国民参加を前に/4 責任能力と精神鑑定 プロも揺れる、難しい判断
■負担軽減の工夫も
「爆弾、ある?」
法廷に入るなり、被告は席に座るのを拒み、突然後ずさりを始めた。「大丈夫だから」。両脇の警察官が必死になだめ、腰掛けさせると、床をにらみつけ、呼吸を荒らげた。
2月5日、東京地裁で開かれた殺人事件の初公判。母親を殺害したとして起訴された根本和彦被告(41)の不可解な言動は続いた。
裁判長「上を見たけど、何か見える?」
根本被告「しゃべったら、殺される」
裁判長「ここがどういう場所か分かる?」
根本被告「窓の外にセミが何匹も何匹もひっくり返って死んでいるの」
根本被告は3回、精神鑑定を受けている。逮捕後の2回の鑑定結果は刑事責任を問えない「心神喪失」と、刑が減軽される「心神耗弱」に分かれ、東京地検は不起訴にした。医療観察法に基づき入院などの要否を決める東京地裁の審判で行われた3回目の鑑定は一転して完全責任能力を認め、地検は改めて起訴を決めた。
精神科医の鑑定結果も三つに分かれ、検察の判断も不起訴から起訴に揺れ動いた。裁判員制度が始まれば、市民もこうした事件で被告の刑事責任を問えるかの判断を迫られる。最高裁司法研修所は昨年11月、「可能な限り複数鑑定は避けるべきだ」と提言している。
◇ ◇
東京都立松沢病院の大澤達哉医師は昨年、精神鑑定を行った被告の公判に証人として出廷した。パソコンのプレゼンテーションソフトを使って約20枚のスライドを法廷のモニターに映し出し、被告の精神症状が犯行に与えた影響や病気について説明した。裁判員制度を意識した手法だった。
その後の質疑応答はスムーズに進み「質問に答えるだけの従来の尋問に比べ、効率的な審理だった」と感じた。精神科医も裁判員制度に向けた対応が必要だと考える。かつては30~40ページあった鑑定書は10ページ程度に。一方で「短すぎると正確さが失われ、説明不足になる恐れもある。バランスが大切」と話す。
最高検は2月に公表した裁判員裁判の基本方針で「鑑定書の本文は2枚程度とし、理由の詳細を別紙にすることが望ましい」と示した。裁判員が難解な専門用語を理解できるよう、鑑定医と協力して用語解説集を準備することも提案した。
◇ ◇
大阪地裁の杉田宗久裁判長は1月26日、強制わいせつ致傷罪に問われた藤見一(はじめ)被告(33)の公判で、「心神喪失とは言えない」と告げた。
責任能力が争われた場合、裁判所は判決時に、その判断を示す。判決前に、責任能力だけ結論を出すのは極めて異例だ。弁護を担当した小坂谷聡弁護士は裁判所の訴訟指揮に同意した。「仮に心神喪失と認定されれば、その時点で無罪判決が出て、情状面の審理を省くことができた」
藤見被告は執行猶予付き有罪が確定した。早い段階で難しい責任能力の判断を終えれば、審理の迅速化につながり、他の争点や量刑の検討に集中できる。裁判員に過大な負担をかけない試みだった。=つづく
■ことば
◇責任能力と精神鑑定
被告の事件当時の精神状態が「障害で善悪が分からず、それに基づく行動ができない」=心神喪失=と判断されれば無罪になり、「判断力などが著しく減退している」=心神耗弱=と認められれば刑が減軽される。精神科医が専門知識を基に診断した鑑定に基づき判断するが、結論を出すのは裁判所になる。
毎日新聞 2009年3月18日 東京朝刊
国民参加を前に/5 取り調べの可視化 証拠DVD巡り攻防
■検察の武器、弁護側は逆手に
容疑を認める内容の供述調書を読み上げた検事が「訂正や追加することはありますか」と確認すると、机を挟んで座っていた石崎敏行被告(34)は「特にありません」と答え、調書に署名した。
2月16日、水戸地裁。法廷の壁の大型モニターが映し出したのは、検事が石崎被告を取り調べる様子を収めたDVD映像だった。
石崎被告は、友人を暴行し湖に突き落として死なせたとして傷害致死罪に問われた。捜査段階で自白したが、公判では「暴行していない」と無罪を主張。水戸地検は自らの意思で自白したことを立証する目的でDVDを証拠提出した。
DVDには、石崎被告が「5年前の事件で記憶がぼんやりしていました」と話すシーンも収められる。茂手木克好弁護人は「説明内容にリアリティーがない」と感じた。「過酷な取り調べで強いられた虚偽の自白だ」と、弁護側からもDVDの証拠採用を求め上映が実現した。検察側の「武器」を逆手にとる作戦は功を奏すか。公判は継続中だ。
◇ ◇
検察庁は06年8月から、自白した容疑者の取り調べの一部録画を試行している。従来、公判で否認に転じた場合、捜査段階の自白の任意性や信用性が延々と争われ、審理の長期化を招いていたからだ。昨年末までに全国の地検が1900件の録画を実施し、延べ25件が法廷で上映されたが、裁判所はほとんどのケースで録画が検察側主張の裏付けになると判断した。だが、否定した例もある。
大阪地裁で07年11月、殺人未遂罪に問われた被告の男性(90)の取り調べを録画したDVDが上映された。
男性「殺そうとは思わんかったけど、腹が立ったからね」
検事「殺さんかったら、殺されると思ったんやね。殺そうと思ったに、間違いないね」
男性「ええ……」
