医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



40年余の取材歴を踏まえ情報を発信

相思相愛の恋愛

2015-07-26 06:39:00 | 創作欄
相思相愛の恋愛
高校生の間では、徹と百合子の恋愛は理想のカップルと想われ、同窓生たちの衆目、憧れの対象のカップルでさえあった。
校内1のイケメンと美女の恋愛は、映画に描かれた物語さえ連想させた。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の恋物語は、形を変えてアメリカ映画の「ウエストサイド物語」にも再現された。
世代は違っていたが、徹と百合子の恋の世界は「ウエストサイド物語」を連想させた。
徹の父親はヤクザであり、百合子の父もヤクザで、新たに開発された土地と公共事業の利権を巡り対立し、抗争問題に発展したのだ。
その抗争問題は、徹と百合子の恋の世界に大きな影を及ぼした。
最初のきっかけは、百合子の兄が徹の父親の運転手兼用心棒であった多田勝則に射殺されたことだった。
報復として徹の父親の義弟が取手競輪の帰りに、駐車場で射殺された。
ヤクザの世界は理不尽である。

10年やれば専門家 20年やれば大家に

2015-07-14 01:54:54 | 創作欄
人は使命を自覚した時に、急激に伸びる。
先人の言葉に一郎は納得した。
「文学をやりなさい」と崇拝する病理学者の吉田富三先生に諭されていたが、大学の恩師の森脇教授の言葉にも拘り続けていた。
就職は一流の新聞社には到底及ばなかったが、日本工業新聞社に入社した時に、国文科の主任教授であった森脇教授に報告に行く。
「そうなのか。就職したのか。4月から出勤だね。頑張りなさい。君には短歌の才能があるのだから、続けなさい。どの道を進もうと10年やれば専門家だ。20年やれば大家になるはずだ」
一郎は「どの道に進もうと」に背中を押された気持ちとなる。
森脇教授は萬葉集の研究では大家と評されていた。
4月1日から出勤するものとばかり想っていたが、3月1日からの出勤であった。
まだ、卒業式前である。
一郎は学生気分が抜けきれず、日本工業新聞社の仕事に身を入れることが出来ないでいた。
偶然、大学の先輩の一人が社内に居て、昼飯に誘ってくれた。
産経新聞の姉妹纸であった日本工業新聞社は産経会館の6階にあった。
大手町地下街の食堂に先輩の木嶋哲郎が一郎を誘った。
「編集を希望したが、2年間も営業だ。営業の仕事はつまらん。沼田も営業だろう。長く続ける仕事じゃないよ。今、俺は就職活動中だ」木嶋は冷笑を浮かべながらカレーライスを口に運んだ。
一郎もカレーライスを食べていた。
社内に先輩がいたことで気強く思っていた一郎は拍子抜けがした気分となる。
「広告が取れないので、上司に嫌味を言われてな、腹が立つ!」木嶋は怒りを露にし、スプンで皿を叩く。
一郎は1週間の研修期間であったが、前途に不安を覚えていた。
そして、研修期間を終えてから出勤しなくなる。
当然、会社の方から何らかの連絡があると思ったが、その連絡もなかったのだ。
つまり社員が定着しない企業と一郎には想われたのだ。
日本工業新聞社にとっては一郎はどうでもいい人材であったようだ。






















中国人のロウロウ

2015-07-13 08:52:59 | 創作欄
先日、若い頃の町内仲間が「共産党、創価学会、朝日新聞が大嫌い」と吐き捨てるように言っていた。
彼は町内会の仲間たちに推されて、取手市議会議員に立候補して当選し、7期務めた。
一郎は「男と男の話があるんだ」と約30年前に地域の長老の方に声をかけていただいた。
それは、「市議会議員に立候補しないか」と言う打診であったのだ。
「とても、そんな柄ではありせん」と当然、お断りした。
地域には優れた人材は他にたくさんいたからである。
しかし人生には岐路があるものだ。
あのころは町内会の仲間と麻雀に明け暮れ、自堕落な生活を送っていたのだ。
一郎は母親の遺産(600万円)が入ってから狂いだして地元取手のフィリピンパブや東京・浅草橋、駒込のフィリピンパブへも行っていた。
さらに新宿、池袋、湯島の韓国パブや中国人との交際もあって、政治とは対局にあった。
「センセイ、なぜ、結婚していること隠していましたか」
京王プラザホテルホテルのレストランで中国人のロウロウが言う。
30数階のレストランから秋空に富士山がクッキリ見えた。
「私、明日、北京へ帰ります」別れが来たことを一郎は感じ、内心安堵した。













