布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

エマオ途上にて

2005-09-04 21:00:00 | 聖書
千葉バプテスト教会に出席。調弘道師の説教は、ルカ24:13~35から「エマオ途上にて」
私たちが生活する中で、主がともに歩んでくださっている。私たちが気付いていなくても。そしてエマオの二人は、歩んでいった先で、主がともにいてくださったことに気付いた。
調師の説教では、今年の復活節後の主日礼拝で、主の墓を見に行った女たちの記事から「私たちの弱々しい足取りの先に、主が立っていてくださる。」という解き明かしがあって、いまだに印象に残っている。そして今日のメッセージ。

FootPrintsという有名な詩がある。人生を振り返ると、自分の足跡と、共に歩いてくださっていた主の足跡があった。しかし人生でもっとも苦しかった時期の足跡が一人分しかない。それは主が自分を背負って歩いてくださったからだった、という内容だ。
私は実はこの詩があまり好きじゃない。私にとってイエス・キリストは、へこんだ私を背負って無理にでも前進するより、私が立ち直れるまでそばで待っていてくださる方と思うから。(イエスがそばにいてくだされば時間がかかろうとも立ち直れると信じるから。「もう歩けません」という私を主がおんぶしていってくれるというならこれほど楽な信仰はない、なんて言えるのはそこまで打ちのめされたことがないからかもしれないけれど)
ということを、ずいぶん以前になるが市原シャローム教会のヴァンフーラ牧師にぶつけたことがある。ヴァンフーラ師の答えは、「どちらも正解なのでは」というものだった。
それで、以前は「嫌い」だったこの詩が「好きではない」くらいになったのだけど、調師の2回のメッセージで今回なるほどと思った。主が私に関わってくださる時、その関わり方の見え方は一様ではない。私の弱々しい足取りの先に立っていてくださるのも主で、一緒に歩いてくださるのも主で、必要とあらば背負って歩いてくださるのも主なんだ。

今日は月初の日曜日ということで、「主の晩餐式」(聖餐式)が執行された。エマオの村で主がパンを割かれた時に弟子たちの目が開かれたことを思い、私の目も開かれるようにと祈りながら配餐に与った。

思い込みを除く

2005-08-31 23:55:55 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルで、アルファコースの前夜祭(?)に参加。
ALPHAというのは、Anyone(誰でも参加できる)、Learning(聖書についての学びで)、Pasta(パスタか何か軽食つき)、Helping(一方的に教えるより助け合いながら)、Ask anything(何でも質問していい)というキリスト教入門コース、なのですが。
「パスタのような軽食」どころじゃなくなってます。今日は前夜祭(ウェルカム・サパー)ということもありますが、軽食にしては豪勢です。

今日は、歓迎がメインということで、トークは軽く短く。ヨハネ福音書1:29から「見よ。」「世の罪を取り除く」「神の子羊」について。
特に「見よ」から、「見えている、とっくにわかっている」という御見込みを取り除かなければというところが心に残りました。十字架のあとエマオへの途上でイエスに再開した二人の弟子でさえ、視界にある師を見ることができなかったのだと。
私なんかはなまじ教会経験が長いもので、知識的にはけっこう「わかってる」つもりになってることが多いもので。

ところで思ったのだけど、この箇所を読むときは、イエスが「世の罪を取り除く神の子羊」であるということばかり注目してしまうのだけど、バプテスマのヨハネは、ナザレ村のイエスを見てどういう思いでそう叫んだのか、もう一度考えてみなきゃと思った。
聖書を読む私たちは、この場面の約3年後に何が起きたか知っている。イエスは、世の罪を取り除くための生贄として、十字架という祭壇で、神にささげられるのだ。そのことを私たちは、「私の罪のために神はそこまでしてくださった」という感謝と、「私の罪のために神はそこまでしなければならなかった」という悔い改めを持って、受け止める。
けれどバプテスマのヨハネは、「それ」が起きる前から「それ」を予期していて、この日に叫んだわけだ。

