2年前の8月17日に、親父のハウスボーイ時代での
坂本龍馬の隠し部屋話は出していたのですが、
お盆で帰省したときに話が聞けたので、
重複するかもしれませんが、
ハウスボーイ時代の話を紹介たいと思います。
本人は人生の中で一番楽しかった時期と言ってます。
長文になりますがお許しください。
太平洋戦争が終わって、長崎市には9月23日米軍が上陸。
貨物船やらLSTやらで押し寄せてきたそうで、
当時大浦に住んでいた親父の一家は両親と当時16才だった
長男の少年H(親父)だけ残っていて(他は島原に疎開)
終戦と同時に疎開先から戻ってくる予定でしたが、
進駐してきた米軍が女性に暴行を受けのではという懸念から、
長崎に戻るのは先延ばしになったそうです。
そんな時11月下旬頃、米軍のお世話のバイトあるけどどう?って話を同級生の友達から持ちかけられ、
H少年は友達と一緒に行ってみる事になりました。
ハウスボーイのバイトは朝の6時半から、
なのでバイトの初日は母親が朝ご飯にと、
食糧難の中、大切な黒い乾パンを一枚渡してくれたそうです。
(小麦粉が不足していたので海藻などいろんな物を混ぜて作ったので黒い乾パンになったそうです)
行ってみるとバイト先は何とグラバー亭。
そのグラバー邸には12人程の上級士官が寝泊まりしていて、
その人達の周りのお世話の仕事でした。
お掃除や片づけといった雑務から調理補助。
他にも数人バイトのハウスボーイ達が4人ほど、
ハウスボーイをまとめるリーダーは明治大学卒で英語がしゃべれる人。
米軍からの仕事の指示や注意はその人を通じて行われたそうです。
朝の仕事が一段落着いたのでリーダーから
「代用食だけど朝食にしましょう」ということになり、
H少年は代用食か…一応乾パンは持ってるけど、と思ったそうですが、
実際は真っ白な美味しそうなパンにあま~いジャム塗り放題…。
代用食というのは、和食では無いけど、という意味だったそう。
H少年と友人はパンに盛れるだけのジャムをたっぷり盛って食べたそうです。
当時の食料事情からすると天と地ほどの差、
今まで粗食だったH少年、
当然甘いジャムを食べ過ぎて胸焼けを起こし、辛い物が食べたくなったそうですが、
それを心得たリーダーは「水お飲んでおいで」と…。
指示通りにすると胸焼けもすっと収まったそうです。
どうやらハウスボーイ初日の食事に、ジャム取りすぎになるのは、
誰もが通る通過儀礼だったみたいです。
ハウスボーイとして仕事をするからには米兵に名前を知ってもらわないといけません。
アメリカ人調理担当のトゥジョー伍長は、H少年の名前を言おうしますが、
最初の「ほ」の文字が発音しづらいらしく、へ…へ…
すると、へ…ヘンリー。
なんとH少年の愛称は「ヘンリー」となりました。
この「ヘンリー」、
その後米兵はじめ他のハウスボーイ仲間からも呼ばれることとなったのでした。
長崎に進駐していたのは沖縄戦を戦った第二海兵師団だったそうです。
ハウスボーイをやっていて、少し前までは戦争相手だった米兵に、
憎みや復讐の思いみたいなのは無かったのか聞いてみたところ、
その類いの心理は全く起こらなかったそうです。
衣食住全てにおいて当時の日本より段違いの生活をしていたんですから、
それを目の当たりにし、そんな気は起こらなかったのでしょう。
当時からスケールが大きかった米軍。
大きな冷蔵庫は持ってくるは、
グラバー邸では各部屋に石油ストーブを用意するは、
日本人が人海戦術で行う土木工事を、
大きなブルドーザー持ってきて一気に済ませてしまうわ、
かなりのカルチャーショックで、
どうしてこんな所と戦争したの?勝てるわけない、って気持ちだったとか。
