医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

金子会長5選出馬へ 福島県歯科医師会

2014-12-31 18:52:20 | 医療と介護

福島民報 12月31日(水)9時10分配信


 来年6月に任期満了となる県歯科医師会長選で、現職の金子振(おさむ)氏(68)=福島市・4期=は30日までに5選を目指し、立候補する意思を固めた。
 1月に公示され、会長候補者を決める予備選に立候補する。金子氏は今月の理事会で、5選に向け立候補する意思を表明した。現段階で他に表立った立候補の動きはない。
 金子氏は福島市出身。福島高、神奈川歯科大卒。福島歯科医師会長を経て平成20年の会長選で初当選し、現在4期目。
 同会の平成25年4月の一般社団法人移行に伴い、会長は代議員会で選ばれた理事の互選で決める。しかし、会員が直接会長を選ぶ形を残すため、前回25年の会長選から予備選で会員の意向を確認し会長候補者を決めるようにした。任期は2年。
 予備選の立候補受け付けは1月15日から2月1日まで。立候補者が複数の場合、2月22日に投票を行う。

医療事故:27年間ガーゼ放置

2014-12-31 18:47:39 | 医療と介護

60代女性の足の骨の中--県立新発田病院 /新潟

毎日新聞社 2014年12月26日(金) 配信
 県立新発田病院(新発田市本町1)は25日、新潟市の60代女性の足の骨の中にガーゼを置き忘れ、27年間放置する医療事故があったと発表した。女性は足の痛みを訴えて今月県内にある別の病院で手術を受けたが、その際にガーゼが見つかった。院長らは、女性と家族に謝罪した。今後、賠償について女性と話し合うという。
 同院では記者会見した堂前洋一郎・同院長は「手術後に使用したガーゼの枚数確認が不十分だった。患者やご家族にご迷惑をかけ、改めて深くおわびを申し上げる」と謝罪した。
 同院によると、女性は1987年5月、右大腿(だいたい)骨の変形を治すために同院で手術を受けた。骨の中に骨を固定するための鉄製の芯(長さ約35センチ)を入れたが、その際に誤って血を拭くために使用したガーゼも一緒に骨の中に入れてしまった。だが、当時の執刀医からは事情は聴いていないといい、ガーゼの大きさや枚数などは不明という。
 女性は今年8月ごろ、正座する際に足が痛むなどと訴えて同院を訪れ、同院は膝の裏あたりの骨に腫瘍のようなものを確認した。悪性腫瘍の可能性があったため、女性は同院の紹介で12月17日に県内にある別の病院で摘出手術を受けた。その際に5センチほどの「肉芽(にくげ)」と呼ばれる肉の塊の中にガーゼが残されていたことが分かった。同院によると、その後、肉芽ができたのはガーゼの置き忘れが原因と分かったという。
 同院では2002年にも、子宮の摘出手術を受けた女性が体調不良を訴え、後日体内から置き忘れたガーゼが見つかる医療事故が起きている。11年は同様に男性患者の体内にガーゼを残し、約17年間放置したミスが発覚している。【柳沢亮】

医療事故:27年間ガーゼ放置

2014-12-31 18:47:39 | 医療と介護

60代女性の足の骨の中--県立新発田病院 /新潟

毎日新聞社 2014年12月26日(金) 配信
 県立新発田病院(新発田市本町1)は25日、新潟市の60代女性の足の骨の中にガーゼを置き忘れ、27年間放置する医療事故があったと発表した。女性は足の痛みを訴えて今月県内にある別の病院で手術を受けたが、その際にガーゼが見つかった。院長らは、女性と家族に謝罪した。今後、賠償について女性と話し合うという。
 同院では記者会見した堂前洋一郎・同院長は「手術後に使用したガーゼの枚数確認が不十分だった。患者やご家族にご迷惑をかけ、改めて深くおわびを申し上げる」と謝罪した。
 同院によると、女性は1987年5月、右大腿(だいたい)骨の変形を治すために同院で手術を受けた。骨の中に骨を固定するための鉄製の芯(長さ約35センチ)を入れたが、その際に誤って血を拭くために使用したガーゼも一緒に骨の中に入れてしまった。だが、当時の執刀医からは事情は聴いていないといい、ガーゼの大きさや枚数などは不明という。
 女性は今年8月ごろ、正座する際に足が痛むなどと訴えて同院を訪れ、同院は膝の裏あたりの骨に腫瘍のようなものを確認した。悪性腫瘍の可能性があったため、女性は同院の紹介で12月17日に県内にある別の病院で摘出手術を受けた。その際に5センチほどの「肉芽(にくげ)」と呼ばれる肉の塊の中にガーゼが残されていたことが分かった。同院によると、その後、肉芽ができたのはガーゼの置き忘れが原因と分かったという。
 同院では2002年にも、子宮の摘出手術を受けた女性が体調不良を訴え、後日体内から置き忘れたガーゼが見つかる医療事故が起きている。11年は同様に男性患者の体内にガーゼを残し、約17年間放置したミスが発覚している。【柳沢亮】

医療事故で男性死亡 既往歴ある抗生剤投与

2014-12-31 18:45:50 | 医療と介護

共同通信社 2014年12月26日(金) 配信
 高知県立幡多けんみん病院(宿毛市)で今月、アレルギー反応の既往歴がある抗生物質製剤を投与した高齢の男性入院患者が死亡する事故があったことが26日、病院への取材で分かった。
 病院によると、医師の指示で看護師が抗生物質製剤を点滴により投与したところ、アレルギー反応であるアナフィラキシーショックになり、約2時間後に死亡が確認された。男性には同種の抗生物質製剤によるショックの既往歴があり、カルテにも記入していたが、医師らは確認せず投与したという。
 病院は「深くおわび申し上げ、再発防止策を徹底する」とのコメントを出した。

在宅酸素吸入「火事に注意」

2014-12-31 18:44:51 | 医療と介護
 
厚労省,7人死亡で呼びかけ


朝日新聞 2014年12月25日(木) 配信
 厚生労働省は24日、肺の病気などのため自宅で高濃度の酸素吸入をしている患者が、喫煙や漏電が原因とみられる火災で、1月から11月末時点までで7人死亡したことを明らかにした。こうした死亡例はこの11年間で50人に上るという。厚労省は酸素吸入中に火気を近づけないよう、注意を呼びかけている。
 日本産業・医療ガス協会によると、火災による死亡原因の内訳は、喫煙が2人、漏電が2人、原因不明が3人だった。

