布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

トマスと他の弟子たち

2008-04-21 13:44:38 | 聖書
昨日の千葉バプテスト教会の礼拝メッセージは、ヨハネ福音書20章の、復活のイエスがトマスに顕れる箇所からでした。
この箇所を読むたびにいつも思うのは、トマスに「わたしたちは主を見た」と証しした「ほかの弟子たち」(25節)つまりトマスとユダ・イスカリオテを除く10人のことです。この場面では脇役なのですが(だからメッセージでも特に取り上げられはしなかったけど)、気になるのです。

私たちキリスト者は、すでに主を知った者として、世に証しする中で「この真実をどうしてわかってくれないのだろう、どう伝えればいいのだろう」と感じることがあります。
同じように、いえ何十倍ものもどかしさを、このとき10人は感じていたはず。彼らが復活のイエスに会ったという「実体験」は、私たちの主に対する「確信」とは比較にならない確かさだし。しかも、イエスをまったく知らない隣人に伝えるのと違って、彼らはイエスを知っているトマスに伝えているのに、信じてくれないのです。
八日後にイエスが再度顕れるまでの間、10人はトマスの顔を見るたびに証しして、しかし「どうして信じてくれない、どうして信じられない、どう言えば伝わる」と煩悶し続けたに違いありません。

実はこの煩悶を味わったのは、この10人が最初ではありませんでした。以前に書いたものと重複しますが、先にマグダラのマリアが弟子たちに「わたしは(復活した)主を見ました」と証ししたのに、彼ら自身が信じなかったのです。
きっと彼らは、トマスに証ししながら「俺たちも信じられなかったものなぁ。マリアの気持ちが今はよくわかるよ」という思いだったことでしょう。

で、結局トマスは、弟子たちの証しによって信じることはできず、イエス自身によってやっと信じるのです。これは10人も一緒でした。どちらも、人の証しによってでなく、主ご自身のアプローチによって。百万言の証しによってでなく、主の「シャロームがあるように」という挨拶の一言によって。

トマスだけでなく10人も「見なくては信じられない者」でした。「見ないのに信じる人は、幸いである」ということばは「イエスはトマスに言われた」と記録されているけれど、これは10人に向けても言われた言葉だったのではないでしょうか(イエスがペトロに「サタンよ引き下がれ」と叱った時もペトロだけでなく人々に言ったし)

結論めいたことを言うなら、これらの記録から「言葉による証しだけで実を結ぶことはない」ということが言えるのではないでしょうか。もちろん、言葉の証しがむなしいというわけではありません。やっぱり「実を結ばせる主」に期待する祈りの熱心がともなってこその証しだよね、ということです。