そんな米兵が聴いている音楽もジャズや女性の甘い声の曲。
士気高揚とはほど遠い、
戦争とはまったく関係ない、聴いたことがない音楽です。
なんだか必死に戦争していた日本と違い、
米軍に精神的余裕を感じたそうです。
グラバー邸専属の米軍調理人トゥジョー伍長が、
いろんな食事やデザートを作っていたそうですが、
12月24日は進駐している米軍でもクリスマスイブになり当然七面鳥を調理します。
トゥジョー伍長がら命じられ、巨大冷蔵庫から七面鳥を出す役目だったH少年、
七面鳥の頭に被せられていた帽子を気になったので外してみると…
恨めしそうな眼をした七面鳥と目が合ってゾッとしたとか。
その日H少年をはじめ、ハウスボーイのメンバーも運良く肉厚の七面鳥にありつけたそうで、
それはそれは、とにかく旨かったそうです。
ちなみにクリスマスだからみんなお祭り騒ぎだとおもっていたら、
ひっそりと過ごしていたそうで、拍子抜けしたそう。
毎日朝6時半からのバイトですが、ちゃんとバイトというだけあって、
日給5円だったそうです。
物価指数で計算するとその当時の5円は、今での約1,050円。
バイト代として考えるとかなり安く感じますが、
当時カルチャーショック受けるほどの良い物食べれたんですから、
安くても満足できる内容だったのではと思います。
そのうち簡単な調理も任せて貰うようになりました。
朝6時半からのバイトなので毎日朝食の準備をしないといけません。
毎朝卵料理を作る係も経験したらしいです。
殆どが目玉焼きなのですが1人はボイルドエッグだったり、
ゆで卵だったり、オムレツだったり、
目玉焼きはH 少年でも焼かせてもらえるようになりました。
焼き加減が細かく人それぞれ…
片面焼きだったり、両面しっかり焼きだったり、油をかけながら焼いたり、
火の通し方もいろいろで大変だったそうです。
米軍の調理人が料理を作るときはいつも大量に作っていたそうで、
酷いときはそううちの三分の一しか使わず、残りを廃棄したそう。
当時の日本の食糧事情でそんなことを見逃す訳にはいきません。
その食材はパイ生地だったそうなんですが、
H少年はそのパイ生地を捨てるふりして隠しておいて、
帰宅する時にこっそり風呂敷で包み持って帰るようにしたそうです。。
そうこうするとグラバー邸を管理にする担当のキーティン伍長と仲良くなったそうですが、
仲良くなったといえども相手は占領軍、占領下の少年に気を抜くことはありません。
キーティン伍長は、そろそろ帰宅しようかとハウスボーイ仲間と立ち話していた、
H少年の風呂敷包みを不審に思ったのか、風呂敷包をチョコンと蹴ったそうです。
すかさずH少年は「ランドリー」と一言。
米兵はフフン~。
これでスルーだったそう。
持って帰ったラードたっぷりのパイ生地ですいとんを作ってみんなに喜ばれたそうな。
ラードたっぷりなので動物性脂肪がたっぷりでそれは美味しかったそうです。
ハウスボーイがバイトのためグラバー亭に出入りするとき、
毎回チェックみたいな事が行われていたのかというと、
そんなことは殆ど無く、出入り自由だったみたいです。
ハウスボーイの認識票みたいなものも無かったそうなので、
なんだかほのぼのとして緊張感がそう無かったみたいですね。
ハウスボーイの仕事は毎日朝早く、帰りも遅くなりがちで、
そのうち誰からともなく布団を持ち込み、
グラバー亭の隣の空き家に寝泊まりしだしたそうです。
今その建物はグラバー園に行くと馬小屋と表示されているそう。
馬小屋として使っていたのは江戸時代末期だったのでしょうが、
臭くはなかったみたいです。
寝泊まりしだすと当然夜中にトイレに行きたくなったりします。
ある日、H少年が真っ暗な中トイレに行き、トイレから出ようとしたところ、