未届け老人施設、4割が是正指導 

2014-12-31 18:41:44 | 医療と介護
 
うち半分は違法状態

朝日新聞 2014年12月25日(木) 配信
 全国で届け出のない有料老人ホーム913施設のうち、43%にあたる392施設が、防火扉や避難経路がないなどとして、建築基準法違反で自治体の是正指導を受けたことが24日、国土交通省の調査で分かった。392施設のうち52%の202施設が10月末時点で違法状態が続いていた。
 国交省は、10月末の状況を都道府県から報告を受けた。それによると、届け出のない有料老人ホームは、北海道が289、神奈川県85などだった。一方で、ゼロという報告が山形、新潟、石川、福井、滋賀、鳥取、徳島の7県からあった。
 報告数のばらつきについて、国交省建築指導課の担当者は「調査の態勢や法律の解釈など自治体によって実態把握の取り組みに温度差がある」とみる。ゼロと報告した7県などでは違反が把握できていない可能性があるとして、国交省は実態を把握するよう通知を出す。

過剰な急性期病床、「徹底した合理化を」

2014-12-31 18:40:33 | 医療と介護

財政制度等審議会、2015年度予算で建議


m3.com 2014年12月26日(金) 橋本佳子(m3.com編集長)
 財務省の財政制度等審議会は12月25日、「2015年度予

算の編成等に関する建議」を公表、後期高齢者の医療給付費が2025年に向けて年約6%伸びるものの、うち3%は「医療の高度化等」によるものとし、「制度の持続可能性担保のため、改革の対象とする」との方針を打ち出した。残る3%は高齢者人口の増加による(資料は、(財務省のホームページに掲載)。
 改革の具体的施策として、過剰な急性期病床の削減や平均在院日数の短縮などの医療提供体制の改革、診療報酬の抑制や薬価引き下げ、後発医薬品の使用促進などの保険給付の範囲の見直し・重点化などを挙げ、「徹底した合理化・効率化」を進めるべきとしている。患者が後発医薬品を選択するインセンティブが働くよう、参照価格制、つまり「後発医薬品が存在する先発医薬品の保険給付額は、後発医薬品の薬価とし、それを上回る部分は患者負担とする」仕組みの導入も提言。
 一方で、在宅医療の推進や地域包括ケアシステムの構築など、「真に必要な新しい政策課題への対応」には、必要な財源を確保すべきとしている。
 後期高齢者の後期高齢者は、多くは消費税収や現役世代の保険料で賄っているが、これらを引き上げなければ、財源は2~3%の増加にとどまる。年約6%の医療給付費の伸びを抑えなければ、財源不足が生じる。
 「病床数の多さが需要を生む」
 建議では、医療提供体制について、「病床数の多さという供給が需要を生む」と問題提起。人口10 万人当たり病床数は、都道府県単位で最大3倍の開きがあり、病床数が多いほど、1人当たりの医療費が高いと指摘している。
 その上で、4つの改革の実現を提言した。第一は、医療介護総合確保推進法に基づく、「地域医療構想」の策定(『「高度急性期」「急性期」、今も6年後も6割強』を参照)。「地域差の分析を踏まえて認められる不合理な差異(例えば入院受療率)を解消した医療提供体制」の提示を求めている。2015年度中に、遅くとも2015年度の構想策定が必要とした。
 第二は、地域医療構想と整合的な医療費適正化計画の一体的な策定だ。医療費の水準に関する目標や、平均在院日数や後発医薬品の使用割合などの目標を設定し、PCDAサイクルを回し、実効性のある取り組みを求めている。

平成27年度におけるレセプトの平均手数料

2014-12-30 08:24:17 | 医療と介護
社会保険診療報酬支払基金
Press Release No.561
2014/12/25
平成27年度におけるレセプトの平均手数料は、
3.00円引き下げ、77.60円/件に
―支払基金サービス向上計画の目標を大きく上回り達成―
支払基金は、保険者の委託を受けて診療報酬に係る審査支払を実施しています。そのために必要な事務費は、保険者によって負担される手数料で賄われています。具体的なレセプト1件当たりの手数料については、毎年度その額を保険者団体と支払基金との間で協議し、決定することとされています。
平成27年度における審査支払業務の手数料に関しては、11月以降、当該協議が行われ、その結果を踏まえ、今般、支払基金の収支予算に係る認可の権限を有する厚生労働省の了解を得ました。
1 平均手数料(手数料水準)
○ 平成27年度については、人件費及び物件費の両面にわたる総コストの削減に取り組むとともに、別途積立預金を全額取り崩すことにより、手数料水準を引き下げることとします。
○ 具体的には、レセプトの平均手数料を77.60円(消費税8%)/件と設定します。
これは、
① 平成26年度予算(80.60円/件)と比較して▲3.00円
② ピーク時の平成9年度決算(107.88円/件)と比較して▲30.28円
となります。
○ 平均手数料77.60円/件は、消費税5%換算で75.60円であり、「支払基金サービス向上計画」で掲げられた平成27年度に80円以下とする旨の目標を大きく上回り達成したことになります。
2 基本手数料(手数料負担の配分)
○ 実際にご負担いただく手数料(基本手数料)の額については、医科・歯科レセプトと調剤レセプトとの業務に係るコストの差を踏まえ、両者の割合がおおむね2対1となるよう、以下のとおりとします。
① 医科・歯科分 92.80円(▲3.50円)
② 調剤分 46.40円(▲1.80円)
○ なお、付加手数料については、平成24~27年度の4年間にわたり、収支が均衡するよう単価を設定していますので、平成27年度は据え置きます。
○ 以上により、平成27年度におけるレセプト区分ごとの1件当たりの手数料は、次のとおりとなります。
審査支払業務の手数料(平成27年度)
電子媒体分紙媒体分紙レセプト電子レセプト・ 連名簿46.40104.8095.90(97.20)92.8058.4049.50(50.80)94.10電子レセプト連名簿調剤分46.4047.70電子レセプト・ 連名簿レセプトの種別医科 ・歯科分92.80保険者がレセプト又は連名簿を受け取る形態オンライン分
(注)かっこ内は、公費負担医療の実施機関が紙媒体のみならず電子媒体でも連名簿の受取りを希望する場合に係るものである。
社会保険診療報酬支払基金
基本理念・私たちの使命
私たちは、国民の皆様に信頼される専門機関として、診療報酬の「適正な審査」と「迅速な支払」を通じ、国民の皆様にとって大切な医療保険制度を支えます。
<本件に関するお問い合わせ>
社会保険診療報酬支払基金 広報室広報課 E-mail:honbu@ssk.or.jp
TEL 03-3591-7441内線(751・753) FAX:03-3591-6708

http://www.ssk.or.jp/

「西洋医学だけでは人は救えない」

2014-12-30 01:38:17 | 医療と介護

米国立衛生研究所では、「代替医療医療調査室」が設置されていた。
これまでの医学教育は「病気を治す」という治療中心の西洋医学に偏り過ぎていた。
アメリカでの代替医療の利用率は1990には34%ぐらいだったが、1997年には42%に増え、今は50%を超えているようだ。
ヨーロッパにおける補完医療・相補医療とアメリカにおいて
1970 年代に入ってから総称されるようになった
代替医療とを一括りにして補完代替医療と表現し
ている。一方, 日本補完代替医療学会によると,
補完代替医療とは「現代西洋医学領域において科
学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の
総称」と定義されている(10)。
このように, NCCAM でも日本補完代替医療
学会でも, 代替医療の定義に関しては現代西洋医
学領域をベースとして, 科学的に検証されている
かどうかや臨床で応用されているかどうかを基準
にしているが, その解釈には疑問点もある。

