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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ラヴェル:ツィガーヌ

2017年03月24日 | ラヴェル
◎ジュイユ(Vn)ロジェ(PL)(ACCORD)CD

同盤に併録されているアンサンブルのヴァイオリニストとはやはり違う高みにあることを感じさせるシャンタル・ジュイユ、ソリストというのは選ばれた人種である。この曲はまったく不安はない。この人は冷え冷えした現代的な作品もしくは東欧北欧的な作品に向くと思う。パスカル・ロジェはまったく危なげなくチェンバロふうの音を振りまく。きらきらしたピアノ・リュテアルが実に民族的で、バルトークらの音楽と接近していることを感じさせるが、そこにラヴェル特有の古雅で異界的な音響世界が展開され、民族音楽との交錯がくらくらとさせる。演奏設計が素晴らしく、このなかなか充実した演奏に出くわさない曲の、ボレロ的な一直線な駆け上がりを完璧に表現している。もっと熱してもいい曲だがスタジオ録音ではこれで十分だろう。十分に抽象的でもあり、◎にするに躊躇は無い。女流ヴァイオリニストにピアノ・リュテアルと原作に忠実な編成で模範たる名演。超絶技巧がそうは聴こえないところが凄い。
Comments (8)
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☆ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ

2017年02月14日 | ラヴェル
○ロスバウト指揮ローマRAI管弦楽団(stradivarius)1959/3/24ローマlive・CD

ロスバウドが正しい読み方なのかもしれないと思ったけど別に日本人が日本語でかいてるんだからいいや。これはしょっぱないきなりびっくりする。重い!しかも速い!がしがしドシャドシャ始まるまるで重い荷物をドカドカ床に打ち付けながらリズムを刻んでいるような、この力強いダンスはなんなんだ!!とにかく余りのドイツ臭さにロスバウトの比較的現代的なイメージが崩れる。やっぱりドイツの人だったんだ。聞いた事のない「高雅」、やっぱり初曲が一番びっくりするためおすすめ。ロスバウトはこういうサプライズがあるから嬉しい。この人をバーデン・バーデンの現代専門シェフとかカラヤン的とか書いてた今や聞かない名前の評論文屋がいたけど、余りに聞いてない人の評だよなあ。マーラー中期とか聴いてみるといい。この人のラヴェルが聞けてよかった。個性的。○。オケのせいで「ほんとのドイツ」にならないですんでいるのが何より成功の原因かも。
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☆ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ

2017年02月11日 | ラヴェル
○ミュンシュ指揮シカゴ交響楽団(DENON,VAI)1963live・DVD

楽曲とオケの相性がよい。ミュンシュの過度にロマンティックな解釈が、ライナーに鍛え上げられたプロフェッショナルなアンサンブル、[わざ]が生み出す曇り無く清澄な響きによって、非常に[フランス的な]軽味に昇華されている。精妙と言ってもいい。もちろんブーレーズらの時代をへた現代的な精妙さではないが、ラヴェルという偶像にミュンシュという魂が入っている、これこそ設計者としての作曲家と解釈者としての指揮者の織り成す[音楽]という娯楽なのである。音にムラがあり映像も歪んでいるが、リラックスして演奏者たちに任せているかのようなミュンシュと、素っ気ないふりで完璧に合奏を組み立てていく余裕のオケの何と幸福な世界なのだろう。もちろん一曲一曲の短さ、やりやすさそして順番はあると思うが連続して演奏されているラ・ヴァルスよりも整いまとまっており、ミュンシュらしくないほどでもあり。状態をかんがみて◎にはしないが、幸福な記録。
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☆ラヴェル:歌劇「子供と魔法」~冒頭

