夢の途中

シングルになって夢を実現させるために日々奮闘中。。。かな♪

2008年 大晦日

2008年12月31日 15時17分47秒 | Weblog
台所の掃除を終え、買い出しをし・・・
やっと大晦日の気分になってきた。

2008年は「変」の字に象徴される1年だったらしい。
日本はますます不況のドツボへ。
政治への期待もなく、それどころか何を信じていけば良いのかわからない時代。
就職も困難で、先行きの見通しもない。
振り返れば、私も変動の1年だった。
次男の受験・離婚・引っ越し・父の死・転職 etc.
運命に目まぐるしく翻弄されたような気がする。

去年の大晦日の日記は、希望に満ちあふれていた。
宝箱を目の前に、来年は中身を開けるのだとわくわくするようだった。
それだけほんとうに無垢に、Jと一緒に暮らせる事を楽しみにしていた。
・・ところが。
いざ箱を開ける段になって、目の前にあるのはお宝が入っていたわけでも何でもない。
勇んで開けたのに、実はそれはパンドラの箱だった。
幸せや喜びに満ち溢れるはずの毎日は、不幸せや悲しみの感情に取り巻かれてしまった。
Jへの不信、裏切り、日々への不満・・そんな負の感情でいっぱいだった。
どこへぶつけて良いのかわからず、ひとり後悔に泣いていた。
それは今も。
自分で決めた「あと1年」が辛抱できる時間いっぱいいっぱいかな。
その時々のチャンスを生かして頑張るつもりだけど、ふとJなんてどうでも良くなってしまうかもしれない気もする。
一緒に暮らせない反動が大きすぎたから、なかなかJの信用回復にならないんだろうな。
それでもJを愛していけるんだろうか・・なんて思ったりもする。

パンドラの箱には、最後に希望が入っている。
不信や悲しみに打ちひしがれないように、人はもっとたくましく生きられるために。
私も、今 少しの希望が無きにしも非ず。
近い将来、横浜に住居を構えられるかもって。
それを信じるには、まだまだ心もとない話だけど。
今年の出来事に学習したから、少なくとも去年のように手放しで信じちゃいない。
もう懲りた。
私は私で、正社員としての新しい職場を大事に生きよう。
そして子供たちの将来をサポートできる力をつけよう。
誰に頼ることなく、シングル・ママとなったからには自分の力で子供たちを育てていかなきゃ。
子供たちの成長、それが私の希望って思わなくちゃ。

喪中なので、年が明けても何をするわけでもない。
まだ夜勤をしている時に、元夫と子供たちだけで元夫の実家に年越しに行ってしまい、ひとりで年越しをしたことがあった。
自分だけの年越しそばだし、お雑煮も初詣もひとりで済ませたけど。
その時より、今のほうが淋しいのは何でだろう。
離婚した年の大晦日なんて、きっとこんな感傷に浸るんだろうね。
これから子供たちが帰ってくれば、少しは私も元気になるかな。

激動の2008年も終わる。
来年はどんな年になるのか。
私の幸せは、どこにあるんだろうなぁ。。。 
 
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新たな夢

2008年12月30日 22時36分28秒 | Weblog
もしかしたら 横浜に戻れる・・・
しかも横浜山手の一等地なんて、夢のようだし。

横浜山手に土地があるのは前にJから聞いてたけど、それはJのご両親の別荘的なもので、いいなぁと思っても、私たちが所望するのは僭越だと思って黙っていた。
まさかそれを、Jの父親の口から言ってもらえるなんて何てラッキー♪
Jの考えてた事業の夢が消えてしまうとしても、新たに横浜山手に住む夢を持ったら素敵じゃないか。
ねぇJ、そこんとこどうなの?
「Jは今の土地を離れて横浜に来ても良いの?」
「横浜は好きな土地だから、東京に住むより良いよ。
 でも山手だぜ。
 なんか高級そうで、住人みんなガウン着ちゃって執事とかいる暮らしの人ばっかりなんじゃないの?
 クルマも知らないくらい高級な外車で、そんな中Passoくんで外出したら、どんだけ無理してるってならないかな。
 俺 ガラじゃないよ。」
「けど、マンション建てるって言ってたんだよね。
 それが戸建てになったら総工費とか減るわけでしょ?
 それをクルマに充てれば良いじゃん。
 どうせアメ車に乗りたいって言ってたじゃん。」
「まぁそうだけど・・・
 親父もそこに住もうと思って、家の図面ももうあるんだよね。
 洋館ぽい仕上げで、外もウッドデッキとかあるんだ。」
「え~~それで住まないのは残念だよ。
 別にそこに住んだからって、ご近所さんとお醤油の貸し借りするわけじゃないんだし、普通に住んでも良いんじゃないかな。」
「だって、美月は平気なの?」
「・・・私、母校はすぐそこだし、昔から元町は庭だし。
 国大附属の保護者同士のお付き合いもセレブが多かったから、あんまり気にしないけど。
 クルマもAudi乗ってたもん。」
「そうなのか。
 じゃ、ほんとに俺の夢が企画倒れの時は、横浜に住むことも考えるよ。」
「ほんと♪嬉しい♪♪」
「俺もダメ出しされっぱなしじゃ悔しいし、自分でほんとに企画倒れか調べてみる。」
「わかった。
 その時は、横浜に住もうね。」
「そか、俺の事業の夢がダメでも横浜に住むっていう新たな夢があるんだな。」
さっきまで凹んでたJとは違って、また新たな希望を見つけたようだった。

JはJなりに、親の七光を越えたい気持ちがある。
家業を引き継ぐようになって、ますます父親の偉大さがわかってきたらしい。
けど今の時代、無理は禁物。
堅い仕事をしていくのがいちばんかもしれない。
私だって、Jの言った横浜山手の土地が実際にあるかって、この目で見るまでは信じちゃいない。
図面だって、戸建てにするのだって、現実の手応えを感じられるように進めていかなきゃ。
来年になったら、まずはその場所を見せてもらいに行く。
もう夢や希望を語るだけじゃ辛抱できない。
来年こそは実現する運びにしたいの。

横浜山手に住むなんて・・住みたいと思っても住めるもんじゃない。
私の今までの生活を考えれば、まるでシンデレラ・ストーリーだ。
ほんとに実現すれば、だけど。
まるで夢物語。
話だけで、やっぱダメだったとかなっちゃうのかもしれない。
そんな~夢見させるだけ見させてダメだったは無いよね~★
今度こそは実現させるし!

