ユニコムかつしかつれづれ日記

NPO法人ユニコムかつしかのパソコン教室活動などのよしなしごとを、そこはかとなくゆるりと書きしるしてまいります

Windows10をインストール

2015-07-31 | 日記

 

7月29日にWindows10がリリースされました。

それまでは、時々、テクニカルプレビュー版を仮想マシンで使ってみていました。

たいして変わり映えしないなあ、というのが印象です。

 

でも、商用リリースなので、だいぶ変わっているかもしれません。

そこで、昨日、予備機として使っていたWindows7のノートにインストールしてみました。

ダウンロードから初めて、インストール完了まで、およそ2時間。

 

昨夜はそこまで。

今朝起きて、よく使う既存のアプリを起動して動作確認。

特に、トラブルはなさそうなので、スクリーンショットを数枚。

 

冒頭写真がスタートメニューです。

Winodws8.1とWindows7までのスタートメニューの折衷案です。

すべてのアプリから選ぶのはかなりたいへんそうです。

タスクバーに大きい検索ボックスがついたので、これを使えということでしょう。

 

次に、新しくなったブラウザのEdge。

がらりとイメージが変わりましたが、使い勝手はどうなのでしょう。

ChromeやFirefoxの拡張機能をとりこめるようですが、まだ試していません。

 

アクションセンターの画面です。

Windows8.1のチャームの位置に表示されるので、何となくその名残も感じられます。

 

これは設定画面。

ここは完全にフラットデザイン指向になっています。

コントロールパネルという言葉が見えませんが、よく探せばどこにあるかもしれません。

 

エクスプローラーの画面。

見た目はそれほど大きく変わっていないようです。

 

全体的にざっとみた感じでは新旧デザインが入り混じっている感じがしました。

音声アシスタントのcortana、日本語版での提供は数か月先になるようです。

せっかくインストールしたので、時々は使ってみようか、と思っているところです。

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東京地名考

2015-07-30 | 日記

 

本を探していたら、別の本が見つかりました。

このまえ探していた「東京地名考」。せっかくだからと、鎌倉の項を開けます。

江戸中期に、曼荼羅が出土したので、その一帯は「まんだら」と呼ばれた、とありました。

 

金町からは、金が出たわけではなく、古くは金町郷、江戸期は、金町屋、金町村と呼ばれた。

利根川の船着き場があり、鎌倉街道に面していたので町屋が形成されたという説もある。

それがほんとなら、鎌倉街道は、古代東海道とは別の道筋なのかもしれません。

 

亀有の由来は定かではなく、中世には、かめなしと呼ばれ、亀無、亀梨と書いた。

新宿に駅が予定されていたが、地元の反対で亀有に駅ができたといいます。

駅と亀がある亀有が賑わい、駅のない新宿度の知名度が低くなったというわけでしょう。

 

小菅には御殿がありました。

将軍の鷹狩り、鹿狩りの休憩所として、八代吉宗のときに建てられたといいます。

江戸城から、小菅丸という船で隅田川、綾瀬川をのぼって御殿に入った。

 

お花茶屋の地名も吉宗由来です。

鷹狩りに来た吉宗が腹痛を起こして、近くの新左エ門茶屋に駆け込む。

茶屋の娘お花が手厚く看病して回復、喜んだ将軍がお花茶屋の名前を与えたといいます。

 

堀切といえば菖蒲園。室町末期頃からあるようです。

堀切をはじめ、御城池、馬場先稲荷など、城下町としての地名があちこちに残っていたようです。

中世葛西氏所領の頃は、城下町として栄えたかもしれません。

 

この東京地名考、買ったのは葛飾に越してきた30年ほど前。

その頃は、休日などよく歩いて散歩していました。

地名の由来を知りたかったこと、また、面白そうなら散歩して来よう、というわけです。

 

荒川区の「コツ通り」を知ったのもこの本でした。

コツは、こつかっぱら(江戸の刑場があった小塚原)のコツで、場所は南千住です。

回向院も行ってきました。鼠小僧の墓とか、高橋お伝の墓とかを見に・・・。

 

そうこうしているうちに、何の本を探していたか忘れてしまいました。

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暑い時は宇宙へ行こう

2015-07-29 | 日記

 

冥王星が意外と地球に似ているそうです。

もしかしたら生物がいるかもしれない、プルートーも住んでいるかもしれない。

地球が壊滅したあと、第2の地球になれるでしょうか。

 

宇宙はいつ生まれたのか。どうやって生まれたのか。

無から有は生じない。神様という素朴な宇宙論。

その神様がいつか宇宙理論というものにとって変わりました。

 

宇宙は人間のために存在する、という人間原理宇宙論もあるらしい。

でも、宇宙は人間に無関心、といったのはアインシュタインです。

人間がいようといまいと宇宙はそこに存在する。

 

人が宇宙の根源的な物質を考えたのは遠く古代ギリシャに始まります。

「水」のタレス、「空気」のアナクシメネス、「火」のヘラクレイトスなど。

ヘラクレイトスは同時に「変化」を持ち込んだ。「万物は流転する」。

 

