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長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

山崎合戦古戦場の碑

2014年08月04日 | 史跡
大山崎中学校の正門に向かって左横に

「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された牌が建っています。

先日2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』の「中国大返し」が放送されました。

秀吉と光秀が戦いを繰り広げた舞台が、

天王山のふもとに流れていた円明寺川(現在の小泉川)を挟んだ一帯で、

ちょうど大山崎中学校の辺りだったとのことです。





阪急電鉄西山天王山駅 下車徒歩 約11分

<「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」の牌>の場所はこちら



その時に光秀は現在サントリー京都ビール工場のすぐ裏手にある

本陣と伝えられる御坊塚があった境野古墳群の中の

一号墳に本陣を構えたと考えられていました。

(現在はサントリー京都ビール工場内にあります。)

しかし最近になって、恵解山古墳が光秀本陣跡だったのでは?

という説が出ています。

2011年に長岡京市埋蔵文化財センターが発表した内容によると、

火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した

曲輪の跡が見つかったほか、幅4~5m、深さ約2mで、

49mにわたる防衛用の堀跡が確認されています。

恵解山古墳は現在史跡公園として整備工事が行われています。

平成26年10月26日にオープンの予定です。詳しくはこちら

<恵解山古墳>の場所はこちら


近くには光秀の娘、玉が細川忠興に御輿入れした

勝龍寺城跡の勝竜寺城公園もあります。

戦国時代に思いをはせながら長岡京市を散策されてはいかがですか?




物集女(もずめ)車塚古墳 2

2014年06月12日 | 史跡




石室内部に置かれた石棺は、

「組合せ式家型石棺」と呼ばれるものです。

底石3枚、蓋石3枚、長側石2枚、短側石2枚の計10枚で

組立てられています。



部材の側面にある突出部は「縄掛(なわかけ)突起」と呼ばれ、

石板はとても重いので縄をかけて運んでいたものと思われます。



石棺の縁が少し赤く染まっているのがわかるでしょうか?

これはベンガラと呼ばれる赤色顔料で、石棺内部が赤く塗られていました。

組み立てる前に塗られたものとおもわれます。

副葬品の大半は盗掘されていましたが、ガラス玉、冠などの装身具

刀、鞘などの武器が残っていました。


(中央の一段上がる位置にあるのがしきみ石です)

石室床面の地下には室内にしみ込んだ雨水を、

外部へ流す排水溝があります。

玄室は四壁沿い、羨道部は梱石(しきみいし)まで両壁と中央にあります。

これらは石室の入り口で合流し墳丘外へと、

抜けるように工夫されています。



南側の墳丘外に作られた排水溝です。

長雨が続いたときには石室を除湿する水が、

少しずつ流れだしています。





物集女車塚古墳は府指定文化財として、

古墳全体に笹が植えられ公園となっています。




















物集女(もずめ)車塚古墳  1

2014年06月05日 | 史跡




向日市の物集女車塚古墳は、古墳時代後期(6世紀中ごろ)

西側の丘陵からのびる尾根を利用し、ほぼ東西方向に、

築かれた全長46メートルの前方後円墳です。



6世紀前半継体天皇が乙訓地方に「弟国宮」をつくったと

日本書紀に記されていますので、

大和政権の大王と深い関わりを持つ前方後円墳が、

この地にあるのも不思議ではないのでしょうか。



古墳の上にたつ杉は遠く京都駅からも見え、

第二次世界大戦後はこの杉を目印に、

故郷をめざし帰ってこられたそうです。

このお墓に眠る人物もその方向を意識して、

お墓を築造し、権威を示したかったのでしょうね。





石室は「機内型」という6世紀前半以降に流行した横穴式石室です。

特徴はながい通路「羨道(せんどう)」と広い部屋(玄室)からなります。

横穴式は複数の人物を一つの場所に葬る事ができる画期的なお墓です。

後円部山頂から石室にかけてすり鉢状に掘られた

盗掘穴跡が確認されていますが、

これは横穴石室の天井石にはばまれ断念したと思われます。

実際の盗掘は南面の横から掘り羨道の途中の壁を崩して

石室に侵入したとおもわれます。



次回は石室内をご紹介したいとおもいます。

お楽しみに!


山崎院跡 

2014年03月29日 | 史跡


JR山崎駅を出て踏切を渡り天王山登り口にはいかず、

線路沿いに歩いて行くと「山崎院跡」があります。

山崎院は奈良時代の高僧「行基(ぎょうき)」が

建立した寺とされています。

行基は貧しい人たちにこそ仏教の教えが必要だと考え、

人々と共に道を造り、ため池を掘りここ山崎の地では、

淀川に橋を架けた偉大な人物です。



国家からは反逆者として厳しく迫害されますが、

民衆からは絶大な支持を集めます。

この力を見込んだのか利用したか解りませんが、

聖武天皇は東大寺の廬舎那仏(るしゃなぶつ)

通称「奈良の大仏」造立の最高責任者に行基を任命します。

当時日本の人口600万ほどですが、その半数ちかい260万人が

造立事業に関わったとされています。

律令(りつりょう)の法の下でどん底の

厳しい生活をしていたにもかかわらず・・・です。



山崎院跡から銅の塊が出土していますが、

その成分は大仏に使われたものとほぼ同じだと分析されています。

当時、銅は大変貴重なもので聖武天皇から、

贈られたのではないかという事です。





西の天王山から東の淀川まで最短地は200m程、

ここを通らないと西へも東へも行けない・・

歴史上とても重要なこの地に橋をかけた行基は、

聖武天皇から日本初の大僧正の位を授かり「高僧行基」となります。


長法寺七ツ塚古墳

2014年03月24日 | 史跡
長岡京市には、古くから人々が住み着き

発掘により多くの遺跡や古墳が見つかっています。

その中で、直接見る事のできる数少ない古墳

の一つに「七ツ塚古墳」があります。

6世紀中頃に築かれたもので、西から東へ7つ

の古墳が並んでいました。継体天皇が弟国宮にいた

頃、天皇に従った人物の墓だとする説があります。



阪急バス「上長法寺」バス停から、少し北に行き

東側に向かって、田んぼと住宅の間に伸びる道を

進みます。3分ほど行くと左手に公園の入口があります。





この七ツ塚公園に隣接して5号墳が整備されていて

見ることができます。一辺18m、高さ3mの方墳です。





木で作られた棺を直接土中に埋める形式がとられ、

複数の人数を埋葬しているなどの特徴が見られます。

古代のロマンに触れてみてはいかがでしょうか?