・正統的現代医療による治療に満足できない
・正統的現代医療は患者を機械のように扱い,
感情や信条を持った人として扱っていない
・異なる文化圏に種々の医療が存在することに
気がついた
・病気の発生には, 栄養, 感情, ライフスタイ
ルが関係していることが明らかになってきた
・単に病気ではないというだけでなく, より良
く生きるということへの期待や願望
・服用する医薬品を少なくして副作用による弊
害をできるだけ減らすため
・医療費負担を減らすため
・著名な医師が代替医療を支持するようになっ
たため
いうまでもなく, 正統的現代医療は, 疾患原因
の分析や治療法・治療薬の発見, メタデータの蓄
積, 体系的な医学教育等々により, 感染症を初め
数々の疾病や損傷に対応し, 外科手術を発展させ
たりするなど, 人類に多大な貢献をしてきた。

による平均的な医療にも限界がないわけではない。
具体的には, 原因不明の慢性疾患, 精神的な面が
影響する疾患, 抗生物質に対する耐性菌の問題,
糖尿病で血糖値のコントロールが首尾よくできた
としてもなお多くの自覚症状を訴える患者に対し
て対応するのが困難な場合もある(13)。小内亨
(2001) も, 糖尿病や高血圧などの慢性疾患の管
理がその治療の中心となりつつある現代では西洋
医学にも限界があるので, 患者が希望を持って治
療に望むために他の選択肢を探すとしている。す
なわち, 多くの患者が期待するような特定の薬剤
で疾患が即時に治癒するということはなく, その
後は薬剤を服用しなくても大丈夫ともいえない現
状において, 患者自らが医師だけに頼らない方法
のひとつとして代替医療を選択していると主張す
る(14)。渥美和彦(2001) は, 正統的現代医療は,
科学のみに基盤をおいたが故に心の癒しや微妙な
感情の動きによる心身相関など人間本来の多様で
複雑な存在に対応できなくなってきていると述べ
ている。さらに, この傾向は個人をすべて平均的
社会科学論集第124 号
72
表1
研究領域内容
代替医学システム
Alternative medical
system
代替医療の中でも体系化された領域で, 心と体の調和を重視。西洋医療以外の医療で,
思想や信条に基づいて確立されている伝統医療。具体的には, 古代インドの伝統医療体
系であるアーユルヴェーダや中国の伝統医療, さらにはホメオパシー(同種療法) やナ
チュロパシー(自然療法) 等がこの領域に組み込まれている。
精神と身体への作用
による療法
Mind-Body Interventions
身体の機能や症状に対して, 精神へ働きかけることで身体の障害や症状に作用する医療。
具体的には, 心理学的・行動科学的な療法で, 催眠・イメージ・音楽・芸術・ダンス・
笑い・瞑想・ヨーガ等の療法がある。
生物学的療法
Biologically Based
Therapies
生物学的な作用に基づいて, 食事・薬草・プロダクトを用いた療法。具体的には, 食事
療法・ビタミンやミネラルなどのサプリメントを用いた分子栄養療法・薬草を利用した
ハーブ療法・EDTA (エチレンジアミン四酢酸) やオゾンを利用した療法等がある。
手技・身体療法
Manipulative and
Body-Based Methods
施療者の手技を用いたり受療者の身体を動かしたりする療法。具体的には, 脊椎を操作
することによって身体の健康と正常な機能を回復させようとするカイロプラクティック
や指圧・リフレクソロジー・オステオパシー等のマッサージ療法, さらにはカラーセラ
ピーや温熱療法等がある。
エネルギー療法
Energy Therapies
身体内部にエネルギーの源があるという考え方に基づき, その源をエネルギーの場とし
たり, 外部の電磁気の場から身体に働きかけたりするエネルギー医学の理論を用いた治
療法。具体的には, 気功, セラピューティックタッチ, ヒーリングタッチ, 生物電磁気
学的療法等がある。
出典:JAM (Japan Alternative Medicine) News Letter, Vol. 4 およびNCCAM 発表の「What are the major types of complementary
and alternative medicine? NCCAM classifies CAM therapies into five categories, or domains:」を基に筆
者が作成。
に考える西洋医学から個人の個性や特徴を中心と
した東洋医学へのパラダイムシフトであり, 価値
観の変化や文明史的な視点から深く洞察しないと
代替医療の到来の本質は把握できないと強調す
る(15)。また, 詳細は後述するが, 今西も渥美も医
療経済学的な面からも代替医療への関心が高まっ
ていることを併せて指摘し, 国家経済を脅かしか
ねない医療費の高騰も患者のみならず国家や関係
者に対して代替医療へ目を向かしているとしてい
る。
このように正統的現代医療だけではカバーでき
ない不定愁訴に対応したり, 患者の視点に立った
考え方の必要性が訴求されたり, 科学的や統計学
的なアプローチによる「個」への対応の限界を補
完したり, 医療経済学的な問題点の解決の対象と
して代替医療が注目されていると分析している。
しかし, 代替医療が注目される本質的な理由は他
にもあるように思われる。それは極めて単純かも
しれないが, 人の心と体という複雑な構造に対峙
する医学という難解な学問や医療行為という高度
で専門的な知識に対する非医療者のリテラシーの
不足や正統的現代医療に従事する医療者側と家族
を含めた患者側とのコミュニケーションの不足で
ある。3 時間待って3 分の診察と揶揄されて久し
いが, 実際に日本の医療機関での平均診察時間は,
アメリカの22 分に比べて総合病院クラスで平均
12 分と短い。これは, 一人の医師が年間に何人
の外来患者を診ているかという患者の数に反比例
して短くなっている。アメリカでは一人の医師が
年間に診る患者数が2,222 人であるのに対し, 日
本では6,421 人である。世界平均は2,167 人であ
ることからすると, 日本の医師は年間で世界平均
のおよそ3 倍の患者を外来で診ていることにな
る(16)。すなわち, 充分に丁寧な説明をしようにも
物理的に制限されている現状を看過して, 医療者
側にもっと時間を掛けて丁寧なインフォームドコ
ンセントをするよう求めても, 現実的には厳しい
診察環境と言わざるを得ない。

