観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

マレーシアで見た二つの「二つの世界」

2013-07-01 10:24:02 | 13.6
教授 高槻成紀

わずか10日ばかりではあったが、マレーシアの滞在は多くのことを見る機会になった。たいへんたくさんあるのだが、思いきって2つだけに絞ることにする。

<二つの世界:今と昔?>
 わずか数年前まで、海外調査というのは、日本の日常から「おさらば」することだった。成田から飛行機に乗ったときに感じる「さあ、これからしばらく電話も、メールも来ない。調査のことだけ考えればいいんだ。」というあの解放感はなんともいえないものだった。現にモンゴルの草原で調査をする毎日は文字通り日本からは何の連絡もなかった。あるはずもなかった。
 だが、今や少なくとも都市にもどればインターネットが使えて、連絡がとれて「しまう」。よいような悪いような気分だ。私の中では「ついていけない」感があることのひとつだ。
 東南アジアの経験は限られるが、タイやベトナムにはわりあい最近も行った。アジアの猥雑さがあり、昭和も戦後の空気につながるものがある。不潔さや不便さに「困ったものだ」といいながら、私の中にはほっとするような気持ちもある。マレーシアもそういう国だと勝手に思っていた。ところが道路のすごさに驚かされた。飛行場からクアラルンプールまではそうだろうと思っていたのだが、我々野生動物研究者はそこから田舎に出かけるのがつねである。そうすると急に道路が悪くなって「馬脚」があらわになるものだが、マレーシアではどこまで行っても立派な高速道路が続き、その料金所も休憩所もたいへん立派だし、アジア的「ごみ」がない。「あれれ?」という感じだ。そして日本で「ついていけない」感があるスマホの利用も日本と変わらないか、むしろもっと進んでいるようだった。電波の圏外は国境付近までなかった。
 調査用にフィールドステーションとして借りているアパートもたいへん立派で、もちろんネット環境も申し分ない。そうした中で調査に出かけた。アジアゾウの糞を採集するためだ。我々を受け入れてくれたチームは2週間おきに塩場(塩を含む場所で動物が舐めにくる)を訪問して、自動撮影カメラの電池を取り替え、カードを回収している。すばらしい映像がとれている。そのチームに同行してもらった。成果はまずまずだったのだが、書きたいのはそのことではない。調査のために現地の山中に宿泊したのだが、それは先住民の集落だった。先住民という呼び方は地元の研究者がindigenousといっていたからで、別の人は原住民(aboriginal)ともいっていた。いずれにしても微妙な表現だ。というのもマレーシアはそもそも多民族国家で、そのときに「多民族」というのは中国系、インド系、アラブ系などで、違いはあるが、それぞれに色々だという感じだが、先住民とか原住民というときは、それとはレベルが違うという響きがある。ともかく私たちはそういう集落に泊まることになった。その集落の幼稚園といわれていたが、公民館のようなもののようだった。高床式の板間の建物だった。人々が住んでいるのは竹とヤシで作った簡素な家だ。そこには子供たちがたくさんいて仲良く遊んでいた。マイケル÷ジャクソンが子供だった頃に髪を丸くしたヘアスタイルが流行ったことがあるが、ああいう髪をした子供たちがいて実にかわいらしかった。違う年齢の子供たちが追いかけっこをしたり、じゃれあったりして、そこに犬の群れも混じって遊んでいた。朝から晩までそうしているようで、太陽が高くなって暑くなると、目の前にある川に飛び込んで遊んでいた。ヤムイモなどを作るくらいで穀類は作っていないようだった。魚釣りもしていた。



 日本は社会の発達が遅かった国のひとつだが、それでも2000年くらい前には農業を始めていた。この人たちはそれからさらに数千年くらい前の日本人の生活をしているはずだ。中国あたりとくらべると1万年くらい違うかもしれない。「なつかしい」どころではない。
 そこで3日過ごして船で2時間、車で半時間も走ればネット環境のあるフィールドステーションに戻ってしまった。これはどうにもことばで表現しにくいギャップだった。たまたま飛行機でジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」(その物語の始めはこの人たちと同じ系統のニューギニアの人たちとの話から始まり、マレー半島のことも詳しく出てくる)を読み終えたところだったので、よけいに生々しい印象を受けたし、子供たちの将来のことが思われた。

<二つの世界:東西>
 もうひとつは調査員たちの意識と態度のことである。私は麻布大学に来る前に東大で大学院生を指導しており、何人かの留学生を指導した。私は戦後しばらく生まれで、私の親世代は戦争体験者で、満州にいた。民間人ではあったが、大陸に侵略したことになる。私が最初に指導した留学生はその満州から来た人だった。そして自分がモンゴルに行き、スリランカの留学生を迎えるなどする過程で、親の世代とは違い、自分たちは平和な時代に育ったのだから、研究活動を通じてアジアの若者を育て、彼らの母国に役立ちたいという夢のような気持ちが生まれてきた。その夢の実現が実感された瞬間が何回かあった。
 スペインから留学してきたアイムサさんもその一人で、彼はスリランカでアジアゾウの研究をし、今はマレーシアの大学の准教授になって大きなプロジェクトをリードしている。そのプロジェクトに研究室の山本さん(修士2年)が参加することになった。そういう意味では山本さんは私の弟子でもあり、「孫弟子」でもあるといえるかもしれない。熱帯林をマレーシア、イギリス、スペイン、スウエーデン、日本の若者と歩き、そのあとアイムサさんと相談したときに、自分の夢が実現できていると感じることができた。
 その調査に参加した若者たちには、院生もいたし、これから大学院に入る人もいた。いずれもゾウの研究に打ち込んでおり、目が輝いていた。日常生活も責任感があり、チームスピリットにあふれていた。私は日本の学生との違いを思わないではいられなかった。



 実はほんの少し前に学生と自主性について話をしたことがあった。私は、大学生は研究に対して自主的でなければならないと主張し続けている。当然のことである。だが、この数年、そのことが通じないという感じが強くなっている。ある学生にとって、自主性というのは「研究活動に参加しなくてもいい」という意味であるというのである。開いた口がふさがらない。日本の大学はここまで来てしまったのだ。
 私はアメリカに一年ほど過ごしたことがあるので、アメリカの学生が自主的であることを多少知っている。その後、国際学会などでヨーロッパの学生と話をする機会があり、「やはり」と感じることが多かった。そして、「これは東西の違いだろう」と思い、自分の責任も感じつつ、日本の教育体制の結果だと思ってきた。そのときの日本はアジアという意味だった。
 だが、今回感じたのはそれがまったく違うということだった。マレーシアの若者たちはヨーロッパの若者と同格かあるいはそれを上回る配慮を見せていた。体力もそうだが、研究に対する情熱と意識の高さがすばらしかった。違いは洋の東西にあるのではなく、日本の学生だけが違うのかもしれないらしいのだ。これはえらいことだと思った。

 このほかにも、熱帯林で見たこと、マレーシアで食べた中華料理のこと、ネットのおかげで30年ぶりの旧友に会うことができかことなど、盛りだくさんの書いておきたい体験をしたのだが、この二つは衝撃的ともいえるものだった。

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