時々 考えてしまう。
・・・Jの元妻って、なんでJの実家に盾突くようなことしちゃったんだろうね。
そのまま仲良くしてれば、遊んで暮らせる生活になったのに。
それで、何で私にお鉢が廻ってきたんだろう。
どんな運命の歯車だったのか。
子供たちには姓名判断でものすごく良いのを付けたから、そんな巡り合わせでJと私が引きあったとか。

この年の瀬・・・
元夫は、その後子供たちにすら何の連絡もなく。
養育費の振り込みもされぬまま、どこで何をしているのやら。
マンションは競売に落とされたようだが、元夫からは何の話も無い。
この不況の風が吹きすさぶ中、やはり持ちこたえずに倒産したのかはわからない。
20年間連れ添い3人の子供まで生したのに、今では他人以上ですらない。
元夫に言わせるなら、自分が音信不通でも「今までこんなにしてやったのに、子供たちはメールすらよこさない」ってなるのかも。
あげくに私が洗脳して父親の悪口を言わせてると思い込んでる。
もう思春期や成人した子供たちに対して、それは無いって気付かないんかい☆
結局、子供たちとの間にそれだけの関わりしか築けなかったんだよ。
いつまでも自分しか守らない元夫・・・
養育費すら支払わず、自分の子供たちがどこでどうしてるか心配じゃないのかな。
ま、いいけど。

静かな大晦日イブ。
子供たちは実家に泊まりに行って、私はひとり。
久しぶりに子供たち兄弟妹水入らずのひと時も良いよね。
明日には帰ってくる予定だから、淋しい気持も辛抱しなくちゃいけないかな。
Jも仕事納めをして、家でJの子供たちとくつろいでいるはず。
この忙しかった1年・・・
変わったもの、変わらなかったもの。
悲しかったこと、嬉しかったこと。
それでも、ここにこうして子供たちと生活できる幸せに感謝。
シングル・ママは来年も頑張るよ 







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夢の挫折の中で・・・

2008年12月29日 22時11分19秒 | Weblog
無事に退職の日を終えた。
最後の挨拶をして、ご利用のお年寄りやスタッフの顔を見たら、やっぱり泣けてしまった。
何とか泣かないでいようと思ったのに、馴染んだ温かい笑顔に包まれると、やっぱり涙が出ちゃった。
花束と記念品が贈呈され、その後にティッシュボックスがひと箱付いてきたのには、みんな泣き笑いだった。
馴染みの95歳のご意見番的おばぁちゃんKさんが
「元気でやんな。
 いつか風の便りに私が死んだってよって聞くかもしれないけどさ。」
なんて言うから、また泣いちゃったりしてさ。
「そんなこと言って、Kさんまだまだお迎え断ってんでしょ~」とか、笑いに変えたけど。
ほんと、私がみんなに恩返しできるまで元気でいてほしい。
私も頑張る。

それから迎えに来てくれたJと横浜デートした。
久しぶりに行きつけのお店でふかひれラーメン。
「なんてお店だっけ?この道で良いんだっけ?」
「え~名前、何だったっけ?なんか中華街らしくない名前じゃなかったっけ?」
「何だよ、俺たちふたりして認知症かよ~」
なんてふざけてたら、淋しい気持ちも吹き飛んだし。
元町では好みのチーズケーキを食べて大満足。
帰りは、みなとみらいの夜景を眺めてのドライブコース。
去年、クルマがPassoくんになってしまった時も、マフラー付け替えたの見せにここまで来たのを思い出す。
「おまえの母校も見えるよ。」
実際は暗くてよく見えなかったけど、Jの気遣いが嬉しかった。
やっぱりJと一緒になりたい。。。

現実に返れば年末の気忙しさ。
Jは一度大掃除しに家に帰り、また買出しを手伝いに戻ってきてくれた。
黒豆も圧力鍋で煮てくれて、それがまた美味しいんだよね。
お正月はカニの天ぷらをあげてくれることになってる。
なんか食べ物でツラレちゃいそう・・☆
でも、年内会えるのは今日で最後。
あとは年明け。
一緒にいれば夫婦同然の行動なだけに、クリスマスや年越しみたいなイベントに離れ離れなのは余計 淋しい。
これじゃ、まるで不倫してるみたいじゃん。
来年の今頃は、こんな淋しい想いはしたくないと思う。

買出しを終えて、ふたりでコーヒー飲みながら来年の話をした。
私は、まずは新しい職場に慣れること。
長女がいよいよ高校受験だし、子育ても気が抜けないってことで。
Jは・・・
実は、今まで描いていた事業展開ができなくなりそうだと言う。
それは実家の事業を引き継いで、軌道に乗ったらやりたいと語っていたJの夢だった。
「親父の作り上げた仕事を引き継ぐだけじゃ面白くないじゃん。」
と、Jなりの夢を持っていて、それに基づいて住む場所やライフスタイルなどもいろいろ考えていたのに。
提携しているプランナーにダメ出しもらってしまったとかで、かなり凹んでいる。
何でも、今の不況の時代にはビジネス展開しにくいと言われたらしい。
「その話を聞いて、今までスポンサーになってくれるって言ってた親父も手のひら反しだし、なんか夢が無くなっちゃったんだよな~
 自分の夢のために親父の仕事引き継ぐんだったのが、これじゃ意味ないよな。」
なぁんて落ち込み発言。
ま、そこはこの年だから、そうは言ってもちゃんと引き継ぐつもりでいるけどね。
Jも5人の子供たちを育てる上で、経済基盤的に家業を継ぐしかないことを充分わかっている。
ほんと子供育てるってお金かかるの。
「とりあえず、来年は親父が始めたバイオ事業を春までに軌道に乗せて、んで夏までにお袋のやってる経理をこっちに引き継いで・・
 その頃に、場合によっては就職した今の職場は辞めるかも。
 何とか年内にトラブル解決して、全部こっちに持ってこないとな。
 1年なんてあっという間だし。」
そうそう、ほんと1年なんてあっという間。
けど、私との再婚は、Jのやりたかった事業の上に成り立っていたのに、根底から覆されちゃったらどうなるの?
今までふたりで考えてた住居は?ライフプランは?
全部立ち消えちゃうわけ???

