮ORTFフィル(barclay,INEDIT)LP

比較的晩年の作品で筆のすさびのようなものの多い中、協奏曲と言う点を除けば無難な牧歌的小品に仕上がっている。

協奏曲のジャンルに並ならぬ情熱を注ぎあらゆる楽器の組み合わせで書いていたミヨーだが、いずれの作品も楽器をよく知り特質を引き出しつつも自分の作風をはっきり打ち出すという高度なわざを見せ付けるものになっているが、ここでもオーボエという楽器の懐かしく輝かしい音色を技巧的パセージを織り込みつつも表現させてゆく手腕が鮮やかである。

ヴァンデヴィルは舌を巻くほど上手い。相対的にバックオケが貧弱過ぎると思えるほどにである(音はどちらとも暖かくよい)。終楽章などオーボエなの?というような技巧的なフレーズも気合一発吹き飛ばしている。明るく軽快な演奏を楽しめる。○。

ハープ協奏曲

○マーン(hrp)P.ミュール指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

ミヨーのえがく南欧の牧歌がハープの神秘的な典雅さを身近な調べに見事に変換して美しくやさしく聞かせている。ミヨーの作風はもうワンパターンの安定したものだが同時代の円熟した作曲家たち同様楽器の組み合わせや新しい響きの導入によって幅を持たせようとしており、たんなるドビュッシーの末裔ではない。わりとしっかり長めの形式的な作品である点にも仮称反ドビュッシイストのリアリズムの反映が聴いてとれる。演奏はクリアがゆえに少し音が鋭過ぎて、浸るべき曲なのに浸れないもどかしさがあった。録音もよくない。

つづく
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