10日ほど前に、カタカナ語の氾濫を嘆きました。
わたしは嘆いているだけですが、中には本気で怒っている人もいます。
精神的苦痛を受けた、とNHKを訴えました。
不要な外来語の言い換えが進み、日本語が失われてゆくことに危機感をもった。
日本の公共放送がなぜこんなに多くの外来語を使うのか。
それが正しいのか、問題なのか、しっかり議論したい・・・・。
訴えたのは71歳の岐阜県の男性です。
NHKは「係争中のためコメントを差し控える」とここでもカタカナ語で応答。
せめて、意見は差し控える、くらいのこと言ったら?
ご存知のように外来語がどっと入って来たのは明治の頃です。
それを当時の知識人たちは、それまである日本の言葉に翻訳しました。
社会、個人、権利、自由、自然、恋愛・・・・。
いずれも、ああでもない、こうでもない、と悩み抜いた結果の言葉です。
そのあたり、柳父章「翻訳語成立事情」(岩波文庫)を読むと先人の苦労が偲ばれます。
そうした知的勤勉さを、いつの間にか放棄してしまったのでしょう。
たぶん、すべてを効率的に、手っ取り早く、ということを優先させたせいで・・・・。
数年前に外来のカタカナ語を言い換えて分かりやすくしました。
その例がいくつか新聞にも載っていました。
アウトソーシング→外部委託、キャッチアップ→追い上げ、ポジテブ→積極的、バーチャル→仮想。
これらのいずれも半数以上の人がカタカナ語よりわかりやすいと答えています。
ただ、その分り易さが、ほんとうにその言葉の本来の意味を伝えているか、となると疑問も残ります。
たとえば、ポジテブは、肯定的とか陽性の意味で使うこともあります。
もともと英単語は平均的に6つの意味を持つそうです。
だから、本来は文脈に応じて意味も変わって来ます。
そのあたりが問題をややこしくするところでもあり、単純にいかないところでもあります。
意味を取り違えたばっかりに珍妙な翻訳をしてしまう。
それはわたしにも経験があるのですが、あまりに初歩的ミスで恥ずかしいので書きません。
でも、昔、こういう本を読んだら、お~、みんないい加減なんだな、と安心しました。
その本は別宮貞徳「特選 誤訳 迷訳 欠陥翻訳」(ちくま学芸文庫)。
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