「ねぇ、そしたら住むとことか、もしかして変わっちゃうのかな?」
「そうだな。別にその場所じゃなくても良いってことかな。」
「じゃ、マンション構想で考えてたけど、戸建てでも良いの?」
「そりゃね、事業のために最上階にバーを作りぃのゲストルームを作りぃのって考えてたから。
 それに考えてた場所じゃ、砂がすごくて普通の住居じゃ窓も開けられないよ。」
「私は普通の戸建てでも良いんだけどな。
 お父さんが持ってるその土地じゃダメなの?」
「う~ん、砂がすごいから無理だね。
 それに300坪だぞ。土地が広すぎて、そんなデカい家なんて建てないから。」
300坪の土地の広さなんて庶民の私にはピンとこないよ。
でもダメなら仕方ない。砂まみれもイヤだし。
けど、せっかく家の話になったんだから、これは突き詰めるチャンスかも。
だって、来年の展望に私たちの再婚を盛り込んでいかないと、それこそあっという間に1年たっちゃうよ。
来年もこんなヤキモキ苛々してたら、私、Jと別れちゃうかもしれない。
せっかくのJと知り合った人生のチャンスを見す見す棒にふるの?
幸せは自分の手で摑みとらなきゃ♪

「え~~じゃ他に無いの?」
「そうだなぁ・・
 そう言えば、親父から横浜にも土地があるけど、そこじゃダメかって言われたんだよね。
 親父たちが住もうと思って買ったらしいんだ。
 外人墓地の近くで、山下公園やみなとみらいが一望できる一等地らしいんだけど。」
「え?」
「親父たちはもう年して今の家から動く気失せちゃってるんだ。
 戸建てで良いなら横浜はどうだって勧められたんだけど、美月が子供たちみんなで住みたいって言ってたから、マンションが良いのかと思って断ったんだよ。」
な・に~~~~~☆
もしかして私、横浜に戻れる・・・? 



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退職前夜

2008年12月26日 23時02分37秒 | Weblog
デイの賑やかなクリスマスお楽しみ会が終わった。
毎年19日から25日までの1週間興行だから、終わると気が抜ける。

私の退職は、10月半ばの時点で常勤に話していた。
そのまま何やかやと、同僚に話したのは今週に入ってからだ。
12月に入って男性スタッフの結婚とか子供が生まれたとか、おめでたい話が続いてたしクリスマス会の喧噪の中で、退職の挨拶なんてシケるし。
仲の良い同僚スタッフには言ってあったのだが、大半の人に驚かれた。
いちばん多かったのは「ピアノどうするの?」ってヤツ。
その後に「やっぱここまで遠いもんね、よく頑張ったよね。」
有難いことに、みんな好意的に受け止めてくれた。
何人かとメアドも交換して、これからはボランティアとして時々遊びに行くと約束した。
ここでの2年7ヶ月の間には、本当にいろいろなことがあった・・・

就職面接の時、私は歯の矯正中だった。
7ヵ月後には矯正も終わったが、サービス業なのによく採用してくれたと感謝してる。
ヘルパー2級の資格を取って2ヶ月過ぎて、いつか夜勤を辞めたくなっていたが、なかなか夜勤ほどの収入を得られるパート職は無かった。
唯一イイ線いってたのが、デイ・サービス時給950円、4時間勤務。
これなら午後からの音楽教室と兼務できると思ったのがきっかけ。
週5のデイと週3の音楽教室で、何とか収入を維持することができた。
デイの仕事の後押しをしてくれたのは、当時付き合ってたFさん。
最初は介護の仕事自体にあんまり気乗りがしてなかったけど
「せっかく取ったのに使わないと技術忘れちゃうよね。」
その一言に背中を押されたの。
おかげで今の私がある。
だから・・・Fさんの妻に疑惑をもたれてFさんと会えなくなった時、デイに通う道すがらに涙が出た。
Fさんがいなくても仕事頑張ってるよ・・って心の中で何度も想いをかみしめていたっけ。

デイに中・高の先輩がいたのも驚きだったな。
テニス部のみんなの憧れの先輩。
苗字も変わっていたし思いもかけずで最初は気がつかなかったくらい。
女子校にあってすっごいカッコよかったんだけど、今も変わらず美形なの♪
先輩は先に辞めちゃったけど、いろいろ指導してもらって、今でも交流あるのが嬉しい。

次男も中2の時に職場体験させてもらって。
他の中学や大学・先生などなど様々な人が研修に来るので、次男に勧めたら実現の運びとなった。
男子ばかり4人も来て、私 仕事休みの日に差し入れに行ったし。
たった2日の体験だったけど、次男はヘトヘトに疲れて帰ってきた。
「お母さん、毎日あんなことやってんだぁ」
って少しは尊敬してくれたみたい♪
覚えてくれているお年寄りもいて「あの時のぼく、大きくなったの?」なんて聞かれたり。
ほんとに親子ともどもお世話になったなぁ。
その後も次男の中学の後輩が体験に来る。
これも嬉しいことかも。

デイでは元夫と別居中なんて言えなかったから、しばらく私生活ほんとのことを話せなかった。
Jが現れて離婚して、それからやっと・・かな。
前に職場に迎えに来てくれたJを、送迎のドライバーさんに見られちゃって以来
「カッコいいダーリンですね」
なんてコトあるごとにひやかされちゃってたっけ。
今回の退職も、寿退社だったらもっと嬉しいんだけどな。。。

でも。
Jのご両親に財産目当てなんて思われないように、正社員として転職するのは有りだと思うんだ。
意にそまぬことであっても、それが良い方に向くように持っていくことで、私の技量を示せばいい。
元夫にも、ちゃんとひとりで子供たちを育ててるって言えるもんね。
子供たちって親の背中を見て育つんだもん。
私が正社員としてしっかり働く姿を見せることも、愛情のひとつと伝わるかな。
長男も教習所に行って卒検合格したし、少しずつみんなを引っ張って行かなきゃ。

今日初めてデイのご利用者たちに退職の挨拶をした。
金曜日のお年寄りたちにも、いっぱい可愛がってもらった。
挨拶しながら泣きそうになった。
だって、いつも強面でぶっきらぼうのちょい悪爺のNさんが、涙いっぱいためて私を見てくれてたんだもん。
「元気でやるんだよ。」って。
ちょい悪爺ちゃんたちの全員に挨拶せずに退職しちゃうことが心残り。
みんな元気でいてね。
いつか私がJと再婚できたなら、その時はデイに多額の寄付をして精一杯の恩返しをしたいと思う。
・・・なぁんて、夢だけど。

みんなに「淋しくなるね」って言われて。
いちばん淋しいのは私。
そうなるのはわかってたから、明日 退職する日は、わがまま言ってJに迎えに来てもらうことになっている。
淋しい涙にくれながら、ひとり帰りの道のり1時間半も帰れないよ。
「ついでに久しぶりに横浜デートしよう。」
退職すれば、みなとみらいのイルミも元町も中華街も、みんなはるか遠くなる。
もっともJは、私のそんなセンティメンタルな想いを吹き飛ばすように、中華街でふかひれラーメンだとか、元町のベストアメリカンチーズケーキだぁと大喜びだけど。
そんなJといれば、私の想いも少しは紛れるかな。。。

ねぇ、Fさん。
私は新しい一歩を踏み出すの。
Fさんの知らないところで。
今の私は髪も短くて、ピアスもしてて、すっかり変わってしまった。
でも頑張ってるよ。
幸せになるからね 