トランポリンで床へ落下

2015-07-12 02:00:20 | 創作欄
沼田一郎は努力もしないで、高望みばかりしていた。
だが、現実は甘くはなかった。
母の期待で公務員か教師を目指していたが、それも挫折した。
教師は楽だろと体育教師の道を選び、単位も取っていた。
だが、それも中途半端に終わった。
体育科ではなく国文科を選んだのだ。
さらに未練もあったので応用化学などの授業も受けていた。
毎日、体育館で過ごしていたので、先輩や講師などから体育館の清掃なども命じられた。
講師の一人は憧れのオリンピック金メダリストである。
その講師から「バーベル片付けろ」と指摘された。
体育科の生徒たちがバーベルを放置して、何処かへ行っていた。
「モップをかけておけ、床が汚れているぞ」と命じた先輩の体操選手もメダリストの一人だった。
大学から体操を始めたのだから一郎は進歩しない。
つり輪、鉄棒、平行棒も全くダメで、トランポリンで遊んでいる状態だった。
剣道の授業だけは高校時代にやっていたので、体育科の学生とは互角以上であった。
一郎が毎日体育館へ通ったのは、美しい女子学生の一人に心惹かれたからだ。
だが邪念が災いもした。
その女子学生の平均台演技をトランポリンの上で見ていた。
そして一郎自身、回転不足で背中から落下し、さらに弾んで床にも落ちたのだ。
その後、「才能がない」とトランポリンは止めたのだ。
ある日の体育科の授業のことだ。
教授が何時ものとおり、出欠を名簿に従って確認する。
教授が名前を読み上げると「国体へ行っています」と同期生が答える。
「そうか、国体かどうりで欠席者が多いはずだ。残った君たちも来年は国体へ行くように」
と諭すように言う。
一郎はレベルが違うので聞き流したが、教室にいることを「屈辱」と感じている学生もいただろう。












ヤマユリ

2015-07-12 00:13:47 | 創作欄
恋愛らしい恋愛の体験がないまま一郎は結婚した。
「恋愛と結婚は違いますよ」一郎は弁護士夫人の遠山紀子に言われたことを長く胸にとどめていた。
一郎は小学生向け学習辞典の販売で、等々力の遠山宅を訪問した。
お手伝いさんが玄関の応対に出た。
何時ものとおり「学校の方から来ました」のセールストークで訪問の主旨を伝えた。
それで一郎は応接間まで案内されたのだ。
約半年の短い営業活動の期間で、応接間まで通されたのは初めてだった。
「ご苦労さまです」と柔かに笑顔で応対する夫人は、30代と想われたがお嬢様さんタイプで世間ずれしてはいないように想われた。
一郎は多少の後ろめたさを感じたが、黒革の鞄から学習辞典の1冊を取り出して説明した。
「とても良い学習辞典ですね。いただきますわ」とすんなり売れたのである。
娘さんは私立のお嬢さん学校へ通学していて、夫人から学友の数人を紹介されたのだ。
一郎は夫人が本棚から出しきた学年名簿を夫人の指で示されたので、手帳に住所と名前を記入した。
「わたくしが電話をしておきますわ。是非訪問してください」と親切に言うのだ。
思わぬ収穫であった。
応接間にはヤマユリが大きな紫色の花瓶に飾られていた。
豪華で華麗な花で、直径は20数センチ、「ユリの王様」とも呼ばれている。
応接間に漂う香りは甘く濃厚であった。
「美しい花ですね」と一郎は目に留めた。
「わたくしの誕生日が昨日でして、主人から贈られましたの」と夫人は微笑む。
一郎は夫人にすすめられてイチゴのシュートケーキを食べた。
「学校の方から来ました」というセールストークを信じ込んでいる人のよい夫人であった。
本棚には吉屋信子の小説の他に堀辰雄、太宰治、三島由紀夫、川端康成、立原正秋などの箱入の書籍が並んでいた。
「小説がお好きなのですね?」と聞いてみた。
「女子大学時代に恋いで真剣に悩みましてね、本に解决を求めた時期もありました」夫人は醒めたような瞳をしていた。
一郎はどのような恋であったのかと想ってみた。
「でも、恋愛と結婚は別です。違いますよ」と夫人はきっぱりとした口調で言う。
一郎にその夫人の言葉が深く残ったのだ。
一郎は高校時代、大学時代の青春の真ん中にあって恋愛らしい恋愛の体験がなかった。
「結婚するなら恋愛に限る」と思い込んでいたのだが、そのような縁には巡り合わなかった。
ヤマユリは弁護士夫人だった遠山紀子の華麗な姿を彷彿させた。
その2年後、傷害罪で新宿署に逮捕された一郎は遠山紀子の夫の幸吉に弁護を依頼したのだった。





