医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

山口淑子さんの著書「誰も書かなかったアラブ」

2014-09-24 11:49:00 | 受けとめる力


山口淑子さんが亡くなったあと、思い出して山口さんの著書「誰も書かなかったアラブ」を読み返した。

中国大陸で生まれ北京の女学校へ通っていたころの山口さんは、新聞記者か政治家の秘書になることが夢だったそうだ。
少女時代からのジャーナリストへの志向が、彼女をアラブへ向かわせたのであろう。
本書は昭和49年、サンケイ新聞出版から発行された。
3回の中東旅行で取材したノートを、サンケイ新聞社からすすめられるままに、本にまとめた、とあとがきに記している。
女性の目でとらえたパレスチナの現状。
かつてパレスチナと呼ばれた地域に1948年イスラエルが建国された。
そして、この地からパレスチナ人は追われた。
故郷を取りもどそうとしてパレスチナ人は戦い、イスラエル人もやっと得た国土を死守しようと戦っていた。
山口さんの視点はどちらに偏することなく、女性の目で寄り添い共に泣き、共に共感し笑いながら、アラブの現状を率直にレポートしている。
アラブゲリラの“テルアビブ空港襲撃事件”直後に訪れたベイルート難民キャンプ。
一人の女性が山口さんに、赤ん坊をさし出した。
「この子をあげるから、岡本公三のような勇士に育ててほしい」と懇願したのである。
“ゲリラの民”の詩と真実の副題どおり、山口さんは武装したゲリラの中へも飛び込んで行く。
ゲリラ組織の徹底的な思想教育、軍事訓練場の少年たち。
戦争を生活とするゲリラ組織の日々を見たのだ。
アラブに根をはって生きる日本人の美智子。
山口さんは30年前、李香蘭という名で、日本軍、国府軍、八路軍が戦っていた泥沼戦争の最中、最前線の日本軍兵士を慰問するために、トラックに乗せられ大陸を移動する日々であった。
「戦争をしているんだ、戦場にいるんだ」と、自分に言い聞かせることが精いっぱいであった。
李香蘭は兵士たちが憧れる歌手であった。
歌を聞いた兵士たちは翌日、死体となってもどって来る。
山口さんは、死体を葬る手伝いをする間もなく、再び赤い夕日を浴びて、トラックで戦場に送られた。
アラブの夕陽のなかに、そして戦場がくりひろげられている悲劇のなかに山口さんは立って、古傷の痛みにうずく。
中東戦争の取材に出かける前に行った、ベトナム戦争の取材旅行で、山口さんは、一つの発見をした。
「私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場に傷跡として残したくないために来ているのだ・・・と。」
山口さんは1970年にベトナムの戦場を訪れた。
そして、数えきれぬほど、夫を失った悲しい妻たちに会った。
数えきれぬほど、息子を失った悲しい母たちに会った。
みなし児になったたくさんの少年少女。
いずれも、戦争の最大の被害者たちだった。
カンボジアの国境にある難民キャンプへも行った。
そこで見聞したことは筆舌に尽くしがたい悲惨さの数々。
レポーターとしての立場さえ忘れ、ともすれば、ただ呆然として山口さんは立ちすくみそうになった。
戦争の悲劇と、そこに生きる民衆の姿をできるだけ忠実に伝えていこう。
「それが、現在私にできる一つの使命ではないかと―」
「あなたは、なぜ、アラブへ行くの?」
1973年、山口さんは、ある婦人雑誌の記者の訪問を受けた。
「中東問題に対するあなたの意見は?」
中東問題の一人でも多くの人にわかってもるために、「アラブへ行くことが必要であった」
山口さんが初めてアラブを訪れたのは1971年であった。
この年、パレスチナゲリラによって4台の飛行機が連続ハイジャックされた。
この事件の取材に山口さんは向かった。
1970代に青春を謳歌した当方は複雑な思いで山口さんの取材の足跡をたどるように読んだ。
ゲリラで氏名手配犯の重信房子にも接触し取材をしていた。
その内容が興味深かった。

H26.9.19(金) 塩崎厚生労働大臣閣議後記者会見概要

2014-09-24 01:23:39 | 厚生労働省

11:09 ~ 11:23 厚生労働省内会見室)