彼は「これで、世の罪が取り除かれる」と歓喜の叫びをあげたのだろうか。確かに彼は、後からくる偉大な方を待ち望んでいた。けれど預言者ヨハネにとっては、「世の罪を取り除くために、神を十字架にかけなければならない時が来てしまった」という思いも強かったんじゃないだろうか。

十字架以前、人々は自分の罪をあがなうために、家畜などをいけにえとして神にささげていた。
動物の命を軽んじたわけではない。どうでもいいような無価値なものは、いけにえの役目を果たさない。大事な財産である家畜だからこそ、緒に遊牧暮らしをしてきた仲間だからこそ、惜しむべきものだからこそ、「こうまでしなければ罪が清められない」という悔悟とともにいけにえとして捧げることができる。
ヨハネはイエスを見て「これで、罪があがなわれる」と喜んだのだろうか。神が彼に与えた使命だけを考えれば、喜んだかもしれない。けれど人間である預言者としてはどうだろう。「とうとう私たち人間は、キリストをいけにえの子羊にしなければならない」という思いはなかっただろうか。そう思うと、洗礼者ヨハネの心中やいかばかりだっただろう。

教会/ビオトープ

2005-08-28 20:00:00 | 聖書
昨夜は子供と一緒に寝たため、4:00前には目が覚めた。
というわけでファミレスに行って、今日の子供メッセージ(礼拝中の子供向け説教)の準備のまとめ。家でやってもいいのだけど、必要なものだけ持って外でやるほうが気が散らなくてよい。

帰宅後、草むしりを少しやって、千葉バプテスト教会へ。今日の子供メッセージ担当は申命記5章から十戒の「盗んではならない。」
単純明快すぎて逆に準備が難しかったけれど、案外まとまった話しができたとは思う。ただし不思議なもので、「うまくいった」と思う日は落ち込む。まとめ方も含めて技術に走ってしまったような気がするのかもしれない。悪戦苦闘した日もそれはそれで落ち込むのだけどね。

礼拝後はそのままCSの夏季学校というか子供会。子供たちみんなでサンドウィッチを作っていただいたあとは、礼拝、教会の庭でプール遊び、キックベース、ドッジボールなどなど。礼拝の式次第も含めてプログラムはすべて子供たちが考え、司会や奏楽も子供たち。たいしたものです。

ビオトープの金魚は、1週間経つが今回は元気。今朝はホテイ草が花をつけていた。

ダニエル記6章

2005-08-25 23:55:55 | 聖書
ふと、ダニエルについて考えた。

ダニエル記6章の粗筋はこうだ。
ペルシャ王国の捕虜だったユダヤ人ダニエルは、王国の120人の総督の上に立つ3人の大臣の一人になった。王はダニエルに王国全体をまかせようと考えたが、他の大臣や総督たちはダニエルを落としいれようと「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」との禁令を王に出させた。
しかし「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」
このため王は悩みながらも法に従ってダニエルを獅子の穴に入れたが、神の守りによりダニエルは生還する。

ダニエルが危険を顧みず信仰をたもったのはえらい。しかしそれ以上に興味深いのは、ダニエルは法案成立を阻止しようともしなかったことだ。法案が出されたとき、王国のスリートップの一角であるダニエルに知られないままということはありえないだろう。

今、税金で建てられた学校で国旗があげられるだけで、あるいは国民の一人が靖国神社に行くだけで、大迫害が始まるかのように叫び声を上げるクリスチャンが非常に多い。
気持ちはわからないでもない。「獅子の穴に入れられようとも主が守ってくださる」とまで信じる信仰がないということでは、私も彼らと同じだからだ。

迫害の時代を阻止しようとするのは、自分にいかに信仰がないかを表明しているのと同じではないだろうか。

聖書には、再臨には大迫害の時代がともなうとはっきり明記されている。
「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んだのは一休禅師だったと思うが、本物のクリスチャンなら「迫害は主の再臨への一里塚、この上もなきめでたさよ」とでも喜ぶのではないだろうか。
そこまで根性のすわった信仰がないということでは、私も国旗国歌靖国に反対するクリスチャンと同じだ。

