◆ 天皇制は廃絶されるべき
特権的地位を捨てて普通の市民に (週刊新社会)
◆ 退位問題の浮上~昭和天皇の戦争責任と、このたびの「生前退位」
かつて退位問題が浮上したのは、敗戦後、開戦責任・戦争責任をめぐって昭和天皇の責任が問われ、南原繁(当時東大総長)のようなリベラル派から「道義」上の責任をとって退位の主張がなされ、また弟の高松宮宣仁や、叔父にあたる東久邇宮稔彦、公爵近衛文麿辺からも退位論が飛び出した。
このたび(8月8日発表)の天皇のビデオメッセージは、「象徴天皇」の務めが途切れることなく、安定的に続いていくことを「ひとえに念じ」とあるように、将来にわたり、象徴天皇の永続を願ってのものであろう。確かに高齢につれ、「職務」に励むことは辛くなっているのは個人的には理解できる。
しかし、これは天皇家という家族内での解決を図れば済むことである。
◆ たとえ女性天皇でも差別の根源は変わらない
わたくしは、近代現代天皇制の歴史(「国体思想」)を考察すると、それがいかに自国民衆を欺瞞・増長させ、アジア民衆への差別意識を刷り込ませ、植民地や占領地での虐待・搾取・残虐行為の土壌背景になっていったかを容易に指摘できる。
天皇家の人びとは、いまや特権を放棄し、普通の市民としての権利と義務のうちに生きる方途を考えるべきなのではないだろうか。天皇制はもとより廃絶されるべきである。天皇家の人びとも、歴史に学び、市民社会を構成するメンバーとなるのがよいであろう。
◆ 「生前退位」をめぐる「識者」の見解
さてこの間、さまざまな人びとによって「生前退位」問題が語られている。本紙でも3回にわたり取り上げられた。
マスメディアに登場する人びとの意見は概ね、天皇制存続を前提としているようである。わたくしなどの天皇制廃絶論者の見解は、マスメディアはまず取り上げない。天皇制論議は、「主権在民」とはいえ、いまだタブー扱いされている。
『東京新聞』では、「生前退位」を考える、というインタービュー記事を掲載。
まず原武史氏が登場、そのなかで原氏は天皇が生前退位を希望しているとすれば、「過去と未来」の両方をみているとし、近世までは、生前譲位・退位はよくあることで、むしろ近代天皇制以隆男系男子血統、死去するまで皇位にあることが当然とされ、むしろ近代以降が異常であるという。
もう一つの面は、「未来」への視点は「次代」に対する不安だという(同紙7月31日)。現皇太子には男子はおらず、現在の皇室典範でいくと、順番からいえば皇太弟の秋篠宮、さらに満10歳になったばかりの秋篠宮悠仁親王へと続き、皇太子の娘の愛子内親王は皇位を継げない。
漫画家の小林よしのり氏は、現天皇の退位をかなえるためには、皇室典範の改正が必要であり、女系女性天皇を認めるべきとする。「愛子さまが皇太子になるのが最も自然」、女性宮家の創設も考慮されるべき(同紙8月7日)であるという。
関東学院大学教授の君塚直隆氏は、オランダは女王が三代続いて譲位。ベルギーでは13年に、ルクセンブルクでは1964年と2000年に譲位があり、「後継者」がしっかりして「託せる」と確信したときに譲位していると指摘(同紙9月13日)している。
総合雑誌の『世界』2016年9月号には、横田耕一氏と先の原氏の論考が掲載されているが、原氏の論考は前述の記事をより詳しく述べており、論旨は変わらず割愛する。
憲法学者の横田氏は、日本国憲法は、天皇は「国政に関する権能を有しない」とし、その行為は、内閣の助言と承認で行う形式的、儀礼的行為であるのが憲法学の通説であるという。
ところが、現・宮内庁のホームページを見ると、天皇の「公務」が、「宮中のご公務」など宮中祭祀のような私的行事も「公務」とされ、その他外国訪問、国民体育大会、植樹祭、園遊会、被災民見舞いなど多岐にわたる行為も「公務」とされている。
「公務」ということは、「国費」すなわち日本市民の税金で賄われていることを意味するものとわたくしは考える。天皇や皇族の人びとの「公務」は、わたくしたちにとって広当に必要なのか。
さて、9月23日、政府は、「生前退位有識者会議」を設置することを決定、①現在の天皇に限っての特別措置法の制定、②皇室典範の改正、③現行法の範囲で公務の負担の軽減を図るーの三通りの対応を想定するーとして、元経団連会長今井敬氏、山内昌之・御厨貴東大名誉教授、清家篤慶応義塾長、小幡純子上智大教授、元NHKキャスターの宮崎緑千葉商科大教授がメンバーとなった。
いずれの結論が出されようとも、わたくしは、日本国憲法の「平等原理」からいっても、天皇制は廃絶されるべきである。重ねて言うと、天皇家の一族の人びとも、現在の特権的地位を捨て、普通…の市民と同様に市民的権利と義務を享受すべきと考える。
『週刊新社会』(2016年10月25日)
特権的地位を捨てて普通の市民に (週刊新社会)