外から運悪く米兵の靴音。
通りすぎるまで待とうと思ったものの、
あまりの寒さに耐えきれず、トイレから出ると…
やっぱり米兵に見つかり、米兵はピストルを構えてH少年に向かって
英語でペラペラとまくし立てたそう。
ピストルを向けられたH少年は、
死ぬかもしれないと思いつつも「I am houseboy」と一言。
すると歩哨の米兵が「OH! GOMENASAI~」と解放されたそうですが、
生きた心地しなかったそうです。
でもハウスボーイと米兵の信頼関係みたいなものが感じ取れます。
H少年をはじめハウスボーイ達は遊びたい盛り。
ある日ハウスボーイ仲間の間で、
グラバー邸の屋根裏に坂本龍馬の隠し部屋があるという噂が立ち、
キッチンの横の柱をよじ登って、天井裏に通じる穴から覗いて見たそうです。
そこにはテーブルが1つと籐椅子が1つだけあったそう。
今でこそ有名になった、グラバーが坂本龍馬を隠すために天井裏に作った隠し部屋。
今から68年前に覗いていたんですね。
そんな楽しいハウスボーイ生活を謳歌していたH少年、
身体に吹き出物が出てき始めました。
気にはなるものの、ほっといていたそうです。
恐らくそれまで粗食だったH少年が急に高カロリー食品を食べるようになったからだと思われ、
ハウスボーイ生活が終わるとその吹き出物も消えていってしまったそう。
以前グラバー園の園長さんの招きで、
当時のハウスボーイのリーダーだった方と一緒にグラバー邸に招かれ、
園長さんとお話する機会があったそうですが、
グラバー邸のダイニングテーブルが伸び縮みする構造になっていて、
ハウスボーイ当時、テーブルの長さを変えて使っていたとお話ししたところ、
職員の方はそんな構造とは知らなかったそうで、
その他いろいろな、ハウスボーイにしか知り得ない情報をお伝えしたそうです。
坂本龍馬の隠し部屋話は出していたのですが、
お盆で帰省したときに話が聞けたので、
重複するかもしれませんが、
ハウスボーイ時代の話を紹介たいと思います。
本人は人生の中で一番楽しかった時期と言ってます。
長文になりますがお許しください。
太平洋戦争が終わって、長崎市には9月23日米軍が上陸。
貨物船やらLSTやらで押し寄せてきたそうで、
当時大浦に住んでいた親父の一家は両親と当時16才だった
長男の少年H(親父)だけ残っていて(他は島原に疎開)
終戦と同時に疎開先から戻ってくる予定でしたが、
進駐してきた米軍が女性に暴行を受けのではという懸念から、
長崎に戻るのは先延ばしになったそうです。
そんな時11月下旬頃、米軍のお世話のバイトあるけどどう?って話を同級生の友達から持ちかけられ、
H少年は友達と一緒に行ってみる事になりました。
ハウスボーイのバイトは朝の6時半から、
なのでバイトの初日は母親が朝ご飯にと、
食糧難の中、大切な黒い乾パンを一枚渡してくれたそうです。
(小麦粉が不足していたので海藻などいろんな物を混ぜて作ったので黒い乾パンになったそうです)
行ってみるとバイト先は何とグラバー亭。
そのグラバー邸には12人程の上級士官が寝泊まりしていて、
その人達の周りのお世話の仕事でした。
お掃除や片づけといった雑務から調理補助。
他にも数人バイトのハウスボーイ達が4人ほど、
ハウスボーイをまとめるリーダーは明治大学卒で英語がしゃべれる人。
米軍からの仕事の指示や注意はその人を通じて行われたそうです。
朝の仕事が一段落着いたのでリーダーから
「代用食だけど朝食にしましょう」ということになり、
H少年は代用食か…一応乾パンは持ってるけど、と思ったそうですが、
実際は真っ白な美味しそうなパンにあま~いジャム塗り放題…。