【厚生労働省広報室】

会見の詳細
《閣議等について》
(大臣)

 おはようございます。今日は閣議がございまして、その後「薬物乱用対策推進会議」がございました。そこで、私からも以下のような趣旨の発言をいたしました。今日は危険ドラッグの乱用の根絶のための緊急対策に基づく各省庁の取組についてのフォローアップが行われたわけでありますが、私からは厚生労働省においては指定薬物の迅速指定、薬事法に基づく初めての検査命令及び販売停止命令の発動、インターネット販売サイトの削除要請などを強力に推進してまいりました。そしてさらに、本日の会議では今後、無承認医薬品としての取締を積極的に行っていくことを申し上げて、警察庁に御協力をお願いいたしました。厚生労働省としては、関係省庁との連携をより一層強めて、引き続き緊急対策に沿って、様々な取組を積極的に推進していきたい、こういうことを申し上げたところでございます。私の方から以上であります。


《質疑》
(記者)

 GPIFについてなんですけれども、この秋にも運用方針の見直しが行われる見通しです。この見直しについての時期は、秋にも、と言われていますけれども、大臣としてはいつ頃になるかというお考えがあれば、お聞かせください。また、自家運用をベンチャー投資まで拡げるべきかというお考えについてお聞かせください。


(大臣)

 このGPIFのガバナンス改革につきましては、御案内のように、この6月の日本再興戦略の改訂版のなかで、運用改革の推進とともに、ガバナンス強化もしろと、こういうことが二本柱で書いてあるわけでありまして、そのなかで基本ポートフォリオにつきましては、総理から前倒しをというようなお話があって、鋭意GPIFにおいて検討しているというふうに私は聞いて、まだ中身は私は聞いておりません。それで、時期は、総理の意向を汲んで、やるんだろうと思いますから、それがいつになるかは私にはよく分かりません。それで、自家運用、ベンチャーの話でありますが、それは当然いろいろなことをGPIFにおいて検討しているんだろうというふうに思います。言ってみれば、白紙から考えるというぐらいの気持ちでやっているんではないかと、私は思っています。


(記者)

 ベンチャー投資まで拡げるべきだというお考えでしょうか。

(大臣)

 私は元々、これまでそういうことをずっと言ってまいりました。ですけれども、それは分散投資のなかでどういうふうにするかということと、大事なことは、リスク管理をどうするんだということでありまして、ですから、ガバナンス改革が極めて大事であり、それについて国民が納得できるようなもの、そうでなければ年金資産を預けるには心配だというんじゃ困るわけで、安心できるガバナンス体制を作って、そのなかに何を入れ込んでいくかということは、専門家が考えることでありますけれども、私は基本的に予断を持たずに、白紙から今回は議論すべきじゃないかというふうに思っています。


(記者)

 ガバナンス改革についてですけれども、改革するための法案について、臨時国会が始まる時期も残り1週間になっておりますが、その法案を臨時国会に提出を目指すお考えでしょうか。

(大臣)

 ガバナンス改革は、内閣としてもやるべしと、こういうことでありますから、中身のある、意味のある良いものをどう作るかということが大事で、決して拙速で作るようなものではないことは、その通りだと私は思っています。ですから、何しろ中身をきちっとしたものにすることが大事だということであります。


(記者)

 臨時国会への提出というのはこだわらないということでしょうか。

(大臣)

 中身が納得いくものができない限りは、なかなかそんなものを出すわけにはいきません。

(記者)

 原爆症認定制度についてうかがいたいんですけれども、昨年の9月20日に、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)などとの定期協議が開かれて1年になるわけですけれども、最初1年に1回程度ということで始まったと思うんですが、今後いつ開かれる見通しなのかということと、これを開催する意義については。

(大臣)

 これは被爆者の代表の方々と、厚生労働大臣がお会いをするということで、私は大変意義のあることだと思っています。御指摘のように昨年の9月20日に、田村大臣がお会いになっているわけでありまして、私としても時間の許す限り、お話を私自身もさせていただきたいというふうに思っていますので、国会も始まることでありますから、予定はどうなるかは別にして、前向きに考えていきたいというふうに思っています。


(記者)