姦淫してはならない

2005-08-20 22:00:00 | 聖書
明日は千葉バプテスト教会の「静聴の時」(教会学校の成人クラス)の担当。箇所は申命記5章の十戒から「姦淫してはならない。」
久しぶりの成人クラスだとて張り切ろうと思ったら、よりによってこういう扱いにくいand語る資格もない箇所かぁ、と月曜から呻吟している。

アルファ・ウィークエンド

2005-06-19 20:55:17 | 聖書
東京チャペルでやっているアルファコースで、聖霊について集中して学ぶアルファウィークエンドに参加。

いろいろ収穫が大きかったけど、とくに大きかったのは、「『三位一体』というけど、どうも自分が思っていたよりかなり『一体』らしいぞ」ということだった。以下、コースで学んだことや、牧師や他の参加者とのやりとりなどから得られた、現在の自分の理解をメモしておく。

たとえばイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた場面も、父と子と聖霊が一堂に会したというふうにしか見ていなかった。聖霊がイエスにくだったというのも、いわば"on"であって"in"とは思っていなかった。けれどすぐあとで、イエスが聖霊に満たされたとあるじゃないか。これは明らかに"in"だ。

-第三位格と第二位格が"in"って、どういうことだ?
-それが「一体」ということなのだよ。

そうすると、万物は御子によって創造されたというのも、理解がかわってくる。
父が子とともに、つまり"with"で創造をおこなったと思っていたのだけど、これも"in"なんじゃないか?

-父と子が"in"って、どっちがどっちの「中に」なんだ?
-どっちがというのではなく、まったく対等で一体なのだよ。
-そこまで三位が一体だとすると、今までヤハウェ(ヤーウェ、エホバ)は「父」の名だと思っていたけど、あるいは「三位一体としての神の名」なんだろうか。
-どちらかというとそうだろう。ヤーウェが「父」の名なら、キリストに向かってハレルヤ(ヤハウェをたたえよ)というのはおかしくなる。
-確かに、イエスも「父」をヤーウェと呼んだことはなかったね。

聖書を読んでみようではヤハウェは「父」の名としていたけど、あちこち直したくなってきたな。


-たとえば「キリストの霊」って出てくるけど、これは受肉の状態を離れて霊の状態になったキリスト?それとも聖霊?
-キリストは肉体を持ったまま昇天したから、「受肉の状態を離れて」というのはおかしいんじゃないか?だからそれは聖霊だろ。
-キリストは今この時にも、肉体(物質)をもったまま、天で神の右にいるということ?
-そうだから、キリストが初穂と呼ばれるんだろう。終わりの時には人も肉体を持って復活し、神の国に入ることになる。


今までの理解がかなりピンボケだったような気がする。
いろいろなことがパッと照らされて示されたような。


聖霊についての集中的な学びの中で、「もしかしたら聖霊のバプテスマを受けちゃうかも?でもって、異言で祈れるようになったりして?」という思いはあった。

結果として、そうはならなかった。けど、それでよかったのかもしれない。
気付かされたのは、私が聖霊を求めるとき、そこに「神がいるなら見せてみろ。そうしたら信じようじゃないか」という思いがあるのではないかということ。いわば「しるしを求める『悪い時代』の一人」だったということ。
主は聖霊を与える代わりに、そのことを気付かせたんじゃないだろうか。

ロッテにマジック点灯

2005-06-06 12:47:52 | 聖書
なんとロッテが、昨日でプレイオフへのマジックを点灯させてしまった。
しかもセリーグで首位争いをしている阪神との三連戦で、だ。

しかしいい加減、交流戦が長すぎる。そろそろパリーグ同士の直接対決が見たいし、ソフトバンクのファンだってロッテとの直接対決を見たいんじゃないか?
NFLを見慣れた者には、なんで交流戦を一時期に集中させるのか疑問。

