ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

ヌーサ5回目・ゴールドコースト行:ヌーサファーマーズマーケット再訪

2020年05月16日 | オーストラリア:ヌーサ・サンシャインコースト

2018年6月のヌーサは
5回目とあって話が早い
2本目でもう2日目です(笑)


この日は狙っていた日曜日。

相当クルマが停まっていて


ワンコがダメな場所とは



ヌーサファーマーズマーケット

ヌーサに来るときは
必ず日曜日を挟もう

前回、心に決めたほど
気に入っていました


こんな場所でいつも食材が
買える人たちが羨ましい。



鮮度や種類、オーガニック度
が全然違います。

見るだけで元気が出そうな色


ヌーサは部屋食が多いので
旅行の始めに食材確保

バナナ専門店でバナナも。
オーストラリア産バナナ


サトウキビジュース専門店

この辺は必ず立ち寄りたい


コーヒー



食べ物のブースもたくさんあり

食べ歩きにももってこいです。


シンプルメニューですが

ポテトが絶対美味しそう。


高い木の上からハラハラ
ハラハラ花が落ちてくる

と思ったら、


この方がお食事中

どうしてここまで派手という


ゴシキセイガイインコ
レインボーロリキート

この嘴じゃ蜜を吸うという
ことはできないようで、


花や実をボリボリ食べるので
カスがハラハラ落ちてきます。



マーケットの隣は楕円の球場
オージールールズという
オーストラリアだけで大人気
のタフで危険だけれど最高に
おもしろいスポーツの球場



ここはヌーサタイガース
の本拠地。寅年なので



子どもたちが試合中でした。

いろいろな体型の子が一緒に
プレーするのはラグビーと同じ。
この年齢でも男女混成は驚き
女の子のタフさの証明ですね。


ウマい~



審判も女の子



同じポジションだと



同じ体型



どのスポーツでも週末にこんな
グランドを走り回っていたら
心身ともに健康に過ごせそう



この日は大雨が降りました。

個人的に好きなリゾートの雨


ソーセージの中で一番好きな
マーケットで買ってきた
トゥールーズソーセージ



日本語で腸詰というのが
納得できるこの姿(笑)

美味しい夕食になりました


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ヌーサ5回目・ゴールドコースト行:ヌーサの子にチェックイン

2020年05月15日 | オーストラリア:ヌーサ・サンシャインコースト

2018年5月のアデレードの後
6月にクイーンズランド州は
ヌーサとゴールドコースト
に行っていたというのを
写真を見て思い出しました💦


ヌーサは投資物件ヌーサの子
の引き渡し
で2017年11月に
行って以来7ヵ月ぶりでした。


オーストラリアきっての観光地
ゴールドコーストは初めて
ブリスベンを挟んで北と南。
夫の運転でススイのスイ
全8泊9日の行程でした。


出発前夜にスーツケースの上
ふて寝する飼い猫クロ




その次の写真がコレだった
のには自分でも大笑い。

5回目となるとこの端折り方💦


ブリスベン空港からクルマ
で2時間近くかけて行った
ヌーサ郊外の土曜日開催の
ユーマンディマーケットに
あるチベット料理モモの店

初めて行った時に見つけて
今回もすかさずゲット


とりあえずこんなランチに。

夫はケバブ、私はトムヤム
でもエビは入っていません


なぜならビーガンフードだから。

まったくビーガンではないのに


前に頼んだラップが美味しくて

またここに。メニューも同じ。
(※写真は以前の。手作りの
布の暖簾がステキだったのに)


夫はここのジンジャービア
が大好きで必ず注文します。

オーナーがいい味出してます


ドーナツはテッパンの人気



似顔絵屋



ここはアルチザン・マーケットと
銘打って、すべてが手作りである
ことが出店条件なので、食べ物
からクラフトや思いがけない物
まで600店舗以上が出店してます。

鯉のぼりを飾った盆栽屋


外には地元のちょいワルおやじ
のたまり場らしいホテルのバー



インペリアルホテルという
名前からして古色蒼然(笑)

いつもスゴい数のバイク


再び写真は飛んでコレに

ここはヌーサのベルモンドス
というオーガニックショップの
ビーガンフード、バニラフード
またまたビーガンですが、私の
ヌーサでのソウルフードです


スーパーのコールスに立ち寄って

(※冬でもアボカドが安い)


エビ、チーズ、



水の三点セットを買って



ただいま~

ヌーサの子にチェックイン


オールブラックスの試合
に間に合いました

(※NZの試合だったので
現地より2時間早い時間)


ラウマペのトライに



バレットのキック



滞在は部屋食でスタート



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夢見:流された箱舟

2020年05月14日 | 浅き夢見し
「私」はリゾートらしい広々
としたホテルの1室にいます。


正面と左側が開いていて、
それぞれが海に面している
広い横長の角部屋でした。


「私」は1人で所在なげに
パラパラと雑誌をめくって
いますが、読んでいるわけ
ではなく待っていました。


何を待っているかというと
海にいる次男を待っている
ところで、なかなか戻って
来ないのに痺れを切らして
顔を上げると、次男は正面
の海で1人で遊んでいます。


ハッとして左を見ると、次男
が乗っていた箱型の小さな舟
が流されていくところでした。


小舟には誰も乗っておらず、
風呂桶のような大きさと形。


次男は野外授業で舟の操作
を習っていて、「私」は親
として付き添っていました。


慌てて左側から飛び出すと
スキューバダイビングの恰好
をした数人のグループがいて
「舟が流されたの。助けて!」
というと、彼らは首を振り、
「ボクたちは潜る方だから」
と意に介してくれません。


舟は次男のいる方角に流れ、
大声で次男を呼ぶものの
沖合を通り過ぎていき、
回収できる状態ではなく
「どうしよう、先生の舟が💦」
と、「私」の緊張はMAXに


講習の前に先生が自慢気に、
「この舟は珍しい3人乗りの
箱型で中で立っていられる」
と、いかに貴重な舟かという
ことを説明していました。


次男は水の中で肩をすぼませ
「仕方ない」
という仕草をとっていて、
呆然としながらふと見た時計
はチェックアウトの時間を
20分もすぎており、「私」は
さらに混乱してきました。


=============


久々の夢日記です。連載終了の
後にしたので見たのは数日前。


前回の夢日記がコレだったので
なんと2020年で初めて。しかも
前回も次男と一緒でした(笑)


今はコロナの関係でイギリス
から戻っている本人と同居中。



緊張感であまり目覚めのいい
夢ではなかったものの(笑)💦
はっきりした夢を見たり、
それを覚えているというのは
睡眠で脳がしっかり休んだ
証明のような気がしており、
内容は追及せず記録だけ
続けようと思っています
(↑単なる記録魔なのかも)


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アデレード行備忘録:2018年5月

2020年05月13日 | 海外:オーストラリア備忘録
ありえない新記録樹立
5泊6日の初アデレードが
まさかの旅行記44本に💦


これは2017年3~4月の
人生初ハワイに並ぶ本数。


「この記録が今後破られる
ことがある?ヨーロッパ
でも行かないとムリ?」
とハワイ旅行記後に言って
ましたが、翌年にお隣の
オーストラリアで、しかも
オークランドよりも小さい
アデレードであっさり達成
書いている自分も驚き


ハワイは10泊11日だったので
アデレードは半分の滞在期間
で同じ本数になりました。


ハワイの44本は1年がかりで、
今回は5ヵ月がかりだから
ちょっとは進歩したのか(笑)


44本、写真付きでいってみよ~


ブタのお出かけ

最初に出会ったのはブタでした。


ブタの次はカエル

しかもこの日はカエルの誕生日


アデレード中央市場

今まで行ったことのある市場
の中で一番のお気に入りに


20分シティー

あだ名のとおりどこへでも
歩いて行けそうな街


下見の成果

さっそく舞い戻って朝食


進化し続けるアデレード駅

駅にカジノはビックリ
まだまだ進化るする駅


アデレードオーバル

いつか試合が観てみたい


ノーステラス

建物を見ているだけでも
観光になりそうな通り


南オーストラリア博物館

1回では観きれない充実度


アデレードでメラネシア

まずは南太平洋系から


盗まれた世代

初めて知るアボリジナル画家


「白人」になるために

鮮やかな色彩と過酷な史実


裸足の1500マイル

数々のシーンが思い出され


世代を超えて

来し方を知るだけでなく、
行く末に伝えていかないと


無主の地

「無主の地」の先住民


多民族社会の底力

社会の一部に


コス 18リー

キウイシェフの店でした


雨のハーンドルフ

大雨の中ドイツ村へ


ハーンドルフアカデミー

雨宿りで飛び込んだ場所


ハーンドルフアカデミー博物館

なぜオーストラリアにドイツ村?