 大臣は政治家を志した原点として、広島の原爆資料館を訪れたことを、インタビューなどで挙げてらっしゃいますけれども、今回被爆者援護行政のトップに就かれたというわけで、それに対する意気込みと、問題意識等々をどう持ってらっしゃるかということをお聞かせください。


(大臣)

 御指摘のように、私もホームページなどでも出していると思いますけれども、小学校の時に父が広島の勤務になって、その時に一緒に行って、原爆祈念館を見ました。大きな衝撃を受けて、こういうことが起きないようにしなければいけない、そして、病気になられた方々、今も被爆されて非常に御苦労されている方々についてもきちっと手当をしていかなければいけないということを、その時思ったので、その時にやはり戦争というのは二度としてはいけないということを強く思って、政治への関心はそこからスタートしているということは、その通りであります。したがって、今回被爆者援護行政の責任を負う立場に就いたわけでありますから、その気持ちの通り、前向きに取り組んでいきたいというふうに思っております。

(記者)

 為替についてうかがいます。今、円安が進んでおりまして、今日の東京外国為替市場では109円、1ドル109円ということになりました。国民生活や賃金などにも影響が幅広くあるかと思うんですが、大臣としてはこれについてどういうふうに御覧になっていますでしょうか。


(大臣)

 マーケットのことは、マーケットに聞けということだろうと思います。したがって、厚生労働大臣としてどうかというのは、特にあるわけではないので、経済政策担当の大臣などが、日本銀行も含めて、適切にやってくれることを期待したいと思います。

(記者)

 虐待の2012年度の死亡事例の検証結果というのが今日ありまして、これから大臣も会議の方に行かれると思いますが、かねてからずっと児童相談所ですとか、相談体制の充実というのがずっと言われておりまして、人員を増やすとか、あるいは専門家をどう育てるかということを今まさに会議でやりますけれども、大臣としては、その辺の人員の質と量についてどういうふうにお考えでしょうか。


(大臣)

 私も児童養護を中心とする要保護児童の問題についての勉強会を長らくやってきて、議員連盟の会長に就いておりますけれども、今、児童養護施設に入っている子どもたちの6割ぐらい、お話を聞いているとですね、だいたい6割ぐらいの子どもたちが虐待で入ってくるということを聞いて、この根の深さというものを感じているわけであって、言ってみれば、子どもたちがこの氷山の一角で見えるだけで、実はその下に社会の大きな問題というのを抱えているんだろうというふうに思います。したがって、その対策はですね、単に氷山の一角で表に見えていることだけに対処するというのでは、おそらく間に合わない。厚労省も、ですから、色々な心理職の配置とか、いろんなことをやってきて人員配置も少し前進しましたが、様々なことを一緒にやってかなければいけないと私は思っています。
 そのなかで、今ご指摘のようにですね、児童相談所の役割強化、機能強化、人員の強化というものは当然必要だと思っていますし、実際これまで(平成)25年度を見ておりますと、相談がだいたい7万3,765件と今までにないほど多くなっていて、それから、それに対応してですね、いわゆる児童福祉士というのを指名しているわけですけれども、これもかなり増やして、今3千人弱いるわけであります。しかしながらですね、児童相談所の役割はもっともっと強化しないといけないということが指摘され続けていることも私はよく分かっておりまして、それについては、この児童福祉士の増員をこの地方財政の措置において、(平成)27年度もですね、今36人が標準団体の人数ですけれども、これを3人増やして39人体制を標準とするということで要望を出しています。それから、休日・夜間にですね、児相(児童相談所)に人がいないということが問題だというふうに言われていて、当面は非常勤の職員を配置しているわけでありますが、これについての補助金、体制支援もやっておって、(平成)27年度については基準額の増額、夜間2人を4人にする、休日を1人から2人にするというようなことをやって体制強化を図りつつありますが、私はやはりこの児相(児童相談所)だけでいいのかどうか、そして、今のように休日や夜間に人がいない体制でこれだけ全国で色々な残念な事件が起きていることに対処しきれるかどうか、これも含めて検討していかなければいけないんじゃないかというふうに思っています。したがってさっき申し上げたように、この児童虐待というのは、本当に根深い、奥行きの深い問題だと思いますので、私としてはですね、個人的には虐待の問題は一つの大きな問題としてこれまで以上に力を入れていかなきゃいかんというふうに思っています。