1週間後、地裁は「殺意があったように誘導している」と判断し、自白調書を証拠採用しないと決めた。被告は耳が悪かった。「調書の内容を理解できないと知りながら、十分な配慮をしなかった」。地裁は取り調べの問題点を指摘した。
最高検は「DVDは有利、不利を問わず有用な証拠になる」として、4月から裁判員制度対象事件での一部録画を本格実施する。
◇ ◇
「証拠が膨大で、弁護人と被告の間で十分な準備の機会を確保する必要性が高い」。東京地裁は昨年1月、投資詐欺事件で起訴され、無罪を主張する被告の保釈を認めた。
初公判前に保釈される被告の割合は03年、拘置された被告の7・9%だったが、07年は10・5%になった。従来、被告が起訴内容を争った場合「証拠隠滅の恐れがある」として検察側立証終了まで認められないケースが多かった。日本弁護士連合会・裁判員制度実施本部の宮村啓太弁護士は、公判前整理手続きが導入され、早期に争点整理がされることを理由に挙げる。
取り調べの録画や、保釈率の向上。容疑者・被告を取り巻く環境も、裁判員制度を契機に変わりつつある。=つづく
■ことば
◇取り調べの可視化
検察や警察が実施する取り調べの一部録画に対し、日本弁護士連合会は「捜査側の都合の良い部分だけが録画されかねない」と指摘し、自白の強要などの不当な取り調べを防ぐには取り調べの全過程の録画(可視化)が必要だと主張している。しかし、捜査当局は「自白が得られにくくなり、事件の真相解明に悪影響が出る」と反対する。海外では、英国やフランス、韓国などが全過程の録画を実施している。
毎日新聞 2009年3月19日 東京朝刊
国民参加を前に/6止 変わるプロの意識 「理解しやすさ」模索
■詳しい問答、視覚的立証…
「受刑者はどんな生活をしているのですか」。京都地裁で昨年6月にあった模擬裁判。実刑か執行猶予か、評議で議論しているさなか、裁判員役の市民が裁判官に尋ねた。
各地の模擬裁判でも参加者から同様の疑問が出たことから、最高裁は昨年12月、刑務所の実情に関する資料を作り、全国の裁判所に配布した。受刑者の1日のスケジュールを図表にして示し、想定問答を列挙。裁判官は、これを参考にして裁判員の質問に答える。
Q 受刑者の食事はどのようなものか。
A 主食は1100~1700キロカロリーで、混合比は米70対麦30。
Q 入浴は?
A 1週間に2回以上で、およそ15分。
Q 死刑判決からどのくらいで執行?
A 法務省内で関係記録を精査し、執行に慎重を期している。
「興味深い」「知らなかった」。最高裁には現場の裁判官から感想が寄せられた。裁判官も刑務所を見学しているが、その多くは詳細な処遇まで関心を払ってこなかった。模擬裁判や裁判員制度を広報するための市民との交流を通じ、裁判官の意識も変わりつつある。
◇ ◇
検察も市民が理解しやすいよう視覚に訴える立証に取り組む。
1月13日、東京地裁。女性を殺害して遺体を損壊したとされる星島貴徳被告(34)の初公判で、検察官は大型ボードを用意した。部屋の位置関係図と事件の経過を示し、動機を指摘しながら、ボードに「性奴隷」と書いた紙を張り付けた。法廷の大型モニターに、遺体の断片写真も示した。「骨片49個、肉片172個。遺族に返すことのできた被害者のすべてです」。この立証は法曹関係者から批判が強かった。
ビジュアル立証について最高検の藤田昇三・裁判員公判部長は「単なるパフォーマンスではいけない。説得力のある証拠を示すことが最重要」と、今後も工夫を重ねていく考えだ。
◇ ◇
「弁護側も量刑主張するため、データベースの作成が必要だ」。2月21日に名古屋市で開かれた集会で、愛知県弁護士会の金岡繁裕弁護士は訴えた。これまで弁護側は「寛大な刑を求める」と抽象的な主張にとどめるケースが多かった。
同弁護士会は、名古屋高裁管内で言い渡された裁判員制度対象事件の判決を収集し、約270件をデータベース化した。会員が罪名や凶器、被告の属性などから検索すると、量刑と判決文を把握できる。大阪や京都の弁護士会とも協力、最終的には全国運用を目指す。
裁判員の量刑判断の目安に、最高裁は量刑検索システムを開発した。裁判官が検索し、過去の類似事件の量刑分布をグラフで示す。しかし、金岡弁護士は「データが抽象的でミスリードの恐れがある」と指摘する。より詳細なデータベースを基に「適正な量刑」を主張したい考えだ。
裁判に参加する市民に、いかにして理解してもらうか。法曹三者の模索は続いている。=おわり
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この連載は北村和巳、伊藤一郎、芳賀竜也、銭場裕司、秋田浩平が担当しました。
■ことば
◇変わるプロの意識
裁判員制度開始に向け全国で500回以上の模擬裁判が行われ、裁判官、検察官、弁護士の法曹三者は円滑な運用に向けた協議を繰り返している。それをもとに裁判所、検察庁は内部で研究会を重ね、報告書や基本方針を示している。日本弁護士連合会は陪審制を採用する米国の弁護士を招き、弁護技術の研修を進める。それぞれが交流会などを通じ、積極的に国民と接する機会も設けている。
毎日新聞 2009年3月20日東京朝刊
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