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柳澤恭雄さんをしのぶ:「放送の自由」追い求め 「常に第一報に接したい人」

2007年10月15日 | スクラップ
◇元NHK解説室主管、日本電波ニュース社を創設

 NHKの前身、社団法人・日本放送協会国内局報道部副部長として、終戦を告げる玉音放送にかかわった元NHK解説室主管、柳澤恭雄・初代日本電波ニュース社社長が8月23日、老衰のため98歳の生涯を閉じた。

 戦後、NHKの放送記者制度の創設に力を尽くしたが、50年のレッドパージでNHKを追われた。その後、電波ニュースを設立。ベトナム戦争では現地映像を配信し、内外に存在感を示した。柳澤さんは、今日再び強まる政府による報道規制の動きに警鐘を鳴らす。柳澤さんのインタビューを紹介するとともに、関係者の話を通して足跡をたどった。【臺宏士】



 「柳澤さんほど現役のジャーナリストとして存分に生きた人はいないのではないか。アフガン戦争、イラク戦争が始まった時も『それでうちはどんな布陣での取材かね』といつも電話で尋ねてきた。常に第一報に接したいという気持ちがあったと思う」。9月28日に東京・神田錦町の学士会館で開かれた「お別れの会」。石垣巳佐夫・日本電波ニュース社社長はエピソードを披露した。

 石垣さんはベトナム戦争中の73年5月、柳澤さんとともに北ベトナム(ベトナム民主共和国)から北緯17度線を越えて、南ベトナム(ベトナム共和国)をカメラマンとして取材した際、三つの「訓示」を受けたという。
(1)権力のお先棒担ぎはやめなさい。
(2)小さな会社でも大きな仕事ができる。志があればこの職業はおもしろい。
(3)何のため誰のために報道するのかを考えてほしい。
 
 石垣さんは「遺言だと思う」と唇をかみしめた。

 日本初のテレビ向け通信社として電波ニュース社は60年3月に柳澤さんが私財を投じて設立した。当時、日本のテレビ局が力を入れていなかった社会主義国を中心に海外取材網を構築した。

 柳澤さん自身も62年5月、日本メディアとして初めて北ベトナムのホー・チ・ミン大統領との単独会見に成功した。同社は64年に北京支局、ハノイ支局を相次いで開設した。ベトナム戦争をめぐっては、65年2月に始まった米軍による北爆の映像を最初に配信するなど存在感を示した。

 春原昭彦・上智大名誉教授(ジャーナリズム史)は「南側からのニュースが大半の中、電波ニュースによる北側から取材したニュース映像が日本だけでなく米国のベトナム反戦運動に与えた影響は大きかった」と分析する。

 連合国軍占領下の50年6月にNHKに入局した川竹和夫・元東京女子大教授(82)=元NHK放送世論調査所所長=は、新人研修で「放送記者制度は柳澤さんの発案だ」と説明を受けたのを今も覚えている。

 柳澤さんは41年に「自主取材による書けて話せるジャーナリスト」の必要性をまとめた論文「報道放送の特質と限界」を発表。46年に計約40人の記者採用にかかわった。しかし、NHK問題に詳しい松田浩・元立命館大教授(放送史)や川竹さんによると、新人記者の活発な労働組合活動の影響と、独自取材を不要だとする幹部の考え方から、採用は2回で途絶えた。4年ぶりとなる50年の記者採用は、テレビ放送や、民間ラジオ放送の開始を控えた取材力の強化策として再開したという。松田さんは「新聞社をバックにした民放の初期のキャッチフレーズは『報道は民放、娯楽はNHK』だった。民放の出現が報道体制の整備を促した」と指摘する。

 ところが、朝鮮戦争の余波がNHKを襲う。古垣鉄郎会長は、占領軍の指示で50年7月に始まる「共産党員ともしくはその同調者」を追放するレッドパージで、柳澤さんら計119人をNHKから追放した。新聞・放送関係で最も多かった。川竹さんが所属した農民組合や労働組合を取材する中労委会館にあった「労農記者会」にはレッドパージされた記者らが出入りし、柳澤さんも姿を見せ、放送ジャーナリズムの意義を語っていた。

