涙そうそうプロジェクト 広島・昭和20年8月6日
この映画を見るのは二度目だ。見るべき映画で大切であるとも思うが、見ていて気分が明るくなるわけでもなく、もう見なくていいやと思っていた。しかしもう一度見るべきチャンスがやってきて、ほぼ義務感のみで見たわけだ。結果、見直してよかったと今思っている。
内容については、原爆の日の少し前から当日までをえがいたもので、実話かフィクションかわからないが、老舗旅館を切り盛りする3姉妹と弟の4人をえがいたものだ。弟のみ助かったが、3姉妹はいろいろな形で死んでいった。出演者に松たか子など大物がいたが、なんと言っても生き残った弟の成長した役の西田敏行がすばらしい。彼がいなかったらずいぶんこの映画の印象が変わっただろう。この映画は特番として流されたものと思う。今でも手にはいるのかどうかわからないが、一度は見て欲しい映画でもある。ちなみに近所のTSUTAYAには置いてなかったようだ。ネットで取り寄せることができるなら見られるのかもしれない。
ここから先は書こうか書くまいかと悩んでいるのだが、書き残しておきたい気が強いので書いておくことにしよう。
被爆直後の写真はあまりない。多くの写真は人体実験の結果を調べたいアメリカ軍が来てから撮られたものだ。今見られるのは、被爆者が自分の目で見た光景を絵にして残してある物ぐらいだ。その中にこんな一枚があった。皮膚が剥けて唯一爪のところで止まって垂れた人の絵、そんな人の横に泣きながら立っている幼い男の子が描かれていた。
『その子は、「痛いよう、痛いよう、おかあさん・・」と言いながら腕を抱えていました。その腕は自分のちぎれた手だったんです。』
絵を描いた人の言葉だ。
その子はすぐに死んでしまったらしい。私は聞きながらこう思った。「良かったね。もう痛くなくなったでしょ。お母さんに会えるね。あの世できっと待っててくれるから抱いてもらってね。」
小さな子がこんな仕打ちを受けていたことは、決して許せることではない。激しい憤りと悲しみを感じる。
知り合いに40歳ぐらいの人がいるのだが、彼は被爆二世らしい。お父さんは2歳の時に被爆したと言っていた。と言っても離れたところだったので、体は無傷。残留放射能は浴びたのだろうが、未だに体の不具合もなく元気だそうだ。本人も「8月6日が来るたびに、あぁオレって被爆二世なんだ・・」と思い出すぐらいで、普段は「覚えてすらない」と言っている。
そんな彼の結婚が決まったとき、今でもある広島の本家に電話した。結婚の話を聞いて、叔父は最初にこう言ったそうだ。
「どこの人間じゃ!?」
彼は驚きながらも、意味が分からず沈黙した。叔父は言った。
「アメリカ人か!!」
イヤ違う。普通の日本人だ。
彼がそういうと、叔父は一言言った。「それならいい。」
彼は思いだした。広島の本家で聞いた言葉だ。
「何を言おうと、何があろうと、アメリカ(が原爆を落としたこと)だけは絶対にゆるさん」
憎しみは破壊を生み、その連鎖は永遠に終わらない。終わらせるのは「許す」ことだ。
そんな意味のことを立派な人(か宗教家か)が言っていた。そうだと思うが、現実とはかけ離れているものでもある。今それを痛感している。
ランク:見てください。
1つだけ難を指摘しておくと、老舗旅館でお金やものもあったのはわかるが、着ている服がきれいすぎる。例えばセーラー服にしても白くてピカピカだ。いくら清潔好きの日本人とは言え、当時としてはきれいすぎるだろう。これは他の女学生にしても同じで、そのあたりに違和感を感じる。昔戦国自衛隊という映画を作った時、戦車があまりにもピカピカで笑っちゃったことがあったけど、それと同じ。NHKの大河ドラマの絵を「汚い」と言っているお人がいるが、華やかな貴族と実際にあんな格好だった武士を対比して描いているのは明白だろうに。全員がピカピカの服を着ていたらただのつくりもんじゃんか。私には理解できない。