ベトナム料理ファーメントアジアン

ワインの名産地でアジア料理


誤字から始まったバロッサ

スペイン語名のドイツ村


バロッサ博物館

バロッサの生き証人


忘れえぬ光景の中で

被害者か加害者か?!


ファームショップとメイキッチン

ぜひ再訪したいベトナム料理


19世紀の幻クラレンドン

1軒のパン屋から始まった日


ウィランガ・ウォークス

起点はここから


ポートノアランガとマウントロフティー

初の野生ワラビーに遭遇


アデレードの不動産王

この看板があちこちに


週末に出遅れて

まさかの韓国料理


ルイジ・デリカテッセン

粋な不親切


青果市場の今昔

青果市場跡の思わぬ展開


まさかの四都物語

観光客から投資家へ


移住博物館の特別展

舞い戻った移住博物館


一等地のシムチョン家

観たかったのはコレ


初の中華系セレブ

インスタ映え姉妹


兄弟の骨肉の争い

女性週刊誌が飛びつきそう(笑)


白豪主義の下で

差別と憧憬と


60年の栄光の歴史

移民史に残る女性実業家


姓は陳

ナゾが解けた


イーストエンドLOVE

やっぱりイーストエンド


オルセー美術館の印象派展

アデレードで印象派


ジョージス・オン・ウェイマス

最後の晩餐


アデレードの子

初アデレードの顛末


ロックダウンに助けられて(笑)
やーっと完了です
飛び飛び5ヵ月間のお付き合い
ありがとうございました


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アデレード行:アデレードの子

2020年05月12日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の初アデレード
もとうとう最終日に



ズバリ気に入りました



また来ます



オールド&ニューが心の
琴線に触れるバランスで



メルボルンの乱開発ぶりが
記憶に生々しかったせいか
この出会いは嬉しかった



ホテルは便利な立地でした。



次回も下見か?
それとも契約か?


と思っていたら、どちら
でもありませんでした


事の顛末はメルマガにしたの
ですが、土地勘ができたので
ネットで物件を見ているうち
に、理想のホテルに出会い


夫の奔走で帰国してから
約2週間でホテルの1室購入

契約も引き渡しもすべて電話
郵便、メールで終えました。


その部屋は「アデレードの子」
と呼んで今でも大事にしている
どころか絶賛ローン返済中💦


テレビでオージールールズを
観て夫婦でめちゃ気に入り
ぜひいつか生観戦したい



といろいろな思いを抱いて
タクシーで空港へ



アデレードにはNZ航空の
ラウンジがないのは残念💦

気のせいか寂しげに見える
カンタスラウンジ


見慣れない小さな国内線飛行機



でもラウンジとコーヒーが
あるのは助かりました

2年前の旅が無事終了(笑)



今はコロナのロックダウンで
アデレードの子はほぼ休業中
でもローンの返済や管理費、
固定資産税の納税は続き、
がんばらないと~
(※他のホテル投資も同じ状況)


ジョージス・オン・ウェイマス
のサイトに行ったら、ロック
ダウン中でテイクアウトのみに。

後になればいい思い出でしょう
から、思わず記念にパチリ


1日も早く平常の生活に戻り
また再訪できますように


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アデレード行:ジョージス・オン・ウェイマス

2020年05月11日 | オーストラリア:アデレード

今や丸2年前となった
2018年5月の初アデレード


5泊6日の充実した旅の最後は
ウェイマスストリートの
ジョージス・オン・ウェイマス



最後の夜らしく大人仕上げ

同年配っぽいカップルが
何組もいましたっけ(笑)


けっこう広い店でしたが

混んでいて写真はこれだけ。


地中海料理をベースにした
店なのでシーフード尽くし

エビはクイーンズランド。
多分ムール―ラバの(笑)