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夢の反動

2008年12月25日 20時20分16秒 | Weblog
聖なる夜に、私はひとり。

子供たちはそれぞれの用事で帰宅は夜8時過ぎだし。
買い物に行っても、周囲は暗くて静かな住宅街。
今まで住んでいたマンションは駅前の賑やかな場所だったから、そのギャップったら。
去年のクリスマスとはまるで違って淋しい夜。
何でこんなことになってるんだろう・・・

心がひとつになれなくなって、しばらく経つ。
Jが家業を引き継いでいるのは私と一緒になるためだと聞かされても、現実の私にはピンとこない。
私は来年から、この土地で就職する。
それが軌道に乗って、経済的にも落ち着いてきたらJのことはどうでもよくなってしまうかもしれない。
・・てゆか、元夫が養育費を協議書どおりきちんと支払っていたら、もっと余裕かませていられたのかも。
なんか男次第な自分がイヤだな。
Jに乗っかって離婚したことのツケだよね。
覚悟が足りなかった。
もっと自分ひとりで離婚すれば、今とは違うやり方があったのに。

振り返ると後悔ばかり。
去年の今頃は、Jと希望に満ちていたのに、フタを開けたら結局今までと変わりはなかったわけだ。
・・どころか、こんなド田舎に引っ越してきちゃって。
実家だって今までは同じマンションで暮らしていたのに、今じゃ電車で1時間半だよ。
長男とも離れ離れになっちゃっていて、ほんとどうしたら修正が利くんだろう。
このままJの言うとおり、私は待つしかないの?
けど、いつとも知れぬ再婚だよね。
解決の糸口が見つからなければ、私の生活はいつまでたっても堂々めぐり。
いろんな不安を抱えたまま、私の毎日が過ぎていくことになるのかなぁ。
ストレスで早死にしたらどうしよ・・なぁんて。

少し前に、Jに不満や不安をぶつけた。
大人げないとは思ったけど、どうしてもJののんびりした様子が我慢できなかった。
私のことを短気だと言うけど、女はみんな短気だよ。
男が目先のことに追われている間に、ずっと先を見ているんだから。
そしてより早い安定を望んでいるの。
「全部わかってひとつひとつ解決していくから、もう少し見守っててくれないか。」
Jの答えはいつも同じ。
去年ふたりで見ていた夢は、私の掌には無いのかもしれない。
住むところも、いつの間にかJの父親の思うようになってしまっていて・・
私がお金出して土地や家屋を建てるわけじゃなし、そりゃ致し方ないとは思うけど。

私が不満や不安を抱えると言うことは、全部自分の責任だからちゃんと解決していくから、とJは言った。
「そんな今まで話してた全部に不満があったなら、何でその時々で言ってくれなかったの?」
「私、その時々で言ったもん。
 Jが気がつかなかっただけでしょ?」
この一言は少なからずJにはショックだったみたい。
でも、これって今言っとかなかったら先々でまた繰り返すことになる。
聞く耳を持つかどうかはJ次第だよ。
このまま不毛な関係が続くなら、それは元夫と同じでしょ。
私だって、自分の人生が大事だもん。
まして今は子供たちの人生を背負ってるし。

Jは私がいるから、慣れない業界の家業の引き継ぎを頑張れるんだと言う。
一緒になることを夢見て、ひとつひとつこなしてるって。
私だってわかってるけど、この引っ越しに失敗してるから安易にJに乗っかれないんだ。
いつになるかわからない話になってるし。
今は長女の高校受験があるからここから動けないが、長女には別にここじゃなくても横浜の高校を選んでも良いと言ってある。
その時は、Jに関係なく自由な選択の元にここから飛び立とう。
「美月はこうして一緒にいるだけで幸せじゃないの?
 俺は、こうして話をしてるだけでも幸せだよ。」
Jの気持ちは嬉しいけど、愛だけで子供たち養えないから。
何でも一緒にやろうと言ってくれたのに、結局のところは別々なんだもの。
あと1年の間に、一緒になるメドがたたなかったらJとは違う道を行く。
それで良いよね。

自分でも堪え性ないと思うけどね。
でも夢の反動が大きすぎ。
ここにこうしてることさえ、ほんとはイヤでしょうがない。
Jは私が不機嫌になる度に、機嫌をとって美味しいもの作ってくれたり風景の良いところへドライブに連れてってくれるけど、そんなの目先の気分転換にしかならない。
確かにJは良い人だよ。
YAMAHAステージアも簡単に分解組立して運んでくれちゃうし、お料理も上手だし、何でもわがまま聞いてくれる。
おまけに家業を引き継げばお金にも不自由しない。
Hも、元ホスト仲間と今だに交流していて、最新のHのお道具なんかも仕入れてきたりしてるんだけど。
それぞれ子供たちがいるからクリスマスは別々だけど、週末には横浜デートも計画してくれてる。
そうやって良いところだけ見てあげればよいのだけど、夫婦になる以上、そういうわけにはいかないよね。

私って不幸になる運命なのかなぁ・・・ 

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☆仕事に生きる☆

2008年12月23日 22時18分24秒 | Weblog
季節はいつの間にか秋になっていた。。。

新しい職場から連絡が無いってことで、すぐ次の職場を見つける気になれず。
転職ってそんな簡単にいくものじゃないんだなぁ・・・
やっぱり今までの職場で頑張ろうと決めた。
大変なのは通勤だけで、職場は居心地良く楽しかった。
それに、ピアノで歌の伴奏できるのは私だけ。
午後のレクで歌を歌うのを楽しみにしているお年寄りたち。
「やっぱりピアノ伴奏があるとないとじゃ違うわね。」
と言われると、ついブタも木に登る気分になってしまう。
まして引っ越してから音楽教室の仕事もしてないし、何らかの形でピアノを弾けるのは嬉しい♪
・・と、気持ちが固まっていた時に新しい職場から連絡が来た。
「採用が決まりました。
 いつから勤務できますか?」
思わずフリーズ。
その場はうまく話し、改めてこちらから連絡することにした。
ん~~~~どうする!?

