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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

危機に立つ「東京・教育の自由裁判をすすめる会」共同代表アピール

2018年11月19日 | 日の丸・君が代関連ニュース
2018年11月17日
◎ 最高裁判所は司法の良心と独立を示す判決をだし、
「行政を付度した」などと揶揄されることがないよう望みます


<「東京・教育の自由裁判をすすめる会」共同代表>
市川須美子(獨協大学、日本教育法学会理事)
大田 堯(教育研究者)
尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)
小森陽一(東京大学大学院教授)
斎藤貴男(ジャーナリスト)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21代表委員)
野田正彰(精神病理学者)
堀尾輝久(東京大学名誉教授)

 今、安倍政権の下で、行政のゆがみ・職権濫用・腐敗が、底なし沼のように深く拡がっています。森友・加計問題疑惑の財務省・文科省・国交省にとどまらず、日報隠ぺいの防衛省、データー改ざんの厚労省、セクハラ、障がい者雇用者数の水増し等々、民主主義社会そのものに対する国民の疑念・不信を生じかねない事態です。
 国家を国民道徳の教師とする「教科」としての道徳は、今年度から実施されています。
 この行政のゆがみ・職権濫用・腐敗は、中央官庁にとどまらず、地方自治体においても顕著になっています。
 このような時にこそ、三権分立に即して、司法が行政の暴走・堕落を抑制する役割をしっかり担う必要があるのではないでしょうか。
 さて、東京都の教育行政においては、石原都政下で始まった「国旗・国歌」の強制を中心にした教育行政の職権濫用が15年間も続いており、学校現場を萎縮させ、教育をゆがめて来ています。
 2003年10月、石原都知事の下で東京都教育委員会が入学式・卒業式などで全教職員に対して「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」、音楽科教員に対しては「ピアノ伴奏」を強制する通達(10.23通達)を出して以来、校長が教職員一人ひとりに「職務命令書」を手渡し、式の当日には都教委が各学校に職員を派遣して監視を続け、「命令」に従わなかったとして教職員を処分し、処分された教職員の退職後の再雇用を拒否するという教育行政施策は、度重なる都教委の敗訴判決にもかかわらず、改善されることなく、現都知事のもとでも続いています。
 命令による強制は教職員にとどまらず、生徒の不起立チェックにも及びました。
 このような「命令と強制」「服従」が慣行化されることにより、学校現場の様々な場面で、上に対する萎縮と下への強権というゆがみを生じ、教育破壊が進むという深刻な状況が進行しています。
 しかし、2018年7月19日、最高裁第一小法廷(山口厚裁判長)は、都立高校の教職員ら24名が、卒業式等において「日の丸」に向かって起立して「君が代」を斉唱しなかつたことのみを理由に、東京都により定年退職後の再雇用職員ないし非常勤教員としての採用を拒否された事件(平成28年(受)第563号損害賠償請求事件)について、教職員らの請求を一部認容した控訴審東京高裁判決(2015年12月10日)を破棄して、教職員らの請求を全面的に退ける判決を言い渡しました。
 第1審である2015年5月25日の東京地裁判決は、本件再雇用拒否が、国歌斉唱時に起立斉唱しないという行為を極端に過大視しており、都教委の裁量権を逸脱・濫用した違法なものであるとして、東京都に対し、採用された場合の1年間の賃金に相当する金額、合計で約5370万円の損害賠償を命じました。控訴審の同年12月10日の東京高裁判決は、この一審判決を維持して都教委の控訴を棄却したのに対し、今回の最高裁判決は、これを破棄し、教職員らの請求を全面的に棄却しました。
 この判決は、最高裁の権威を貶めるような、論理的な水準の大変低い判決でした。