補完代替医療の国内外の現況米国では、ハーバード大学が一般成人を対象にして、CAMの利用に関する調査を行ない、1990年に発表しました。それによりますと、実に6,000万人(33.8%)の方々が何らかのCAMを利用していることがわかりました。そこで、米国政府は、日本の厚生労働省に当たるNIH (米国国立衛生研究所) に代替医療事務局 (OAM: Office of Alternative Medicine) をつくり、調査を命じました。予算は年200万ドルでした。

さらに、1997年での再調査では、CAMの利用者が8,300万人(42.1%)と増加していることに注目して、政府は1998年、OAMをNCCAM(National Center for CAM)に昇格させ、予算は10倍の年2000万ドルとしました。2005年にはその予算が年1億2,110万ドルと約100億円以上を投じていることになります。この殆どが、ヒトを対象とした臨床研究です。どうして、このような工学の研究費を投じているかについては、こうした医療が将来の医療費削減につながるのではないかと考えられるからです。

また、2001年から2005年までの5ヶ年の戦略計画では、CAMと通常の医療とを包括した「統合医療」の推進を謳っています。
本邦では、こうした背景を受けて、2001年に厚生労働省がん研究助成金による研究班(「我が国におけるがん代替療法に関する研究」班)が組織され、兵頭らががん患者3,461人(がんセンター16施設、ホスピス40施設)を対象として、CAMに関する実態調査を実施しました。その結果、やはりCAMの利用率は44.6%と高率だったのです。

同研究班は2006年4月、患者向けの“がんの補完代替医療ガイドブック(第1版)”を作成しました。このガイドブックは、本邦におけるCAMに関して医学論文を中心とした検証がなされています。その結果、大半が根拠の低いものでしが、実際の所、きっちりとした検証(臨床試験)が行われていないことも判明しました。最近、同研究班を引き継いだ住吉班で改訂第2版が2008年7月に刊行されています。(

黒田裕子さん、ありがとう 偲ぶ会に650人 神戸

2014-12-29 13:00:36 | 社会問題・生活


阪神・淡路大震災をきっかけに、長年務めた公立病院の副総看護師長の職を辞して被災者支援のボランティア活動に身を投じ、以来19年間、神戸の被災者に寄り添いつつ、各地で頻発する災害現場に駆け付けて、阪神・淡路の経験を伝え、被災者を励まし続ける人がいる。
NPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワークの理事長、黒田裕子さん。
平成26年9月24日に逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

「おかげで日本一恵まれた仮説になった」
黒田さんが亡くなる間際まで通った宮城県気仙沼市の面瀬仮説住宅自治会長
「あなたはナイチンゲールを超えた。だって彼女は20年間も現場で活動していない」という弔辞もあった。
「死ぬのは怖くない。でも来年1月17日までは生きたい」看護師・黒田裕子さん

今年9月24日に73歳で亡くなった。


神戸新聞 2014/12/21 21:42

阪神・淡路大震災をはじめ国内外の被災地で活動してきたNPO法人「阪神高齢者・障害者支援ネットワーク」(神戸市西区)の前理事長で、今年9月に73歳で亡くなった看護師黒田裕子さんの「偲ぶ会」が21日、神戸市東灘区田中町5のコープこうべ生活文化センターで開かれた。約650人が集い、黒田さんが実践した被災者に寄り添う支援を引き継ぐ思いを新たにした。

 同ネットワークなど17団体が実行委をつくって開催。黙とうの後、親交のあった人らがあいさつした。舞台には遺影が飾られ、参加者は花を手向け、手を合わせていた。

 親交が深く、終末期の病床を訪れた作家柳田邦男さん=東京都=は、「最後に伝えたい」と託された「がれきの向こうに命がある。想像する力を持たないといけない」などの言葉を紹介した。

 神戸や東北の仮設住宅での活動にも触れ、「一人一人に寄り添うことを大切にしていた。実践から被災者支援や災害看護の新しい思想を生み出した」と振り返った。「黒田さんの活動や言葉は永遠。これからを生きる人の中で生き続けるだろう」と語った。

 日本災害看護学会で活動をともにした高知県立大学長の南裕子さん=元兵庫県立看護大学長=は「現場主義などあなたの教えを考え続けたい。ありがとう」などと語り掛けた。(網 麻子)