Jに相談すると採用されたことに大喜びだった。
おいおい、私の気持ち言ってなかったっけ?
「横浜で頑張るって決めたんだよ。
 こっちに土着したくないの。
 第一、就職したって結局はJの仕事を手伝うんでしょ?」
「そんなにここがイヤなの?
 今のところまだ俺が家業を引き継いでる最中だし、美月と一緒になるのは今すぐってわけにはならないし・・」
「けど、私、就職するためにここに来たわけじゃないもん。」
そうは言ったものの、経済的にひっ迫している私は、先の見通しがたたないことには乗っかれなかった。
Jの家業が充てにできない以上、介護の仕事で子供たちを食べさせていくしかない。
大好きな横浜まで通勤を頑張るか、それとも近場の正社員か。。。

「そうか、そんなにここがイヤなのか・・・」
Jがぽつんと言ったその一言。
それが何故かカチンときた。
何か私が、新しいところに馴染めないような口ぶり。
私がその気になったら友達100人できちゃうんだから~なぁんて☆
気持ちが揺れていたひとつに、新しい職場の副施設長が長女の中学のクラスメイトの母親だということもあった。
私が馴染めば、長女も転校先の中学により馴染めるようになるのではないかって・・
いいよ。
この土地でやってやろうじゃない。
今まで培ってきた介護の技術を、ここでも生かしてみる。
正社員ならとりあえず経済的にも安定するし。
あ~~手のひら返しだけど、ま・いっか。
女心と秋の空って言うじゃない。
私はJに相談せず、新しい職場に転職の意志を告げた。
「出勤日なんですが・・来年からではダメですか?」
「あ、ボーナスの都合ですか?」
「いえ、パートだからボーナスは無いんですけど。
 今からだとデイの行事とか中途半端な形になってしまうので、きっちり終わらせてきたいんです。」
「あ、そういうことでしたら、かえってそのほうが。
 確実に入社してくれるのであれば、来年からでも結構です。」
・・・決まった・・・
・・・決まってしまった・・・
年内で今の職場とさよならだ。
あぁ~~なんて言おう。
みんなに怒られるだろうなぁ・・・
クリスマス会にピアノが無いわけにはいかないから、年内きっちりやるのでみんな許してね。
今まで休みをJに合わせてシフトを組んでもらっていたけど、最後の2ヶ月はフリーで週末関係なく働くことにして、私は常勤さんに退職の意思を告げた。
やっぱり引きとめられたけど。
でも通勤時間を考えれば仕方ないよね、と言ってくれた。
所長も、いろいろ親身にしてくれて「もし次が決まってないのなら決まるまでここで・・」みたいに言ってくれたんだけど、決まっていることを告げたら「良かった」と言ってくれて。
この所長、おうちが近くなんで親しかったの。
所長も通勤大変なんだよね。
常勤・嘱託には了解済みだけど、パートの同僚スタッフには辞める直前に話すことに決めた。
言えないよ。
こんなみんなに良くしてもらって。
あと2ヶ月、きちんと恩返しして辞めようと思う。

この時期、ファーストピアスをした。
いつかJとペアピアスをするのは、去年からの約束だった。
もうすぐ私のBirthday。
Jはプレゼントはピアスにしたいから、それに間に合うように今からしなくちゃと言った。
それを聞いていた次男は、この時とばかり気を利かせてピアッサーを買ってきてしまった。
次男は夏休み前に、私の承諾もなしに勝手にピアスをしてきていた。
うちは高校生までは、髪は染めない・化粧&ピアスはしないで育ててきた。
怒りまくる私に次男は一言。
「だってJさんもしてるじゃん。」
返す言葉を失ったし。
Jの娘たちは中学からピアスをしてるとか。
げ、信じられん★
というわけでピアスは致し方ない、ピアッサーもある以上あとは実行あるのみ。
自分で開けても良かったんだけど、あえてJに開けてもらった。
子供たちがまだ起きてこない明け方4時。
10月13日はピアス記念日。
思ったより痛くなかった。
恋人にピアスの穴を開けてもらうって・・ちょっとエロティックで良いかも♪

翌月、私のBirthdayには雑誌で選びに選んだブリリアントカットのデカいダイヤ・・とまではいかないけど。
ピアスは落とすかもしれないから高いのをする必要はないんだと。
それでもこのサイズはジルコニアでも高いんだぞなんて。
その代りこれからいくつもプレゼントするからって。
Birthday、クリスマス、1月の新年、ホワイトデイ、6月にすると幸せになるらしいから・・となると年5個かよ~なんて自分で言ってるくせに。
昔、宝石のデザインしていたのでアクセ選びは得意なんだって。
このプレゼントはデイでも注目の的になってしまって、ちょっと恥ずかし嬉しだったかな。

Jと会う時間が少なくなったぶん、私は仕事に打ち込んだ。
そのせいでもっと会う時間が少なくなってしまったが、家でJがいつ来るのか待ってるよりずっと良い。
そして少しずつ・・私はJから心が離れ始めていた 









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あぁ 就・活。。。

2008年12月22日 18時14分07秒 | Weblog
Jのプロポーズを受けて1年。
離婚して半年。
今年の夏も暑かった。

父の49日を終え、またいつもの日々に戻る。
元夫の養育費は、それっきり振り込まれない。
ひとり親家庭の補助金で急場はしのいだものの、その後は僅かばかりでも父の遺産を充てにさせてもらった。
子供たちには不自由させたくない。
でも、このままでは・・・★

実家の事業を引き継いでいるため、Jと会える日は少なくなっていた。
経理の引き継ぎにトラブルが無ければ、私もJと一緒に引き継いでいたかもしれなかった。
そしたら毎日いつでもJと一緒だし、私も正社員でお給料をもらえたのに。
・・そんな想いが不満になった。
不満になったところで、それはおよそガキっぽい自分勝手な感情である。
いつも何かあればJにぶつけていたけど、今回ばかりは心の中に収めなければ。
そんな気持ちを抱えて暑い季節の通勤はキツかった。
駅の階段を昇る足取りは重い。

この状況を打破するためには、地元で就職するしかない!
今の通勤時間で、週5日の仕事は体力的に無理。
それに同じ5日働いて安定を得るなら正社員がベストだと思う。
毎日曜日、私は新聞に折り込まれる求人広告に釘付けになった。
やるとすれば音楽より介護のほうが圧倒的に求人が多い。
老人ホーム系はお給料は多いが夜勤付きだ。
前に夜勤の経験はあるが、それはAudiくんがいればこそ。
クルマのない今の生活では、通勤の楽な所を探さざるを得ない。
ホームはだいたいが郊外の辺鄙なところにあった。