記事:7月11日毎日新聞






















一郎の従弟幸雄の恋

2015-07-06 20:13:06 | 創作欄

牛田一郎と従弟の幸雄は誕生日が1日違いであった。
歌人であった叔父の影響であろうか、高校生になってから2人は競うように短歌を作りだした。
短歌のレベルは残念ながら初心者のレベルの域に留まっていた。
師と仰ぐ人が身近にいたわけではないし、歌壇に残されている優れた歌人の歌集を読んでもいなかった。
ただ、指をおりながら5、7、5、7、7と言葉を並べて満足していた。
○ 夕闇の金木犀の香に想う君が面影文にどどめん
幸雄が下校途中の彼女と出会ったのは、材木町の街角であった。
秋は恋心が芽生えるような予感をさせる季節であった。
「一郎、俺、恋をした。一度、彼女のこと見てくれや」幸雄は高揚した気持ちを打ち明けた。
一郎は未だ恋いらしい恋の機会には巡り合っていなかったので、「羨ましいな、ユキが恋をしたんか。本気か」と確認した。
「出会って、不思議な気持ちになった。俺、彼女と結婚するよ」一郎の目は常になく真剣である。
「結婚、まだ早すぎるよ」一郎は呆れた。
「早くなんか、ないよ。姉やんは15歳で結婚した。俺は17歳、来年は18歳なるよ」一郎は語気を強めた。
「そうか、それではその彼女に1度会ってみよう」一郎は半信半疑であったが、どのような相手なのか興味も湧いてきた。
翌日、材木町で下校する沼田女子高等学校の生徒たちを2人は待っていた。
2人は沼田農業高校に通学していて、母親たちの母校の生徒に多少は親近感を抱いていた。
伯母の松子は沼田女子高等学校1期生、一郎の母は7期生、幸雄の母は5期生であった。
「おい、彼女が来たよ。3人連れの真ん中が彼女だよ」幸雄の声が高くなっていた。
一郎は幸雄が恋をした女子高生を認めた。
彼女の視線が幸雄に注がれていた。
彼女は笑顔になっていた。
だが、一郎は両側の女子高生と比べ彼女が見劣りすると思ったのだ。
面食いの一郎は右端の子を見て「何て可愛いのだ」と視線が釘付けとなっていた。
「一郎、彼女どうだ。可愛いだろう。気持ちも好きになれそうなんだ」
「あれが惚れた彼女か。そうなんだ」一郎は頷いたが拍子抜けがした。
幸雄は歌を添えて恋文を彼女に手渡した。
「これ、読んでくれや」幸雄は気持ちが高揚していた。
「ありがとう」彼女は恥じらいと多少の戸惑い期待感から笑顔を赤らめた。
彼女に気持ちが通じて幸雄は有頂天になった。
「こんなに、うまくいくんか」と幸雄は恋の勝利者の気分に染まっていく。
「後で読むからね」
姫木典子は渡された封筒を鞄に収めた。
2人は初めてのデートを楽しむように沼田城址へ向かって肩を並べ歩いて行く。