宇宙のロードマップ

2014-12-29 12:49:09 | 社会問題・生活
IDEMA Japan News No.63
巻 頭 言
理事・ESDコントロール分科会会長 大津孝佳(日立GST)
NASAは2003年2月11日、人工衛星WMAP(Wilkinson Microwave Anisotropy Probe)が観測したデータから、宇宙の年令は137億年であることを発表した。一口に100億年といってもそれは直感的な理解を超えている。宇宙の長大な歴史に比べれば我々人類の歴史はあまりにも短いからである。宇宙の歴史を1年に短縮してみる。1ヶ月は11.4億年、1日は3753万年、1時間は156万年に相当する。誕生日を1月1日午前0時とする。小さなボールほどの空間に閉じ込められていた全宇宙は大爆発により四方八方に広がる。いわゆるビックバンである。爆発直後の宇宙の温度は約10兆度の高温高圧な状態であり、この中から素粒子が生まれる。それが結合しながら複雑な原子核や原子、元素が合成され、宇宙空間がガスで一様に満たされる。ガス密度の小さな揺らぎがもとで、自己重力で収縮し、巨大なガスの固まりとなる。銀河系の誕生は1月11日にあたる。銀河内の星間ガスが衝突し合い渦を作るうちに物質の濃淡のむらが成長し、無数の固まりに収縮し、原子星が生まれる。原子星は自分自身の重力によって潰れてゆく、重力のエネルギーは熱エネルギーとして星の中心部に蓄えられる。中心部が数千万度にも達すると水素の融合反応が始まり、美しく光輝き始める。太陽系の原型ができたのは8月26日ごろである。地球は8月31日に誕生する。重力により収縮したガスは地球内部に熱を蓄え、高温のガスや水蒸気が噴出する。それが冷え固まり、少しずつ地表が形をつくり始める。地殻が形成されたのは地球誕生後1ヶ月以上を経過してからである。生命の誕生は9月21日に相当する。12月5日ごろになると生命の活動は急激に活発になる。いわゆるカンブリア紀と呼ばれる時期である。大気中に増えていった酸素によってオゾン層が形成され、生命の上陸を可能にする条件が整いだす。12月25日になると恐竜時代に入る。また、哺乳類も現れる。最初の霊長類が出現したのは12月31日 15時2分53秒である。大晦日も終わりに近づいた22時4分59秒、ようやく人類が誕生する。23時59分37秒には古代文明が誕生する。産業革命が起こったのは11時59分59秒のことである。この最後の1秒間に自然科学は急激な発展をとげ、59分59秒90に人類は宇宙に飛び出すようになった。1年という宇宙の歴史の中で、人類の近代的活動は、最後の一秒になされたに過ぎない。
 その後の宇宙もロードマップにしてみる。太陽の寿命は8.8ヶ月とされる。翌年5月24日、燃料の水素がなくなってしまうと、次に燃えカスのヘリウムが核融合反応を起こして炭素や酸素をつくる。この段階で「赤色巨星」と呼ばれる状態になり、太陽の外層は地球を飲み込んでしまう。このとき火星の温度は現在の地球程度に上昇し、もし火星が地球環境と似たものになれば、5月30日に生命が発生すると考えられる。その後、太陽は急速に小さくなり、地球ぐらいの大きさの「白色矮星」になってしまう。ロードマップとしては、3通りが用意されている。今までと同じように拡大して崩壊する開いた宇宙編、拡大から内部に収縮するようにして崩壊する閉じた宇宙編、突然殻を破るようにして宇宙の外部へと崩壊する破裂編、どれになるのかはまだわからない。開いた宇宙編の場合はいつまでも膨張を続けていく。7300年後までに、あらゆる星は核燃料を消費しつくし、宇宙は暗闇になってしまう。このころの太陽系は、「白色矮星」になった太陽の周りを火星、木星、土星などの惑星が回り続けている。73000年に一度ほど、他の星が太陽系のそば通ることがある。その重力の影響を受け、惑星は跳ね飛ばされ、730万年後に太陽系は解体してしまう。閉じた宇宙編の場合、膨張している宇宙はいずれ最大の大きさに達し、それからは収縮に転じる。そして、ビッグバンのときと似た高温高密の状態となって終わる。これをビッグクランチとよび、73年後に起こる。
 2002年6月のNature誌で、MITのSeth Lloyd教授は、ビッグバンから万物創生のさまざまな形成段階の宇宙をシミュレートするには、コンピュータ内に10の90乗ビットの情報量を格納し、これらの情報処理のために10の120乗回の演算を実行する必要があると推定した。そのために必要な情報量は、全宇宙に存在する全ての素粒子(中性子、陽子、電子、光子)の100億倍を上回る。これは今日の標準的なノートPCの約60Gバイト(4.8x10^11ビット)のおよそ(10の79乗)倍の情報量に相当する。ロードマップともなると更にその730万倍以上必要である。億年単位の解明に向けて、ストレージ産業に大きな期待がかかっていることは言うまでもない。IDEMA Japan News No.63

人類の歴史は12月31日の最後の1秒

2014-12-29 12:45:24 | 編集スクランブル
★歴史上、最も意義ある社会改革の多くは、市民による草の根の運動によって引き起こされています。
例えば、アメリカの女性参政権は「私たちには投票する権利がある」と信じる女性たちによって実現しました。
小さな一歩でも、積み重ねるれば大きな力となります。
アメリカ・ハバード大学ケネディ政治大学院「カー人権政策センター」チャーリー・クレメンツ所長
★活動は着実に続けていけば、より創造的貢献ができるはずだ。
第一次世界大戦、第二次世界大戦の映像をCSテレビで観た。
無数の死者の映像。
女性や子どもたちこそ、戦争の一番の被害者。
★ナチはパリを破壊せず占領したことが唯一の救いであっただろうか?
人種差別のナチは、フランス軍の黒人兵捕虜3000名を虐殺。
休戦協定では反ナチのユダヤ人名簿の提出をフランス政府に要求。
★空軍力が劣ったフランス軍は敗走を余儀なくされる。
英国軍もドバー海峡から船で敗走する。
ヒトラーはナポレオン気取りになっていた。
★人間が変わらなければ、戦争や紛争は終わらない。
世界は100年後はどうなっているのだろうか?
150億年の宇宙の歴史を暦に例えると、人類の歴史は12月31日の最後の1秒に過ぎない。

『デンマークが超福祉大国になったこれだけの理由』

2014-12-29 11:59:34 | 社会問題・生活
福祉国家を支える教育
幸福度デンマーク1位
日本は43位
医療や介護に問題を積み残した日本
デンマークの国政選挙の投票率88%
日本は52・66%
日本が幸福度を上げるために、見直すべきは教育



ケンジ・ステファン・スズキ著(合同出版)を読みました

『なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか』の続編です。



                    希望社会のつくり方


本書のサブタイトルでは、日本は完全にデンマークに負けています。

なにしろ、そのサブタイトルは「どこが違うのか!?安心して暮らせる希望社会と無縁死3万人の国」なのです。

でも、本書に「無縁死」のことはまったく出てきません。

今年の4月の刊行ですから、おそらくは1月に放映されたNHKスペシャル「無縁社会~無縁死3万2000人の衝撃」の反響の大きさをタイトルに取り入れたのでしょうね。

わたしが想像するに、編集者の判断だと思います。

さて、「世界一幸福な国」デンマークは小国ながら、「福祉大国」と呼ばれています。

「福祉大国」を実現したのは、国民の税金です。

デンマークには、何よりも国民が納得する税金システムがあるのです。

著者は次のように述べます。

「私がデンマークで生活をしながら感じることは、脱税してまでお金を貯めたいと思っている人たちがほとんどいないという事実です。おそらく、デンマーク人の長い歴史の中で育成された倫理教育と『共生の理念』が納税への姿勢となっているのでしょう。高度に発達した福祉国家を維持するためには、所得に応じて累進する納税制度と、納税行為が厳格に行なわれなければ不可能です」

「共生の理念」を実現するには、「応益負担」ではなく、「応能負担」の原則が必要です。

「応益負担」とは、社会的なサービスを必要とする人が、その利益の見返りとしてお金を払うというシステムです。

一方、「応能負担」とは、たくさん稼いだ人はたくさん税金を払って社会を支えるというシステムですね。

「応益負担」は公平なように見えます。でも、実際は貧困者を社会的保護から排除してしまう強者の論理だと言えるでしょう。




デンマークと日本を往復しながら暮らしている著者は、デンマークは世界で最も貧富の差がない国だと実感できるとして、次のように述べます。

「デンマークでは社会が困難な事態に直面したり社会的弱者が発生すると、その問題に対して、国が乗り出す前に個人や市民グループによる先駆的な行動が始まり、それが国家事業になっていくという過程をたどるという特徴があります。自分たちで困難に立ち向かっていくという国民性が、弱者を保護・救済するさまざまな社会システムを生み出してきたと言ってもよいと思います」

弱者救済の国家方針は、障害児教育にも実現されています。


デンマークの障害児は朝夕、タクシーで自宅から学校まで送迎されますが、これはすべて公費負担の行政サービスです。



そして、わたしが気になることは葬儀です。

「世界一幸福な国」の葬儀は、どうなっているのでしょうか?