オイスターはコフィンベイ



NZやオーストラリアでは
非常~に珍しいタコ



私はメインもエビにして
イカ墨パスタ



夫は「今日のお魚」

もちろんなんだか忘れました💦


2人の大大好物

芽キャベツ


デザートはリンゴのタルト



本当に充実した5日間で
三大都市よりもはるかに
気に入った第4都の都市
(※人口や経済では5番目)

なんとしてもまたここ
に戻って来よう



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アデレード行:オルセー美術館の印象派展

2020年05月10日 | オーストラリア:アデレード

初アデレードの最終日。
もう少しイーストエンド散策
続けたかったものの時間切れ💦


これがあったんです

南オーストラリア州立美術館


オルセー美術館の印象派展

行って垂れ幕を見るまで開催
を知らず「ぜひ滞在中に
と心に決めていましたが、


入場制限になる人気ぶりで
この時間帯がラストチャンス

ガチで観ちゃう方なので
博物館のハシゴは体力勝負


でも見逃せませんでした

シスレー、ピサロ、モネ
が一緒に観れちゃう贅沢


私の中で印象派といえば、
チューブ入り絵の具の開発
でイーゼルやキャンバスを
持って戸外制作を始めた、

画家のイメージの原点の
ような自由人たち


アトリエではなく外で描く

という自由の息吹を感じる
ような空や水の青と緑。


セザンヌの

「レスタックから見たマルセイユ湾」
(↑日本語名調べましたよ~笑)


ルノワールが描いたモネ

19世紀に入ってさまざまな
化学顔料が発売されたことで
色の種類や鮮やかさが増し、
モネのパレットの顔料の色は
印象派が多用したものだそう。


青や緑の後はピンクや紫が
加わって温かい色使いに。

モネの「ポール=ヴィレのセーヌ河」


新印象派の点描画。美術の
教科書にもあった夭折した
スーラではなく、弟子の
シニャックの作品群

これも温かな色使い
点々が大きめ(笑)


線や輪郭の代わりにどれだけ
の点々で描かれているのか



そしてこの印象派展の主役

モネの「睡蓮の池、バラ色の調和」


池の水面とは思えないほど深く
多彩な赤。モネの睡蓮といえば
オランジュリー美術館の明るく
大きく曲線のイメージしかなく、
こうした小品の積み重ねが大作
に昇華していったのでしょうか。


ギュスターヴ・カイユボット
「屋根の眺め(雪の効果)」
印象派が雪に注目していた
白の時代の作品だそう。

80年代のフランス留学は1月
に始まったせいか、私のパリ
の原風景は冬景色で、30年
前の記憶が一気に蘇るようで
思わず足が止まりました。


印象派がジャポネズリーにいかに
影響を受けたかが浮世絵とともに
展示してくれることで実感でき、



これが



こうなる


モネの「かささぎ」
雪というモチーフや青の使い方
左右非対称の構図に影響が見ら
れるのだそうです。


漠然とした白銀の世界の焦点の
ようにポツンと止まるマグパイ

今回一番心惹かれた作品


めくるめく色の洪水の後の
心が清められるような白と
寒々しくも凛とした青

静寂が広がる空間でした。


旅の最後の珠玉のひと時

思い出が3割増しに(笑)


帰ってからヌーサの不動産購入
でお世話になった不動産屋夫婦
もほぼ同時期にこの印象派展を
観にアデレードに来ていたこと
を知って、お互いビックリ


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アデレード行:イーストエンドLOVE

2020年05月09日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の5泊6日の
初アデレード旅行記


思いがけずシムチョン家
7本になり、まさかの41本目


これまでの最高が初ハワイの
44本
なので、それに迫る
というありえない展開に(笑)



「博物館参観は体力が要る」
と宣言していますが、今回も
ヘトヘトのヘロヘロになって

移住博物館を後にしました。


あちこち掘り返していて



工事現場のような道を通り



やって来たのはカフェ



こういう1杯は格別だし
本当に美味しいコーヒー



フェリチ・エスプレッソバー

ランドルストリートの261番地で


ミス・グラディス・シムチョン

235A 番地なのでまぁ目と鼻の先。
20分シティーは何でも近くて便利。


ナッツやフルーツぎっしりで
疲れた身体がホッとしました。



「多肉

とアガったものの造花でした💦


元気を挽回し夫を引っ張って
すっかり気に入ってしまった
イーストエンド勝手下見会(笑)