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実はこの創作は、午前11時ころ入力したが、何の間違いか消えてしまった。
さらに、パソコンがフリーズして復帰したのが午後6時である。
同じような文を再現した。
再現してからアップの段階でまたパソコンがフリーズする。
その間、囲碁、将棋で時間を潰す。













16歳の姉や(お手伝いさん)の裸体

2015-07-05 02:15:37 | 創作欄
一郎は親友の浅野賢治君に誘われ、2年生の時に絵画教室に通うこことなった。
一郎の姉は母から大正琴を習っていたが、やがてピアノを習い出していた。
「一郎も何か習う?」と母親に問われた時、「絵画教室がいい。賢治君も一緒だといいね、と言うんだよ」気持ちを伝えた。
「そうなの。賢治君のおじいさんは、フランス帰りの絵描きさんなのよ。賢治君はおじいさんに習えばいいのにね」母の信枝は怪訝な顔をした。
西洋画壇の重鎮であった浅野陸乃は東京芸術大学の講師の立場でもあった。
一郎が通っていた絵画教室は、浅野陸乃の教え子の一人である大村美智子が主宰していた。
田園調布の駅から5分ほどの閑静な住宅街の一角の屋敷1階のアトリエで、美智子の父親は貿易商であり、彼女はお嬢さん育ち。
生徒は小学生ばかりで、常時6人であった。
毎日、デッサンでモデルは美智子の家のお手伝いさんが務めた。
時には生徒の一人が指名されモデルとなった。
一郎はモデルとなるのが苦痛であった。
ほとんど不動のまま座っていることが耐え難かったのだ。
一郎が絵画を止めたことを記す。
賢治君の家の16歳の姉やが浅野画伯の裸体画のモデルとなったのである。
一郎は賢治君のおじいさんのアトリエが気になり覗きに行ったのだ。
その日、賢治君は歯医者へ行っていた。
窓越しでの有様であった16歳になった姉やの裸体に一郎は大きな衝撃を受けた。
画筆を握り裸体の姉やを凝視する賢治君のおじいさんは、獲物に挑む野獣のように映じたのである。
「イヤラシイ!」と裸体画を描くことすら小学校2年生の一郎には汚らわしく想われたのだ。
「見てはいけないものを見た」という後ろめたさを感じた。
姉やは足を開いており、黒々とした陰毛も明からさまになっていた。
一郎は絵画教室に通うのを止めた。
「どうして?なぜなの?」と賢治君に何度も問われたが一郎は沈黙を貫いた。





















15歳の姉や(お手伝いさん)

2015-07-05 00:07:15 | 創作欄
沼田一郎は小学校へ入ってから初めて引け目を感じた。
一郎は東京・大田区田園調布本町の桜坂の下にあった三井精機の宿舍に住んでいた。
親子4人が6畳一間で生活をしていたのだ。
学校の帰りに学友の1人が「家に来いよ」誘ってくれた。
高い木塀に囲まれた家で、まず門の大きさに目を丸くした。
浅野の門札も大きかった。
門の脇の木戸を潜ると木立に囲まれた西洋館と2階建の和風の住宅があったのだ。
西洋館は学友の浅野賢治君の祖父母の住まいであり、和風の建物の玄関の呼び鈴を押すと
お下げ頭のお手伝いさんが賢治君を出迎えた。。
「坊ちゃん、お帰りなさい。お母様はお買い物でお出かけですよ」と笑顔がまだ幼い。
「どこまで、行ったの?」
「渋谷までと奥様はおっしゃってました」
お母様、奥様と呼ばれている人は一郎の周辺には居なかった。
「お腹すいたな。何かない?」
「羊羹、最中、甘納豆、カステラなどがあります」
「どれか出して。一郎君、僕の部屋は2階だよ。上がって」
一郎は薄汚れた運動靴を脱ぎ裸足で絨毯を踏みしめた。
その奇妙な感触をまず味わった。
「あの人は誰なの?」
「姉やだよ」
一時期、姉や(お手伝いさん)たちが学友たちの送り迎えてしている時期があったが、ある日、父兄会で問題視されその習わしは禁止された。
無論、自動車での送り迎えも禁止となった。
レースのカーテンが風に揺れ、部屋に金木犀の香りが漂った。
昭和25年の秋のことで、金木犀の香りの季節になると一郎は15歳の姉やが運んで来たお茶と初めて食べたカステラのことが思い出された。
想うに姉やが可憐に映じたのは絣のモンペ姿であったからかもしれない。




