それ以前に「交流戦の順位」というのが謎。
優勝とは直接の関係はないのに。

木下弘人牧師

2005-04-26 23:50:00 | 聖書
きのした、ではなく、きしたひろと。
職業:牧師。社会福祉家でもあった。福祉施設の充実では全国屈指と言えるだろう千葉県富津市のその福祉は、ドイツから来た「ミッドナイト・ミッション」の宣教師たちと木下先生によって拓かれたものだったと言っていいと思う。

1911年生まれ。2005年4月24日、94歳で天に召される。
今日、前夜式(いわゆるお通夜)に列席させていただきました。

木下先生は日本同盟キリスト教団中野教会の、今から数えて先々々代の牧師。中野教会の主任牧師は、教会付属の上ノ原幼稚園の園長を兼任するので、布忠が幼稚園のときの園長先生でもありした。

といっても、当時の木下先生のことはあまり覚えてないかなぁ。
中野教会の牧師を退かれたあとも名誉牧師として時々は説教に来られたのですが、そのときのことのほうが覚えているかも。
とにかく、「説教するのがとにかく喜び」という感じの説教でした。
身振り手振りが大きく、講壇の左右に歩き回るので、マイクが声を拾えなくて聞こえなくなったりすることもしばしば。

木下師を含めて中野教会の牧師を4代知っているのだけど、この4人の中で一番、子供に聖書のお話しをすることに喜びを感じていると見えたのも木下先生でした。

中野教会の牧師は園長として、上ノ原幼稚園の子供たちにも聖書のお話しをしなければならないわけだけど、小さい子にお話しするというのはかなり難しいものです。
布忠も教会学校で奉仕して、中学高校生のクラス、小学生のクラス、幼稚園児のクラスと経験しましたが、年齢が下がるほど難しかったですね。

木下先生の次の牧師も、幼稚園でお話しする日の前後には毎回「難しい」と言っていました。

その次の牧師も、幼稚園でのメッセージが近づくと、祈祷会で必ず祈祷課題に上げられていました。この方は論理を緻密に積み重ねるタイプだったから、その分、子供相手は苦心されたんじゃないかなぁ。私はこの先生の説教は波長が合ったんだけど。

今の牧師は、教員資格を持っているそうだから、前の二人ほどではないかもしれない(苦心しなかったということもないかもしれないけど)。
けれど木下先生はかなわないと思う。それくらい木下先生は、まるで「私は子供たちにイエス様を伝えるために牧師になったんだ」とでもいうかのように、ニッコニコしながら夢中になって話していた。

そう、いつもニコニコしている先生だったんだ。それも、子供たちに負けないくらい元気なおじいさんのニコニコだから、見てるだけでもパワーをくれる人だった。
元気ということでは、福祉施設「望みの門」の責任者として活躍していたときも「ここの特別養護老人ホームの入居者には、私より若い人がたくさんいる」と言っていた。
まさに八面六臂のパワフルさ。で、その八面ともがニコニコというわけ。

笑顔というのは案外クセモノで、常に笑顔の人だと逆に「腹が見えない」なんて思わされたりもする。でも木下先生のニコニコにはまったくそういうところがなかった。

さすがにお年を召されてからは、体も少しずつ弱くなっていたようで、富津教会でお会いするたびに(富津教会には先代牧師の頃までは、ときどき礼拝に出席させていただいていた)、「さすがに昔のような元気はないかなぁ」と思ったりしたけど、今年2月で94歳だったっていうから、それにしてはやっぱり元気な人だったのだろう。

今は天国で、イエス様のそばであのこぼれるような笑顔(本当にこの表現が似合う人だった)でイエス様を賛美しているだろうと思う。

マタイ28章9節

2005-04-10 20:29:59 | 聖書
千葉バプテスト教会に出席。
説教は調牧師。最近、説教が短めなんだけど、なんかけっこうグッとくるところがあって、先週の「ダメな者から救われるんです」というひとことにもなんかすごく感動した。それはすでに知っているはずのことだったのだけど、あらためてグッと来た。