まさかの四都物語となり
視線は観光客から投資家に
イーストエンドがどこから
どこまでも知らないまま


目星をつけたホテルに入って
みたり、話を聞いてみたり。

勢いはあっても時間がなく
超早歩きの下見会でした


ちなみにイーストエンドは
境界線がなく青果市場跡地

イーストエンドマーケットを
中心に、ノーステラス
イーストテラス、パルトニー
とフリンダースストリートを
囲んだエリアを指すようです。


最終日ともなると忙しく、
さて次へ

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アデレード行:姓は陳

2020年05月08日 | オーストラリア:アデレード

20世紀前半のアデレードで
白豪主義下にもかかわらず
地元の名家に昇りつめた
シムチョン家



その名前を知った時から
「なんでシムチョン?」
と疑問を持ち、中国人姓
らしからぬ2文字の姓に
興味を抱いていましたが


「コレだったのか

姓陳


オーストラリアに到着した
陳某が入国時に、
"Your name?"
(名前は?)
"姓陳"
(姓は陳)
と答えて、名前そのものが
姓陳(シムチョン)に決定
適当な音訳でSymChoon

という展開だったのか?


"姓は陳"の後に"名は〇〇"
と続いていたはずなのに
名前部分は省略されたのか
初代はジョン・シムチョン
と英語名を名乗りました。


これって、日本人だったら
"姓は佐藤、名は・・・"
というところでSEIWASATO
という名前になってしまい、
ジョン・セイワサトさんと
して生涯を送るようなもの


かつての第1世代は少しで
も早く生活を軌道に乗せ、
できるだけ摩擦や差別を
かわして現地に溶け込む
ために、英語名を名乗る
傾向がありました。


世間と接点が少なかった
のか妻ソーユンムーンは
生涯中国語名で通しました。


次男ゴードンの店の名称は
ゴードン・S・チョンでした。

(チョンの後のSは屋号代わり)


これは姓と名の間のSがなく、
ただゴードン・チョンになり

一家の本来の姓が陳なのが
よくわかります。


NZでかつて会った高齢女性が
アグネス・チャンワイという
ちょっとアジア系の外見と
変わった姓だったのに興味を
持ち、由来を聞いてみました。


彼女によると祖父が中国人で
入国の際にリン・チャンワイ
と名乗ると、西洋風に後の名
が姓として登記されました。


姓はリン(林)だと告げても、
「姓が先で名前が後なんて
そんな変な名前はない。」
と否定され、祖父の姓は
チャンワイになりました。


マオリ女性と結婚して、
一家はチャンワイ家となり、
彼女も姓を引き継ぎました。


アグネスの祖父が来たのも
年齢からして19世紀末から
20世紀初だったことでしょう。
当時の中華系が置かれていた
立場を象徴するような話です。


お客の誰1人として読めず
異国趣味の飾りでしかない
漢字で記された“姓陳”



差別を受け続けた第1世代を
親に持ち、白豪主義を標榜
する国に生まれ、入国時の
言語テスト免除証明書
持ち歩いていた第2世代は
どんな思いで、

姓陳と名乗っていたのか?


ゴードン・チョンという
表記にその答えの片鱗を
見い出した気がしました。


シムチョン家物語
はこれで終了します。


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アデレード行:60年の栄光の歴史

2020年05月07日 | オーストラリア:アデレード

1926年に姉妹で始めた
中華雑貨やギフトを売る
チャイナギフト・ストア

大人気となったものの


4年で長女ドロシーが結婚。



姉がシドニーに転居した後も
グラディスは1人で2店の経営
を続け、アデレード初の女性
実業家と目されています。


ドロシーが結婚した時の
グラディスは弱冠25歳



1939年には自身も結婚し

夫が拠点とするタスマニア
に引っ越していきました。


彼女がスゴかったのは、
転居後も遠隔で店の経営を
継続したことです


リージェントアーケードの
2号店は50年代に閉店。

(※今でも現役のアーケード)


