ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:流刑地の病院

2024年05月18日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


高台のスミス・オブライエン
・コテージ
から降りて来ると
右に損傷の激しい大きな建物



ここも鉄のフレームで支え倒
壊を回避し保存しています。

世界遺産ですから管理や補修
は最善を尽くしているはず。


レンガの建物がここまで傷ん
でいるのは森林火災のせい。



プリズンドクター(矯正医官)
だったDr.ブロウネルの診療室

1830年代前半に木造の診療
所ができ開業していました。


ブロウネルは常駐医として2
度ポートアーサーに勤務し、
1840年に再赴任したときは
子ども9人の11人家族でした
が、15ヵ月間駐在したそう。


ポートアーサーと周辺の流刑
施設の囚人だけで約2,000人


さらに管理する軍人たちとそ
の家族をたった1人で診るの
ですから大変な激務でした。


1842年には年間延べ13,000
人を診療し、本格的医療施設
の拡充は待ったなしでした。


1842年に待望の病院が完成

堂々たる砂岩のファサードで
左右の切妻のウイングの上に
は石工の囚人が彫ったヒポク
ラテスと聖ルカ(聖路加病院の
路加)という医療の聖人たち
(※写真は1877年の払下げ後、
森林火災前の1880~90年代)


フレームで支えていたのはこ
の建物でしたが、外からは見
えないようになっています。



内部は6病棟からなり、売店
や食堂も完備していたそう。


当時の健康上の問題はビタミ
ンC不足からくる敗血病、労
働中のケガ、胸の病でした。


囚人は炭鉱や伐採業務にも就
き、ほとんどが危険な仕事で
結核は命取りだった頃です。


治療以外の医療従事者の任務
は囚人全員の毎週の健康状態
の確認、鞭打ちの立ち合い等


周辺の民間人の医療にも対応
していましたが、ほとんどが
往診だったそう。さすがに刑
務所には来られなかったか


払下げ後教会の寄宿舎となり
ましたが、1895年の森林火災
で半焼、保険で再建したもの
の1897年の火災で再び焼け、
現在の姿を留めるばかりに。



スミス・オブライエン・コテ
ージと右の病院、左の刑務所



4階建ての製粉所兼穀物倉庫
の完成が1845年。刑務所へ
の改築工事
の完成が1857年
なので、病院はそれよりも遥
かに早く完成していました。

(※写真は1870年代の刑務所)


1833年に流刑施設となったポ
ートアーサーは1840年代には
受刑者数が1,100人にのぼり
画一的で厳格な軍隊式管理か
ら、福利厚生の拡充へと十年
足らずで軌道修正していかざ
るを得なくなっていました。


必要に迫られたものとはいえ
柔軟で現実的な対応が、大英
帝国の流刑植民地政策を支え
ていたのではないでしょうか



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