ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

クイーンズタウン行:またいつか

2022年12月15日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月クイーンズタウン
最終日5日目。国内の南島旅
行は4泊5日が定着してる

ホテルのベランダから見納め


ワカティプ湖が目の前です。



ぺッパーズ好きにはいい滞在に



オーストラリア人以外の外国
人旅行客不在の時期で私たち
にも手が出る料金でしたが、



通常料金に戻ったらもう泊ま
れないかもね~と正直夫婦



隣のホテルはリッジス



ぜひまたいつか



ホテル前の遊歩道の紅葉



最終日になって慌てて散策



停泊していたアーンスロー号



この船が地元でどれほど重要
で親しまれてきたかを知ると

また乗ってみたくなります。


水上タクシー



ジェットボート



ヨット



ハイドロアタックといって



水上をのたうち回るらしい

朝から忙しいワカティプ湖


最後の朝食も激込みだった
ビュデュカフェ&ラーダー



活気あるいいカフェでした



甘い香り漂うチョコレート専
門店パタゴニアでおみやげを



やはり絵になるアーンスロー



ペッパーズ遠景



最後の最後まで紅葉が美しく



「最高の季節に来た

と自画自賛。きっと他の季節
も素晴らしいのでしょう(笑)


空港に行くまで中心部早歩き



誰もが堪能できる美しさ



手入れの行き届いた丹精さ



世界中の観光客を惹きつける
奥深い魅力がわかりました。



ずっと喰わず嫌いだった街

また来るね




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クイーンズタウン行:寂しいパラダイス

2022年12月13日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月クイーンズタウン
4日目。2人で気に入ったグレ
ノーキーを出てドライブへ


まずは1800年代から人気の地
だったパラダイスへ。名前が
ストレートでスゴすぎます



「どこに住んでるの?」
「天国です」
ってちょっと言いにくい(笑)



美しくても人っ子一人いない



なんとも寂しい場所でした。



地名の由来はパラダイスダッ
クというカモがたくさんいる
からというのも一説らしい



確かに何回か見ましたが、や
はり古の人が天国とはこうい
う場所であってほしいと名付
けたものなのかと思います。



行けども行けども無人でした
が今頃は海外からの観光客が
戻って来ているのでしょう。



この辺で道が終わりました。



雪を頂くアルプスと



草をはむ羊たちの沈黙

実は羊はけっこう鳴くもので
賑やかなんですけどね~


周りの雪山から



垂直に流れ落ちる滝

これが回り回ってワカティプ
湖に注ぐのかと感慨深い眺め


その後はグルっと回りダート
川の対岸にあるキンロックへ



古~い桟橋があり



史実の展示がありました。



かつてはここまでアーンスロ
ー号が来ていたと知り驚き



グレノーキーと同様に、地元
を支える交通の要所でした。



一次産品輸送に



観光客の旅客に



たどった過程は一緒でもダー
ト川の対岸というクルマでは
非常にアクセスが悪い位置関
係の上、グレノーキーのよう
な絵になる桟橋や小屋に恵ま
れずに、今は静かな場所に。



キンロックロッジという1868
年創業のロッジが今も営業中



記憶に間違いがなければトレ
ーディングポスト
と同じオー
ナーだったのではなかったか

(※今はキンロック・ワイルド
ネス・リトリート
という名に)


隣はユースホステルでした。



クイーンズタウンに戻る途中

(※カッ飛ぶ水上タクシー)


山肌に輝くなんとも不思議な
夕陽

掘ったら金でも出そうです(笑)


夜はキングメイドヌードルズ



世界的な観光地の最後の夜を
飾るに相応しい1杯でした



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クイーンズタウン行:グレノーキーラグーン

2022年12月11日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ンも4日目。街の象徴である
ワカティプ湖は伸びたS字の
ような縦長で、NZ南島によ
くある川の一部が太くなった
ような湖です。この長さがさ
まざまな景観を生み、観光地
の延長にもなっているのか。



街は湖の中心部。グレノーキ
ーは北端で、ここから先は湖
ではなく、ダート川という南
アルプスを水源としワカティ
プ湖に注ぐ、全長60kmの川


蒸気船が遡れるほど水をたた
えた細長い湖が突然終わるの
も興味深く、川に切り替わる
州の周辺に行ってみました。



誰もが呆然と沈黙しそうな所



大自然に圧倒される心地よさ

寝っ転がって


立ち尽くして



子どもは、走り回って



ずっと続いた湖の果てを見る
ことがこんなに感動的とは



この辺からは川になるらしい



目と鼻の先に桟橋があるのに

水深がまったく違いそうです。


思い出深い心にしみる風景



一帯は湿原で歩き始めたら

カワい子ちゃんが走って来た


人口540人のグレノーキー



村以下の集落と呼ぶべき場所
でしたが住宅開発も進んでい
てこれから人口が増えそう。

(※湿原の中の私有地)


