神奈川県愛川町半原の 中津川を水源として 横須賀市まで続く
横須賀水道路(海軍水道)は 旧海軍が 作ったものだそうです
横須賀市逸見(へみ)浄水場まで 送水するための水道管が埋設されています
工事は明治45年(1911年)に始まり 大正10年(1921年)には完成
半原取水口 半原沈殿地や 逸見浄水場は現存しているが
平成19年(2007年)4月より送水休止し 大部分は道路として利用されている
地図で見ると 神奈川県を 斜めに ほぼ一直線に貫く 水道路です
この水道路を 歩いて探検していましたが 病気になったこともあって
長らく 中断したままに なっています
今日 たまたま 相模大堰の辺りまで 富士山を見に行った時
こんな 橋が ありました 相模川を渡る 水管橋のようです

この橋の 左側が 海老名市社家です (右側は 厚木市)
社家にある取水口は 横須賀水道路の 有馬系統というらしいです

要するに横須賀水道路は 半原系統と 有馬系統の2つがあるということみたいです
海軍は 半原系統だけでは 足りなくて 急きょ 有馬系統をつくったらしいです
昭和14年 「突貫工事」により海老名市社家の 相模川から
有馬浄水場を経由して 田浦配水池まで送水する 有馬系統の工事が着手され
終戦の年 昭和20年に 完成したそうです
地図を見ると 有馬系統の水道路は 藤沢市葛原の辺りで
半原系統の水道路と 合流しているように見えます
社家から 葛原までの 水道路も 定規で線を引いたような 真っすぐな道です
私は 半原系統の 水道路しか 知りませんでしたが
この有馬系統も 横須賀水道路に 違いなさそうです
社家から葛原までは 地図で見ると 4kmほどみたいなので
近いうちに 歩いてみようと思います
しかし これだけでは 上の写真の 水管橋の説明がつきません
調べてみると 有馬系統は 現在も使われており 相模川の水だけでなく
酒匂川水系の 伊勢原浄水場からも 送水していると書いてありますので
もしかしたら この水管橋は 伊勢原浄水場から 続いているのかもしれません
水道管て 陸地では 地下に埋設されていて見えませんが
川を渡るときは 水管橋として 姿を現すんですよね
久しぶりに 横須賀水道路関連の施設に出会って
もくもくと探求心が 盛り上がってきました
もう少し調べてみたいと思っています
横須賀水道路(海軍水道)は 旧海軍が 作ったものだそうです
横須賀市逸見(へみ)浄水場まで 送水するための水道管が埋設されています
工事は明治45年(1911年)に始まり 大正10年(1921年)には完成
半原取水口 半原沈殿地や 逸見浄水場は現存しているが
平成19年(2007年)4月より送水休止し 大部分は道路として利用されている
地図で見ると 神奈川県を 斜めに ほぼ一直線に貫く 水道路です
この水道路を 歩いて探検していましたが 病気になったこともあって
長らく 中断したままに なっています
今日 たまたま 相模大堰の辺りまで 富士山を見に行った時
こんな 橋が ありました 相模川を渡る 水管橋のようです

この橋の 左側が 海老名市社家です (右側は 厚木市)
社家にある取水口は 横須賀水道路の 有馬系統というらしいです

要するに横須賀水道路は 半原系統と 有馬系統の2つがあるということみたいです
海軍は 半原系統だけでは 足りなくて 急きょ 有馬系統をつくったらしいです
昭和14年 「突貫工事」により海老名市社家の 相模川から
有馬浄水場を経由して 田浦配水池まで送水する 有馬系統の工事が着手され
終戦の年 昭和20年に 完成したそうです
地図を見ると 有馬系統の水道路は 藤沢市葛原の辺りで
半原系統の水道路と 合流しているように見えます
社家から 葛原までの 水道路も 定規で線を引いたような 真っすぐな道です
私は 半原系統の 水道路しか 知りませんでしたが
この有馬系統も 横須賀水道路に 違いなさそうです
社家から葛原までは 地図で見ると 4kmほどみたいなので
近いうちに 歩いてみようと思います
しかし これだけでは 上の写真の 水管橋の説明がつきません
調べてみると 有馬系統は 現在も使われており 相模川の水だけでなく
酒匂川水系の 伊勢原浄水場からも 送水していると書いてありますので
もしかしたら この水管橋は 伊勢原浄水場から 続いているのかもしれません
水道管て 陸地では 地下に埋設されていて見えませんが
川を渡るときは 水管橋として 姿を現すんですよね
久しぶりに 横須賀水道路関連の施設に出会って
もくもくと探求心が 盛り上がってきました
もう少し調べてみたいと思っています