千葉バプテスト教会に出席。調弘道師の説教は、ルカ24:13~35から「エマオ途上にて」
私たちが生活する中で、主がともに歩んでくださっている。私たちが気付いていなくても。そしてエマオの二人は、歩んでいった先で、主がともにいてくださったことに気付いた。
調師の説教では、今年の復活節後の主日礼拝で、主の墓を見に行った女たちの記事から「私たちの弱々しい足取りの先に、主が立っていてくださる。」という解き明かしがあって、いまだに印象に残っている。そして今日のメッセージ。
FootPrintsという有名な詩がある。人生を振り返ると、自分の足跡と、共に歩いてくださっていた主の足跡があった。しかし人生でもっとも苦しかった時期の足跡が一人分しかない。それは主が自分を背負って歩いてくださったからだった、という内容だ。
私は実はこの詩があまり好きじゃない。私にとってイエス・キリストは、へこんだ私を背負って無理にでも前進するより、私が立ち直れるまでそばで待っていてくださる方と思うから。(イエスがそばにいてくだされば時間がかかろうとも立ち直れると信じるから。「もう歩けません」という私を主がおんぶしていってくれるというならこれほど楽な信仰はない、なんて言えるのはそこまで打ちのめされたことがないからかもしれないけれど)
ということを、ずいぶん以前になるが市原シャローム教会のヴァンフーラ牧師にぶつけたことがある。ヴァンフーラ師の答えは、「どちらも正解なのでは」というものだった。
それで、以前は「嫌い」だったこの詩が「好きではない」くらいになったのだけど、調師の2回のメッセージで今回なるほどと思った。主が私に関わってくださる時、その関わり方の見え方は一様ではない。私の弱々しい足取りの先に立っていてくださるのも主で、一緒に歩いてくださるのも主で、必要とあらば背負って歩いてくださるのも主なんだ。
今日は月初の日曜日ということで、「主の晩餐式」(聖餐式)が執行された。エマオの村で主がパンを割かれた時に弟子たちの目が開かれたことを思い、私の目も開かれるようにと祈りながら配餐に与った。
私たちが生活する中で、主がともに歩んでくださっている。私たちが気付いていなくても。そしてエマオの二人は、歩んでいった先で、主がともにいてくださったことに気付いた。
調師の説教では、今年の復活節後の主日礼拝で、主の墓を見に行った女たちの記事から「私たちの弱々しい足取りの先に、主が立っていてくださる。」という解き明かしがあって、いまだに印象に残っている。そして今日のメッセージ。
FootPrintsという有名な詩がある。人生を振り返ると、自分の足跡と、共に歩いてくださっていた主の足跡があった。しかし人生でもっとも苦しかった時期の足跡が一人分しかない。それは主が自分を背負って歩いてくださったからだった、という内容だ。
私は実はこの詩があまり好きじゃない。私にとってイエス・キリストは、へこんだ私を背負って無理にでも前進するより、私が立ち直れるまでそばで待っていてくださる方と思うから。(イエスがそばにいてくだされば時間がかかろうとも立ち直れると信じるから。「もう歩けません」という私を主がおんぶしていってくれるというならこれほど楽な信仰はない、なんて言えるのはそこまで打ちのめされたことがないからかもしれないけれど)
ということを、ずいぶん以前になるが市原シャローム教会のヴァンフーラ牧師にぶつけたことがある。ヴァンフーラ師の答えは、「どちらも正解なのでは」というものだった。
それで、以前は「嫌い」だったこの詩が「好きではない」くらいになったのだけど、調師の2回のメッセージで今回なるほどと思った。主が私に関わってくださる時、その関わり方の見え方は一様ではない。私の弱々しい足取りの先に立っていてくださるのも主で、一緒に歩いてくださるのも主で、必要とあらば背負って歩いてくださるのも主なんだ。
今日は月初の日曜日ということで、「主の晩餐式」(聖餐式)が執行された。エマオの村で主がパンを割かれた時に弟子たちの目が開かれたことを思い、私の目も開かれるようにと祈りながら配餐に与った。