2月に入って・・・
27年間の音楽教室講師生活の最後の発表会だった。
新居は横浜を離れると決めた時、引っ越し先の慣れない土地で音楽教室を立ち上げる気持ちは無かったから。
生徒さん達にはまだそのことは伝えてない。
発表会への士気が失せるといけないし。
慕ってくれる生徒さんたちと別れるのは悲しかった。
デイ・サービスの仕事も好きだったが、音楽教室の講師の仕事はもっと好きだった。
弾けない曲が弾けるようになった時の生徒さんたちの笑顔が励みなの。
けど少子化の波を受けて、収入には結びつかない仕事だ。
独身時代は40人の生徒さんがいたが、それは出張レッスンや他のお教室のお手伝いをしていたからで、結婚して子供ができてからは、やはりそこまで動けない。
それでも、家で続けられる仕事として、途切れることなく続けてきたのだけど。
これからはデイの仕事を増やしたほうが収入としては手堅い。
どうせ、Jの家業を継ぐまでの腰掛だし。
Jから聞かされた実家の事業の話。。。
半信半疑ではあったが、どこか寄りかかりたい気持ちもあった。
独身の頃、知り合いの会社で経理は手伝ったことあるし、簿記も知らなくはない。
どんな仕事でも学習能力には自信があった。
元夫でお金の苦労をしてきて、やりたい事もできず我慢の連続。
こんな生活から早く抜け出したかった。
子供たちにも楽な生活をさせてあげたい。
入籍できるまで、元夫の養育費と私の収入で切り盛りしていけばいいんだ。
どうせ後1年でもないだろう。
まもなく私とJの次男・次女は第一志望校に合格も決まり、もう離婚を待つことは無かった。
私は元夫に離婚届と離婚協議書を郵送してもらい、署名押印して役所に届け出た。
役所の人は親切で、その後の流れや申請などを教えてくれた。
もっとも、私は用意周到なので、あらかじめ役所の相談窓口に行って粗方のことは聞いていた。
入籍するまではひとり親家庭の申請もするつもりだった。
離婚届の受理に1週間ほどかかるとかで、私のひとり親家庭の申請は2月末ギリギリだった。
ほんとうるう年でなかったら、1ヶ月分の手当てが出なかったところ。
ラッキーな出だしだったと思う。
ついに離婚した。
不仲になって丸7年。
一時は別居のままダラダラと書類だけの夫婦でいくのかと心配したが、私も離婚してしまったんだ。
これからはJと幸せになる♪
そんな矢先・・
実家の母が転倒骨折で入院となってしまった。
その前に父も心筋梗塞で入院していた。
仕事の合間に長女の転校手続きやら引っ越しの手配やらで大忙しの私に、両親の見舞いという役割が増えた。
この時のパワーと言ったら・・・
Jと一緒になれる喜びだけで、突き動かされていたのかもしれない。
もう新居は契約済みで、先に進むしか考えてなかったし。
Jのほうでも問題がおきていた。
同居している元妻の母親がどうもボケなんじゃないか・・と言い出した。
話を聞くと、明らかに認知症の状態を示している。
お年寄りの症状に素人のJは、そこまで深刻に考えてなかったらしい。
私は、地区の包括に相談してケアマネさんを紹介してもらい、介護認定を受けるように話してみた。
そんな状態で、子供たちとおばぁちゃんだけにするわけにはいかない。
ところが、Jの元妻は自分の親にも無関心で、そんな状態であろうと介護にかかわろうとしないどころか、Jとの離婚が成立しても相変わらず戻ってこないと言う。
当然、負担は子供たちに圧し掛かり、Jはそんな有様をほっておけなくなってしまった。
もうひとつ・・
Jは子供たちは女の子だから、母親と住むのがベストだと思って親権を渡し自分ひとりで出るつもりでいた。
次女の高校受験のために、それまで離婚の話は子供たちにしていなかったのだが、合格が決まっていざ話してみると、子供たちはふたりともJに付いてくると言い出した。
よくよく話を聞くと、元妻が出て行って13年間、おばぁちゃんと自分とで子育てをしていたらしい。
食事の世話から洗濯掃除、学校の個人面談まで、ひととおりをこなしていたと言うから恐れ入る。
「それじゃぁ離れるわけないじゃん。」
ちゃんと話せよ~~~★
コミュニケーションが大事だと言いながら、Jは肝心なことの何一つ話してこなかったんじゃん。
私には、見切り発車するなと言っておきながら何だよ~★
新しく借りたハイツは3DKで、5人で住むにもやっとのところだった。
仮住まいと思うから決めたのに、あとふたりも増えるなんて無理だし。
「そんなボケのおばぁちゃん置いていけないから、もしかしたらおばぁちゃんも。」
なんて、ふざけんな。
何で、私がそんなバカな元妻の親まで面倒みなきゃいけないのよ。
そんなだったら自分の親と同居したいわ。
結局、Jは家を出てこられなくなった。
同居している元妻の母親の認知症のこともあるが、Jの長女は今年 大学受験で神経質になっていると言う。
だから私のことを話せないし、環境も変えられないし・・・
その話を聞いた時、私はめちゃめちゃテンション下がった。
一緒に暮らせると思うから、馴染んだ横浜を離れても良いと思ったし、バス便しかないこんなド田舎でも住めると思ったのだ。
Jは今までどおり週末は会えるから、と言うけどそういう話ではない。
ふたりの生活をどれだけ夢見てきたか。
あともう少しで実現するはずだったのに。
しかも私のいちばん嫌いなパターン。
彼女の家に彼氏が通う・・みたいなの大嫌い。
帰った後がどんなに淋しい想いになるか。。。