鶏肉が苦手

2015-06-29 23:41:53 | 創作欄
当方はカメラマンではない。
自称写真家である。
正確に言えば写真・映像愛好家である。
カメラが2度も壊れて動画は止めたが、静止画像でもそれなりに切り取れる映像がある。
昨日、「カメラマン、今度は何処へ行くの?」と顔なじみの人から声をかけられた。
「予定はありません」と答えた。
だが、相手の名前も聞いて居なかったし、どこに住んでいるかも知らないが、「おお、また会ったな、カメラマン」と出会うと笑顔で寄って来るのだ。
時には「おお、会長」と声をかけられる。
年齢は70代の中頃であろうか?
「取手においしい焼き鳥屋は?」と尋ねられた。
実は当方、鶏肉が苦手なのだ。
話は幼児のころにさかのぼるが、ニワトリをペットのように想っていた。
ニワトリはトウモロコシを与えると手の平からでも食べた。
雛鳥の頃から慣れ親しんだニワトリたちである。
だがある日、その中の1羽が居なくなっていた。
徹は従兄の朝吉に尋ねた。
「ニワトリが1つ、居ないね。どうしたの?」
「ニワトリ?昨夜、徹も食べただろう。おいしかっね」
「食べた?!」徹は正確にその意味が理解できなかった。
昭和23年、卵は貴重なご馳走であった。
当然、鶏肉もご馳走であった。
東京大空襲の前の月に徹と姉、妹たちは母の実家(取手・小文間)に疎開し、約3年余田舎暮らしをしていた。
その間、徹の父は関東軍に居て終戦を迎えたことから満州からソ連へ連行されていたのだ。



















存在することに意義

2015-06-28 07:17:00 | 創作欄
沼田一郎は27歳になっていた。
日本医学協会の会長で癌研究所長であった吉田富三先生の言葉が念頭から離れずにいた。
「あなたは医学部出身ですか?」
「いいえ、大学は国文学科で、卒論は夏目漱石でした」
「そうですか。それなら、国文学を続けなさい」
沼田は医療ジャーナリストとして一人前になりたいと願っていたので、吉田先生の言葉が心外であった。
「沼田君が医療ジャーナリストとして、これから頑張っていくなら、是非、吉田富三先生に会って師事しなさい。私が君のことを電話で伝えて置くからね」と武蔵野日赤病院の神崎三益院長が道を開いてくれたのが25歳の時であった。
沼田が吉田富三先生を訪ねて大塚の癌研究所の所長室を訪ねた日、先客が居たのだ。
それが日本経済新聞社の記者であった。
沼田は人見知りをする質であり、寡黙でもあった。
正確に言うなら勉強不足であり、問題意識も欠如していたのだ。
日本経済新聞社の記者の質問に感心するばかりであった。
「これがマスコミの人なのだな」と萎縮する思いがした。
後で知ったのであるが、その記者は東京大学を出ていた。
沼田は学歴にコンプレックスを抱いていたので、「なるほど、東大卒は違うものだ」と変に納得してしまった。
その日、吉田富三先生とは森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介などの文学談義となった。
「一高時代に読みましたが、やはり大きな衝撃を受けたのが、ドストエフスキーの『罪と罰』でした。作品はしばしば、作者より雄弁に作者自身のことを語るものです」吉田先生はパイプをくわえ、窓の外に目を転じた。
窓の外には銀杏の舞い散るのが見えた。
「日本医学協会の役割は?」沼田は質問してみた。
「そうですね。存在することに意義があります」
「存在することに意義ですか?」
「そうなのです」吉田先生は大きな瞳を見開いた。
「吉田先生に学んでいこう」沼田は決意を新たにする思いとなり所長室を出た。