史跡の桟橋と赤い小屋以外、
観光的要素がないのもよく、



2人で大変気に入りました。



周辺はグレノーキーラグーン
と称する簡単な周遊コースで



遊歩道あり



ベンチあり



橋ありで



美しい景色を楽しみながら



誰でも歩ける平坦なコース

静かで穏やかな景色が印象的


集落に戻って来るとゴルフ場

今でも使ってる?


ラグビークラブにかつての競
馬場か円形の柵もあります。

人口数百人だとどんなスポー
ツも施設の維持が大変かと。


「ここでの宿泊ってありかな」

と目星をつけたホテルは、


なんと売りに出ていました

コロナの苦境と不動産賃貸料
の値上がりによる身売りだそ
うですが、あれから20ヵ月経
った今も休業中のままです


トレーディングポストに戻り



コーヒーブレイク



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クイーンズタウン行:グレノーキー桟橋

2022年12月10日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ンも4日目。街の中心から小1
時間ほどのグレノーキー

地名は知らなくてもこの赤い
小屋に見覚えがありました。


グレノーキーといえば、この
グレノーキー桟橋。さらには



桟橋の端に立つ赤い小屋、
ワーフシェッド(桟橋小屋)

なんだそうです


古色蒼然に見えても、1999
年の水害後に再建されたもの



桟橋と小屋の歴史は1902年に
NZ鉄道局がクイーンズタウン
への唯一の足だった蒸気船運
行を民間業者から引き継いだ
ことから始まりました。道路
の開通は実に1962年でした。

(※歴代の蒸気船)


鉄道局がなんで蒸気船運行
と思ったら、グレノーキー桟
橋の上には線路があり、NZ鉄
道局が蒸気船から桟橋小屋ま
で貨物トロッコを運行してい
て、NZ鉄道網の正式な一部か
つ最短路線だったそうです。

(※1950年頃)


グレノーキーは正式な鉄道駅
で桟橋小屋は鉄道局の貨物倉
庫として使われていました。

(※初代蒸気船アントリム号)


1912年に4代目として登場し
た蒸気船アーンスロー号。道
路開通で役目を終えました。



しかし、今もワカティプ湖の
観光船
としてバリバリ現役

私たちも1993年に乗りました。


周辺は蒸気船が航行できたの
が不思議に思えるほど浅瀬に
見え、こんなヨットが精一杯
な感じがしますが、時代や季
節で水量が相当変わるのか



というのも桟橋のちょっと先
はこんな州になっています。

突然湖が終わるような感じ。


グレノーキーはワカティプ湖
の最北端に位置しています。


この地の入植の歴史は1860年
代の放牧から始まり、ゴール
ドラッシュの波も押し寄せ、
1879年に金鉱会社創業。発展
で木材需要も高まりました。

(※鉱山の水車)


また鉄の強化に使われる灰重
石の産地でもあったそう


しかし、今に続くのが1860年
代から始まった観光業でした。

初期は馬車で後にはクルマで


クイーンズタウンへの道はな
くてもクルマはあり、桟橋で
客を待つクルマの多さたるや

この先のキンロックやパラダ
イスが観光名所だったそう。


蒸気船が来ない今は静かな所



クルマで自由に動き回れるよ
うになり人の流れが変わり、



グレノーキーは1つの通過点
になっていったのでしょうか



その中でも不変の雄大な眺め



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クイーンズタウン行:グレノーキーのトレーディングポスト

2022年12月09日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ンも4日目に。ホテルからワ
カティプ湖に沿って西に向か
いウィルソンベイ。湖もここ
まで大きいと湾がたくさん


ここはセブンマイル岬という
景勝地。7マイル=約11kmで
トレッキングを楽しむ場所で
もあり往復3時間のコース

歩きやすそうで歩いてみたい
(👆例によって行き当たりばっ
たりで計画も準備もナシ💦)