横浜中心部のデイ・サービスに就いて2年半。
ヘルパー2級の資格を取ったものの右も左もわからずに介護の世界に入った私を、職場の先輩たちは温かく迎えてくれた。
デイ・サービスは介護サービスのひとつで、お年寄りをご自宅から送迎し、デイ・ルームでスタッフやナースのケアの元、お年寄り同士の交流やお風呂、お昼ご飯やおやつ、レクレーションなどで夕方まで過ごしていただこうと言う趣旨である。
私はヘルパー講座の実習でデイ・サービスがいちばん性に合ってると思っていたが、案の定ピアノを弾けるということが、私の立場を有利にしてくれた。
横浜中心部にあるだけあって、ご利用のお年寄りたちも地元横浜の人が多く、送迎も中華街やら元町、港の見える丘公園、子供たちや私の母校の前を通ったりして楽しかった。
総勢160名のお年寄りの顔と名前を覚えるのは一苦労だったが、始めて2ヶ月もたてばだいたいは覚えられるものである。
介護の地味な職場にあって、何故かここのスタッフたちは美人揃い♪
おじいちゃまご利用者さまたちに人気も高い。
男性スタッフもそこそこイケメン&個性的キャラな人が多くて、レクともなればみんな大ノリ。
仮装のコスプレもいろいろ揃っていて、今の時期はクリスマスお楽しみ会のサンタやトナカイ、女装に男装。
お年寄りたちをこれでもかと笑わせている。
もちろん血圧上昇し過ぎないようにしないとね。
私も時に懐かしのムード歌謡を弾いて、昔チョイ悪だったお年寄りたちを、夜のバーにタイムスリップさせていただく。
横浜だけあって、Jazzのお好きな方も多いし♪
お風呂介助も裸(スタッフはTシャツ短パンだけど)の付き合いで、洗髪洗体しながらどこかケガや発疹はないか診てさしあげるのも大切な仕事。
お茶出しひとつにしても、舅姑がたくさんいる中でやってると思えば、自然とマナーも身に付いてくる。
おうちに帰れば独居だったり留守番だったりしてるお年寄りたちに、デイにいる間はいっぱい楽しんでいただけたらって思う。
帰りの送迎が滞りなく終わると、今日もご利用者たちを1日無事にお世話できたことにほっとする。
神経は遣うけど、遣り甲斐のある仕事だ。
本音を言えば、大好きな横浜の職場は離れたくない。
けどここは市の職場で、正社員になるには年齢制限があった。
それに、毎日の通勤時間を考えたら、とても週5&家事、子供たちの世話をする体力は無い。。。

やがて、自転車で15分ほどのデイ・サービスで正社員の口を見つけた。
早速Jがクルマで場所を確認しに連れてってくれた。
新しそうな施設、老人ホームと併設している。
近いのと正社員のふたつに惹かれて、すぐ翌日、履歴書持参の面接を申し込んだ。
「お給料は横浜がいちばん高いですよ。
 それでも良いですか?」
そうなのか・・・でも正社員はボーナスあるし。
「では来週お返事したいと思います。」
面接の後、施設長はそこのデイ・ルームを見学させてくれた。
前の職場でもそうだったので、それでてっきり私は合格したものだと思った。

ところが・・・
返事をくれるはずの来週は、何の連絡もないままに過ぎていった。
こっちから連絡すれば良いものを、落ちたのだと思い落胆した。
「また次を見つければ良いんだし、一緒に頑張ろう。」
Jはそう言って励ましてくれた。
落胆した私だけど、横浜の職場を離れなくて済んだことに、少なからず安心していた。
これはやっぱり横浜を離れるなってことなのかも。
と、思った矢先に連絡が来た。
「連絡が遅くなってすみません。
 応募者の選考をしている最中で、来週までもう少し待っていただけますか?」
応募者の選考に、何でそんな時間がかかるんだろう。
横浜では求人広告出しても、なかなか人が集まらないのが現状だし。
体の良い断り文句かもしれない・・・そんなふうにしか思えなかった私は考えた挙句にJに言った。
「私、週5にして今の職場で頑張ってみる。
 その代り、今までみたいにJの休みに合わせてシフト組むのはできなくなるけど、それでも良い?」
Jはもちろん協力すると言ってくれた。
決めたからには、泣きごと言わずに頑張らなくっちゃ 
 
 


 




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養育費が・・・!

2008年12月20日 22時15分08秒 | Weblog
病院に着いた時、父はもう病室にいなかった。
安置室と呼ばれるところに母といた。
すっかり冷たくなって・・・
綺麗な死に顔だった。
「お父さん、頑張ったよね。」
母も涙ながらにうなずいた。

両親は見合いだった。
それも余命幾ばくない母の父親の枕もとで、急きょ決まった結婚だった。
両親の趣味はバラバラ。
私は父にアウトドアの楽しさを、母に芸術の素晴らしさを教えてもらったが、ふたりはいつも別行動だった。
そんなだから、てっきり両親は仲が悪いのかと思っていたが・・・
ずいぶん前に脳梗塞で片マヒになった父に文句を言いながらも、母はきちんと父を気遣っていた。
父も、そんな母の文句を黙って受け流しながらマイペースに過ごしていたっけ。
50年添い遂げた夫婦の絆が私にはわかった。
伴侶の最期を看取る意味の、何と重いこと。

その夜、母と私と互助会の人と、遅くまで父の葬儀の打ち合わせをした。
母の希望で身内だけの家族葬に決めた。
身内・・と言っても、母方の親戚だけだけど。
母は5人姉妹の長女で、うちは本家という立場にあった。
女ばっかりの中に父は養子に入ってくれたのだ。
私は長女の長女・・女系家族にあって責任重大。
長男にあたる弟もいるが、実質の決定権は私にあるようなものである。
一癖も二癖もある叔母さんたちに文句を言わせないように、滞りなく父の葬儀をするのも私の責任。
いとこたちの中でも私はいちばんの年長で、私はいつでもみんなのお手本だった。
離婚したとて、誰にツッコミ入れられることない正当性が必要なのだ。

自分で言うの何だけど、良い葬儀だった。
焼き場への道すがらマンションの前や父が独身の頃いた場所も通ったりして、あんなに家に帰りたがった父への供養になったと自己満してる。
お墓のことで母と叔母と意見が分かれた時も、何とか調整して収めたし。
「美月は俺の家のお墓に入るんだからね。」
まだ半信半疑だけど、そうか、私はJと一緒のお墓に入るんだなぁ。
ひとり残った母を、早く安心させてあげたいと思う。

・・・と言うのも。
元夫からの養育費が毎月きちんと振り込まれない。
最初の2ヶ月くらいは振り込まれたが、その後は音沙汰も無し。
携帯に連絡すると「今 会社が倒産寸前なんだ。」と言う。
不動産業界が不況のただ中にいるのはわかっている。
元夫の器量では、会社経営に向いてないと前から思っていたが・・・
「それでも何とか工面して入れようって誠意は無いの?
 言われて初めて言い訳するんじゃなくて、1万でも2万でも入れて子供たちのこと気にかけたらどうなの。」
本心を言えば、不動産会社経営なんて辞めちゃえば良いと思っていた。
職種にこだわらなければ、ちゃんとお給料をもらえる仕事にだって就けるのではないか。
事務所なんて維持費をかけるなら、実家に帰って仕事見つけて、養育費だけでも入れて欲しい。
「倒産」なんて言ってるだけで、私にお金を渡したくないって言うのが本音じゃないのか。
しかし、私には確かめようが無い。

