布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

ダニエル記6章

2005-08-25 23:55:55 | 聖書
ふと、ダニエルについて考えた。

ダニエル記6章の粗筋はこうだ。
ペルシャ王国の捕虜だったユダヤ人ダニエルは、王国の120人の総督の上に立つ3人の大臣の一人になった。王はダニエルに王国全体をまかせようと考えたが、他の大臣や総督たちはダニエルを落としいれようと「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」との禁令を王に出させた。
しかし「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」
このため王は悩みながらも法に従ってダニエルを獅子の穴に入れたが、神の守りによりダニエルは生還する。

ダニエルが危険を顧みず信仰をたもったのはえらい。しかしそれ以上に興味深いのは、ダニエルは法案成立を阻止しようともしなかったことだ。法案が出されたとき、王国のスリートップの一角であるダニエルに知られないままということはありえないだろう。

今、税金で建てられた学校で国旗があげられるだけで、あるいは国民の一人が靖国神社に行くだけで、大迫害が始まるかのように叫び声を上げるクリスチャンが非常に多い。
気持ちはわからないでもない。「獅子の穴に入れられようとも主が守ってくださる」とまで信じる信仰がないということでは、私も彼らと同じだからだ。

迫害の時代を阻止しようとするのは、自分にいかに信仰がないかを表明しているのと同じではないだろうか。

聖書には、再臨には大迫害の時代がともなうとはっきり明記されている。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んだのは一休禅師だったと思うが、本物のクリスチャンなら「迫害は主の再臨への一里塚、この上もなきめでたさよ」とでも喜ぶのではないだろうか。
そこまで根性のすわった信仰がないということでは、私も国旗国歌靖国に反対するクリスチャンと同じだ。