山口淑子さんが亡くなったあと、思い出して山口さんの著書「誰も書かなかったアラブ」を読み返した。
中国大陸で生まれ北京の女学校へ通っていたころの山口さんは、新聞記者か政治家の秘書になることが夢だったそうだ。
少女時代からのジャーナリストへの志向が、彼女をアラブへ向かわせたのであろう。
本書は昭和49年、サンケイ新聞出版から発行された。
3回の中東旅行で取材したノートを、サンケイ新聞社からすすめられるままに、本にまとめた、とあとがきに記している。
女性の目でとらえたパレスチナの現状。
かつてパレスチナと呼ばれた地域に1948年イスラエルが建国された。
そして、この地からパレスチナ人は追われた。
故郷を取りもどそうとしてパレスチナ人は戦い、イスラエル人もやっと得た国土を死守しようと戦っていた。
山口さんの視点はどちらに偏することなく、女性の目で寄り添い共に泣き、共に共感し笑いながら、アラブの現状を率直にレポートしている。
アラブゲリラの“テルアビブ空港襲撃事件”直後に訪れたベイルート難民キャンプ。
一人の女性が山口さんに、赤ん坊をさし出した。
「この子をあげるから、岡本公三のような勇士に育ててほしい」と懇願したのである。
“ゲリラの民”の詩と真実の副題どおり、山口さんは武装したゲリラの中へも飛び込んで行く。
ゲリラ組織の徹底的な思想教育、軍事訓練場の少年たち。
戦争を生活とするゲリラ組織の日々を見たのだ。
アラブに根をはって生きる日本人の美智子。
山口さんは30年前、李香蘭という名で、日本軍、国府軍、八路軍が戦っていた泥沼戦争の最中、最前線の日本軍兵士を慰問するために、トラックに乗せられ大陸を移動する日々であった。
「戦争をしているんだ、戦場にいるんだ」と、自分に言い聞かせることが精いっぱいであった。
李香蘭は兵士たちが憧れる歌手であった。
歌を聞いた兵士たちは翌日、死体となってもどって来る。
山口さんは、死体を葬る手伝いをする間もなく、再び赤い夕日を浴びて、トラックで戦場に送られた。
アラブの夕陽のなかに、そして戦場がくりひろげられている悲劇のなかに山口さんは立って、古傷の痛みにうずく。
中東戦争の取材に出かける前に行った、ベトナム戦争の取材旅行で、山口さんは、一つの発見をした。
「私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場に傷跡として残したくないために来ているのだ・・・と。」
山口さんは1970年にベトナムの戦場を訪れた。
そして、数えきれぬほど、夫を失った悲しい妻たちに会った。
数えきれぬほど、息子を失った悲しい母たちに会った。
みなし児になったたくさんの少年少女。
いずれも、戦争の最大の被害者たちだった。
カンボジアの国境にある難民キャンプへも行った。
そこで見聞したことは筆舌に尽くしがたい悲惨さの数々。
レポーターとしての立場さえ忘れ、ともすれば、ただ呆然として山口さんは立ちすくみそうになった。
戦争の悲劇と、そこに生きる民衆の姿をできるだけ忠実に伝えていこう。
「それが、現在私にできる一つの使命ではないかと―」
「あなたは、なぜ、アラブへ行くの?」
1973年、山口さんは、ある婦人雑誌の記者の訪問を受けた。
「中東問題に対するあなたの意見は?」
中東問題の一人でも多くの人にわかってもるために、「アラブへ行くことが必要であった」
山口さんが初めてアラブを訪れたのは1971年であった。
この年、パレスチナゲリラによって4台の飛行機が連続ハイジャックされた。
この事件の取材に山口さんは向かった。
1970代に青春を謳歌した当方は複雑な思いで山口さんの取材の足跡をたどるように読んだ。
ゲリラで氏名手配犯の重信房子にも接触し取材をしていた。
その内容が興味深かった。