元夫とあまりに連絡がとれず、思い余って元夫の実家に連絡を入れたことがあった。
もうしばらく音信を絶っているのでムシが良いとは思ったが、背に腹は代えられない。
久しぶりに聞く姑の声。
だが、その態度は冷たいものだった。
自分には関係ないと言う。
養育費だって夫婦の問題だし、連絡がとれないのなら子供たちにさせてみれば良いだろうってな調子。
確かに離婚は私たち夫婦の問題だ。
私だって背を向けた婚家に連絡をとるのは、元夫が子供たちにとってどれだけ心無い父親か伝えたかったからだ。
姑にしても血を分けた孫たちなのに、やっぱりこの姑にして元夫だ。
しばらくして元夫と連絡が取れ、未納分の養育費が振り込まれたが、それを最後にまた音沙汰が無くなった。。。

ひとり親家庭ということで、子供たちにかかる一切に公的援助があるものは全部の手続きをしていた。
学費や医療費など免除はあるものの、子供たち3人にかかる費用はそれだけじゃない。
一緒になるまではJにも子供たちがいるし、私は自分の収入と元夫の養育費でやりくりしていた。
仕方なく実家の母にSOSである。
さんざん迷惑をかけているのに母はまたも助けてくれた。
「お父さんの遺産を少し分けるから。
 もうこれが最後よ。
 あとは自分で何とかしなさい。」
両親に感謝してもし尽くせない。
このまま貯金が底着くことのないように、私も何とか考えていかなくては。
それにしても無責任な元夫には腹がたつ。
口では「子供たちが可愛い」と言いながら、いざとなれば自分の保身が第一なんて。

そんな私の状況をわかったJは、家業を引き継ぐ行動に出始めた。
平日は今の仕事を続けながら、週末は実家の父親と、会社で管理している物件を見て回ることになった。
当然のことながら、私と過ごす時間が少なくなる。
Jはその穴埋めをするように、その週引き継いだ事業のあらましを逐一報告してくれ、私にも状況がわかるようにしてくれた。
Jの家業のこと、最初は半信半疑だったけど、まさか毎週作り話をするなんてことあり得ないし。
あぁ、じゃやっぱりJって資産家の一人息子なのか・・・なんて今さらながら。
「俺が親父の仕事を全部きちんと引き継げば俺のやりたいようにできる。
 会う時間が少なくなったけど、これが一緒になるいちばんの近道なんだ。
 美月も大変だけど、一緒に心合せて頑張ろう。」

いつまでに全部引き継げると言う保証はない。
経理のトラブルもまだ解決のメドはたっていない。
それまでに父の遺産を使い果たしてしまったら・・・
このままじゃマズイぞ~~~ 




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父の死

2008年12月19日 20時00分12秒 | Weblog
私 だまされたのかなぁ・・・

っていうか、Jのことは話だけで知らないことが多すぎる。
私のプライベートはJにオープンになっている。
子供たちに会い、実家の父は入院中だったので母に会ってもらい。
中学以来の親友にも会わせたし、講師仲間の友人にも。
亡き祖母の13回忌では親戚や弟にも紹介したのに。
やっぱり不公平な立場っていうのは不満を生むのかも。
この年代だから理解はあるつもりである。
今はJの長女の大学受験があるからいろいろと動ける時では無いし、実家の事業を引き継ぐのも簡単なことではないこともわかる。
だます・・って、私をだましても何のメリットもないし。
まさか元夫が別れようとしてJと策略でもしてるのかな、同じ不動産つながりだし・・みたいに考えたりもした。
けど、それにしても何も一緒に住めない理由をわざわざ家の事業やおばぁちゃんの認知症にして話デカくする必要ないよね。
だって、去年Jに結婚を口説かれてた時は、ふたりの貯金や収入を計算してこうやっていこうとか、思い切って家を買ってしまおうかとか、けっこう質素で堅実な話をしていた。
ところが今年Jの実家の事業を明かされてからは、住むところも生活内容もセレブみたいな話になってきている。
Jのご実家の暮らしも雲を掴むみたいなセレブ話で、今の庶民的なJとは想像もできないくらいかけ離れている。
私は何でもこの目で見ないと信じないタチだし。

そんなような話をJにすると、全部ちゃんと自分なりに段取っていくから信じて協力してきて欲しいと言われた。
「うるさい親戚もいるし、この年齢だけにきちっと美月を迎えたいんだ。」
そして披露宴は親戚一同招かなくちゃいけないけど、結婚式はふたりだけでハワイでクルーザー借り切って船上サンライズサンセットだと語る。
Jは船舶免許も持ってるから確かにありだけど、新婚旅行やらその後の生活やら、まるで夢物語。
ほんとに実現するの?
引っ越して同居する話すらドタキャンになっちゃったのに★

引っ越したものの長男は転居先に居つかなかった。
長男はせっかく推薦で入った大学を1年でやめてフリーターになっていた。
仕事先が前のマンションの傍ということもあって、前の住まいに戻ってしまった。
まだ売却のメドがたってないようで、マンションがそのままだったこともあった。
しかし電気もガスも水道も止まっている状態、結局同じマンションにある私の実家に住むことになった。
父の今の状態では退院の見込みはたたず、骨折のリハビリ中の母ひとり住まいにあって長男の同居は心安まる想いだった。
私も正直体力的にそれほど実家に顔も出せないし。
けど、長男の人生を考えるとそのままで良いわけはない。
ほんとに私は非力だと思う。
子供たちにも親にも何も満足にしてやれない。。。

落ち込む私。
Jはいろいろ相談にのってくれた。
部屋に来る日も週末だけでなくもう1日増やしてくれた。
一緒にボーリングも始めて、お揃いのマイボール・マイシューズ・マイバッグで毎週 夫婦のようにボーリング場に通ったりもした。
時には私の次男長女も一緒にビリヤードやボーリングで楽しませてくれた。
Jなりに気を遣ってくれてるのはわかる。
私ももう少し辛抱しなくちゃいけないのかも。
でも辛抱できないこともあった。
それはJの過去女話。
何でも話してくれて終わったことだし裏が無いってことらしいけど、別に大失恋した彼女とどんなHしてたかとか、親友と何人ナンパしたか競い合ったとか、小料理屋のママがどうだとか、私には関係ないし。
私は過去男話はJと知り合った当初話しただけで、あとは封印してあるんだぞ。
それも気遣いってもんだろう。
めったにケンカしないんだけど、それはケンカした。
ほんと不愉快。
辛抱することないもんね。