ここも外来種の樹林化でNZ固
有種が脅かされているよう。

緑化すればいいってものでは
ないのをつくづく感じます。


手前は伐採された樹のよう。



穏やかな湖と雄大な山々



北島から来ると雪山が珍しく



『海外』に来た気分になる



オーストラリア人がクイーン
ズタウンにハマるのが判る



見事な山域で神々しいほど



これはぜひ次回は歩こう



小1時間で到着したカフェは

トレーディングポスト


テスラのチャージャーがあり
ちょっと驚いて思わずパチリ

この4ヵ月後に夫がポチリ


街中にはない長閑な雰囲気で



シープスキンに見た目だけで
はなく、温かく迎えられてい
る感じがしました。こんなも
のがあってもいい気候です。



美味しいコーヒー



シンプルなトースティー



美味しいトースティーかサラ
ダがあれば最高のブランチ



ここは裏手が別の名前の宿泊
施設になっていましたが、確
かオーナーは同じだったはず



コテージ風の4部屋があり、
満室で見学できず残念~



隣はガラッと雰囲気が変わり



中華の麺餃子屋でした(笑)

街中の店が越してきたそう。


ここはグレノーキー



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クイーンズタウン行:カワラウ渓谷

2022年12月08日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。クロムウェルを出て
クイーンズタウンに戻る道す
がら見かけたブラックボード

オーストラリアのいとこ歓迎


直訳ならcousinは『いとこ』
でも英語だと遠縁から近親ま
で使われ、そもそも血縁では
ない友だちまでcousinとか。
きょうだいよりはちょっと遠
く、友だちより近いイメージ


コロナ禍で外国人観光客がい
なくなる中、せめてオースト
ラリア人🦘が戻ればという熱
い期待が込められています。


カワラウ渓谷金鉱センターと
いう場所で、古の金鉱が史跡
として保存されていました。



それを観光地化して金鉱ツア
ーや金すくいもありました。



しかし時間が遅く全部OUT

周辺散策だけはできました。


規模も掘っていたものも違う
とはいえウエストコーストの
ブルナー炭鉱を思い出す川の
色、橋、両側に広がる史跡。



カワラウ川は早々にブームが
終わったショットオーバー川
と違いブームが去った後も細
細と採掘が続いたそうです。



NZ南島は1850年代から金が
見つかり始め、ここはギース
フラット(ギーの平地)と呼ば
れ、金を発見したギーの名が
冠されていますが、彼が誰で
いつ、どれぐらいの財を築い
たのかは、わからないそう。


男たちはここに住みながら、



金を探し続けていたそう



彼らは橋やトンネルやダムを
築き、水力を利用して機械を
操作し富を追い続けました。



当時の滑車も残っていました。

採掘は100年以上続いたそう。


ゴールドパニングと呼ばれる
たらいで金をすくう方法。砂
を流し出し金をより分ける。



今では一帯は国が管理する史
跡ですがツアー客は金すくい
ができるそう。小さな金塊が
見つかることもあり金箔は日
日見つかるそう。やりたい



帰り道で見かけた小さな水力
発電所、ローリングメグ水力
発電所。NZでは早くから豊富
な水力を利用した小規模水力
発電所の建設が進み、南島で
は金鉱業者や灌漑業者との共
同で小発電所ができたそう。

ここは民間業者パイオニア電
力所有。最大出力4,000kW超
でそんなに小さくないかも


1957年に国の送電網につなが
るまで一帯唯一の電力供給業
者だったというからスゴい

条件さえ揃えば、大きなダム
を建設しなくても水力発電は
できるというのをNZに来て
からあちこちで目にします。


長い1日を終えて夜ごはんは

ホームメードパスタ専門店の
イタリア料理ジオビ


いろいろなパスタがあり最近
この手のイタリアンが流行中



サラダ



マルゲリータ



店のお勧めだったパスタ

①サラダ➁ピザ③パスタの順
で気に入りやはりパスタはア
ルデンテができる乾麺好き


デザートは柘榴チーズケーキ




コメント (2)
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クイーンズタウン行:クロムウェルと思い出のミリー

2022年12月07日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。どこも絵はがきの
ように美しいワナカを出て、



旅行の前から行こうと決めて
いた場所に向かいました

国道6号線の両脇、延々と続
く果樹園。リンゴかモモかな


あれはブドウ棚なんだろうか



ワイナリーとはまた違う眺め



果実が実り、守るような山



それ以外は人っ子一人いない
場所でクルマもごくわずか。



カード決済の無人販売所



到着したのはセントラルオタ
ゴのクロムウェルという場所



果実の郷として知られます。



なぜここに来たかったのかと
言うと、かつてのボランティ
ア仲間がここのどこかの老人
ホームに入居したからです。


といってもそれは6、7年前の
話で、元気ならすでに93歳。


どこのホームかも知らず、会
うことはかないませんでした
が、彼女が踏んだ大地を私も
踏んでみたいと思いました。


彼女のニックネームはミリー
クロアチアからの移民で本名
はミリアムではなかったか


ボランティア先のチャリティ
ーショップで知り合い、数年
一緒に働きました。気さくで
分け隔てのない大らかさと芯
の強さを持つ苦労人でした。


彼女は第2次大戦前にNZの伯
父さんを頼り、10代前半で海
を渡りました。パスポートを
取りに行ったときに、オウム
がカードを引く占いがあり🦜
「地の果てまで行く」
「男に苦労する」

というカードが出たそうです。


「私の人生はその通りだった」
とミリーは言っていました。


地の果てのNZに引き取られ、
伯父宅で苦労し、結婚相手に
も苦労させられて離婚。女手
一つで娘を育てあげました。


2014年の85歳のときに交通
事故に遭い、多数の骨折と片
耳を失う大けがを負いながら
その後ボランティアに復活し
たものの、心配した娘が母親
を説得して、嫁いだ先のクロ
ムウェルに引き取ることに。


ミリーは最後までオークラン
ドを離れることに抵抗してい
ましたが、自分でもちょっと
した接触事故を起こし免許を
返納しなければならなくなり
独り暮らしを断念しました。


その後、隣人だった母子がク
ロムウェルまで彼女を訪ね、
「元気にしている。新しい生
活を気に入っているらしい」

と、知らせてくれました。


ミリーの本名は複雑でクロア
チア語の名前+旧姓で、入院
したときも本名を知らなかっ
たため、個人情報保護のため
問い合わせや本人確認を拒ま
れ、別のルートで入院先を知
り、私は本名を知りません。


クロムウェルにたくさんの老
人ホームがあるとは思えませ
んでしたが、本人の消息を探
しあてるよりも、彼女が心安
らかに受け入れた場所に立ち
彼女を想うことにしました。

誇り高き人ミリー
出会えて良かったです。



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クイーンズタウン行:初めてのワナカ

2022年12月06日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。山越えのコースで
カードローナを出たあとは、

ワナカに到着


雪を頂くアルプスとワナカ湖



カフェに飛び込んでまず1杯



そしてランチ



スローフードのビッグフィグ



食事の素晴らしさもさること
ながら、ここはテイクアウト
用のコーヒーカップがない



使い捨てを見直す時代にナゼ
あの紙コップが減らないのか
便利さを優先して、使い捨て
を助長しているだけなのでは


紙コップの代わりに、
店内で飲むか
カップを借りるか
カップを持ち込むか

というのを提唱しています。


地元の固定客や時間のある観
光客の多い地方の店では積極
的に取り入れてほしいです🙏


コロナ前ラグランのシャック
がマグを貸し出す、マグライ
ブラリー
をやっていました。

(※写真は2019年。カウンター
下のマグは自由に使えます)


ワナカはクイーンズタウンか
らクルマで1時間ほどの場所



この景観から観光地としてだ
けでなく別荘地として人気



著名人がこぞって別荘を建て
たり、結婚式を挙げたりでも
有名な場所ですが、縁がない
のか(笑)クイーンズタウン3
回目にして初めて来ました。



まずは湖畔散策へ



透き通るアイスブルーの水



柳の下にはマガモがいっぱい



聞きしに勝る美しさです



山あり湖ありでも北島の別荘
地タウポとはまったく違う

どちらもボートがいっぱい⛵


湖畔を歩く夫にグワグワと鳴
きながら付いて来るカモの番

何かくれそうに見えたのか


NZで最も有名な木と言われる
ワナカツリー

湖の中に生える柳の木
私は知りませんでした。


英語では#thatwanakatree
(あのワナカの木)として知られ

みんな写真を撮っていました。


ブラインドやカーテンが閉ま
って人の気配がない家が多く



オフシーズンの別荘地らしく
生活感のない箱物が続く場所

あまり心惹かれるものがなく


次の場所へ



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クイーンズタウン行:カードローナまで

2022年12月05日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。ロワーショットオ
ーバー
を出てやって来たのは

ヘイズ湖


鏡のように静かな湖面



地上が水中に映し出されます。



マオリ語の湖名はワイ・ファ
カアタ(映し出す水)だそう。



英語名はドナルド・ヘイとい
う人名が由来。ヘイはスコッ
トランド出身でオーストラリ
アの測量士兼探検家でした。

植民地化は探検家、宣教師、
測量士から始まると思うほ
ど、地形や地質を調べ、その
土地が所有(先住民にすれば
略奪)に相応しいかどうかを
見極める仕事は重要でした。


ヘイは金が見つかる前の1859
年に牧羊に適した土地を探し
にワカティプ湖から簡単な舟
で下ってきたものの季節は冬


吹雪に遭って命からがらクイ
ーンズタウンに戻り、後日ダ
ニーデンの土地局に行きリー
ス契約を結ぼうとしたら、す
でに局内の誰かが場所も見ず
に契約を結んでいたことを知
り、失意のままオーストラリ
アへ戻り、『ヘイの湖』とし
てその名のみを残しました。



おとぎ話に出て来るような、
近くのとんがり屋根の家🏡



ここからクラウンレンジとい
う山越えの道に向かいます。



T字路になったアロージャン
クション。縦の6号線から山
道クラウンレンジに入って



ヘアピンカーブを抜けて、



アロージャンクション展望台

何度も思う。まるで箱庭


見飽きない美しさが広がり、
ずっとボーとしていたい(笑)



屏風のように雪山が迫ります。



荒涼とした山の中の緑の中に
まさかの1軒屋がありました。



さらに山を上って行きます



到着したのは、カードローナ

1863年創業のカードローナホ
テル
は地元だけでなくNZのア
イコンのひとつ。食事だけで
なく、今でも宿泊できます。


歪んで見えるのは本当に歪ん
でいるからで、見事な曲線



薪の量に冬の厳しさが偲ばれ

近くには有名なスキー場も🎿


かつての雑貨屋兼郵便局

1871年創業


かつての学校

今はショップに


カードラーナホール。地域の
集会場兼かつては教会でも?



そして到着したもうひとつの
アイコン。ブラドローナ👙



NZ乳がん協会のための地域を
挙げての支援活動で今や有名
な観光地。賛同する人がブラ
と募金を残していける場所



何千枚という数なのでしょう。



国名や名前が記されたブラも



デザインも大きさもバラバラ



それが連なる山中の熱い善意

「よっしゃ
と、ここで一肌脱いだ女子も
たくさんいたことでしょう。


女性として乳がんは決して他
人事ではありませんからね。


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クイーンズタウン行:金の河ショットオーバー

2022年12月04日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。朝は街中のカフェ
で簡単に済ませさっそくGO

ビュデュカフェ&ラーダー


朝昼晩、いつ見ても美しい

南アルプスとワカティプ湖の
組合せが他にはない景観を生
み出しているのでしょうか。


建物が小さく見えれば見える
ほど山の雄大さを感じます。



やって来たのはロワーショッ
トオーバーという、有名なシ
ョットオーバー川下流エリア



穏やかに見えますが岩の削ら
れ具合に水量がしのばれる



川はこのままワカティプ湖か
ら唯一流れ出る、カワラウ川
に注いで行くんだそうです。

(※川に唯一掛かる国道6号)


こんなに浅そうなのにジェッ
トボートツアーがあります



💛型の中州



アイスブルーの水と砂の河原
そして黄葉、緑、雪山、青空



前日行ったコロネットピーク

標高1,651m


さらに遠くの雪山の頂



ロワーショットオーバー橋



ショットオーバー川は1862年
にここより上流のアーサーポ
イントで金が発見されたため
一躍その名を轟かせました。


むかしはここから渡し舟が出
ていたので、ホテルや学校ま
でありホテルは大いに繁盛



それだけ川を渡る需要があり
橋の建設は必至で1871年完成



しかし、高さがなく1878年の
洪水で流されてしまいます。



ゴールドラッシュが短命(18
64年にはウエストコーストで
金発見)で終わってしまった
せいか、橋が流されてから31
年後の1909年に再建決定


しかし、技術上の争議や洪水
による破損で、計画は遅れ💦



1915年にやっと完成したそう。



完成当時の頃に通過する馬車



橋は1975年に150万ドルをか
けて補修され、現在のものに

全長172m、高さ16m


これは建設途中で壊れた2番
目の橋の橋脚の一部だそう。



穏やかな流れですが、広い川
幅が水かさの増した時にどれ
ほどになるかを物語ります。



今は橋の両岸とも何もなく、



ひっそりとした遊歩道に。



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クイーンズタウン行:色づくアロータウン

2022年12月02日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン。元よりクルマで約20分の
アロータウンを気に入ってい
たのは、クイーンズタウンの
街中と対照的な静かさと、南
アルプスにはない緑でした。


それが紅葉の真っ盛りで花盛
りのような鮮やかさでした。



山全体が燃えるように輝き、



何枚撮ろうが収まらない。



しかし、これらの樹木の大半
が西洋人が持ち込んだ外来種



管理されないまま樹林化し、
NZ固有種や生態系を脅かす
という問題も生んでいます。

(※上を放置すると樹種の単
一化で森を棲み処とする生き
物にまで影響が及ぶそう。)


今では民間団体が自治体と共
同で樹林化する樹種を伐採す
る活動を進めており、最終的
には固有種と樹林化しない外
来種の多様化で、町が誇る紅
葉を保つことを目指すそう。

(※この100年での顕著な変化)


一帯には4kmちょっとの遊歩
道がありました。西洋人のオ
タゴ入植150年を記念し、19
98年に自治体が整備したもの



アロータウンで金が見つかっ
たのは1862年でした。ゴール
ドラッシュがウエストコース
トに移って行ったのが1864年
なのでラッシュは短命で、中
国人がやって来たのは1865年

(※西洋人の金鉱労働者)


その辺を軽く散策して遊歩道
を歩くのはまた次回にでも



スケボーパークの少年たちは
圧倒的にキックボード派🛴



みんな、うまいうまい



アロー川



こんな光景も絵になります。

ナンバープレートがあるので
いまだに現役のようです


色づく山を背景に絵のような
光景。家の窓から見る景色は
さぞやステキなんでしょう。



売家もありました。

かなりが別荘かエアーB&Bか


1993年に初めてNZに来たとき

この辺りの戸建ての可愛いコ
テージが軒並み数百万円で、
「これって外国人も買える?」
と、思わず身を乗り出しそう
になった思い出があります。


冬の寒さは大変でしょうが、
観光客には心躍るような眺め



村の中心に戻って来ました。

この建物は金が見つかった年
に建てられたもの。にわか金
成金が大勢出たんでしょう。


コロナのせいか時間帯のせい
かすでに閉まっていたカフェ



こちらの店に救われました。

@ディシェリー


「変わった、変わってない」
と外を眺めながらコーヒー



クイーンズタウンに戻り、



ワカティプ湖湖畔へ。



ここが世界的観光地になって
きたのがわかる独特の美しさ



コロナ後の混雑が目に見える
ようで、今頃はオーストラリ
ア人が押し寄せているのか。



ランチを堪能したので夜は再
び簡単にベトナム料理で🥢

@サイゴンキングダム


混み合う観光地のド真ん中で



当たらなくても外れない



手頃感とスピード感があるの
がアジア料理のありがたさ。

夜は寒くそそくさとホテルへ


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クイーンズタウン行:100年近い歳月を経て

2022年12月01日 | 南島:クイーンズタウン

NZ随一のリゾート地となった
華やかなクイーンズタウン。



150年前の19世紀には生きる
か死ぬかでここにたどり着い
た中国人たちが、小川のほと
りに小さな中国農村を造り、



人種差別から逃れるように隠
れるように自給自足生活をし
ていた史実とのコントラスト



2002年に家族で訪れた時に
中国人移民博物館のようなも
のがあったような朧げな記憶
があります。しかし、子ども
も小さく時間も遅く、立ち寄
ることなく立ち去りました。


8歳になったばかりの長男



5歳直前の次男

(※夫に抱っこされての1枚)


長男は小川、ブッシュクリー
クで金を見つけると張り切り



次男は足が濡れるのさえダメ



行くも地獄、残るも地獄だっ
た19世紀に広東省を出た移民



故郷に残った女子ども、年老
いた親たちの先行きは男たち
次第で、送金を待ちわび、最
悪の場合2度と彼らに会うこ
とはありませんでした。NZの
中国人金鉱労働者の約7人に
1人はNZで亡くなったそう。


1881年に人頭税が導入される
と、中国人1人当たりの入国
には100NZポンドが課され、
これはまさに移民たちが故郷
に帰るために必要な資金とほ
ぼ同額で、本国から妻を娶る
のは、夢のような話でした。


ゆえに1911年でも国内の中国
人女性は50人足らずでした。

(※1911年の写真)


人頭税は1930年代の日本の中
国侵略により実質的に破棄さ
れ1944年に撤回されました。


オタゴの金は1890年までに取
り尽くされ、多くの中国人が
帰国し、一部はウエストコー
スト
に移りました。アロータ
ウンに残った者の中には野菜
を育てて売り歩く青果商とし
て身を立てる者もいました。

(※杖をつきつつ天秤棒を担
いで行商する老いた中国人)


NZでは1898年から国の老齢
年金支給が始まったものの、
中国人は対象外で、老いても
相互扶助に頼るのみでした。

(※高齢の中国人居住者)


死者が出るたび比較的裕福な
中国人の間で募金を募り、遺
体を本国送還していました。

(※募金を募るための手紙)


しかし、1902年に500人の遺
体を載せた最後の輸送船は北
島で難破してしまいました。


住人のいなくなった中国人居
住区は荒れ果て、土に埋もれ
て忘れ去られていきました。


100年近い歳月を経て史跡と
して整備されたことは、非常
に貴重なことだと思います。



彼らも秋にはこの紅葉
目にしていたのでしょうか。



明治生まれの鹿児島出身の父
方の祖父が、若い頃はカナダ
に移民しようとしていたと数
年前に知り、行き先は違えど
親族の中では唯一孫の私が海
外移住を果たしたことに、深
い因縁を感じたものでした。


行くも地獄、残るも地獄だっ
たら、私は迷わず行きます。


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クイーンズタウン行:行くも地獄、残るも地獄

2022年11月30日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン。クルマで約20分のアロー
タウンに築かれた19世紀の中
国人居住区
の話がまさかの3
話目自分もまたアジア人移
民である以上、150年前に起
きたことでも気になります。


なぜ彼らは黄禍と呼ばれた過
酷で理不尽な人種差別の中で
もここに留まり続けたのか



最大の理由は当時の中国の状
況でした。貧困、人口増、病
気やアヘンの蔓延、清朝の劣
勢と列強による植民地化など
社会は混乱を極め、地方の小
作農の赤貧は絶望的でした。

(※当時の広東省の小作農)


2度にわたる列強とのアヘン
戦争(第1次1839-42年、南
京条約締結。第2次1856-60
年北京条約締結。アロー戦争
とも)と、世界各地で起きた
ゴールドラッシュ(カリフォ
ルニアは1848年から)が重な
ったのも大きな誘因でした。


海に面した広東省では多くの
若者がなけなしの金をはたい
て命がけで海を渡りました。

(※数百人を乗せた移民船)


行き先はまず『金山』と呼ば
れた米国で、後に金が見つか
ったオーストラリアやNZは、
『新金山』と呼ばれたそう。


NZで中国人金鉱労働者の採
が始まったのは1865年。



1871年当時広東省の労働者
の平均年収は12~14NZポン
ドでしたが、オタゴの中国人
金鉱労働者のそれは、約6倍
の77NZポンドで、3分の2を
貯金できる目論見でした。


1870年に17歳の若さでNZ行
きの船に乗ったジェームス・
シュン。親族一同で36オンス
の銀をかき集め、若者の新天
地行きに賭けます。彼は同村
の9人の若い衆と、330人が
乗る移民船に乗り込みます。

(※ジェームス・シュン)


香港を出て3ヵ月後、海が荒
れ、船の一部が壊れ中に水が
入り、大の大人たちが絶叫す
る阿鼻叫喚の状況となる中、
ジェームスと12歳の男の子だ
けは泣き叫ばなかったそう。


「肝っ玉が小さい奴には向か
なかった」と彼は言います。
長い航海で命を落とす者、難
破する船もあったでしょう。


行くも地獄、残るも地獄か。


移民の多くが100~200NZポ
ンドを貯め故郷に錦を飾り、
小さな農場を買い小作農を脱
することを夢見ていました。


初期の頃であれば5年近くを
耐え忍べば、夢を実現できた
者もいたとみられています。


しかし、金の枯渇や人種差別
で状況は厳しさを増します。



まさかのまさかでまだ続く💦


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クイーンズタウン行:黄禍の中で

2022年11月29日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン。そこからクルマで20分ほ
どのアロータウン。19世紀に
中国人たちが住み始め居住区
を形成していたという史実。


招かれても歓迎されない人々

彼らはなぜここに来たのか


中国語の『招工入境』と英語
の『金鉱』に答えがあります。


1860年後半から1880年代に
かけて、NZ南端部のアロー
タウンのあるオタゴ地方や、
サウスランド地方にはいくつ
かの中国人居住区がありまし
た。彼らの目的はゴールドラ
ッシュでの一攫千金でした。


最盛期にはオタゴ、サウスラ
ンド、ウエストコーストの金
には、約8,000人の中国
人がいたと言われています。



彼らがユニークなのは正規の
労働許可証、今で言えば就労
ビザを持っていた点です。


それが招工入境(採用入国)の
根拠で、ゴールドラッシュで
世界中から波のように押し寄
せ、波のように去って行った
西洋人たちとの違いでした。


オタゴのゴールドラッシュは
1865年にはほぼ終了し、金を
掘り当てようと集まった数千
人の西洋人たちはウエストコ
ーストに去って行きました。
(※ウエストコーストでの金
発見
は1864年のことでした)


オタゴは人口の急減による地
元経済の悪化を恐れ、オース
トラリアの金鉱から中国人労
働者を招聘することを決定。


「人がいなくなるよりも、例
え猿のような外見であっても
人口が増える方が望ましい」
(1867年の地元新聞)
と自治体主導で決定しました。


中国人たちは広東省出身者で
オーストラリアの採鉱技術を
仲間内で共有し合いました。



1871年には近くのワカティプ
金鉱の労働者は、中国人が西
洋人を上回るようになり、ア
ロータウンは中国人居住区の
中心となって発展しました。


中国人人口と経済的影響力が
拡大するにつけ、それを懸念
する人種差別が激しくなりま
した。中国人による『植民地
化』を恐れるという説まで飛
び出し、NZも他国に倣って
1881年には悪名高い中国人
への人頭税を導入しました。

(「黄禍」と題されたマオリに
絡みつく辮髪のタコの挿絵。
新聞が世論を煽る傾向も顕著)


アロータウンには反中国人西
洋人金鉱労働者協会まで結成
されました。中国人たちはト
ラブル回避のために西洋社会
とは距離を置き、自分たちの
結束を一段と強め忍耐強く難
局を乗り越えていきました。

(※「隔離された生活」)


水のある川沿いに小屋を建て



互いに支え合っていきました。



一帯は今では想像もできない
見事な農地でまるで農村。自
給自足社会が実現しました。

写真上が居住区の中心でシン
ボルだった、アラム・ストア


背後の岩山も十分に活かされ



頑丈な石造りの小屋を建て、



丁寧に茅で葺けば立派な家に



さらに岩を背に小屋をかけ、



壁代わりにした質素な小屋も



トタン屋根のこんな戸建ては
憧れ🏡だったんでしょうね。



この厳しい環境下でも、彼ら
はなぜここに留まったのか


またまたこの話を続けます。


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クイーンズタウン行:アロータウン中国人居住区跡

2022年11月25日 | 南島:クイーンズタウン

2021年4月のクイーンズタウ
ン。アロータウンに入るや、
紅葉がひと際鮮やかで、英語
で言うところのオータムカラ
ーズ(autumn colours,秋の彩)
という複数形での表現がなん
と合うのかと思いました。



剥げた岩山とのコントラスト



標識がある村の中心に入って
来ました。さらに鮮やかな彩



過去2回には来ていなかった
アロータウン中国人居住区跡
という場所に来てみました。

英語のアローは弓に番える矢
なので、アロータウンの中国
語訳は箭市。今は市というほ
ど大きくない所なので箭鎮。


ブッシュクリークという小川
に沿い、復元された質素な住
居が点在している場所です。

かつては20棟ほどあったとか
どこも扉や窓があり西洋人で
も住めると形容されたそう。


『オールド・トム』とか『コ
ン・ラム』など居住者の名前



ここの印象がないのもむべな
るかなで、NZ政府が中華系
移民への差別に対し歴史的な
謝罪をしたのが2002年2月。

(※説明は英中のバイリンガル)


私たち一家が訪れていた19年
前のことで、政府の肝いりで
歴史保存区として整備し終え
たのは2003年のことでした。

(※修復されたアワ氏のトイレ)


アラム・ストア

居住区で唯一現存する19世紀
の建物。この地の中国人社会
の中心的存在で、1925年にア
ラム氏が亡くなり廃業。放置
後1986年に修復されました。


アラム(亜林)氏

川で溺れかけた西洋人を救け
地元の名士になった大人物。


亜林は英語にも堪能で地域で
一目置かれる中国人社会のリ
ーダーでした。商売上手で店
は欧州や中国からの輸入品、
食品・薬・タバコの販売の他



翻訳や代書屋、賭博場、宿屋
や地下金融も兼ね、中国人移
民たちの心の拠り所でした。

床は当時も石のままだったそ
うですが、それでも訪れた者
には温かく感じられたそう。


男ばかりの過酷な暮らしを強
いられる中、酒や賭博、中国
語での団らんは、心の慰めだ
ったのではないでしょうか。



彼らを苦しめたのはオタゴ地
方の極寒の気候以上に、人種
差別という心寒(落胆の意)さ
せられる社会だったようです。

招かれても歓迎されない人々


次回もこの話を続けます


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