1979年に引退し娘のメイリン
が引き継いだ時グラディスは
御年74歳でした。


苦労した第一世代の背中を
見ながら育った第二世代。


英語も西洋の教育も教養も
身に着け、商品の買い付け
に海外出張を繰り返し、
白豪主義の差別の中でも
弛まぬ努力と優れた商才で
ビジネスを成功に導いた

アデレード移民史に
末永く名を残す才女


メイリンは1985年に店を閉め、
チャイナギフト・ストアは60年
の栄光の歴史に幕を閉じました。


今は血縁ではない男性2人が
ミス・グラディス・シムチョン
という名でブティックを経営

今でもグラディスの名前は地元の
ファッションアイコンのよう。


店はビクトリアン建築に奇抜な
真っ赤で非常に目立ちます

(※写真はグーグルから)


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アデレード行:白豪主義の下で

2020年05月06日 | オーストラリア:アデレード

国勢調査によれば1891年に
男性357人、女性6人だった
南オーストラリア州の中国
人移民は、1921年調査では
251人に減少しています。


減少の最大の理由は白豪
主義の法的根拠となった
1901年の移住制限法でした。


それまでばらばらの植民地
だったオーストラリアは
1901年に連邦政府を構成する
1つの国となり、白豪主義は
連邦政府の重要課題でした。



移住制限法は白人最優先主義
とそれに基づく非白人、特に
中国人排除を正当化した法律
で、1973年の移民法成立まで
70年以上続いた悪名高い人種
差別政策の基本法でした。


具体的には移民がわからない
ヨーロッパ言語のテストを
受けさせ、答えられないこと
を理由に入国を拒否するもの。

スウェーデン語やハンガリー語
といったまず答えられない言語
を課すというものでした。
(※この話はコチラでも)


すでに国内に居住していた
中国人はこのテストを免除
される証明書を申請する
ことができました。

有効期間は1年で更新可能


逆に言えば、居住者どころか
オーストラリア生まれでも
証明がなければテストを課さ
れ入国を拒否されたのです。


このポスターの前では思わず
足も息も止まるようでした。

モデルはシムチョン家長女
ドロシー。1921年に言語
テストの免除申請のために
正式に撮影された写真です。


同年に父ジョン・シムチョン
も免除申請をしているので、
中国や香港への買い付けが
欠かせない家業のために
家族数人で申請したもよう。


これは地元アーティストの
ピーター・ドリューが2016年
に発表したパブリックアート。
白豪主義政策からの免除を
申請した人々の連作だそう。


戸惑ったような憂いを秘め
た表情が彼女の立場を代弁
しているようで奥深いです。


オーストラリア人を意味する
AUSSIE
とだけ書かれ、彼女もまた
オーストラリア人だという
静かで断固とした主張。


シムチョンの店で買い物をし
姉妹の華やかな暮らしぶりに
憧れていた客や市民の中にも
白豪主義を支援する人たちが
大勢いた事は否定できません。



オーストラリア人とは誰か?

移民としてNZ国籍を選んだ
私にとっても永遠の問いです。


コメント (2)
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アデレード行:兄弟の骨肉の争い

2020年05月05日 | オーストラリア:アデレード

アデレードで大成功した
中華系移民のシムチョン家



姉妹が仲良く華やかに
事業で成功し、地元セレブ

として名を馳せる一方で、
兄弟の間では骨肉の争い
が展開していました。


1901年生まれの長男ジョージ



1910年生まれの次男ゴードン




ゴードンは弱冠19歳の1929年に
ランドルストリートと交差する
ユニオンストリートに店を買い

ジョージが継いだ家業と同じ
ナッツや中国茶、花火を売る
ゴードンSチョン・ナッツという
事業を始め兄弟はライバルに


ゴードンの店の包装紙

住所がランドルストリートに
なっているので、後にメイン
ストリートに返り咲いたよう


二代目になりマーケティング
もブランディングも高度に。




問題はこれにとどまりません。


1930年に母ソーユンムーンが
ジョージの嫁にとパースの中国人
家庭からリリー・セットという
若い女性を呼び寄せると、
リリーはあろうことか秘密裏に
ゴードンと結婚してしまいます。


女性週刊誌が飛びつきそうな
中華系セレブのゴシップ(笑)
兄弟の確執は2人が亡くなる
まで止むことはなかったそう。

(※ゴードンと姉グラディス
店の販促用写真だそう)