2017年02月06日 | ラヴェル
○サバータ指揮他(COLUMBIA,serenade:CD-R)1948

これブールの録音だと思っていたが「平林先生」のデータによるとサバータだそうで、serenade盤に基づき書き記しておく。さすが音に拘った明瞭で生々しい復刻でノイズも気にならない(注:マニアに限る可能性あり)。サバータの演奏が晩年のラヴェルを魅了した話はわりと有名だと思うが、ラヴェルは確信犯的なドビュッシーよりはましとはいえそれでもけっこう場当たり的な感想を漏らし、それを誰かがきっちり記録していることがあると思う。超客観主義的でスコア至上主義者だとされる反面、「風見鶏」に思えるほどその場その場の実演の「印象」だけで「感動」を示したりもする。トスカニーニのボレロ実演に関する「伝説」がいい例だが、サバータも歌劇場を主戦場とする主情的な指揮者だからラヴェルの作曲家絶対主義とは相容れないところがあった筈。この演奏は非常に短い断片なので何とも言えないが、RVWやサティのソクラートを思わせるアルカイックな単純な伴奏音形より始まり得意のすべらかな和声処理による感傷的な序奏をへて、独唱の意思の強い表現、そして晩年の他作品、とくにピアノ協奏曲の簡潔な書法と不協和的な室内楽曲あるいは独唱曲と共通する運動性やオリエンタリズムを色彩的に描き抜いてゆく。場面転換が鮮やか・・・だがそれをしっかり認識する前にさっさと終わる。全部でどのくらい残っている録音なのか知れない。○。
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☆ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ

2017年01月24日 | ラヴェル
○エネスコ指揮シルヴァーストーン交響楽団(mercury他)CD

最初はあっさりしていて速く、アルベール・ヴォルフを思わせる素っ気無さだったがさすがヴァイオリニストである、設計がしっかりしている。それは前フリで(この有名なホルンソロを前フリにするところが嬉しい)旋律の抑揚にあわせてどんどん歌謡的に揺れていく。とても感傷的な世界へ行き着くのである。美しいハープのアルペジオ、きらめくようなマーキュリーの録音によって余り指揮者としては評価の高くないこのエネスコの「指揮」芸術の一端を垣間見ることができた。パリ音楽院の同窓生の作品を、まるでフランスの雰囲気そのままに、アメリカの光彩の中に最後は静かに、しかし甘やかに終わる。デロデロな演奏であるかのように書いてしまったが決してそんなことはない、品のいい演奏。録音が古いので○。
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☆ラヴェル:博物誌

2017年01月24日 | ラヴェル
○メリマン(msp)マデルナ指揮バイエルン放送交響楽団(arkadia)1960/12/2live・CD

マデルナのフランスものはコテコテマーラーなどに比べて美しくリリカルだ。この歌曲集においても無邪気なウィットと仄かな感傷が暖かい雰囲気の中に入り混じったいかにもルナールの作風を髣髴とさせる演奏になっていて、ルナール自身が嫌うほどにその世界と隔絶したものではない、むしろ素晴らしく「あっている」作品だと思わせるに十分な出来になっている。ラヴェルというと無機質に感情を入れず透明に響かせる演奏のほうが「正しく作曲家の意図を実現している」と理解されがちだが、歌曲はまず詩があるのであり、またラヴェルの一部楽曲には感情や感傷といったものを表現「せざるをえない」、音楽自身が作曲家の意図から離れ感情をあらわにすることを求めている、といったものが確かにある。ここにも(マデルナはかなりロマンティックではあるが)感情を抑制するよりは素直に表現する無意識的な意図が感じられるのであり、この意外といい録音できくと、かなり心に染みる。○。
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☆ラヴェル:1幕の歌劇「スペインの時」(1907-9)