で、今週はこのマタイ28章から。特に9節について「弱々しく力ない足取りの先に主が立っていてくださる」という一言で、ああ今日は本当に恵まれたなぁと。

今週はまた子供メッセージを担当。今までの反省も含めて自分なりに気合を入れなおして準備したのだけど、準備しすぎて話がふくらみすぎて、絞り込む段階でまたへろへろになってしまった。難しい。

聖書の中の「太陽」

2005-04-04 20:04:08 | 聖書
マタイ5:45に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とある。
教会での子供メッセージ奉仕の都合でここを読んでいて、聖書の中で太陽がどのように扱われているかを調べてみようと思った。

新共同訳聖書(続編を除く)の場合、「太陽」は旧約に87回、新約に23回、計110回登場する。
そのほとんどは、太陽そのものの描写だ。一部、エジプトの太陽神についての記述もある。

そんな中で目に付くのは、太陽は、災いをもたらすもの、恐ろしいものとしている箇所だ。

ヨブ8:16「水があれば葦は太陽にも負けず」(つまり水がないと太陽は葦を枯らす)
詩篇121:6「昼、太陽はあなたを撃つことがなく」(でなければ太陽はあなたを撃つ)
イザヤ49:10「太陽も熱風も彼らを打つことはない。」(でなければ太陽と熱風が彼らを打つ)
ヨナ4:8「太陽もヨナの頭上に照りつけたので、」
その他、黙示録1:16、7:16、16:8。


使徒26:13など、太陽を「輝くもの」として比喩的に使っているところも多い。
コヘレト11:7のように、太陽そのものを「喜ばせるもの」としているところもある。
太陽を神との関係で語るところも多い。詩篇19:4,5、同84:11、マラキ4:2など。

しかし、太陽そのものの「作用」ということでは、前述の通り葦を負かそうとしたり、人を撃ったり、照りつけたりというネガティブな文脈が少なくない。
一方で、私が読んだ限りの話しだけど、ポジティブな文脈のものは、2サムエル23:4「太陽の輝き出る朝の光 雲もない朝の光 雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。」という一箇所しか見つからない。

どうも、日本人の持つ太陽のイメージとはかなり異なるようで、太陽について思い込みを持って聖書を読むと、文脈を間違えるのではないだろうか。
2サムエル23:4は確かに、日本人のイメージにあうけど、多数決なら「その他の少数意見」ってところだ。

以前にどこかで聞いたか読んだかしたのだけど、イスラエルでは旅をする時には夜に移動するものだったという。昼間は太陽が「あなたを撃つ」ほどに照りつけてくるからというのだ。たとえば詩篇119:105は、昼間に移動する旅のことを言っているとは思えない。
けれど日本人の感覚では、夜中に旅をするのは「おてんと様の下は歩けない」という事情がある場合だけということになるだろう。

名越二荒之助が著書「新世紀の宝庫・日本」で指摘しているところでは、中東など乾燥した国には国旗に緑色を使うところが多いが、植物の緑があふれるのが彼らの理想だからだろうとのことだ。
そういう国の人には、太陽をシンボライズした日本の国旗に(反日諸国とは違う意味で)不快感を持つケースもあるそうで、それくらい太陽というのは「おびやかす存在」なのだと。
(ちなみに同著は、それに比べれば私たちの国土はなんと恵まれているか、という文脈だ。為念)


こうなると、マタイ5:45はどう読むべきだろうか。
日本人の感覚では、神は悪人(正しくない者)にも善人(正しい者)にも等しく「太陽と雨の恵みを与える」と読んでしまう。
しかし上記を踏まえるならここは、神は悪人にも善人にも等しく「苦難を与える」し、正しい者にも正しくない者にも等しく「恵みを与える」と読むべきということにならないだろうか。
だとすれば、ヨブがいうところの「幸いを受けるのだから不幸も受けよう」というのが、マタイ5:45を読む上での適切ということになるのかもしれない。

ただし、雨についても、イザヤ18:4では「暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように。」という表現はあるのだけど。