女性史研究家 鈴木裕子
◆ 退位問題の浮上~昭和天皇の戦争責任と、このたびの「生前退位」
かつて退位問題が浮上したのは、敗戦後、開戦責任・戦争責任をめぐって昭和天皇の責任が問われ、南原繁(当時東大総長)のようなリベラル派から「道義」上の責任をとって退位の主張がなされ、また弟の高松宮宣仁や、叔父にあたる東久邇宮稔彦、公爵近衛文麿辺からも退位論が飛び出した。
このたび(8月8日発表)の天皇のビデオメッセージは、「象徴天皇」の務めが途切れることなく、安定的に続いていくことを「ひとえに念じ」とあるように、将来にわたり、象徴天皇の永続を願ってのものであろう。確かに高齢につれ、「職務」に励むことは辛くなっているのは個人的には理解できる。
しかし、これは天皇家という家族内での解決を図れば済むことである。
◆ たとえ女性天皇でも差別の根源は変わらない
わたくしは、近代現代天皇制の歴史(「国体思想」)を考察すると、それがいかに自国民衆を欺瞞・増長させ、アジア民衆への差別意識を刷り込ませ、植民地や占領地での虐待・搾取・残虐行為の土壌背景になっていったかを容易に指摘できる。
天皇家の人びとは、いまや特権を放棄し、普通の市民としての権利と義務のうちに生きる方途を考えるべきなのではないだろうか。天皇制はもとより廃絶されるべきである。天皇家の人びとも、歴史に学び、市民社会を構成するメンバーとなるのがよいであろう。
◆ 「生前退位」をめぐる「識者」の見解
さてこの間、さまざまな人びとによって「生前退位」問題が語られている。本紙でも3回にわたり取り上げられた。
マスメディアに登場する人びとの意見は概ね、天皇制存続を前提としているようである。わたくしなどの天皇制廃絶論者の見解は、マスメディアはまず取り上げない。天皇制論議は、「主権在民」とはいえ、いまだタブー扱いされている。
『東京新聞』では、「生前退位」を考える、というインタービュー記事を掲載。
まず原武史氏が登場、そのなかで原氏は天皇が生前退位を希望しているとすれば、「過去と未来」の両方をみているとし、近世までは、生前譲位・退位はよくあることで、むしろ近代天皇制以隆男系男子血統、死去するまで皇位にあることが当然とされ、むしろ近代以降が異常であるという。
もう一つの面は、「未来」への視点は「次代」に対する不安だという(同紙7月31日)。現皇太子には男子はおらず、現在の皇室典範でいくと、順番からいえば皇太弟の秋篠宮、さらに満10歳になったばかりの秋篠宮悠仁親王へと続き、皇太子の娘の愛子内親王は皇位を継げない。
漫画家の小林よしのり氏は、現天皇の退位をかなえるためには、皇室典範の改正が必要であり、女系女性天皇を認めるべきとする。「愛子さまが皇太子になるのが最も自然」、女性宮家の創設も考慮されるべき(同紙8月7日)であるという。
関東学院大学教授の君塚直隆氏は、オランダは女王が三代続いて譲位。ベルギーでは13年に、ルクセンブルクでは1964年と2000年に譲位があり、「後継者」がしっかりして「託せる」と確信したときに譲位していると指摘(同紙9月13日)している。
総合雑誌の『世界』2016年9月号には、横田耕一氏と先の原氏の論考が掲載されているが、原氏の論考は前述の記事をより詳しく述べており、論旨は変わらず割愛する。
憲法学者の横田氏は、日本国憲法は、天皇は「国政に関する権能を有しない」とし、その行為は、内閣の助言と承認で行う形式的、儀礼的行為であるのが憲法学の通説であるという。
ところが、現・宮内庁のホームページを見ると、天皇の「公務」が、「宮中のご公務」など宮中祭祀のような私的行事も「公務」とされ、その他外国訪問、国民体育大会、植樹祭、園遊会、被災民見舞いなど多岐にわたる行為も「公務」とされている。
「公務」ということは、「国費」すなわち日本市民の税金で賄われていることを意味するものとわたくしは考える。天皇や皇族の人びとの「公務」は、わたくしたちにとって広当に必要なのか。
さて、9月23日、政府は、「生前退位有識者会議」を設置することを決定、①現在の天皇に限っての特別措置法の制定、②皇室典範の改正、③現行法の範囲で公務の負担の軽減を図るーの三通りの対応を想定するーとして、元経団連会長今井敬氏、山内昌之・御厨貴東大名誉教授、清家篤慶応義塾長、小幡純子上智大教授、元NHKキャスターの宮崎緑千葉商科大教授がメンバーとなった。
いずれの結論が出されようとも、わたくしは、日本国憲法の「平等原理」からいっても、天皇制は廃絶されるべきである。重ねて言うと、天皇家の一族の人びとも、現在の特権的地位を捨て、普通…の市民と同様に市民的権利と義務を享受すべきと考える。
『週刊新社会』(2016年10月25日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます