テビンティンギ事件 数千人のインドネシア人が虐殺
スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。
この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。
この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。
-------------------------
終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人のインドネシア人が虐殺された。
殺したのはイギリス軍でもない。オランダ人でもない。日本軍だ。
理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。
-------------------------
この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、
「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。
また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。
独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。
それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。
その結果、その真相が次の書物に記されています。
~~~~~~~~~~
北スマトラ州戦史編集検討会編
「北スマトラにおけるインドネシア独立戦史」
~~~~~~~~~~
この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。
これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。
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インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされた。
しかしもともとインドネシアを植民地支配していたオランダ軍と、これを支援するイギリス軍が迫ってきた。
インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としていた。
そこで降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。
こうした情勢下で、昭和20(1945)年12月13日にテビンティンギ事件が発生した。
その月のはじめ、英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等、家族同伴の一行と、護衛の日本兵、あわせて40名が、列車に乗ってキサラン近くの農園に向かっいます。
テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てます。
12月11日、到着した汽車を、武装した青年たちが包囲した。
武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否する。当然です。
両社は、長い時間対峙する。
しかし日本側には、婦女子もいます。
やむなく中島長官は、15時に降伏し、15時30分すべての武器がプシンド側に引き渡された。
このときプシンドの青年たちは、日本の将校4人を人質としたのだけれど、そのうちのひとり、深尾大尉を殺してしまった。
同じ日の日の夕方、宮川中尉によって警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が、青年たちに取り囲まれます。
彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。
青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請します。
電話で沢村少将は、
「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。
この二人の会話がまだ終わらないうちに、青年たちは電話線を切断してしまいます。
宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。
青年たちは、日本兵から武器を取り上げると、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺してしまいます。
(宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。)
翌、12月12日午前9時、前の日に列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来ます。
アミルタアトティオンは
「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」
沢村少将の部下中村副官は、この申し出を拒否すると、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪・暴行に抗議し、その列車の深尾大尉ら40名がどうなったかを尋ねます。
アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えようがない。
ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ります。
すると、昨夜グヌンパメラの食料倉庫で、日本人16名が殺害されたている。
さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得た。
無線は通じず、電話線も切られている。
第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けます。
12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。
沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、無限に日本人が殺戮されていくことを憂慮します。
沢村少将は、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対し、報復攻撃準備を命じ、同時に、攻撃許可を仰ぐため、師団長に無線電報を打ちます。
驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣する。
到着した室本中佐が現地の調査の結果は、沢村少将の報告の通りです。
そして室本中佐の報告を受け、師団は、報復攻撃を許可した。
13日午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に派遣。
歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。
このとき大隊には大砲もあったのだけれど、一般市民が犠牲になるのを畏れて使用しなかった。
攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。
日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。
(・・・これは、あくまでインドネシア側の記録です。
「至るところで女子供まで」というのは「事実ではない」と総山氏は言っています。)
整然と行われる日本軍の正規攻撃の前に、プシンドは簡単に敗北します。
しかも過激な指導をした者は、ジャワから来た煽動者(スパイ)だった。
そのことを市民から伝えられれ、自分たちが騙され、利用されただけと知ったプシンドは、一斉に町から逃げ出してしまった。
しかし、一部の青年たちがテビンティンギに戻り、日本軍から街を奪回しようと戦った。
戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。
12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄は、インドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議します。
そして、この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。
ふたりは、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であると申し合わせ、
インドネシア政府代表
諸党派の代表
日本軍の代表(総山孝雄)が、事態収拾のためにテビンティンギへ赴きます。
だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せない。
インドネシアの政府代表者も、諸党派の代表も、沢村に何も言うことができません。
あきらかに非は、プシンドの青年たちにあり、沢村の主張が正当であるからです。
総山は、夜半単独で、沢村と会い説得します。
「閣下、報復しなければならい理由がある事を、私は判っています。
日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。
しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を流すでありましょう。
そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。
わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。
インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は報復を止めるという事を布告してください。
われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれど、敗戦により軍事行動を禁じられている我々は、公然と独立を助ける事はできない。
我々はインドネシアの独立を助けたいのが、必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。
我々は、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください・・・」
総山の必死の説得に、沢村少将は、納得します。
12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。
以上見たとおり、この事件は、インドネシア青年の度を越えた革命精神により起こったものです。
その結果、インドネシア共和国の大切な国民保安隊や青年党までも大打撃を受けた。
革命精神の性急さのために、却って革命が打撃を受けてしまった事件でもあります。
大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。
にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されることには、我慢はできない。しかも一方的な虐殺です。
メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったといいます。
しかし12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。
共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難しています。
また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとして、以下の声明をだしている。
「日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。
この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。」
なるほど、冒頭に記したように、
「数千人のインドネシア人が、日本軍によって殺された」
「多数の戦車を先頭に立てて乱入した」
これは「事実」です。
しかし、それにはキチンとした理由があった。
そして日本軍は、その都度、きちんと中央に許可を求めて意思決定を仰いで行動している。
終戦後なお、日本軍は、軍規をきちんと守りぬいていたのです。
この事件で、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、現代のインドネシアが公式に認めていることです。
世界でもっとも軍規に厳しかった日本軍は、どこまでも真正直でどこまでもきちんとした武軍隊だった。
そんな軍隊は、世界中どこを探したってなかったのです。
帝国軍人を支那やロシア兵と一緒にするな!と思った方
未帰還兵 スマトラ 2006年1月
下にある動画は、インドネシア歩兵5連隊伍長(当時)であった高須茂男さんです。
彼は、戦後もインドネシアに残り、インドネシア独立戦争に参加した。
当時高須さんと行動を共にした日本兵は1千名ほどいた。2006年1月時点で、残留している元日本兵は、8名。高須さんは、そのなかのひとりです。
インタビューに答えて、高須さんは血を吐くような言葉で、次のように話されています。
「日本は負けたんですよ。負けた国の兵隊が通常で帰れますか。」
「私は、中隊でひとりだけ、ここに残りました。」
「自分の国が負けたら、どうしますか? 死ぬか生きるかだけでしょ?」
「インドネシアに日本がはいってきたのはなんでかといったら、東洋平和のためにはいってきたんですよ。ところが日本が負けて、私たちは何になりますか。道は死ぬだけでしょ。」
「日本がどうして負けたのかと、私たちは信じていなかった。私はそのとき18歳だった。女も知らなかった。純情だった。それだけですよ」
スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。
この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。
この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。
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終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人のインドネシア人が虐殺された。
殺したのはイギリス軍でもない。オランダ人でもない。日本軍だ。
理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。
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この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、
「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。
また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。
独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。
それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。
その結果、その真相が次の書物に記されています。
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北スマトラ州戦史編集検討会編
「北スマトラにおけるインドネシア独立戦史」
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この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。
これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。
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インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされた。
しかしもともとインドネシアを植民地支配していたオランダ軍と、これを支援するイギリス軍が迫ってきた。
インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としていた。
そこで降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。
こうした情勢下で、昭和20(1945)年12月13日にテビンティンギ事件が発生した。
その月のはじめ、英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等、家族同伴の一行と、護衛の日本兵、あわせて40名が、列車に乗ってキサラン近くの農園に向かっいます。
テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てます。
12月11日、到着した汽車を、武装した青年たちが包囲した。
武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否する。当然です。
両社は、長い時間対峙する。
しかし日本側には、婦女子もいます。
やむなく中島長官は、15時に降伏し、15時30分すべての武器がプシンド側に引き渡された。
このときプシンドの青年たちは、日本の将校4人を人質としたのだけれど、そのうちのひとり、深尾大尉を殺してしまった。
同じ日の日の夕方、宮川中尉によって警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が、青年たちに取り囲まれます。
彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。
青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請します。
電話で沢村少将は、
「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。
この二人の会話がまだ終わらないうちに、青年たちは電話線を切断してしまいます。
宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。
青年たちは、日本兵から武器を取り上げると、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺してしまいます。
(宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。)
翌、12月12日午前9時、前の日に列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来ます。
アミルタアトティオンは
「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」
沢村少将の部下中村副官は、この申し出を拒否すると、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪・暴行に抗議し、その列車の深尾大尉ら40名がどうなったかを尋ねます。
アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えようがない。
ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ります。
すると、昨夜グヌンパメラの食料倉庫で、日本人16名が殺害されたている。
さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得た。
無線は通じず、電話線も切られている。
第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けます。
12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。
沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、無限に日本人が殺戮されていくことを憂慮します。
沢村少将は、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対し、報復攻撃準備を命じ、同時に、攻撃許可を仰ぐため、師団長に無線電報を打ちます。
驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣する。
到着した室本中佐が現地の調査の結果は、沢村少将の報告の通りです。
そして室本中佐の報告を受け、師団は、報復攻撃を許可した。
13日午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に派遣。
歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。
このとき大隊には大砲もあったのだけれど、一般市民が犠牲になるのを畏れて使用しなかった。
攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。
日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。
(・・・これは、あくまでインドネシア側の記録です。
「至るところで女子供まで」というのは「事実ではない」と総山氏は言っています。)
整然と行われる日本軍の正規攻撃の前に、プシンドは簡単に敗北します。
しかも過激な指導をした者は、ジャワから来た煽動者(スパイ)だった。
そのことを市民から伝えられれ、自分たちが騙され、利用されただけと知ったプシンドは、一斉に町から逃げ出してしまった。
しかし、一部の青年たちがテビンティンギに戻り、日本軍から街を奪回しようと戦った。
戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。
12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄は、インドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議します。
そして、この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。
ふたりは、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であると申し合わせ、
インドネシア政府代表
諸党派の代表
日本軍の代表(総山孝雄)が、事態収拾のためにテビンティンギへ赴きます。
だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せない。
インドネシアの政府代表者も、諸党派の代表も、沢村に何も言うことができません。
あきらかに非は、プシンドの青年たちにあり、沢村の主張が正当であるからです。
総山は、夜半単独で、沢村と会い説得します。
「閣下、報復しなければならい理由がある事を、私は判っています。
日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。
しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を流すでありましょう。
そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。
わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。
インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は報復を止めるという事を布告してください。
われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれど、敗戦により軍事行動を禁じられている我々は、公然と独立を助ける事はできない。
我々はインドネシアの独立を助けたいのが、必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。
我々は、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください・・・」
総山の必死の説得に、沢村少将は、納得します。
12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。
以上見たとおり、この事件は、インドネシア青年の度を越えた革命精神により起こったものです。
その結果、インドネシア共和国の大切な国民保安隊や青年党までも大打撃を受けた。
革命精神の性急さのために、却って革命が打撃を受けてしまった事件でもあります。
大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。
にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されることには、我慢はできない。しかも一方的な虐殺です。
メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったといいます。
しかし12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。
共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難しています。
また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとして、以下の声明をだしている。
「日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。
この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。」
なるほど、冒頭に記したように、
「数千人のインドネシア人が、日本軍によって殺された」
「多数の戦車を先頭に立てて乱入した」
これは「事実」です。
しかし、それにはキチンとした理由があった。
そして日本軍は、その都度、きちんと中央に許可を求めて意思決定を仰いで行動している。
終戦後なお、日本軍は、軍規をきちんと守りぬいていたのです。
この事件で、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、現代のインドネシアが公式に認めていることです。
世界でもっとも軍規に厳しかった日本軍は、どこまでも真正直でどこまでもきちんとした武軍隊だった。
そんな軍隊は、世界中どこを探したってなかったのです。
帝国軍人を支那やロシア兵と一緒にするな!と思った方
未帰還兵 スマトラ 2006年1月
下にある動画は、インドネシア歩兵5連隊伍長(当時)であった高須茂男さんです。
彼は、戦後もインドネシアに残り、インドネシア独立戦争に参加した。
当時高須さんと行動を共にした日本兵は1千名ほどいた。2006年1月時点で、残留している元日本兵は、8名。高須さんは、そのなかのひとりです。
インタビューに答えて、高須さんは血を吐くような言葉で、次のように話されています。
「日本は負けたんですよ。負けた国の兵隊が通常で帰れますか。」
「私は、中隊でひとりだけ、ここに残りました。」
「自分の国が負けたら、どうしますか? 死ぬか生きるかだけでしょ?」
「インドネシアに日本がはいってきたのはなんでかといったら、東洋平和のためにはいってきたんですよ。ところが日本が負けて、私たちは何になりますか。道は死ぬだけでしょ。」
「日本がどうして負けたのかと、私たちは信じていなかった。私はそのとき18歳だった。女も知らなかった。純情だった。それだけですよ」