布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

愛車が。

2008-10-19 09:23:26 | 自転車
このところ自転車づいている私(BLOGに書いた以外にも近場であちこち行ってるし)ですが、この金曜日に衝撃が。なんと駅の駐輪場で、サドルを盗まれたのです。悲しいです。
会社から帰ってきて、改札を通って「ああ、今日も疲れたな。ササッと帰って…」と思ってたのに。知ってますか?サドルをはずされた自転車って、ほんと無残な姿に見えますよ。ここの駐輪場は無料で無登録で使えるためか治安が悪いことで有名で、最近では道路に「ツーロック」をすすめる注意書きがペイントされています。自転車に備え付けのロックくらいじゃカンタンに盗まれてしまうので(私自身、以前ここで鍵をかけていたのに盗まれました)、他にチェーンをつけるなど二重にロックしないと、というのです。しかしまさかサドルだけ盗まれるとは。
一応、駅の交番に行ったのだけど「サドルだけなんて、絶対に出てこないですよね。届ける意味あります?」と聞いたら「あまり意味ないかもしれませんね」と言われ、やっぱりねと。
仕方ないので家までダンシング(立ちこぎ)で乗ったのだけど、その間中、盗んだ誰かに向かって「呪われよ!」とつぶやいてました。こういうときの私は、「汝の敵を愛せよ」よりも「神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」のほうが思い出されるもので。

このBLOGでもたびたびボロ自転車呼ばわりしてきましたが、親のお下がりのボロ自転車、しかもうちの親も誰からもらったのかいっそ拾ってきたのかというくらいのボロであちこちさびてるし、マウンテンバイク型だから重いしタイヤ太いしハンドルはフラットバーだし(私のあこがれはドロップハンドル!)
でも最近あちこちに乗っていくようになって、愛着がわいてきてたんだよな。最近じゃトライバッグもつけたし(駐輪場に置くときははずしてから行くけど)、ドリンクホルダーなんかもつけちゃって、サドルも安物だけど新品に替えて。(そうだよ、新品に替えたとたんに盗まれたんだよ。)
かわいがりはじめたところで、こんな無残な姿に。悪かったよ、もうボロ自転車なんて言わないよ。…やっぱりボロ自転車って言うと思うけど、その時も愛情をこめてそう呼ぶよ(愛する者を愚妻とか豚児と呼ぶように)。その無残な姿をなんとかしてやるぞ。
・・・というわけで昨日の土曜日、八幡宿から誉田まで行った帰りに蘇我に出て、バイシクル セオ(Ario蘇我店)へ。そこまでは子供の自転車のサドルをマウンテン君(名前はこれから考えます。現在の仮称は「とーちゃん号」)に差し込んでいきました。
で、安いやつだけどサドルとサドルポスト買って、サドルバッグと、さらにサイクルコンピュータもかってしまった。距離計ほしかったのだけど、これを付けたというのは、まだしばらくはお前(マウンテン君)に乗るぞという気持ちでもある。
秋の日は釣瓶落としというとおり家についたころにはとっぷり暮れてたけど、さっそく全部取り付け。もうこの自転車を駐輪場に置く気はない。月曜からは出勤時も駅まで徒歩だ(徒歩で充分な距離を自転車で行ってるから被害にあったのかも)。
さあ、次はどこに行こうか。

礼拝のプログラム

2008-10-19 08:46:03 | 教会
私が出席している教会では、礼拝の中で子供向けのメッセージの時間があって、そのあと子供たちを送り出して大人向けのメッセージがあります(子供たちも望むなら続けて出席できます)。そして子供たち向けの「今月の賛美」と、メッセージ前の「今月の賛美」があります。交読文は新生賛美歌所載のものをローテーションしています。
というわけで、メッセージや聖書箇所と、賛美や交読文が、あまりマッチしないのが普通です。(大人メッセージ後の賛美はメッセージとリンクするものが選曲されているようです)

ところが、また1週遅れのBLOGになるのですが、先週10/12の礼拝プログラムはおもしろかったのです。

メッセージはヨナ書3,4章から。
で、大人の「今月の賛美」は、新生賛美歌379。1,3,4節をリフレインなしで引用します。
(1)行きて告げよあまねく いずこの民にも
心をば変えて 新たにせよと 新たにせよと
(3)語れ 人を罪より 滅びの中より 救わんがために
降りしイェスを 降りしイェスを
(4)示せ 救いの君を
苦しみたまいし このイェスの他に 救いはあらじ 救いはあらじ
これ、曲はいわゆる「教団賛美歌」の453番、私の愛唱歌でもある「聞けや愛の言葉を」で、私としては教団賛美歌のほうが歌として好きなのですが(どうも好きな賛美歌の歌詞違いというのは、好きな歌を「替え歌」で歌うことを無理強いされているような気になる)、ヨナ書のあとで賛美するとなると新生賛美歌の歌詞はとてもGood。ヨナは時代的に、イエス・キリストによる救いは宣教できなかったはずですが、しかしこの歌詞はニネベに宣教したヨナにぴったりじゃないですか、これがたまたま「今月の賛美」だったわけ。

しかも交読文が、たまたま新生賛美歌3番「詩編8篇」でした。神の主権をたたえ、神に刃向かう者は滅ぼされると宣言し、しかし「人の子は何ものなのでしょう、あなたがかえりみてくださるとは」と歌うこの詩編、大いなる都ニネベの十二万人以上のアッシリア人を神は惜しまれたというヨナ書のテーマにぴったりじゃないですか。

思わず礼拝後に牧師と「今日のプログラムすばらしかったよね」と感動をわかちあいました。まさに「神によって整えられた礼拝」という感じ。
もちろん、偶然と解釈してもいいことです。でも神に礼拝を捧げるとき、その礼拝を神ご自身が整えてくださっていると感じられるのは、すごい喜びがありました。
ただ、ちょっと複雑ではあるのだけど。というのも、今年度からのこの「今月の賛美」というやり方には、前述の通り賛美と聖書箇所がリンクしがたいという難点があって、私は常々不満だったわけです。でも、私たち人間が設計した礼拝プログラムでは「今日のプログラムはよくできてるな」と担当者を評価することはあっても、今回のように礼拝プログラム自体を通して神を感動するということはなかったんじゃないだろうか。
だからといって、全部神様まかせにしてしまうのも、私たちが神様にプレゼントする礼拝としてどうなんだろうと思うし。(これは昔ある人から聞いたことなのだけど、その人の知っている牧師は礼拝で使う讃美歌を事前に奏楽者に伝えないのだそうです。プログラムにも載せない。奏楽者が「練習する時間がほしいので事前に教えてください」と言ったら「礼拝の中で『この賛美歌だ』と示されたものを使うので、事前には決められない」と答えられたとか。そういうやり方もアリかなとは思うけど、奉仕者にとってはたいへんすぎる)

うーん、どう考えたらいいんだろう。