布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

思い込みを除く

2005-08-31 23:55:55 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルで、アルファコースの前夜祭(?)に参加。
ALPHAというのは、Anyone(誰でも参加できる)、Learning(聖書についての学びで)、Pasta(パスタか何か軽食つき)、Helping(一方的に教えるより助け合いながら)、Ask anything(何でも質問していい)というキリスト教入門コース、なのですが。
「パスタのような軽食」どころじゃなくなってます。今日は前夜祭(ウェルカム・サパー)ということもありますが、軽食にしては豪勢です。

今日は、歓迎がメインということで、トークは軽く短く。ヨハネ福音書1:29から「見よ。」「世の罪を取り除く」「神の子羊」について。
特に「見よ」から、「見えている、とっくにわかっている」という御見込みを取り除かなければというところが心に残りました。十字架のあとエマオへの途上でイエスに再開した二人の弟子でさえ、視界にある師を見ることができなかったのだと。
私なんかはなまじ教会経験が長いもので、知識的にはけっこう「わかってる」つもりになってることが多いもので。

ところで思ったのだけど、この箇所を読むときは、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であるということばかり注目してしまうのだけど、バプテスマのヨハネは、ナザレ村のイエスを見てどういう思いでそう叫んだのか、もう一度考えてみなきゃと思った。
聖書を読む私たちは、この場面の約3年後に何が起きたか知っている。イエスは、世の罪を取り除くための生贄として、十字架という祭壇で、神にささげられるのだ。そのことを私たちは、「私の罪のために神はそこまでしてくださった」という感謝と、「私の罪のために神はそこまでしなければならなかった」という悔い改めを持って、受け止める。
けれどバプテスマのヨハネは、「それ」が起きる前から「それ」を予期していて、この日に叫んだわけだ。

彼は「これで、世の罪が取り除かれる」と歓喜の叫びをあげたのだろうか。確かに彼は、後からくる偉大な方を待ち望んでいた。けれど預言者ヨハネにとっては、「世の罪を取り除くために、神を十字架にかけなければならない時が来てしまった」という思いも強かったんじゃないだろうか。

十字架以前、人々は自分の罪をあがなうために、家畜などをいけにえとして神にささげていた。
動物の命を軽んじたわけではない。どうでもいいような無価値なものは、いけにえの役目を果たさない。大事な財産である家畜だからこそ、緒に遊牧暮らしをしてきた仲間だからこそ、惜しむべきものだからこそ、「こうまでしなければ罪が清められない」という悔悟とともにいけにえとして捧げることができる。
ヨハネはイエスを見て「これで、罪があがなわれる」と喜んだのだろうか。神が彼に与えた使命だけを考えれば、喜んだかもしれない。けれど人間である預言者としてはどうだろう。「とうとう私たち人間は、キリストをいけにえの子羊にしなければならない」という思いはなかっただろうか。そう思うと、洗礼者ヨハネの心中やいかばかりだっただろう。