2017年01月13日 | ラヴェル
○マデルナ指揮BBC交響楽団(stradivarius)1960/11ロイヤル・フェスティヴァル・ホールlive・CD

ラヴェルの歌劇は苦手で、つかフランス語はわからないし歌詞見ながら聴くほど器用じゃないので敬遠しがちであった。それが、じつは聴いていた演奏にもよるのだな、と思ったのがこのマデルナ盤である。ラ・ヴァルスの暴挙で知られる「解釈しまくる」作曲家指揮者だが、同曲の面白味をよく引き出して、しかもスペイン臭さを感じさせずに熱気を溢れさせる非常にバランスのいい感覚が発揮されている。面白いうえに臭くない。とても気持ちがよく、かといってよくいる硝子系指揮者のようなツマーーーーんない薄ーーーーーい透明音楽に陥っていない、ああ、スペイン狂詩曲だ、とか、高雅だ、とかいう断片も聞き取れたりして、それが心地よい流れに乗っているのだから最後まであっというまに聞けてしまう。舞台の仕掛けが見えないのがもどかしい点も多々ある作品だけれど、音楽だけでここまで聞かせるのはマデルナのラテン気質&現代音楽気質の融合による幸福な結果。録音がやや悪いので○にとどめておく。精度の高いオケもよかったのかも。ラテンオケだったらちょっとそっちに偏ってた可能性あり。
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☆ラヴェル:マ・メール・ロアより2.親指小僧、3.パゴダの女王レドロネット、5.妖精の園

2016年12月14日 | ラヴェル
○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(PARLOPHONE)SP

EMIで終曲のみLP化しているのは別途書いた。この終曲はしっとりした演奏になっているがそこまでの2曲は割合と無骨というか余り棒慣れした音になっていないのが意外といえば意外である。往時のフランスオケのレベルが知れるといえばそれまでだが、いい面では同時代の他録と同様の微妙なリリシズムをたたえた音が美しい、悪い面では演奏の整え方が雑である。コッポラのような録音専門指揮者のものとは完全に異質なため演奏の完成度うんぬんを指摘すべきではないかもしれないが、ちょっとぎごちなかった。とはいえ「パゴダの女王」の表現にかんしていえば銅鑼等の響きを効果的に使い、如何にも「中国の音楽」といったものを描き出していて、ああ、こういうふうにやるのか、と納得させるものがあった。譜面に書いてあるように演奏するのではない、これは「中国の音楽」をどうやって表現するのか、単にラヴェルが中華素材をもとにオリエンタルな世界を創出したものではなく、これは「中国の音楽なのだ」という意識が強く感じられる。印象的だった。○。
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☆ラヴェル:ピアノ協奏曲

2016年12月05日 | ラヴェル
○園田高弘(P)ブール指揮バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団(EVICA,日本クラウン/SWR)1965/12/13・CD

入りからびっくりしたのだ、あ、ロンの音だ、と。フランスの至宝と呼ばれたマルグリット・ロン女史(ロン・ティボー・コンクールのロンね)の、明快だがどこかロマンティックな軟らかい色のある音。タッチが似ているのか。ライナーにもあるとおり園田氏はブールより、「直伝」と言われたロン女史の解釈(じっさいにはラヴェルは最盛期の女史に容易に口出しできなかったとも言われる)とは異なる、譜面にあるとおり「だけ」の演奏をするように強いられたという。しかし器楽演奏というものは指揮者や作曲家の考えるものとは違う部分がある。統制のきかない部分は確かに残る。これは「ドナウエッシンゲンのブール」の世界に園田氏が埋没させられてしまったのではない、素晴らしい技術的センスと鋭敏な反射的能力を駆使した園田氏が、ブールが思い描く「客観即物主義的な音楽観」を損なわず、かつ(無自覚のようだが)自らのほうに見事に融合させている。寧ろその性向的にブールでよかったという結果論も言える(晩年のロン女史のような「突っ走り」は無いが、フランソワのようにスピード感が失われることも決して無い)。

両端楽章においてはこの盤の表題になっている「若き日」とはいえ、浅あさしい技巧家ぶりは無い。2楽章は最も繊細な感覚が要求されるがここで古典的構成感とロマン派的旋律性の狭間に確固としたテンポで柔らかく奏される絶妙な音楽は、より直伝に近いと言われたスタイルを持っていた(しかしこの曲は時期的に直伝ではない)ペルルミュテールに似ているかもしれない。