ドンファン・鈴木

2015-06-28 00:27:25 | 創作欄
ドンファン・鈴木は、希に聴く美声の持ち主であった。
「声優になれば、良かったのではないですか」と沼田一郎は初対面で感嘆して尋ねた。
「学生時代に日生劇場でアルバイトをしておったが、役者たちにも勧められた。声優にも役者にも興味はないんだ」
彼は小説家志望で、三島の文体も谷崎の文体も川端の文体も書ける」と豪語した。
入社して3か月後、大学の先輩の河野次郎と新宿駅構内で偶然出会った。
「お茶飲む時間はある?」と河野が誘う。
「少しなら、大丈夫です」と応じた。
沼田はドンファン・鈴木に頼まれて、厚生省の外郭団体の病院管理部長の連載原稿を受け取りに行くところであった。
「君が病院新聞に関わるとはね」と河野は目を丸くした。
沼田が医療に不信感を抱いていることを河野は知っていたのだ。
「初めは、公益事業新聞社へ入ったのですが、1か月で病院新聞社勤務になったんですよ。社長が両方新聞を経営しているんです」
「そうなのか、それで仕事は君に合いそうなの」河野はコーヒーに角砂糖を3つ入れた。
コーヒーが苦手な沼田は、ソーダー水を飲んだ。
「先輩が看護婦を担当しろと言うのです」
「看護婦か、夜勤が大変らしいね」博識の河野は、二・八闘争を知っていた。
「ストレスが溜まるので、タバコを吸う看護婦も多いそうだね」
河野と沼田はタバコを吸わないし酒も飲まなかった。
「先輩に鈴木さんという小説家志望の人が居まして、三島の文体も谷崎の文体も川端の文体も書ける」と言っています」
「それでは、その鈴木さんは天才ではないか」
「ハッタリだと思いますが・・・」
二人で声を立てて笑ったので、喫茶店内のお客が彼らに視線を注いだ。
河野は「小説を書くなら、ドストエーフスキイくらいのものを書きたい」と言っていたが、その目標の高さがあだとなっていた。
大学時代に評論家志向であった沼田に対しては「沼田君、評論なら小林秀雄を目指せよ」と言ってプレッシャーをかけるのだ。
河野は憲法の全文を暗記していた。
彼の兄は東京大学法学部を出て弁護士をしていたが、「俺の方が頭はいいんだ」と河野は言っていた。
記憶力は抜群で主だった詩人たちの代表的な詩はスラスラと口から出てきた。
「一種の天才」と大学の教官たちも瞠目していた。
だが、記憶力は記憶力に過ぎず、独創性や創造性が欠如していたようであった。
沼田の同僚の鈴木は、女性に対して天才的なナンパ術を発揮した。
ドンファン・鈴木の伝説は我々の仲間内で語り継がれた。
「女は1回きり、1回抱けば終わり」を貫いたのである。
それでトラブルが起きなかったのだから、ドンファンのドンファンたる所以であっただろうか?




















歌舞伎町のダンスホールへ通っていた

2015-06-27 02:59:34 | 創作欄
日本の課題は何か?
世界をリードするような人材の育成である。
日本が変われば、世界が変わるはずだ。

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都市センタービル地下1階のレストランで沼田一郎がカツカレーを食べていると「沼田さん、前の席に座っていいですか?」と後輩の西毅君が柔和な笑顔を見せた。
人を食ったような口もきくが如何にも真面目で善良そうな新人であった。
「我々の新聞は、比較的広告が取りやすいんですが、病院新聞は大変ですね。苦戦しているようですね」
「創刊してまだ2年だしね」沼田は弁解するように言った。
だが、救いは購読者が伸びてきてきることであった。
西が勤務する公益事業新聞社と沼田が勤務する病院新聞社は衝立で分離されていた。
公益新聞側は30坪ほどで、会議をするためのテーブルスペースもあったが、病院新聞は15坪ほどで5つの机とスチールの戸棚で目いっぱいであった。
両社は衝立で隔てられているだけなので、互の声は筒抜けであった。
沼田は、後輩の西から「沼田さんの夢はなんですか?」と唐突に尋ねられ、言葉に窮した。
カツカレーを食べるスプーンが止まった。
西は和食の定食を食べていた。
「私に師匠と呼べる人がいます。学生時代から薫陶を受けてきました。沼田さんに師匠と呼べる人はいますか?」
スポーツ刈りの頭で体育会系に見えた西は、見た目以上に生活態度が真摯なのだと想われた。
「師匠ね。いないね。必要性も感じないけどね」沼田はお目当てのウエートレスに目を転じた。
沼田は当時、社交ダンスのレッスンに新宿の歌舞伎町のダンスホールへ通っていた。
お目当てのウエートレスと踊ることを夢想したりしていた。
“彼女は猫のように柔らかい身体をしているのではないか?”などとも想ってみた。
先輩のように気軽にナンパができないものかと考え、赤坂、銀座界隈で模倣もしたが失敗していた。























閉所恐怖症の傾向

2015-06-26 15:06:17 | 創作欄
「沼田さんは72分の1ね」と弁当の箸を止めながら佐久間菊江はつぶやいた。
沼田一郎も「何のことだろう?」と箸を止めた。
共同ビルの7階の回廊の中央にある15坪の狭い部屋は薄い茶系の色の壁に囲まれていて窓がどこにもなかった。
牢獄にいるような息苦しさを沼田は感じることがあった。
閉所恐怖症の傾向が沼田にあった。
それは幼児の頃の体験から来ていた。
5歳の一郎は小学生たちの従兄たちと鬼ごっこをしていた。
一郎が重い蔵の木戸に手をかけると幼い力でも開いたのだ。
2階の窓から西日が射していて、薄暗い蔵内の様子が一郎の目に浮かんだ。
多くの行李や茶箱が並んでいた。
一郎はそれらを次々と開けて見た。
衣類や食器類などが収まっていた。
武具も見つかった。
胸が高鳴ってきた。
冒険をしている気分になっていた。
一番、隅にあった茶箱を開けると中は空であった。
一郎はその中に身を隠したのである。
蔵の木戸の外から従兄の恒男がそれを目撃していた。
小学校2年の恒男は笑いをこらえながら茶箱の蓋の上へ腰を下ろしたのである。
恒男の兄の恒次がそれを目撃し蔵に入ってきた。
恒男が恒次に小声で一郎が茶箱の中に隠れていることを耳打ちした。
恒次も笑いを答えて、蓋の上へ腰を下ろしたのだ。
5分くらい経過しただろうか。
一郎は人の気配を感じて、外の様子を見ようと蓋を押上し上げたが開かない。
一郎はパニックに陥り、泣き叫んだのだ。
恒男と恒次が笑っていた。
「開けてよ!」と一郎は懇願したが、2人は応じない。
そこへ中学2年生の従姉の里子が蔵にそば粉をとりに来のだ。
恒男と恒次は慌てて、茶箱から降りると外へ駆け出して行ったのだ。
茶箱の中から一郎の泣き叫ぶ声がもれてきたので、里子が弟たちのイタズラに気づいた。
「何て、可愛そうなことをするの」里子は怒りが込み上げてきた。
一郎は茶箱中で身をくねらせて泣き叫んでいた。
「もう、大丈夫、泣かないで一郎」お下げ頭の里子が一郎を抱き上げた。
一郎はモンペ姿の里子の胸にすがって泣いた。
その後、夢にまで見た恐怖の体験であった。