代用食というのは、和食では無いけど、という意味だったそう。
H少年と友人はパンに盛れるだけのジャムをたっぷり盛って食べたそうです。
当時の食料事情からすると天と地ほどの差、
今まで粗食だったH少年、
当然甘いジャムを食べ過ぎて胸焼けを起こし、辛い物が食べたくなったそうですが、
それを心得たリーダーは「水お飲んでおいで」と…。
指示通りにすると胸焼けもすっと収まったそうです。
どうやらハウスボーイ初日の食事に、ジャム取りすぎになるのは、
誰もが通る通過儀礼だったみたいです。
ハウスボーイとして仕事をするからには米兵に名前を知ってもらわないといけません。
アメリカ人調理担当のトゥジョー伍長は、H少年の名前を言おうしますが、
最初の「ほ」の文字が発音しづらいらしく、へ…へ…
すると、へ…ヘンリー。
なんとH少年の愛称は「ヘンリー」となりました。
この「ヘンリー」、
その後米兵はじめ他のハウスボーイ仲間からも呼ばれることとなったのでした。
長崎に進駐していたのは沖縄戦を戦った第二海兵師団だったそうです。
ハウスボーイをやっていて、少し前までは戦争相手だった米兵に、
憎みや復讐の思いみたいなのは無かったのか聞いてみたところ、
その類いの心理は全く起こらなかったそうです。
衣食住全てにおいて当時の日本より段違いの生活をしていたんですから、
それを目の当たりにし、そんな気は起こらなかったのでしょう。
当時からスケールが大きかった米軍。
大きな冷蔵庫は持ってくるは、
グラバー邸では各部屋に石油ストーブを用意するは、
日本人が人海戦術で行う土木工事を、
大きなブルドーザー持ってきて一気に済ませてしまうわ、
かなりのカルチャーショックで、
どうしてこんな所と戦争したの?勝てるわけない、って気持ちだったとか。
そんな米兵が聴いている音楽もジャズや女性の甘い声の曲。
士気高揚とはほど遠い、
戦争とはまったく関係ない、聴いたことがない音楽です。
なんだか必死に戦争していた日本と違い、
米軍に精神的余裕を感じたそうです。
グラバー邸専属の米軍調理人トゥジョー伍長が、
いろんな食事やデザートを作っていたそうですが、
12月24日は進駐している米軍でもクリスマスイブになり当然七面鳥を調理します。
トゥジョー伍長がら命じられ、巨大冷蔵庫から七面鳥を出す役目だったH少年、
七面鳥の頭に被せられていた帽子を気になったので外してみると…
恨めしそうな眼をした七面鳥と目が合ってゾッとしたとか。
その日H少年をはじめ、ハウスボーイのメンバーも運良く肉厚の七面鳥にありつけたそうで、
それはそれは、とにかく旨かったそうです。
ちなみにクリスマスだからみんなお祭り騒ぎだとおもっていたら、
ひっそりと過ごしていたそうで、拍子抜けしたそう。
毎日朝6時半からのバイトですが、ちゃんとバイトというだけあって、
日給5円だったそうです。
物価指数で計算するとその当時の5円は、今での約1,050円。
バイト代として考えるとかなり安く感じますが、
当時カルチャーショック受けるほどの良い物食べれたんですから、
安くても満足できる内容だったのではと思います。
そのうち簡単な調理も任せて貰うようになりました。
朝6時半からのバイトなので毎日朝食の準備をしないといけません。
毎朝卵料理を作る係も経験したらしいです。
殆どが目玉焼きなのですが1人はボイルドエッグだったり、
ゆで卵だったり、オムレツだったり、
目玉焼きはH 少年でも焼かせてもらえるようになりました。
焼き加減が細かく人それぞれ…
片面焼きだったり、両面しっかり焼きだったり、油をかけながら焼いたり、
火の通し方もいろいろで大変だったそうです。