ブールのラヴェルはロスバウトより色が無く、音は軽やかでも揺ぎ無い構造物となる。だが遅さや重さというのは感じない。巧緻な設計のなせるわざだろう。全く別種の指揮者とはいえ同じ指向も感じさせるケーゲルのムラある芸風とは違い、スコアを固持はするものの、ギリギリ「どちらにも振り切らない」ことにより晩年ラヴェルのロマンティシズムを失わず、あっさりもしすぎない魅力的な演奏を仕立てる。ライヴではこうもいかなかったかもしれないがブールのライヴに精度の低いものは知らない。少なくとも同じ即物的傾向の強い透明なラヴェルを得意としたベルティーニの無味乾燥とは違うものではある。うーん、これは知られざる名演だが、一般的ではない。何故だろうか。○。
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☆ラヴェル:ダフニスとクロエ第二組曲

2016年11月24日 | ラヴェル
○フルトヴェングラー指揮BPO(BP)1944/3/20-22・CD

ベルリン・フィル自主制作盤より。クレジットは若干違うものの恐らく既出盤といっしょだが、かなり残響が加えられリマスタリングが施されて、極めて聴きやすくなっている。丸みのあるリマスターなのでデジタル独特のエッジも気にならない。擬似ステレオと聞きまごうほどの手の入れ方には問題あろうが、フルヴェンの真の姿に近づけようとした一つの試みとして聴くならば、それは成功である。重くて場違いなモノトーンの興奮、という印象は覆される。ドイツ臭さすら余り感じられない。イギリスオケ的にすら聞こえてしまう。盛り上がりはトスカニーニ的といってもいいのではないか。全員がちゃんと踊っている。興奮します。ファンなら◎。私は○。過度なリマスターは気になる。
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☆ラヴェル:ツィガーヌ

2016年10月18日 | ラヴェル

◎ヌヴー(Vn)ジャン・ポール・ヌヴー(P)(polskie nagrania他)CD

この曲で満足したことはない。モノラルだし、ヌヴーのコンチェルトものなど余り好ましく思ったことはない。しかしながらこれは、ラヴェルでも大して魅力的と思えないこの曲に血を通わせ肉をあたえ、しかしスリムでラヴェルらしさを失わずに東欧のヴァイオリニストのように弾き抜けていく。でも民族色はない・・・これはラヴェルだ、ラヴェルという濾過をへた民族音楽なのだ。お国ものがいいとは限らない、ましてやこれはラヴェルという特異な作曲家の工芸品である。でもこれを聴くと、エネスコですら太刀打ちできなかっただろう本質を突いている、たぶんこういう曲をやるために生きて行くはずだったのだろう、と想像する。姉弟による遺された記録のひとつ。◎。なんだか説明できない演奏だ。
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☆ラヴェル:ボレロ

2016年09月30日 | ラヴェル
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(MUSIC&ARTS)1939/1/21LIVE・CD

テンポが速すぎると文句を言った作曲家を、腕ずく(もちろん「演奏」という意味ですよ)で納得させた(とロザンタールが言っていた)トスカニーニのなぜか唯一の記録。30年代にしては破格のいい音だと思う。これはもう各ソロ楽器がトスカニーニの敷いた線路に乗ったうえで勝手にそれぞれ表現しつくしている感じがして面白い。つじつまがあうギリギリまでテンポを揺らしかっこよく歌いこむ人もいれば、つんのめり気味にどんどん先へ突き進もうとする人もいるし、ボレロらしくきっちりインテンポを守る人もいれば思いっきり音を外して恥をかいている人もいてさまざま。こういう楽器おのおのの表情変化を楽しむ曲だ。面白い。

トスカニーニに「不断のテンポ」があるかといえばそうでもない。長い長い旋律の後半部分でシンコペから3連符に入る音の高いところ、必ずテンポを思い直すように落としているのだ。これは・・・現代の耳からすれば違和感がある。これは踊りの音楽である。こういう盛り上がりどころでのスピットなリタルダンド挿入というのはどうなんだろう?更にクライマックスあたりでもいっせいにテンポを落とす箇所がある。こうなるとトスカニーニ解釈ここにありというか、前近代的なロマンティックな解釈とは隔絶した硬質さはあるのだけれども、まるでムラヴィンスキーのように(影響関係逆だが)確信犯的で予め準備された「崩し」が入るところに独特の作家性を感じるし、違和感はあるけど、それなりに面白くもある。最期はもちろんブラヴォー嵐。何度聞いても面白いですよ。
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☆ラヴェル:スペイン狂詩曲