また、どれくらいの費用がかかるのでしょうか?

デンマークでは、亡くなった人の葬儀は、ほとんど本人の居住地(介護ホームを含む)を管轄する教会で行なわれます。

デンマークの教会ですが、その維持費は教会税で賄われています。

つまり牧師は公務員ですから、教会での葬儀費用の個人負担は基本的にありません。

しかしながら、教会は無料でも、葬儀社には棺の手配や飾り付けなどの手数料が必要です。これに対しては国庫から「葬儀支援金」が出ることになっています。

その金額ですが、最高額で8600クローネ(約17万円)だそうです。

日本では、生活保護者などの葬儀に対して行政から支給される「葬祭扶助金」がだいたい18万円~20万円となっています。

葬儀に関しては、日本のサポートの方が進んでいますね。

デンマークで普通の葬儀をした場合の経費は、墓場の30年間の管理費、墓石の調達、あるいは棺や飾り付けなど葬儀社に支払う諸経費を含めると3万クローネ(約60万円)とされています。

ということは葬儀の費用を「葬儀支援金」だけでカバーすることは難しいわけです。

でも、少なくとも、通常の棺代は賄えるようになっています。

彼が町長になるとは

2014-12-29 07:06:04 | 雑記・断片・映像
長男の霞ヶ浦の友人の母親からお歳暮が宅急便で届いた。
箱に蓮と記入されていた。
家人がお礼の電話をかけたら、出てきたのはおじいさんで耳が遠い。
「誰?ああ?誰?ああ?」
「おじいさんですか?」
「うん?」
「静子さん(仮名)はいますか?」家人の声が大きくなって聞こえた。
「出かけている」
「私は、取手の山本佐智子です。また、電話します」
20年前、そのおじいさんは死にそうであったのだ。
「もう、長くないと医者に言われているの」と静子さんは言っていた。
だが、元気だったあばあさんが先に亡くなった。
○ お歳暮の蓮一箱の御裾分け
食べきれないの当方は取手の友人に御裾分けした。
霞ヶ浦と言えば、当方の酒飲み友だちの郡司さんは霞ヶ浦の町長になった。
彼は元日刊新聞の記者で東京・三崎町のスナック「藤」の常連客であった。
上野駅で会うことも多く、常磐線で酒を飲みながら帰ったものだ。
まさか、彼が町長になるとは・・・・



江戸の外食産業

2014-12-28 23:44:28 | 社会問題・生活

外食 (2012年12月24日放映分) - 謎解き!江戸のススメ過去の放送

現在では一般的な「外食」。その始まりは江戸にありました。江戸前期までは階級に関係なく食事は家で取るのが当たり前で、食事も一汁一菜を基本とした質素なものでした。そんな江戸時代に外食産業が登場するのは1657年に起こった明暦の大火の後。浅草の茶屋で「奈良茶飯」が出されたのが最初と言われています。当時江戸では珍しい上方の料理ということもあり、奈良茶飯はたちまち江戸中で評判になりました。その後、至る所に飯屋が作られるようになりました。もともと、江戸幕府が開かれ大規模な開発が始まった江戸の町には、参勤交代の制度により集められた諸藩の大名や全国から呼び寄せられた職人、または新しい街で一儲けしようと集まってきた商人など、単身赴任をする男性が多かったのです。当時は男性でも自炊をするのが一般的でしたが、火を起こす燃料の薪や炭の値段が高かった上に、もしも火事を起こしてしまえば大罪です。そんな背景から、江戸では安くて早い、外食が普及したのです。

吉野鮨本店
吉野鮨本店は、魚河岸があった日本橋の屋台ずしがルーツという江戸前鮨の老舗です。江戸時代の屋台の定番「握り寿司」。現在のような寿司の原型ができたのは江戸時代と言われています。当時の寿司は現代の約2倍程の大きさがあり、大人の男性でも一口で食べるのは難しいくらいでした。その後、食べやすいよう半分に切るようになった事から現在のように1皿に2貫ずつ乗るようになったとも言われています。


日本の食文化~江戸の外食篇|
江戸時代における江戸の町の外食産業。今日では日本人の暮らしと切り離すことのできない「外食」という文化は江戸時代に発達した。『火事と喧嘩は江戸の華』なんて言葉があるが、。『火事と喧嘩は江戸の華』なんて言葉があるが、江戸時代三大大火のひとつが、江戸の町にファストフード産業を興す切っ掛けとなったのだった。調べていて「へえ、なるほどな」と得心したしだい。魚や野菜を天秤棒で担いで、流し売りしたりデリバリーしたりする商売も江戸期に盛んになった。現在にも通じる「食」に関する商売は、概ねこの時代に確立したようだ。
それではちと長くなるが、年表付で行ってみよう!

■江戸の食文化を育んだ外食産業
「江戸」と「上方」
江戸時代初期には、武士にも庶民にも外食という習慣がなかった。江戸時代の安定した政治体制の下で多くの庶民が経済的に豊かになると、独特の伝統文化が確立され、都市経済の発達とともに外食産業も発展していった。江戸の町では醬油が普及し、「江戸前」といわれる魚介類、練馬大根や小松菜などの「江戸野菜」を食材とし、寿司、蕎麦(そば)などの食文化が定着し、多くの料理屋が出現するとともに芝居や歌舞伎、辻相撲といった町人文化が開花したのである。
関西では朝廷が在した京都を中心に精進料理や懐石料理が発展し、華道や茶道などの文化の発展に伴い、やはり外食の習慣が生まれた。それまでの貴族や寺院に代わって町人が都市の主役となっていった。
それぞれ「幕府」と「朝廷」という基盤を有していた「江戸」と「上方」で、政治・文化面での二極化が進む。江戸時代前期は主に上方で文化が熟成し、後期には江戸で町人文化が爛漫となった。
江戸では濃口・鰹出汁が好まれ、ファストフード店が発展。一方、上方では薄口・昆布出汁が好まれ、料亭や仕出しといった料理文化が発展した。