(記者)

 危険ドラッグについてお話をうかがいます。先週も立ち入り検査、全国的に一斉に入ったと思うんですが、その結果、50、60店舗以上閉鎖に追い込んでいると思います。まずその受け止めを聞きたいのと、今後の対策についてなんですけれども、無承認医薬品で対応していくということなんですが、今後、野党とかが求めている法改正も含めて、どこまで検討しているのか、そこら辺をお聞かせください。

(大臣)

 今お話がありましたように、8月の後半にですね、129店舗のうち50店舗を廃業に追い込むような形で結果が出るようになった、取り締まり強化をしたわけでありまして、これについては、適切にやったと思いますし、これからさらに、順次ですね、件数も増やしていこうということで、根絶に向けて頑張らないといけないというふうに思っています。今後どうするんだという話でありますけれども、現行法制でできることはすべてやっていくということに尽きるというふうに思います。 

(了)

スナック「黄色いリボン」と「セブン」

2014-09-24 01:12:14 | 創作欄

利根輪太郎はスナック「セブン」の花子の歌を聞きながら「あの子歌がうまい!多分歌手になれると思うよ」と感嘆した。
花子が情感を込めて歌った「酒場にて」は輪太郎の好きな歌であった。
「そうね。うまいね」と雪絵が同意した。
「こっちに、おいでよ」と歌い終わった花子を雪絵がボックス席に呼んだ。
「何でも飲みな」
「ありがとうございます。お言葉に甘えてウイスキーの水割りをいただきます」と花子は席を立った。
「輪ちゃん結婚しているのでしょ」
「してます」

「子どももいるんでしょ」
「息子が2人」
「いいね。息子か、誰に似ているの?」
「長男はカミさんに似ているね。次男は俺に似ていると人はいうけど、似ているのだろうか?」
「私も結婚していたら、息子を3人くらい欲しかったね」
「今からでも、遅くないのでは?」
「もう37歳だよ」
「同じ歳なんだね」
「昭和20生まれだよ。19年に戦争に行った父親が戦死しなければね。私も違った人生を歩んでいたよ。取手に来る前は浅草のキャバレーで、その前は上野のキャバレーにいたんだ」
「そうでなんだ」
「気どれる女じゃない。オッパイさわってもいいよ」雪絵がボリュームのある胸を突き出すよにした。
そこへ、花子が戻ってきた。
カウンター席で他の客に話しかけられていたのだ。
「花子は歌うまいね。歌手になればいいのに」と輪太郎が言った。
「ラジオ歌謡の時代ならね。この顔ではテレビに出るよなアイドルになれない」と花子は自分を卑下した。
丸顔で鼻の穴が上を向いていて愛嬌のある顔であった。
「黄色いリボンのママほどの美人ならね」と花子は雪絵を持ち上げた。
「私が美人?!」雪絵が苦笑した。
「うちに来るお客さんたちが、黄色いリボンのママはいい女だと言っている」
輪太郎は改めてスナック「黄色いリボン」のママの横顔を見詰めた。

不可能を可能にする戦いを!

2014-09-24 00:26:44 | 編集スクランブル




雑草には栽培種にはない「生き抜く強さ」がある

★自らの小さな殻を打ち破る戦いをする。
★思想が乱れるから不幸になつのである。
★人類が抱える問題の解決の糸口は、人間の内面の変革による。
★基本は信である。自分を信じきることだ。
★自らの絶望を希望に変え、宿命を希望に変える。
★不可能を可能にする戦いを!
★自らを信じかどうかは、苦境、苦戦のときに試される。
★時代の潮流のなかで、調和と共生の模範の姿を地球社会に示していくことだ。
★苦悩は、自身の変革と発展のための試練であり、飛躍のためのものだ。
★雑草には、栽培種とは比較にならない「生き抜く強さ」がある。
冬を越す多年草の場合、人間が耕す深さより下の土壌に休眠している芽もある。
タンポポも雑草の一種。
雑草には、霜にも慄えず、不撓の意志と、天性のしなやかな反発力も備わっている。
雑草には、逆境をはね返す“不屈の心”、最後まで戦い抜“諦めない心”庶民の心意気がある。