米軍の調理人が料理を作るときはいつも大量に作っていたそうで、
酷いときはそううちの三分の一しか使わず、残りを廃棄したそう。
当時の日本の食糧事情でそんなことを見逃す訳にはいきません。
その食材はパイ生地だったそうなんですが、
H少年はそのパイ生地を捨てるふりして隠しておいて、
帰宅する時にこっそり風呂敷で包み持って帰るようにしたそうです。。
そうこうするとグラバー邸を管理にする担当のキーティン伍長と仲良くなったそうですが、
仲良くなったといえども相手は占領軍、占領下の少年に気を抜くことはありません。
キーティン伍長は、そろそろ帰宅しようかとハウスボーイ仲間と立ち話していた、
H少年の風呂敷包みを不審に思ったのか、風呂敷包をチョコンと蹴ったそうです。
すかさずH少年は「ランドリー」と一言。
米兵はフフン~。
これでスルーだったそう。
持って帰ったラードたっぷりのパイ生地ですいとんを作ってみんなに喜ばれたそうな。
ラードたっぷりなので動物性脂肪がたっぷりでそれは美味しかったそうです。
ハウスボーイがバイトのためグラバー亭に出入りするとき、
毎回チェックみたいな事が行われていたのかというと、
そんなことは殆ど無く、出入り自由だったみたいです。
ハウスボーイの認識票みたいなものも無かったそうなので、
なんだかほのぼのとして緊張感がそう無かったみたいですね。
ハウスボーイの仕事は毎日朝早く、帰りも遅くなりがちで、
そのうち誰からともなく布団を持ち込み、
グラバー亭の隣の空き家に寝泊まりしだしたそうです。
今その建物はグラバー園に行くと馬小屋と表示されているそう。
馬小屋として使っていたのは江戸時代末期だったのでしょうが、
臭くはなかったみたいです。
寝泊まりしだすと当然夜中にトイレに行きたくなったりします。
ある日、H少年が真っ暗な中トイレに行き、トイレから出ようとしたところ、
外から運悪く米兵の靴音。
通りすぎるまで待とうと思ったものの、
あまりの寒さに耐えきれず、トイレから出ると…
やっぱり米兵に見つかり、米兵はピストルを構えてH少年に向かって
英語でペラペラとまくし立てたそう。
ピストルを向けられたH少年は、
死ぬかもしれないと思いつつも「I am houseboy」と一言。
すると歩哨の米兵が「OH! GOMENASAI~」と解放されたそうですが、
生きた心地しなかったそうです。
でもハウスボーイと米兵の信頼関係みたいなものが感じ取れます。
H少年をはじめハウスボーイ達は遊びたい盛り。
ある日ハウスボーイ仲間の間で、
グラバー邸の屋根裏に坂本龍馬の隠し部屋があるという噂が立ち、
キッチンの横の柱をよじ登って、天井裏に通じる穴から覗いて見たそうです。
そこにはテーブルが1つと籐椅子が1つだけあったそう。
今でこそ有名になった、グラバーが坂本龍馬を隠すために天井裏に作った隠し部屋。
今から68年前に覗いていたんですね。
そんな楽しいハウスボーイ生活を謳歌していたH少年、
身体に吹き出物が出てき始めました。
気にはなるものの、ほっといていたそうです。
恐らくそれまで粗食だったH少年が急に高カロリー食品を食べるようになったからだと思われ、
ハウスボーイ生活が終わるとその吹き出物も消えていってしまったそう。
以前グラバー園の園長さんの招きで、
当時のハウスボーイのリーダーだった方と一緒にグラバー邸に招かれ、
園長さんとお話する機会があったそうですが、
グラバー邸のダイニングテーブルが伸び縮みする構造になっていて、
ハウスボーイ当時、テーブルの長さを変えて使っていたとお話ししたところ、
職員の方はそんな構造とは知らなかったそうで、
その他いろいろな、ハウスボーイにしか知り得ない情報をお伝えしたそうです。