2016年09月23日 | ラヴェル
○ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(COLUMBIA)SP

初演者による記録だがピエルネの指揮の特徴である硬直したテンポとリズムがここでも気になる。オケには素朴なロマン性が生きているものの、解釈には正直人工的なところが否めず、モントゥの無難な録音のようなところもあり、そそられない。SP盤特有の無茶な末尾カットや裏返し断裂がどうしても気になる点含め、とうてい◎ではないのだが、これもまたピエルネの特徴である、しんとした和声のうつろいを聴かせる場面では整理され磨かれた硬質の響きが時代性を越えて印象的な表現に昇華されている。ドビュッシーの雰囲気音楽に適性があったのもさもありなん、ラヴェルにおいては理知的な演奏ぶりが効を奏していると言うべきだろう。○にはしておく。録音にSPに期待されるような明晰さや強さが足りない部分も大きい。盤のせいか。
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☆ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ(遺作)

2016年09月12日 | ラヴェル
ギドン・クレーメル(Vn)エレーナ・クレーメル(P)(PHILIPS)1980版・CD

西側デビューから数年の新進気鋭のころに録音されたフランス秘曲集から。クレーメルは日本人には馴染み深い当代瑞逸のヴァイオリニストの一人で稀代のテクニシャンで知られるが、奏法に特徴はあるもののこのころの音色は決して往年の大ヴァイオリニストのような特徴あるもの(たとえば師匠のD.オイストラフのようにふくよかでボリュームのある音)ではなく変化に乏しいところがあり、音楽で聞かせるのではなくテクニックと楽譜読みで聞かせるだけの感もある。ガルネリの音色ということもあろうが金属質な感じもある。ただ、フランス近現代の厳密な音程感(和声感)と透明感を要求する楽曲には向いているとは言える。硬質で内容的に静謐な音楽に向いているから、アナログ盤よりデジタル盤に向く(この盤は「ヴァイオリン・リサイタル」の名で一度だけCD化しているが、私はLPしか持ってません)。これは同曲の初録音である。ロッケンハウスで現代楽曲の啓発に取り組む前のクレーメルの姿勢をよく示した選曲である。

1897年パリ音楽院時代(22歳)の習作だが、はっきり言ってラヴェルはこの曲を発掘してほしくなかったに違いない。初めから非常に大胆(というか無茶)な和声的書法をとっているが、内容的にはフランクの延長上にあり、あきらかにディーリアスの模倣である。ドビュッシーの習作ピアノ三重奏曲(18歳の作品)と比べても全く魅力を感じない。この曲を久しぶりに聞いたが(譜面は見て全く興味が湧かなかったので入手してません)、執拗なぎごちない転調にぱっとしない旋律(バスクの民族色を意識している感じだけはする)、半音階的な経過句など、聞いていて「これはあの時代にドビュッシーの影響を受けたロマン派の無名作曲家のものだよ」と言われれば納得しそれなりに聞けると評することもできようが、とにかく自己の評価されていない室内楽作品と比べても更に格段に落ちる。クレーメルもロマン派ふうに弾けばいいものを「ラヴェルとして弾いてしまっている」。エレーナ(D.バシュキーロフ先生の娘さん(バシュキロ-ワ)でクレーメルのロシア時代からの夫人、不倫の末バレンボイムと結ばれたのはアルゲリッチ絡みでよく知られた話ですね)のピアノはそつのない繊細なものでフランスもののピアニストとしては適性があると思う。同窓エネスコが初演したまま譜面紛失、75年再発見と共に出版された。
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ラヴェル:ボレロ

2016年04月20日 | ラヴェル
○作曲家指揮ラムルー管(EMI他)1928

数日前コッポラが初録音を行っており意識はしていたと思う。四角四面の指揮でわかりづらかったという話も聞いたことがあるが、ボレロについてはそれが意図であったのだろう。気を煽らないテンポへの拘り。管に変な演奏の人が
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