多種多様な外食店
江戸時代前期、江戸の町に気軽に食事ができる場所として、簡素なおかずと盛り切りの飯を出す一膳飯屋や居酒屋などが登場。夜鳴き蕎麦、寿司、豆腐を串刺にしたみそ田楽の辻売りなども登場し、路上の屋台見世では、江戸前で取れた魚を油で揚げた天ぷらが人気を呼んだ。振売りとしては甘酒・玉子・豆腐・ところてん・どじょう・冷水・砂糖水といった多彩な食品販売が繁盛。外食産業の発展に伴い、食を楽しむ文化が庶民に広まり、外食がしだいに習慣化していった。
江戸時代中期の元禄年間(1688~1704年)には、庶民の食事が1日2食から3食となり、麦や玄米だった主食が白米へと変化。江戸時代後期にかけて醤油が庶民の食生活に定着すると、うどん・蕎麦・天ぷら・寿司・鰻などの屋台文化が栄え、さらにはそれらが店舗へと移行して、蕎麦屋・居酒屋・寿司屋・てんぷら屋・料亭といった形態の店が増えていった。江戸時代末期には店構えの蕎麦屋だけでも、江戸府内に3763店あったと記されている。

蕎麦派?うどん派?
江戸時代の風俗を記した『守貞漫稿守貞漫稿(もりさだまんこう)』によれば、「京や大坂にはうどんを好む人が多く、店も多く、「うどん屋」と称している。うどん屋にて蕎麦も売っている。江戸は蕎麦を好む人が多く、蕎麦専門店でうどんも提供している。故に「蕎麦屋」と云う」とある。江戸時代の頃から関西ではうどんが好まれ、関東では蕎麦が好まれていたようだ。

こんなお店もありました
また、『守貞漫稿』には「刺身屋」という職業が記されており、「刺身屋、鰹及びまぐろの刺身をもっぱらとし、この一種を生業とする者、諸所に多し。銭五十文、百文ばかりを得る。粗製なれど、料理屋より下直なる故に行きはる」とある。主にカツオとマグロの刺身が売られ、料理屋のものより質は劣るが、安価なので人気だったようである。「菜屋(さいや)」では煮しめなどが売られており、生アワビ、スルメ、刻みスルメ、焼き豆腐、コンニャク、くわい、レンコン、ゴボウ、刻みゴボウなどが大皿鉢に盛らて、テイクアウトもできた。
『守貞漫稿』には「今の世、三都(江戸・京都・大坂)ともに士民奢侈を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」とあり、江戸では身分の上下越えて食文化が発達していたことがうかがい知れる。

■江戸外食年表
【明暦3年(1657年)】
では、時系列で見てみよう。
関ヶ原の戦い(1600年)から半世紀余りが経ち、戦国の戦乱は遠のき、上方・江戸では文化が発展し始める。この江戸時代の初期、「振袖火事」として有名な「明暦の大火」が起こり、江戸城の本丸や天守閣まで焼く大災害となった。江戸の町の大半が焼失し、焼失被害は大名屋敷500、旗本屋敷770、町屋400町、片町800町、橋60、蔵9千余に及び、死者は10万7千人を超えた。その復旧作業のために全国から職人が集まったことから、彼らが気軽に飲食できる「煮売り屋」と呼ばれる辻店ができ、煮魚や野菜の煮物、さらには酒などを売り始めた。

その後、大火を警戒した幕府は火災時の延焼を防ぐため、「火除地」「広小路」などの空地を町の各所に設けた。この場所での恒久建築は禁じられたが、庶民たちはそれらの空間を盛り場的な営業地とし、屋台見世や茶店、芝居小屋、見世物小屋などが建ち並び、食事処として賑わいだした。江戸の町には圧倒的に独身男性が多く、手軽に食せて安価な屋台料理は需要が高かった。
てんぷら屋の食事は飯付きで一人前24文~40文。屋台の蕎麦は寛文年間 (1661~1673年)に一杯16文という価格が決まり、その後幕末までの約200年間据え置きだった。16文ということから「二八そば(2×8=16なので)」と称された。

【寛文年間(1661~1673年)】
そば粉をこねて細い線状にした蕎麦切(そばきり)が誕生、それまでの蕎麦掻(そばがき)と区別されるようになった。当初は蒸籠(せいろ)にのせて蒸し、そのまま供された。

【貞享3年(1686年)】
「江戸の華」とも言われた火災を警戒する幕府から、うどん・蕎麦屋などの火を使う移動販売を禁止する御触書が出された。「一定の場所で商売する場合はかまわないが、その際にも火の元には十分注意するべし」とのことであった。
さらには元禄2年(1689年)、「うどん・蕎麦・その他の火を使って調理する行商を一切禁止する」と定められる。

【元禄年間(1688~1703年)】
幕府の禁止令にも関わらず、江戸庶民の間では蕎麦の名店が人気を博し、担ぎ商いの夜鳴き蕎麦も数を増していった。当時の江戸では薪代が高騰しており、自炊よりも外食の方が経済的で便利であり、残り火が火事の原因となるため、自宅での火の取り扱いを極力控えるという庶民の事情が背景としてあったようである。

【元禄10年(1697年)】
『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』」によれば、当時の蕎麦はつけ汁で食していた。つけ汁は垂れ味噌汁・酒・乾鰹の細片で出汁をとり、塩・溜醤油で味付けをしたとある。薬味には大根汁・花鰹・山葵・橘皮・蕃椒(とうがらし)・焼味噌・梅干などが使用されていた。辛目の大根汁が特に好まれていたようだ。

【元禄~享保年間(1688~1736年)】
この時代に、現在の鰻の蒲焼に近いものが登場した。江戸前の蒲焼は辻売り(屋台)が主で、幕末まで盛んだった。一串十八文ぐらい だったという。両国の夕涼み舟の中で焼いて食べるサービスもあった。店舗が登場するのは天明年間(1781~1789年)になってからのことである。

【享保年間(1716~1736年)】
これ以降に「蕎麦屋」という呼びが一般化しはじめた。それ以前は「慳貪(けんどん)屋」と呼ばれ、饂飩(うどん)と蕎麦を一緒に商うのが普通であった。享保年間の中頃(1720年代)には蕎麦屋が増え、江戸ではうどんよりも蕎麦が好まれるようになった。
因みに、「慳貪屋」で使われる鉢は「慳貪振り鉢」と呼ばれており、その名が変化して「丼鉢(どんぶりばち)」になったとも言われている。