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アデレード行:初の中華系セレブ

2020年05月04日 | オーストラリア:アデレード

南オーストラリアで生まれ
育ち、英語も中国語も操り
中国人移民第2世代として
1920年代にそれぞれの
事業で花開いたシムチョン家
の2兄弟と2姉妹の4人


1921年の国勢調査によれば
南オーストラリア州の中国人
はわずか251人だったといい
シムチョン家の存在と成功は
突出したものだったよう。


特にドロシーとグラディスは
チャイナギフト・ストア
成功で一躍街のセレブとなり
2人の結婚は母ソーユンムーン
が新聞に公告を載せる事態で
いずれも何百人もの見物人が
通りを埋める騒ぎだったそう。


1930年に長女ドロシー結婚
流行の最先端だったであろう
アールデコの豪華なドレス

「西洋の結婚に東洋の風習を
フォトジェニックに持ち込み
独特で魅力あふれる」
と地元紙が評した結婚式
今で言えばインスタ映え(笑)


1939年にグラディス結婚


一般の人が何百人と参列
した盛大な式だったよう。


結婚式でグラディスが
まとったアクセサリー

レースでくるんだ馬蹄
はイギリスの結婚式で
する幸運の象徴だとか。


これはぐっと時代が下がり
第二次大戦後の1954年に
エリザベス女王が訪豪し、

(※チャイナドレスで跪く
のがグラディスか?)


その舞踏会でグラディスが
履いたシルクのシューズ。



文化大革命直後の80年代
前半の中国の外国人向け
友誼商店にはこんなの
普通にあったような(笑)
(↑初訪中してました)


「今や博物館の展示物
と違う視点から感無量


姉妹が仲良く華やかに
成功する陰で兄弟の間
には骨肉の争いが


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アデレード行:一等地のシムチョン家

2020年05月03日 | オーストラリア:アデレード

このブログに限っては
前科があるので止まっては
イケナイのにまた止まって
しまい、失礼しました💦


4月の仕事が終わったので
「5月の仕事はどうする?」
というのはさておき再開


=============


アデレードで大成功を収めた
シムチョン家の第一世代
シムチョンと妻ソーユンムーン
で、2人は1891年に広東省から
移住してきました。
(↑ググったら出生地判明)


当時の南オーストラリアは
中国生まれの男性357人に
対し、女性わずか6人という
対比で、ソーユンムーンは
中国人女性移民のパイオニア
だったと言えそうです。


2人は4人の子どもに恵まれ、
オーストラリア生まれの4人は
それぞれのビジネスで開花し、
一家はアデレードの名家として
その名を知られていくものの
白豪主義にも翻弄されます。


右から長男ジョージ(1901年生)
ソーユンムーン
長女ドロシー(1904年生)



次女グラディス(1905年生)



次男ゴードン(1910年生)



一家はアデレードの目抜き通り
ランドルストリートに住み、
1906年から青果やナッツ類、
中国雑貨や花火を売る事業を
始め、投石などの嫌がらせを
受けながらも成功しました。

(※1909年。今も昔も一等地)


1924年にジョージは事業の
高級化路線、リブランド化
に乗り出し、中国のお茶や
雑貨販売に力を入れます。

(※大人気だった花火販売)


1926年には姉妹が高級雑貨
やギフトを売る店をはじめ
チャイナギフト・ストアは
すぐに一大人気店となり、
1928年にオープンした、
今ならモールに相当する
リージェントアーケードに
2号店を出す勢いでした。

当時のラッピング
物が限られた時代にあって
さぞやエキゾチックだった
であろうイラストに字体


1930年にドロシーが結婚し
シドニーに転居してからは
グラディス1人が経営を続け
中国や香港への買い付けも
こなし、20代でアデレード初
の女性実業家となりました。


姉妹が中華雑貨を専門にした
ため、ジョージの店はナッツ
お茶、自家製ピクルス、花火
に的を絞り営業を続けました。


しかし、1929年に末っ子の
ゴードンがランドル近くの
ユニオンストリートに出店。

ゴードンSチョン・ナッツ
という兄が経営する家業と
そっくりな事業を開始💦


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