(2005-4-8にちょっとUPDATE)

聖書の音楽史

2005-03-30 23:01:11 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルの水曜集会は、3回シリーズの「聖書の音楽史」の最終回として、新約聖書の音楽史。

・新約聖書では、音楽についての言及はほとんどない。
・ただ、イエスも弟子たちも賛美を歌ったことは、マタイ福音書26:30に記録されている。
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

・捕囚以降、神殿での(祭司主導の)礼拝と、シナゴーグ=集会での(信徒主導の)礼拝が両輪となっていって、イエスや弟子たちも神殿に詣でる一方で、安息日には会堂に入ったことが記録されている。
・イエスと弟子たちが賛美を歌ったのも、シナゴーグでの礼拝様式とあまり違わないスタイルの中での賛美だろう。

・一方、パウロはコロサイ書3:16で、神に向かって歌うべきだと教えている。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

・この中で、詩、賛美、霊の歌とは以下のようになる。
詩篇、つまり(旧約)聖書の中に記されている賛美を指す
賛美実際に歌われている賛美。たとえば使徒16:25でパウロとシラスが歌ったような。
霊の歌聖霊がうながすままに内面からあふれ出る賛美


さて。

初代教会時代に聖書といえば旧約聖書のことだったけど、現代から見れば新約聖書の中の詩(たとえばマリアの賛歌など)も「詩」に入るのだろう。

現に歌われている「賛美」とは、旧賛美歌、賛美歌21、聖歌、こどもさんびかなどはもちろん、歌声運動も懐かしいゴスペルフォーク、「天使にラブソングを」なブラックゴスペル、ミクタムなワーシップソング、などなど、神を賛美して歌われるすべての歌による賛美だろう。

「霊の歌」は、まず異言で歌う賛美がそれで、福音派育ちの坂井には、いまだに異言というのがよくわかっていないので難しいのだけど、市原シャローム教会いのちの泉キリスト教会でも異言で賛美する兄姉を見てきたし、東京チャペルでも今日あった。


ただ、聖霊によって歌があふれるということでは、異言に限らないと思う。
だって、バッハやモーツァルトに、聖霊の働きはなかったとは言えないだろう。
山内修一や小坂忠が、聖霊の導きで歌を紡いでいるのではない、とは言えないだろう。
本田路津子森祐理やレーナ・マリアの唇に聖霊が触れていない、とも言えないだろう。
(異言による賛美を否定してるんじゃなくてね。「異言ばかりだと(自分の信仰にはよくても)周りがドン引きするよ」と書いたパウロだから、異言だけにフォーカスして「霊の歌」と言ったわけじゃないだろうなと。)

ところで、「詩と賛美と霊の歌と」には、「過去・現在・未来」という構図もあるんじゃないかと思った。つまり、
、旧新約聖書の時代に歌われていた賛美
賛美現在、私たちが実際に歌っている賛美
霊の歌聖霊の導きによって今もこれからもあふれ出す賛美

というように。

としたら、「伝統賛美orワーシップ」ではなく「伝統賛美andワーシップ」が聖書の答えになるのかなと。
あまりいないと思うけど、もしワーシップ好きなクリスチャンが「旧来の賛美歌は古臭くて、とても心をこめた賛美はできない」と思っているとしたら、「でも、もっと古い詩篇は読むでしょ?」と答えよう。
時々いるような気がするけど、もしワーシップに否定的なクリスチャンが「『新しい歌を主に向かって』と言っても、新しきゃいいってもんじゃない」と思っているとしたら、「でも伝統的な賛美歌も、初めて歌われた時には革新的な『新しい歌』だったんじゃないの?」と答えよう。

それに、新しいものといっても100%新しいということはない。必ずそれまでの潮流があって、その上に新しいものがうまれてくる。だから、古さが新しかったり、新しいと思ったものが実は昔もあったものだったりする。

