ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

アデレード行:ハーンドルフアカデミー博物館

2020年04月04日 | オーストラリア:アデレード

ご無沙汰しておりました。
3ヵ月以上放置してしまい
申し訳ありませんでした💦
その間もご訪問くださった
皆さまにお礼申し上げます。


このブログでは何度かあった
ブランクですが息を吹き返し
またまた再開します。


2018年5月の初アデレード
かれこれ2年前の話ですが
なんとか終えましょう(笑)


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3日目は大雨の中、市内から
クルマで30分ほどのドイツ村
ハーンドルフへ。


雨で動き回れなかったので
ハーンドルフアカデミーへ。

1857年創立の黄色い壁が目立つ
観光スポット内の博物館へ。


なぜオーストラリアの片田舎に
ドイツ語名のドイツ村ができた
のかは、1839年に遡ります。


キリスト教プロテスタントと
して迫害を受けたルター派、
ルーテル教会の教徒は19世紀に
アメリカへ大挙して移住し、
南オーストラリアへも牧師に
率いられた教徒が1838~1839年
にかけ4隻の船で移住しました。


1900年までに実に1万8,000人
が移住してきたそうです。


4隻のうちの1隻、ゼブラ号の
キャプテン・ハーンは危険で
困難に満ちた17週間の航海を
仕切り、到着後も移民たちの
土地の取得に向けて奔走し、

(※キャプテン・ハーン)


その功績を称えてこの地は
ハーンドルフ(ハーン村)
と命名されたそうです。


移住当初の茅葺の家



作業場のスケッチ

1910年


小さな博物館の中には

さまざまな物が所狭しと
展示されていました。


重厚なオルガン



家の建て方が確かに
イギリス人と違います。



現代なら自動車修理工場

「技術のドイツ」
だったらしいです


1854年に創業した製粉所

オールドミル


1970年以降はレストランに。

現在はホテルでもあります。


1885年には村を挙げての
計画で子どもたちが300本
の街路樹を植えたそう。

違いを楽しめるように
あえて様々な樹なんだそう。


移民たちはドイツ語を話し
ドイツ語教育にも力を入れて
いましたが、第一次大戦の
勃発でドイツ系移民は敵性
外国人とみなされ、300人の
男たちがトレンス島に強制
収容されました。

厳しい環境だったそう。


1916年にはドイツ語の
地名の使用が禁じられ
村はアンブルサイド
に改名、ドイツ語姓も
シュミット→スミス
(※どちらも鍛冶屋の意)
シュナイダー→テイラー
(※どちらも仕立屋の意)
などに改められました。


1917年にはドイツ語学校
閉鎖、文化的催しも禁止。

ルーテルスクールの生徒。
手描きのオーストラリアの
コートオブアームズを掲げ
愛国心を示していたのか。


現在のコートオブアームズ



1935年に村はハーンドルフに
再度改名されたものの今度は

第二次大戦が待ち受けていた
という苦難の歴史の連続


ここで一番感動したのが
手書きの土地の登記書



氏名・職業・出身地が丁寧に
几帳面な字で書かれています。

未亡人
靴職人
石工
庭師
小作農
日雇い
羊飼い
粉挽き
・・・
・・・
・・・


昔々の話として童話の中に
出てくるような多数の職業。
村ごと引っ越してきたのが
急に実感できました。


さまざまな人々の横顔が
古色漂うその職業から、
200年近い歳月を越えて
急にリアルなものとして
目の前に迫るようでした。


黒衣も異文化を醸しだし
小さいながら見応えある

雨宿りには上出来すぎる
博物館でした。


コメント
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