澤藤統一郎弁護士の日記です。
http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html
2005年02月19日(土)
また、重苦しい季節が近づいてきた。今期の卒・入学式での「日の丸・君が代」強制に対して、したたかな抵抗を続けていかなければならない。本日午後に「三者決起集会」。三者とは、「予防訴訟をすすめる会」「被処分者の会」そして、「被解雇者の会」。
疲れていることを自覚する。睡眠不足でもある。今日は取り立てて私の出番はないのだから休みたいという気持ちもないではなかった。が、現場の教員はそれこそ良心を掛け、人生を掛けての闘い。それに私より一回り年嵩の尾山宏弁護士が頑張っておられる。土曜日を休むなんて贅沢が許されるはずもない。
「首都圏ネット」「学校に自由の風を」「神奈川予防訴訟をすすめる会」の連帯挨拶で元気が出る。現場で抵抗する教員への連帯が広がっていることがまことに嬉しい。みんなの確信になっている。
その挨拶を聞きながら考える。問題の本質は、おそらくは「国旗・国歌をめぐる思想の攻防」にあるのではない。教育に対する管理・統制に対する闘いなのだ。教育とは、本来管理や強制になじむものではない。行政の支配から独立して初めて、人間の尊厳を目指す教育が可能となる。これに対して、石原教育行政が行っているものは、がんじがらめに統制して上からの指示のままに動く物言わぬ教員を作ろうということ。それを通じて、物言わぬ国民を作り出そうということ。
既に校長と教頭は、ロボットになってしまっている。まだ、ロボットにならない教員は、ロボット化するか追い出すか。学校を、ロボットによるロボット製造工場としようというのが石原構想ではないか。
教頭の会合では、「式の最中に生徒が不起立の事態となったら、式を中断して起立すべく指導し、しかる後に再開する」よう指示があったという。世も末の感が深い。が、やっぱり負けてはおられない。また元気を出さなければならない。
集会場で、1月20日の広島地裁判決を見せてもらった。広島高教組の支部が、広島県に勝訴した認容判決。
事案は、教組が教研集会開催のために公民館の使用を申し込んだのに、使用を拒絶されたことに伴う損害賠償請求。4支部に、合計250万円ほどの賠償を命じている。
公民館使用不許可の理由として、被告が持ち出した理屈が、「教研の実態は、教育行政批判で、学習指導要領に反するもの」というもの。そのために、教育行政や学習指導要領批判は許されないのか、ということが争点となった。これに対する判決の内容は以下のとおり、極めて真っ当である。
「教研集会が教育行政研修とは異なる自主研修である以上、そこでの議論内容の中に教育行政側の意見と食い違う点が出てくることはむしろ一種の必然である。そのような意見の相違が一定程度存在することについては、民主主義社会において教育活動の多様性を確保する観点からは好ましいと見るべきであり、意見の相違点について積極的・建設的な対話を重ねることができれば、全体としてより一層の教育の発展を図ることができるはずである。教研集会の内容が県教委の教育方針と食い違うことを理由として自主研修の意義が否定されるべきでなく、まして教育上の支障が生ずるおそれにつながるとい うことはできない。
被告は、教研集会で学習指導要領や是正指導に反対する内容の議論がなされていることを特に強調する。しかし、学習指導要領自体もまた時代の流れに即応して度々大幅な改訂がなされていることは周知のことであって、現行の学習指導要領も将来にわたり不変のものとはいえない。このようなことを踏まえれば、学習指導要領の法的拘束力の有無にかかわらず、教職員が教研集会の場で学習指導要領や是正指導について批判的な観点を交えて検討することは教育研究の発展を図る観点からも許容されるべきことである」
われわれの担当する訴訟でも、早くこのような勝訴判決を得たいものである。
http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html
2005年02月19日(土)
また、重苦しい季節が近づいてきた。今期の卒・入学式での「日の丸・君が代」強制に対して、したたかな抵抗を続けていかなければならない。本日午後に「三者決起集会」。三者とは、「予防訴訟をすすめる会」「被処分者の会」そして、「被解雇者の会」。
疲れていることを自覚する。睡眠不足でもある。今日は取り立てて私の出番はないのだから休みたいという気持ちもないではなかった。が、現場の教員はそれこそ良心を掛け、人生を掛けての闘い。それに私より一回り年嵩の尾山宏弁護士が頑張っておられる。土曜日を休むなんて贅沢が許されるはずもない。
「首都圏ネット」「学校に自由の風を」「神奈川予防訴訟をすすめる会」の連帯挨拶で元気が出る。現場で抵抗する教員への連帯が広がっていることがまことに嬉しい。みんなの確信になっている。
その挨拶を聞きながら考える。問題の本質は、おそらくは「国旗・国歌をめぐる思想の攻防」にあるのではない。教育に対する管理・統制に対する闘いなのだ。教育とは、本来管理や強制になじむものではない。行政の支配から独立して初めて、人間の尊厳を目指す教育が可能となる。これに対して、石原教育行政が行っているものは、がんじがらめに統制して上からの指示のままに動く物言わぬ教員を作ろうということ。それを通じて、物言わぬ国民を作り出そうということ。
既に校長と教頭は、ロボットになってしまっている。まだ、ロボットにならない教員は、ロボット化するか追い出すか。学校を、ロボットによるロボット製造工場としようというのが石原構想ではないか。
教頭の会合では、「式の最中に生徒が不起立の事態となったら、式を中断して起立すべく指導し、しかる後に再開する」よう指示があったという。世も末の感が深い。が、やっぱり負けてはおられない。また元気を出さなければならない。
集会場で、1月20日の広島地裁判決を見せてもらった。広島高教組の支部が、広島県に勝訴した認容判決。
事案は、教組が教研集会開催のために公民館の使用を申し込んだのに、使用を拒絶されたことに伴う損害賠償請求。4支部に、合計250万円ほどの賠償を命じている。
公民館使用不許可の理由として、被告が持ち出した理屈が、「教研の実態は、教育行政批判で、学習指導要領に反するもの」というもの。そのために、教育行政や学習指導要領批判は許されないのか、ということが争点となった。これに対する判決の内容は以下のとおり、極めて真っ当である。
「教研集会が教育行政研修とは異なる自主研修である以上、そこでの議論内容の中に教育行政側の意見と食い違う点が出てくることはむしろ一種の必然である。そのような意見の相違が一定程度存在することについては、民主主義社会において教育活動の多様性を確保する観点からは好ましいと見るべきであり、意見の相違点について積極的・建設的な対話を重ねることができれば、全体としてより一層の教育の発展を図ることができるはずである。教研集会の内容が県教委の教育方針と食い違うことを理由として自主研修の意義が否定されるべきでなく、まして教育上の支障が生ずるおそれにつながるとい うことはできない。
被告は、教研集会で学習指導要領や是正指導に反対する内容の議論がなされていることを特に強調する。しかし、学習指導要領自体もまた時代の流れに即応して度々大幅な改訂がなされていることは周知のことであって、現行の学習指導要領も将来にわたり不変のものとはいえない。このようなことを踏まえれば、学習指導要領の法的拘束力の有無にかかわらず、教職員が教研集会の場で学習指導要領や是正指導について批判的な観点を交えて検討することは教育研究の発展を図る観点からも許容されるべきことである」
われわれの担当する訴訟でも、早くこのような勝訴判決を得たいものである。
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