たとえばロックもラップもポエトリー・リーディングも、伝統的な賛美歌より新しい音楽だろう。

ところが、詩篇の詩人はロックのようにシャウトして賛美した。
ヘブライ詩はビートも音程も自由でアクセントの強弱で歌うというラップそのものな形態だったそうだ。というかヘブライ詩は、ラップにつきもののライムからも自由なのだそうだ(音で韻を踏む代わりに、歌詞の意味で韻を踏む「平行法」というスタイルがあるのだそうだ)
ポエトリー・リーディングなんてそれこそ、中世以来のいわゆるチャントそのままなんじゃないだろうか。

「新しい音楽を、新しい表現を」と進んできたはずが、実は昔に帰っただけだったりするわけだ。


※ 聖書の引用は新改訳より。

ヨハネ福音書15章

2005-03-28 21:05:57 | 聖書
渋谷バプテスト教会の国際朝祷会に初参加。
たまたまホームページを見つけて、月曜朝7:30-9:00にやっているというので、6:00前の電車に間に合うように早起きして家を出た。(いつもより1時間はやいのに朝食と弁当を作ってくれた嫁さんに感謝)
中野教会でも水曜朝に祈祷会をやっているのだけど、6:30からなので始発に乗っても間に合わない。

着いてみると、聖書箇所はヨハネ15章の前半、キリストがぶどうの木であって私たちは枝であり、キリストにつながっていれば豊かに実を結ぶというところ。今朝の解き明かしは画家のE兄で、美術史も交えながらの興味深い話しだった(昔は天を目指すモチーフが一般的だったのが、近代では神を無視する構図がほとんどなのだとか)

それにしても、「キリストにつながっていれば」とわかっていて、なぜ逆のことをしてしまうのか。
キリストにつながっていたいとは思う。けれど「今だけ」「ちょっとだけ」という迷いが来る。

私の弱さ、愚かさを、主が覆ってくださるように。

長患いを癒されたあの女のように、イエスの衣の背にでもつながっていたい。
イエスの衣の裾の、房の糸の一本だけでも握りしめていたい。

洗足木曜日 ヨハネ福音書13章1~20

2005-03-24 14:56:24 | 聖書
洗足木曜日記念聖餐式。
洗足木曜とは、イエスが十字架にかけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の際に、主であるイエスが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに仕えなさい」と教えた夜のこと。
多くの(たぶんほとんどの)教会で、最後の晩餐を記念して聖餐式がおこなわれる。
久しぶりに中野教会で培餐に与ることができた。

説教の中で注意を引いたのが、すでに体が清い者は足だけ洗えばよいというところ。救われても、罪から離れて生きるのは難しい。しかし、ひとたび救われた者はすでに全身が清くされているのだから、すべてを主の血であがなわれているのだから、足だけを洗えばよい、主は私の足を洗い続けてくださっている。

アーメン。

しかし、主が今日も私の足を洗いつづけてくださるからといって、だから罪を犯しても大丈夫というわけではない。
足を洗うのは奴隷の仕事だった。主が足を洗い続けてくださっていることに感謝しつつも、それは主を奴隷におとしめたままにしているということだ。

口で「愛する主よ」と祈りながら、罪を犯すたびにその主に奴隷の仕事をさせているとしたら。
イエスが足を洗おうとしたときに、ペトロが拒否しようとしたのは、あまりに恐れ多かったからだろう。

フィリピの信徒への手紙4章10~23

2005-03-09 23:45:08 | 聖書
東京チャペルで聖研に出席。ピリピ書がテキストのアフターアルファ「価値ある人生」9回シリーズの第9回。

テーマは献金。

パウロは貧しさの中にいても豊かさの中にいても平気。

「与えることの三重の喜び」として、
(1)気前よく与えることは他の人の喜び(10~16節)
(2)気前よく与えることは与える人の喜び(17~18節)。蒔く量で収穫が変わるのだから、与えることは将来への投資であるという。
(3)気前よく与えることは神の喜び(18~19節)