万物は変化しないと考えたのがパルメニデス。

「あるものはある。あらぬものはあらぬ」

そしてデモクリトスに至って「原子」が登場した。

 

人は、あるいは宇宙はどこから来てどこへいくのか。

そういう始まりや果てへの探究心は誰しも持ち合わせているのでしょう。

ただ、それが始まりであり終わりであることは誰が知り得るのか。

 

答えがないものを人はなぜ探求するのか。

「イデア論」。純粋世界は不可視であり、人間が経験できるのは仮象の世界である。

これまた証明できることではないが、そうであるような気もする。

 

すべての人は1個の受精卵から生まれた。

その1個の細胞の由来を辿っていくと37億年前のバクテリアに至るといいます。

もちろんそれまた不可視の世界の出来事なのですが。

 

暑い日が続きます。

壮大な宇宙に想いを馳せれば、少しは汗も遠のくでしょう。

と考えてはみたものの、暑いものは暑い!

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人間が人間でいられなくなる

2015-07-28 | 日記

 

8月が近づくと、例年、戦争に関する記事が多くなります。

それに加えて、今年は安保法案の審議があるので、なおさらの感があります。

テレビが無いのでわかりませんが、総理は相変わらず火事の喩え話をしているのでしょうか。

 

ネットでテレビ出演の動画を見ましたが、バカバカしく、ちらとだけ見てやめました。

生肉、と揶揄されていましたが、たしかに煙のつもりの模型はどう見ても肉の塊でした。

それと、戦争を火事と同一次元で考える精神構造の粗雑さには、とうていついていけません。

 

さて、この3,4日ほど、断続的にネットで映画を見ています。五味川純平原作「人間の条件」。

若い時に本を読み、自分では経験していない戦争の過酷さ、悲惨さを感じさせられた作品です。

映画で見るのは初めてでした。

 

全6部9時間半という長い映画なので、1回で全部見てしまうわけにはいきません。

これまで断続的に1部、2部まで見終わりましたが、これだけで3時間余。

主人公は、鉱山で中国人労働者の労務管理を行う梶という男。仲代達也が演じています。

 

軍隊というのは本来敵を殺すための組織です。

いざ戦争となれば、正義もへったくれも通用しなくなります。

そういう暴力組織の軍隊を、消防組織に喩えるのは不謹慎。

消防庁長官は文句の一つも言うべきでしょう。

 

映画は、戦争や軍隊というものの理不尽さを告発します。

地位の高い者、利権がある者、不正をする者、要領よく立ち回れる者だけが生き残ります。

それ以外の人間は、すべてが消耗品であり捨石なのです。

 

見ているとやりきれなくなります。

ただ、そういう立場になったら、わたしも人間としての正気を保っていられるか自信がありません。

人間が人間でいられなくなる、それが戦争というものだと思います。

だからこそ、人は戦争を忌避し、平和を願うのではないでしょうか。

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葛飾に鎌倉街道は通っていた?

2015-07-27 | 日記

 

土曜日の新柴又教室での話題。

なぜ、鎌倉町という地名なのか、本家?の鎌倉と何か関連があるのでしょうか。

その場では誰もわかる人がいなかったので、調べてみました。

 

東京地名考という本があったはず、と探してみましたが見つかりません。

それではネットのウィキペディアで。いくつかの説があると書いてあって、うち2つを記述。

・相模国鎌倉郡にある鎌倉八幡宮から勧請して八幡宮をこの地に置いたのでついた説。

・相模国鎌倉郡から来た源右衛門がこの地を開発したことからついた説

 

鎌倉八幡神社は、鎌倉4丁目に実在する神社なので、その由緒を調べてみました。

「相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、寛永年間(1624-44)に鎌倉八幡宮を勧請して

氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守となっていました」(猫のあしあと)

 

ここでは、ウィキペディアの2つの説が一つになっていました。

葛飾区教育委員会の葛飾区神社調査報告にも、その旨掲載されているようです。

というわけで、このあたりが妥当なところでしょうか。

 

さて、ここからが本題。

調べているうちに、東の京あちこちに鎌倉橋、鎌倉通りの地名があることを知りました。

どうやら、中世の頃、鎌倉街道(鎌倉海道)が通っていた名残のところもあるようです。

 

「鎌倉街道には上道、中道、下道(しもつみち)の道筋がある。

鎌倉から武蔵国側の東京湾沿いを北上して下総国府、常陸国に向かう道筋を下道と呼ぶ場合もある」

だとしたら葛飾区鎌倉町にも、中世鎌倉街道が通っていたのではないか?

 

というわけで調べてみたのですが、残念ながらわかりませんでした。

そこで思い出したのが、葛飾には古代東海道が通っていたという話。

10年ほど前に、地元学の講座で教えてもらったのですが、奥戸街道あたりはその一部です。

 

ネットで古代東海道のルートを調べてみたら、格好のマップがありました。(冒頭画像)

葛飾区内では、四ツ木、立石、奥戸、細田、鎌倉、小岩と通っています。

もしかしたら、中世鎌倉街道は、古代東海道と同じ道筋だったのではないか。

わたしの勝手な推測に過ぎませんが、こうした時間を過ごすのもなかなかオツなものです。

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