27年間の音楽教室講師生活の最後の発表会だった。
新居は横浜を離れると決めた時、引っ越し先の慣れない土地で音楽教室を立ち上げる気持ちは無かったから。
生徒さん達にはまだそのことは伝えてない。
発表会への士気が失せるといけないし。
慕ってくれる生徒さんたちと別れるのは悲しかった。
デイ・サービスの仕事も好きだったが、音楽教室の講師の仕事はもっと好きだった。
弾けない曲が弾けるようになった時の生徒さんたちの笑顔が励みなの。
けど少子化の波を受けて、収入には結びつかない仕事だ。
独身時代は40人の生徒さんがいたが、それは出張レッスンや他のお教室のお手伝いをしていたからで、結婚して子供ができてからは、やはりそこまで動けない。
それでも、家で続けられる仕事として、途切れることなく続けてきたのだけど。
これからはデイの仕事を増やしたほうが収入としては手堅い。
どうせ、Jの家業を継ぐまでの腰掛だし。
Jから聞かされた実家の事業の話。。。
半信半疑ではあったが、どこか寄りかかりたい気持ちもあった。
独身の頃、知り合いの会社で経理は手伝ったことあるし、簿記も知らなくはない。
どんな仕事でも学習能力には自信があった。
元夫でお金の苦労をしてきて、やりたい事もできず我慢の連続。
こんな生活から早く抜け出したかった。
子供たちにも楽な生活をさせてあげたい。
入籍できるまで、元夫の養育費と私の収入で切り盛りしていけばいいんだ。
どうせ後1年でもないだろう。
まもなく私とJの次男・次女は第一志望校に合格も決まり、もう離婚を待つことは無かった。
私は元夫に離婚届と離婚協議書を郵送してもらい、署名押印して役所に届け出た。
役所の人は親切で、その後の流れや申請などを教えてくれた。
もっとも、私は用意周到なので、あらかじめ役所の相談窓口に行って粗方のことは聞いていた。
入籍するまではひとり親家庭の申請もするつもりだった。
離婚届の受理に1週間ほどかかるとかで、私のひとり親家庭の申請は2月末ギリギリだった。
ほんとうるう年でなかったら、1ヶ月分の手当てが出なかったところ。
ラッキーな出だしだったと思う。
ついに離婚した。
不仲になって丸7年。
一時は別居のままダラダラと書類だけの夫婦でいくのかと心配したが、私も離婚してしまったんだ。
これからはJと幸せになる♪
そんな矢先・・
実家の母が転倒骨折で入院となってしまった。
その前に父も心筋梗塞で入院していた。
仕事の合間に長女の転校手続きやら引っ越しの手配やらで大忙しの私に、両親の見舞いという役割が増えた。
この時のパワーと言ったら・・・
Jと一緒になれる喜びだけで、突き動かされていたのかもしれない。
もう新居は契約済みで、先に進むしか考えてなかったし。
Jのほうでも問題がおきていた。
同居している元妻の母親がどうもボケなんじゃないか・・と言い出した。
話を聞くと、明らかに認知症の状態を示している。
お年寄りの症状に素人のJは、そこまで深刻に考えてなかったらしい。
私は、地区の包括に相談してケアマネさんを紹介してもらい、介護認定を受けるように話してみた。
そんな状態で、子供たちとおばぁちゃんだけにするわけにはいかない。
ところが、Jの元妻は自分の親にも無関心で、そんな状態であろうと介護にかかわろうとしないどころか、Jとの離婚が成立しても相変わらず戻ってこないと言う。
当然、負担は子供たちに圧し掛かり、Jはそんな有様をほっておけなくなってしまった。
もうひとつ・・
Jは子供たちは女の子だから、母親と住むのがベストだと思って親権を渡し自分ひとりで出るつもりでいた。
次女の高校受験のために、それまで離婚の話は子供たちにしていなかったのだが、合格が決まっていざ話してみると、子供たちはふたりともJに付いてくると言い出した。
よくよく話を聞くと、元妻が出て行って13年間、おばぁちゃんと自分とで子育てをしていたらしい。
食事の世話から洗濯掃除、学校の個人面談まで、ひととおりをこなしていたと言うから恐れ入る。
「それじゃぁ離れるわけないじゃん。」
ちゃんと話せよ~~~★
コミュニケーションが大事だと言いながら、Jは肝心なことの何一つ話してこなかったんじゃん。
私には、見切り発車するなと言っておきながら何だよ~★
新しく借りたハイツは3DKで、5人で住むにもやっとのところだった。
仮住まいと思うから決めたのに、あとふたりも増えるなんて無理だし。
「そんなボケのおばぁちゃん置いていけないから、もしかしたらおばぁちゃんも。」
なんて、ふざけんな。
何で、私がそんなバカな元妻の親まで面倒みなきゃいけないのよ。
そんなだったら自分の親と同居したいわ。
結局、Jは家を出てこられなくなった。
同居している元妻の母親の認知症のこともあるが、Jの長女は今年 大学受験で神経質になっていると言う。
だから私のことを話せないし、環境も変えられないし・・・
その話を聞いた時、私はめちゃめちゃテンション下がった。
一緒に暮らせると思うから、馴染んだ横浜を離れても良いと思ったし、バス便しかないこんなド田舎でも住めると思ったのだ。
Jは今までどおり週末は会えるから、と言うけどそういう話ではない。
ふたりの生活をどれだけ夢見てきたか。
あともう少しで実現するはずだったのに。
しかも私のいちばん嫌いなパターン。
彼女の家に彼氏が通う・・みたいなの大嫌い。
帰った後がどんなに淋しい想いになるか。。。