引っ越して2ヶ月・・長女の部活も決まり、少し落ち着きかけた6月。
長く糖尿病を患っていた父の容態が日に日に衰えていく。
血管も心臓も良くなく、腎臓もついに透析する状態に陥っていた。
少し前までは声も出していたのに、目で意思の疎通を図るだけだし。
主治医に危ないと言われてから父は少し持ち直した。
私は引っ越し先からあわてて飛んできていたのだが、持ち直した父を見てほっとした。
父は若いころからスポーツマンだったし、心臓は丈夫だと勝手にタカをくくっていた。
父の日には枕元に大きな花かごを飾った。
「お父さん、早く元気になっておうちに帰ろうね。」
目はしっかり開けていたけど、父には見えてなかったかもしれない。
また数日後、血圧低下と病院から呼び出され、母とふたり深夜の病室で父と過ごす。
眠ったきりだった父が、その時何故か大きく目を開けた。
キョロキョロとあたりを見回し、母と私と見交わした。
父はしばらく目を開けていて、母と私は無口な父を交え話し込んだ。
私たちのおしゃべりが父には聞こえてくれたかな。
いつもの如くうるさいなって思ってたかな。

その晩は急変することなく過ぎた。
翌夕方まで実家に待機していたが、緊張と徹夜で偏頭痛になってしまった私は、とりあえず自宅へ帰ることにした。
また持ち直すだろうと思っていた。
1時間半かけて自宅に帰り着いた時、携帯が鳴った。
「娘さんですか?
 ご自宅にお戻りですか?
 落ち着いて聞いてくださいね。
 お父様がもう息をしていない状態です。
 お母様はお出でになっていますが、娘さんも病院に来ていただけませんか。
 ・・急がなくて良いですから。」
看護師さんの優しい声に涙があふれた。
そうか、もう急がなくて良いんだ・・・

父に幸せな姿を見せたかったのに 


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遠き春

2008年12月17日 17時29分45秒 | Weblog
引っ越しの日。
必要最低限の家具だけ持っていくということで、自分たちだけで引っ越しをした。
19歳の長男・15歳の次男、それから次男の同級生が3人。
みんな興味本位ではあるが、頼りになる面々だ。
Jがゲート付きの2t車を借りてきて、運転手を買って出てくれた。
詰めておいた洋服やら食器やら戸棚やら・・・
崩れないようにバンドを巻いたり、傷つかないようにラップを巻いたり、毛布を巻いたり。
Jが子供たちを指示して手際よく積んでくれたおかげで、何時間もかからなかった。
不要なものがそのまま残る今までの部屋・・まるで夜逃げ状態だったけど。
マンションの名義は元夫なので、後始末は元夫が付けることになっていた。
競売で落ちれば、いずれ他人の手に渡るだろうし。

私の子供たちとJのご対面はスムーズだった。
一席設けてご対面しようかと考えた時もあったが、もう引っ越し当日のぶっつけ本番、子供たちに考えさせる余地も無く引っ越し作業に突入しちゃえ、ということにしたのだ。
もちろん、私は前日に根回ししたけど。
夏くらいから私が週末になると出かけてたので、子供たちも薄々わかっていたようである。
「お父さんて言うよりは、とりあえずJさん・・かな。」
って感じで、Jも持ち前の屈託のなさで私と子供たちの間に溶け込んでいった。
引っ越しの夜は次男の同級生たちも泊まり、みんなでJ特製のカレーを食べた。
これからは、ここで生活が始まる。
・・・Jを除いて・・・

満開の桜。
花びらがひらひらと舞うさまに涙が出た。
新しい生活の中にJはいない。
週末が終わってJが帰った後の物悲しさ。
幸せになるための引っ越しだったのに。

Jの状況が変わった時、私はもう長女の中学の転校手続きを終えていた。
制服も頼んだ後だった。
転校を嫌がる長女をなだめすかして連れてきた手前、私が落ち込むわけにいかなかった。
デイ・サービスの職場には1時間半の通勤時間がかかる。
所長が交通費も出せるから、と言うのでそのまま続けることにしたが、早番の時は朝6時50分には家を出なくては間に合わない。
帰りは早くて夕方6時、遅番の時は7時半の帰宅だ。
それだって職場が近いJが先に帰って、夕飯を作っていてくれる話だったのに。
今までのマンションは駅にも近く、2線利用できて、100円ローソンも99も目の前だったし、スーパーもたくさんあったし・・・と愚痴っても仕方がないことなのだけど。
私は、自分の見る目の無さを悔やんだ。
子供たちの人生を背負ってるのに、私は長女に取り返しのつかないことをしてしまったのではないか・・・
新学期、長女は泣きながら登校した。
そんな日が3日も続いた。
気持ちはわかるが、私が翻るわけにはいかない。
高校受験を考えれば後戻りできない。
長女を叱り飛ばし、奮い立たせる毎日だった。

通勤の長さも合わせ、ヘトヘトの私。
責任を感じたJは、作り置きのお惣菜を幾つも作ってタッパに保存してくれた。
キンピラだの切干だのハツの煮物だの・・・
内臓系は下ごしらえが大変なんだとか言って、丁寧に作ってくれた。
それがまたすごく美味しくて、子供たちのお弁当作りにも助かったのは良かったんだけど。
それを教えてくれたのが、独身時代に通った小料理屋のママなんだって。
んで、お決まり食べられちゃったとか。
そんな話まで聞きたくないし★

今年の春は、慣れない土地で子供たちの世話と両親の介護、それに仕事で気疲れしまくりだった。
Jのほうでは、認知症になった同居している元妻の母親の身の振り方を決めるために、元妻の姉夫婦を呼んで家族会議をしたらしい。
離婚したJにいつまでも頼れない的な話だったと思うが、Jの長女が大学受験では今すぐどうこうの問題ではないとなり、おばぁちゃんに平日はヘルパーさんがつきぃの週末はショートステイに行ってもらいぃのって程度の解決方法となり、今までと大きな違いは無かった。
「どのみち俺は出ていくんだけど、おばぁちゃんには今まで子育てを助けてもらっていたからいる間は恩返ししたいんだよ。」
それがJの優しさなのかもしれないが、私は生ぬるさを感じていた。

子供たちとご対面して週末婚のように部屋に来るけど、週末が終われば帰ってしまうJ。
Hも、隣室に子供たちがいるわけで、今までのように濃厚するにもいかず、声もだせず、毎回ラブホに行くのも何だし。
いわゆる中年夫婦の簡単なHなんて、つまらなかった。
そんなこんなの毎日の中で、唯一の希望はJと一緒に家業を継ぐこと。
一緒に家業を継げば何とか方向を合わせることができると信じていた。
それもそう遠い話では無いようだった。

ところが。。。
今度は、その家業を一緒に継ぐ話に問題が出てきた。
経理の引き継ぎがすんなり上手くいかない状況になってしまったらしい。
Jは何とか早急に解決するように父親に話すと言ったが、これでますます私の出る幕は遠のいてしまった。
一緒に暮らすこともできない、一緒に家業も引き継ぐことができない。
そう言えばいつも話だけで、私は何一つこの目で確かめたわけじゃないんだ。
Jの離婚も、ご両親の事業も、おばぁちゃんの認知症も。
私・・・だまされたのかなぁ・・・ 








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