沼田は次期社長になれなかった

2015-06-26 07:01:11 | 創作欄
「沼田の奴!飼い殺しにしてやる!」
沼田が大隅金太に恨まれたのは不本意であった。
あろうことか、上野の中華料理店の座敷で開かれた株主総会で筆頭株主で代表権を持っていた吉岡初男が沼田を次期社長に推挙したのだ。
「大隈君、君も2期社長をやればいいだろう。次は沼田君が社長だな。いいな譲れよ!」
吉岡は強引は性格であるので、他の株主は異を唱えなかった。
もっともわずか100万円の出資で歯科企業の経営者たち7人で再建した専門新聞であった。
沼田は自負心から業界新聞と呼ばれることを嫌った。
歯科業界の零細な企業の経営者たちは「新聞屋さん」と沼田のことを呼ぶこともあり、自尊心を傷付けられたものだ。
製薬業界の大手企業の年商の1社にも満たないような、歯科業界の市場規模であった。
沼田は日本薬業新聞社に勤務していた頃、経営者インタビューの欄などを担当し、上場されている大手企業の経営者に度々取材をしてきた。
それらの経営者と比べると、歯科業界の経営者たちはいかにも見劣りがしていた。
だから、沼田は製薬業界の大手企業のトップを歯科企業の団体の講演会へ招いたりした。
「今日は、とても良い話が聞けたよ」と元厚生省(当時)の官僚であった歯科団体の事務局長に感謝された。
結局、沼田は次期社長になれなかった。
大隈が意図して6年間も株主総会を開かなかったのだ。

























第三の顔

2015-06-15 22:39:58 | 創作欄
「人間には三つの顔がある」と犯罪被害者について詳しいある精神科医は分析する。
家族が知っている顔。
学校の友人たちが知っている顔。
さらに、家族や友人たちすら知らないまさかの隠された顔である。
15歳の鳳美智子の顔は、性の衝動に突き動かされた第三の顔であった。
「あんた、可愛い顔しているね、まけてやるよ」14歳の年の夏祭りの日に、美智子は刺青が法被姿の袖口から見える露天商の男から言われ、心がくすぐられたのだ。
「そうか、私は可愛いのか」取手の夏祭りは忘れられない年となった。
1本の焼き鳥におまけの1本の焼き鳥に満足した。
「可愛いことは、得もするんだ」美智子は浮かれた気分になった。
女の武器に目覚めたのだった。
援助交際などという言葉がない昭和40年の頃、美智子は15歳で男の求めに応じて、5000円で処女を売った。
東京・渋谷の交差点でサラリーマン風の40代の男から声を掛けられた。
「おねいさん、可愛いね」美智子が背後を振り返ると濃紺のスーツ姿の黒ブチのメガネをかけた男は柔かに微笑んでいた。
バリトンのよく通る声で耳障りも良かった。
美智子が知っていたNHKのアナウンサーの声を彷彿させた。
「デートしようか?」男はナンパに慣れていた。
相手は日替わりで女を抱いている男であった。
美智子は性の体験を欲していた。
それは夫を交通事故で失しなってから、男狂いとなった祖母真子の血の流であっただろうか?
美智子は父親の徹からとても可愛がられ、育ってきた。
「お父さんのようは人と結婚したいな」13歳の美智子は親友の仁美に打ち明けたことがある。
「私は嫌だな。取手競輪に凝っているお父さんは大嫌い!」仁美は陰鬱な顔をした。
都立高校の数学教師であった美智子の父親は、競輪などとは無縁の立場であった。
「大工さんなど、大嫌い!」仁美の父親は大工の棟梁で、自宅に大工たちが呼ばれて来て、昼間から酒を飲むこともあった。
仁美は酔った大工の一人から胸の膨らみを触らてから大工たちの不遜さを嫌悪していた。
「胸触られて、どうだったの?」美智子は聞いてみた。
「ゾッとしたわ。大工はひどい人たちなの」仁美は眉間にシワを寄せて首を振った。
美智子は一度、男から胸を触ってほしいと夢想したことがあった。
一人湯舟に浸かりなだが、自らの乳房を揉んでみた。
「気持ちいい。男から揉まれたら、もって気持ちいいのんだろうな?」美智子は恍惚となっていた。
父は渋谷の高校へ勤めており、その日は文化祭で、「一度、文化祭を見に来いないか?帰りにおまえが好きな寿司をご馳走するよ」と父親に誘われていたのだ。