 この判決では、都の再雇用・再任用手続において、「新たに採用するものであって」「法令等の定め」もないので、都教委に極めて広範な裁量が認められ、不起立があれば「他の個別事情のいかんにかかわらず」不合格の判断をすることも許されるとしました。
 この極めて粗雑な論理構成は、これまでの下級審での議論を全く無視して、特に原審が丁寧に論駁した都教委側の従来からの主張をそのまま受け入れたものに過ぎません。
 7月19日の判決に先立ち、6月25日に最高裁は弁論を開きました。被上告人らの弁護団は、原審(東京高裁)が認めた「職員は、裁量権の逸脱濫用のない公正な選考を受け、再雇用制度等により設けられた雇用の機会を得られることについて、法的な利益(期待権)が認められるものである」として、都教委の裁量は制限を受けるとしたことについて、「都における再任用制度の導入(概要)」(2001年6月)や通達、近年の福岡高裁判決(2013年9月)東京高裁判決(2014年10月)などが、再雇用の採用希望者側の期待に対する法的保護を認め、裁量権に一定の制限を認める判断をしていることなどの証拠をあげ、再度の説明をしています。
 しかし、今回の最高裁判決では、これらの証拠・論理・主張に対しては、まったく応答することなく、都教委が従来から主張していた論理のみを採用し、下級審の判断を覆したのです。
 そこには人権や公正を希求する人々への配慮もまったくありません。これでは、「最高裁が行政の意向を付度した判決」と揶揄さるのも当然ではないでしょうか。
 さて、2012年1月16日に最高裁判所第一小法廷は、「君が代」処分取消訴訟事件について、処分を受けた教職員の不起立等の動機を真摯な思想・良心に基づくものであることを認めたうえで、起立斉唱・伴奏の職務命令は「間接的に」思想・良心の自由を制約するものであるとの判断を示し、それゆえに、職務命令違反に対する懲戒処分については抑制的であることを求め、許される懲戒処分の種別を原則として戒告に限り、戒告を超える過酷な懲戒処分については「慎重な考慮が必要となる」とし、機械的な累積加重による減給や停職処分は裁量権の逸脱・濫用に当たり、違法と判示しました。
 そして、この判決には、複数の補足意見が添えられており、
 「教育現場でこのような職務命令違反と懲戒処分がいたずらに繰り返されることは決して望ましいことではない。教育行政の責任者として、現場の教育当事者として、それぞれがこの問題に真摯に向き合い、何が子どもの教育にとって、また子どもたちの将来にとって、必要かつ適切なことかという視点に立ち、現実に即した解決策を追及していく柔軟かつ建設的な対応が期待されるところである」
 「これまでにも増して自由で闊達な教育が実施されることが切に望まれる」等々の意見が述べられました。
 しかし、東京都教育委員会は、関係者すべてによる話し合いの場の設定の要請を無視し、戒告処分はもとより、減給処分にも踏み込み、司法の場で減給処分を取り消された現職教員に対しては、再処分(戒告処分)を行っています。
 このような状況が続いている限り、生徒が潜在的に持っている能力を引き出し、生徒が互いに学び合い助け合うような自由闊達な教育を望むすべもありません。
 現在、東京「君が代」処分取消四次訴訟が最高裁に上告されています。
 東京地裁(2017年9月)・高裁(2018年4月)で減給・停職処分計6名・7件が取り消され、これに対して、都教委が1名・2件の減給処分取り消しを不服として最高裁に上告受理申立を行い、原告らが違憲判断、戒告処分の取り消し、損害賠償を求めて上告及び上告受理申立をしています。
 再度強調しておきます。学校では、自由闊達な議論を保障し、生徒と教師の主体的な人格的触れ合いを通して、子どもたちの成長を図る必要があります。上からの命令にただ服従するだけの教師では、生徒の潜在的な能力を引き出すことはできません。
 教師の人権が保障されない学校では、生徒に人権を教えることも、生徒の人権を保障することもできません。現状は学校が生徒の人権(子どもの権利)侵害の場に変質してしまう危険性を感じさせます。
 最高裁は、教育現場に萎縮と鬱を蔓延させていく教育行政の職権濫用を、今こそくい止め、人権保障の最後の砦として、国際的にも恥じない判決をだすことを望みます。
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