 親しかった友人(故人)は「人付き合いが得手ではなかった。NHK報道の生みの親でありながら、追い出された」と川竹さんに話したという。

 橋本元一NHK会長は「お別れの会」などに弔電を寄せ、「戦後の報道機関の礎を築かれた一人」と功績をたたえた。



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■生前にインタビュー



◇最期まで規制に警鐘「戦前の状況と変わらない」

 柳澤恭雄さんに対するインタビューを毎日新聞が最後に行ったのは今年4月29日。日本国憲法施行60周年を前に政府が強める表現、メディア規制について考えを聞いた。

 

--放送法改正案や、国民保護法の成立(04年6月)、NHKへの放送命令(06年11月)など政府は放送局に対する規制を強めています。

◆報道、放送の自由と、政府による介入は全く相いれない。菅義偉前総務相は、今年1月発覚した、関西テレビによる番組捏造(ねつぞう)問題をチャンスとばかりに権力のあからさまな姿をむき出しにしてきた。放送法改正案ではNHKの国際放送への命令を「要請」と薄めた表現に改めたようだが、実態は変わりない。非常に深刻な問題で、このまま通れば、戦前の状態と変わらない。メディア全体を政府の圧力の下に置くということと同じだ。

 
--「やっと自由に放送ができる」と終戦時に実感したと語っていましたが、今日のような状況を想像できましたか。

◆全く思っていなかった。NHKを戦前から今日まで見てきた。戦前は、無線電信法で「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」と定められ、放送は政府の言いなりだった。私はそれを検閲放送と名付けた。事前検閲を受けないと放送できなかった。今なお権力者の頭の中には戦前の状態が惰性で色濃く残っているし、菅さんは露骨だった。NHKにも惰性が残っている。旧日本軍の従軍慰安婦を取り上げたNHK特集番組をめぐる安倍晋三前首相ら自民党政治家による「圧力」問題も同じだ。惰性は、政府に対する土下座根性みたいなものだ。そんなことはないと主張するNHKの人は多いと思うが、ないという現状認識があるほど染み込んでいる。

 
--放送の自由を保障するにはどうすべきでしょうか。

◆放送の自由は危ういと思う。放送を政府が監督する仕組みの最も悪い点が表れた。放送行政は政府権力の外になければいけない。米国のFCC(連邦通信委員会)のような政府から独立した電波監理委員会ができて本当に良かったと思ったが、52年に占領が終わると吉田茂内閣は廃止してしまった。放送の自由を確保するためには絶対必要条件だった。



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◇8月15日、反乱軍から玉音盤守り放送

 柳澤さんは、1909年、京都府山城町(現木津川市)に生まれる。東京帝国大学文学部社会学科に進み、日本新聞学会名誉会長を務めるなどジャーナリズム研究の権威だった小野秀雄氏(1885~1977年)の新聞研究室に学んだ。日中戦争時の38年に社団法人・日本放送協会に入局。41年に召集され、仏印・サイゴン(現ホーチミン市)から蘭印・ジャワ向けの謀略放送などに従事した。

 45年8月15日の終戦時は国内局報道部副部長。同日未明、東京・内幸町の放送局に畑中健二陸軍少佐が乗り込んできた。少佐に拳銃を突きつけられ徹底抗戦を訴える放送をさせるよう要求されたが柳澤さんは拒否した。

 同じころ、技術員だった玉虫一雄さん(85)=仙台市在住=ら協会関係者9人は、前日深夜の皇居での玉音録音を終え、車で坂下門を出たところで、玉音盤を奪いに来た反乱軍に拘束された。玉虫さんは「何が起きているのか全く分からなかった」と振り返る。

 東宝映画「日本のいちばん長い日」で畑中少佐らが協会を占拠するシーンは有名だが、同少佐に拳銃を突きつけられたのは、館野守男アナウンサーとなっていて、柳澤さんではない。

 体を張った抵抗で玉音放送にこぎつけた柳澤さんが自戒を込めて、残した言葉がある。

 「いろいろ疑問を持ちながらも、うその放送をしてきた私の責任は大きい。戦争に賛成できないことを表明できなかったことは、ジャーナリストとしても人間としても深刻な問題だ。私の戦後は死ぬまで続くだろう。どんなことが起きても国民が『日本のメディアは正しいことを報道してきた』と思えるメディアであってほしい」




毎日新聞 2007年10月13日 東京朝刊

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