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長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

継体天皇のゆかりの地を訪ねて その2・・・ (樟葉宮)

2014年10月18日 | 史跡


樟葉宮跡の杜は交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)の境内にあります。

交野天神社は長岡京を造った桓武天皇ともゆかりのある神社です。

桓武天皇は延暦6年(787)に長岡京の南郊の地を選び、

郊祀壇(こうしだん)を設けて、父の光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀りました。

これが交野天神社の起源とされています。

*郊祀(こうし)とは、中国において天子が王都の郊外において天地を祀った祭。

円丘を築いて併せて皇祖を祀ったことから、円丘祭(えんきゅうさい)とも称する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より



両側を原生林の木々に囲まれた道を進みます。



杜の奥には貴船神社が鎮座する小丘があります。



石段を上がると貴船神社の社があります。

この小丘周辺は継体天皇が即位した樟葉宮跡の伝承地として

大阪府の史跡に指定されています。

鎌倉時代の関白左大臣・一条実経(いちじょうさねつね、1223~84)は、

「くもらじな 真澄(ますみ)の鏡 影そふる 
     
     くずはの宮の 春の夜の月」(続古今和歌集)

と詠んでいます。この歌には「日本紀を見侍りて継体天皇を」という

詞書(ことばがき)が付いていることから、

単に池に映る月を詠んだだけのものではなく、

継体天皇を称えたものと解釈されているようです。


(末社の貴船神社:雨乞いの神とされています。)

継体天皇は、ここで5年間にわたり宮を営んだとされています。





その後、筒城宮(つつきのみや)(現在=京都府京田辺市周辺)、

弟国宮(おとくにのみや)(現在=京都府長岡京市)、

磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)(現在=奈良県桜井市付近)に

遷宮したとされています。

長岡京市にある角宮神社(すみのみやじんじゃ)の社伝には、

「継体天皇6年勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ」とあり、

継体天皇の弟国宮と長岡京市の深いゆかりを感じます。


(長岡京市の角宮神社)

継体天皇のゆかりの地を訪ねて その1 (太田茶臼山古墳)

2014年10月16日 | 史跡
今回は長岡京市のゆかりの人物

『継体天皇ゆかりの地』をご案内します。

まずは大阪府茨木市の《太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳》です。

大阪府茨木市や高槻市辺りは、瀬戸内から琵琶湖以東を繋ぐ

重要な地域であり、早くから栄えていた為に古墳が多いと言われています。

中でも今回ご紹介する《太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳》は

周囲に濠をめぐらされた墳丘全長226mの大きな前方後円墳です。



第26代継体天皇の古墳とされていて、正式な名称は

『継体天皇三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)』といいます。





日本書紀によると、

継体天皇は第25代武烈天皇に後継者がいなかった為に、

越前(現在の福井県)から迎えられ、

507年に樟葉宮(くずはのみや)(現在=枚方市樟葉付近)で即位され、

第26代天皇になられました。




高山右近ゆかりの地を訪ねて・・・その3

2014年10月13日 | 史跡
永井神社からすこし歩くとあるのが、

高槻城三の丸跡に建つ「しろあと歴史館」です。



常設展示室では、テーマごとに5つのコーナーに分け、

江戸時代の高槻について模型や映像などで紹介されています。



石垣のようなところから展示スペースに入ります。

ほとんどは模擬石垣で石ではありませんが、

右下の3つのみ実際に発掘された石垣石とのことです。

高槻城は明治時代の初めにすべて破却され、

石垣は明治7年(1874)に京阪間鉄道建設のため、線路の敷石用材として使われました。

模擬石垣の下には、高校敷地内の発掘調査により判明した、

軟弱な地層の上に石垣を組むために胴木や丸太を組み

小さな栗石を敷いた構造が再現されています。


こちらは高槻城の復元模型です。


おまけ
しろあと歴史館の前に「思案石」と名付けられた石が置かれています。

こちらが「思案石」↓↓↓


この石はかつては歩道の真ん中に、全体の4分の1ほどが露出していたもので、

つまずく人も多かった為に、2012年3月にこの場所に移設されました。

名前の由来は、江戸時代に生活に苦しんだ人が堀に身を投げようかどうしようか、

この石に座っていろいろと「思案した」という言い伝えが残っているようです。

この思案石については、いろいろなエピソードがあるようですので、

ご興味のある方は調べてみてくださいね!


高山右近ゆかりの地を訪ねて・・・その2

2014年10月11日 | 史跡
高山右近は、秀吉がバテレン追放令を発した時に改宗を拒否し、

領地を没収されます。禁教令を出した徳川幕府により、

1614年10月国外追放処分を受けました。

マニラ到着後、40日ほどで熱病におかされ、

1615年2月3日に亡くなっています。



その後江戸時代、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たした高槻城。

大坂夏の陣ののち元和3年(1617)、江戸幕府による直営改修工事が行われ、

慶安2年 (1649)には永井直清が入城、以後13代にわたり、

幕末まで高槻藩3万6千石の譜代大名永井家の居城となります。

永井直清は、徳川家康の配下として活躍した永井尚勝の次男として

幼い頃から徳川秀忠に仕え、大阪夏の陣でも活躍しました。

後に直清は1633年に勝竜寺城(長岡京市)に、

兄の尚政は淀城(京都市伏見区)に移りました。

これらの両地は京阪間の交通の要所を支配する為には重要な領地であり、

幕府の両兄弟への信頼の篤さをうかがえます。

長岡京市には、JR長岡京駅の東口を出た駅前の広場に

「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」の石碑が立っています。



石碑には「この付近は、江戸時代初めに永井直清が16年間営んだ城の本丸が

あったところで神足館とも呼ばれる」と説明があります。

山崎の戦いで落城した勝龍寺城は、江戸時代になった後の1633年に永井直清が

入城し幕府の命で城の北に屋敷を建てたと言われており、

それがこのあたりであったようです。

話を高槻市に戻しますと・・・、

藩祖の直清の霊を祭神に勧請するために建てられたのが永井神社です。



永井神社は野見神社の摂社で、永井家第9代永井直進(なおのぶ)によって、

1793年に建てられました。




(高槻市 永井神社)

高山右近ゆかりの地を訪ねて・・・その1

2014年10月05日 | 史跡
本日は大阪府高槻市にある高山右近ゆかりの地

《高槻城跡公園》のご紹介です。

この公園は、高槻城跡に位置するもので、散策、休息などの施設として

市民の森および、城跡のお堀を模した石垣、 池を中心としたゾーン、

野球場などのスポーツゾーンを設けています。

その他に歴史民俗資料館、 交通遊園などが設けられています。



高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まり、

永禄12年(1569)に和田惟政が城としての基礎を固め、

天正元年(1573)に高山右近が町屋を城内にとりこんで堅固な城郭を築きました。

また右近は熱心なキリシタンで、キリスト教を手厚く保護し、

天主教会堂を拠点に布教をすすめてたと伝えられています。






熱心なキリシタンといえば、長岡京市では細川ガラシャが真っ先にうかびます。

高山右近とガラシャが実際に会ってたかというと、

時代が時代だけに難しかったと考えられます。

ただ右近とガラシャの夫の細川忠興は親友だったので、

忠興から右近の話くらいは聞いていたかも知れませんね。


(長岡京市勝竜寺城公園の細川忠興・お玉=のちのガラシャ像)

続く・・・