(1)について。「イエスはヘブライ語を話したか」(ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード〔著〕、ミルトス出版)によれば、ヘブライ語で「目が明るい」は「気前がよい」の意味であり、「目が暗い」は「ケチ」の意味だそうだ。つまりイエスは「あなたが気前がよいなら、全身が光の中にある。あなたがケチなら、全身が闇の中にある」と言ったわけだ。

(2)は、日本人ならよくわかる。「情けは人のためならず」ってやつだ。

献金ということでは、フリートークの時間にも話したのだが、「惜しみなく、喜んで」というモーセ(を通してのヤハウェ)の言葉があるが、一方で犠牲と痛みがないならキリストの犠牲とヤハウェの痛みに応えることにはならない。献金における犠牲と痛みとは、惜しむ心だろう。とすると聖書は「惜しむ心との戦いを持ち、かつ惜しみなく」「痛みながら、かつ喜んで」と言っているわけだ。アンビバレンツというかアンチノミーというか。

以下は、フリートークの中で出た話題からいくつか。
・献金祈祷で「わずかですがお捧げします」という謙遜は正しいのか。「精一杯捧げます」でよいのではないか。
・生活が破綻するほどまで献金したとして、主はよしとされるか。
・もし急に10億円を手に入れたら、10分の1献金でよいのか、全部献金してしまおうか。
・ある教会では献金を「返金」と称している。ある教会では「献身」と称している。
・10分の1といっても、収入20万円で2万円をささげて18万円で生活するのと、もっと大きい収入で1割をささげて9割で生活するのとでは、違うのではないか。
どれもおもしろいテーマで、論じるには時間がなかったし、そもそも正解があるのかどうかもわからないが、考える意味はあるだろう。

「価値ある人生」は今日でおしまい。ゴールデンウィークあけくらいから、またアルファコースをやるそうだ。
それまでは、聖書の中の賛美について学んでいく予定とか。聖書中の詩についてだろうか、音楽についてだろうか。
詩についてなら、神学的な知識もろくにない少女が詠った「マリアの賛歌」が好きだし、「呪いの詩篇」と言われる詩篇109なんかもちゃんと学んでおきたいところ。
音楽についてならもっとフリートークが楽しみ。(オルガン&斉唱の伝統的な賛美よりも、タンバリンのごとき打楽器と竪琴のごときギターによるワーシップのほうが聖書の登場人物の賛美に近いと思うので)

来週以降も19:30スタートとのことなので、中野に行くのが難しい時には(と言い訳しながら)木場(東京チャペル)に行こう。あ、でも長原(いのちの泉キリスト教会)にもいきたいしなぁ。

サムエル記上5章~7章

2005-03-02 22:07:31 | 聖書
中野教会の聖書研究会祈祷会に出席。(うーん、久しぶり)
以下は聖書研究で石川牧師の講解から発想を膨らませたこと。

一度失い、しばらくの期間の喪失感ののちに再び得るということ。得るために一度失うということ。
イスラエルは、7ヶ月(1サム6:1)+20年(1サム7:2)の間、神の箱を失っていた。この期間を経て[イスラエルの家はこぞって主を慕い求め…](1サム7:2)、罪を告白して(1サム7:2)、偶像を離れてヤハウェに仕えるようになった(1サム7:4)。イスラエルは神(の箱)を一度失ったがために、神(への信仰)を取り戻した。

ヤコブもヨセフを一度失い、そして数年後にヨセフを得た。ヨセフもヤコブを失い、そして得た。

父は放蕩息子を失い、しばらく後に息子を再び得た。
種蒔き時に一粒の麦を失うことで、収穫時に三十倍、六十倍、百倍の麦を得る。

弟子たちはイエスを失い、三日目まで失意のうちに沈んで、しかし再び得た。四十日ののち弟子たちはふたたび(肉眼で見える)イエスを失い、今度はイエスの約束を信じられたであろうから喪失感は前ほどではなかったかもしれないが、数日後に聖霊を受けた。

失う者はそれを得る。

ところでエリは子供の教育を誤った。
そういえばソロモンも(名君と呼ばれるわりに)嫡男の教育を誤り、国を分裂させた。