【享保3年(1718年)】
江戸の近郊農村で捕獲された農害獣である鹿や猪などの肉を食べさせる「ももんじ屋」が開店。寛文~延宝年間(1661~1681年)にかけて肉食の忌避意識が高まっていたため、獣肉は病気療養のための「薬食い」料理として供された。味噌仕立てでネギと一緒に鍋で煮られたものを食した。猪肉の効能は「癲癇を直し肌膚を補い五臓を益する」とされていた。

【明和年間(1764~1771年)】
明和年間になると、今日の高級料亭のような料理茶屋が数多く誕生した。江戸時代中期の終わりから後期にかけて本格的な居見世(店舗)が現れ、料理屋などの飲食店が増え始めた。高級料理屋では手の込んだ料理を提供し、器も豪華で、店構えも化粧屋根裏天井、数奇屋(すきや)造りの座敷、庭園など高級感溢れるものとなった。料亭の元祖とされる深川洲崎の「升屋」は明和8年(1771年)に開業、江戸随一と謳われた「八百善」は享和年間(1801~1804年)に開業した。

【宝暦年間(1751~1764年)】
「煮売り酒屋」が登場し、煮豆、煮しめ、焼き田楽(おでん)などを販売し始めた。店に居座って酒を飲む形式で、「居酒屋」の原型とされている。同時期に、簡単な惣菜で盛切りのどんぶり飯(一膳飯)を食べる「飯屋」も増え始めた。

【明和年間(1764~1772)】
煮売り酒屋と飯屋が一緒になった形式の「縄暖簾(なわのれん)」と呼ばれる店が出現。お銚子2~3本と肴を合わせて100文くらいと、庶民がやや贅沢気分を味わう値段であろうか。

【天明年間(1781~1789)】
本格的な居見世の寿司屋、鰻屋、天ぷら屋などの料理店が出現。本格的な「鰻料理屋」が登場し、蒲焼きと飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形式の料理が人気を呼んだ。この頃「割り箸」も登場した。

【寛政年間(1789~1801年)】
居酒屋の人気が高まり、急激に数が増え始めた。

【享和元年(1801年)】
浅草にどじょう鍋店「駒形どぜう」が開業。どじょう鍋や湯豆腐、ねぎま鍋などの「小鍋立て」の鍋料理を出す専門店が多く出現し始めた。「小鍋立て」は小さな土鍋を七輪や火鉢などにかけ、一人か二人の少人数でつつくという現代でもみられる形式である。因みに、「駒形どぜう」は現在でも浅草で営業を続けている。
同時期に茶屋ではおでん(煮込み田楽)料理が誕生し、湯豆腐やあんこう鍋など、鍋料理の内容も多様化し始める。

【文化・文政年間1804~1830年】
江戸時代後期の「化政期」と呼ばれる時代である。上方文化が中心だった江戸時代前期の「元禄文化」に対し、「化政文化」は江戸文化の爛熟期となった。現在の時代劇等でイメージする江戸の町はこの時代のものである。
料理屋の高級化が進み、幕府の高官や諸藩の江戸留守居役、御用商人、文人墨客などが、盛んに高級料理茶屋を利用した。

庶民文化としては「どんぶり」が器として用いられるようになり、蕎麦屋などで使用され始めた。芝居小屋で賑わう日本橋葺屋町の鰻屋「大野屋」では、どんぶりに熱い飯を盛って、その間に蒲焼きをはさんだ「鰻めし」が登場。のちの「うな丼」の元祖となった。「鰻めし」は当初64文だったが、のちに100文、200文と値上がりして高級料理となっていった。鰻の蒲焼きを上のせする庶民向けの「うな丼」が登場するのは安政年間(1854~1859年)に入ってからである。

享保3年(1718年)にできた獣肉を出す「ももんじ屋」は、文化・文政時代になると店の前に「山くじら(猪のこと)」と書いた行灯を下げ、「牡丹」「紅葉」を描いた戸障子や旗を目印として営業した。今日でも猪肉を牡丹、鹿肉を紅葉と称するのはそのためである。この頃から蘭学者たちの間で肉食の習慣が広まり、これに対して国学者たちは「江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これをくろう者あり、(略)かくて江戸の家屋は不浄充満し、祝融(しゅくゆう/中国の火の神様)の怒り(火災のこと)に逢うことあまたたびなり、哀むべし、嘆くべし」と批判している。

鶏肉料理が庶民の間で食されるようになったのは文化年間以降のことで、鶏をはじめ野鳥の雁、鴨、鳩、雉などが食された。『守貞漫稿』によると「文化以来、京坂はかしわと云鶏を葱鍋に烹て食す事専也、江戸はしゃもと云闘鶏を同製にして売之」とあり、上方では鶏が、江戸では軍鶏が一般的だったようだ。文政年間に書かれた『今治夜話』には、「川鳥を煮て食べると神のごとく痢病(りびょう/赤痢)を治す」と記されている。
また、この時代から、居酒屋以外の飯屋でも飲酒させる店が増え始めた。

【文政5年(1822年)】
『明和誌』に、「土用(どよう)の丑(うし)の日に鰻を食する習慣は安永・天明期の頃より始まった」とする記述が載せられた。

【天保年間(1830~1844年)】
この時代以降、庶民の間でマグロが食されるようになった。赤身部分を醤油に漬けて保存するという、今日でも行われる「ヅケ」という料理法が主流であった。醤油を弾く脂身(トロ)は腐りやすいので敬遠され、肥料にされるか廃棄されていれた。当時はトロは猫も興味を示さないとして、「猫またぎ」などと称された。しかし、やがてこれを上手く工夫して、ネギと共に煮た「葱鮪(ねぎま)鍋」として食すようになり、吸物仕立にしたものは「葱鮪汁」と称されるようになった。

【嘉永年間(1846~1852年)】
化政期から料理屋の高級化が進み隆盛を誇ったが、嘉永年間になると天ぷら屋台見世もしだいに高級化していき、安政年間(1854~1859年)になると大きな店構えの天ぷら店が増え始めた。

【嘉永6年(1853年)】
『守貞漫稿』に、「鰻飯、京坂にて、まぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」と記された。現在の「ひつまぶし」や「うな丼」が食べられていたようである。「焼く時に付けるたれは、江戸は醤油にみりんをまぜ、京坂は醤油に諸白(もろはく)酒をまぜる」ともある。

【安政6年(1859年)】
この年の7月1日に横浜が開港。それに伴い外国人の渡来が増え、自然と牛肉の需要も増加しはじめた。文化・文政年間から流行りつつあった肉食の傾向が急加速し始める。

【文久2年(1862年)】
横浜で最初の「牛鍋屋」が開業。牛肉を鍋として食べさせるようになった。明治の文明開化以前、既に「牛鍋」は食されていたのだ。

そして1868年、時代は「明治」となる。