今日出海著「吉田茂」より・・・私の触れる程度のGHQの小役人は随分赤が多かった。例えば毎日ラジオで強制的に放送させていた「真相はこうだ」という番組は、日本人にとってこんな腹立たしい時間はなかった。共産党の末輩が、米軍の威光を笠に着て、悪罵痛謗をほしいままにする。これも米軍によれば、甚だ時宜を得た放送だ、レコードにとり、各中学校、女学校(旧制)に、文部省は配布せよと高飛車に命令して来た。こんなものを若い生徒に朝礼の際無理に聞かせてたまるものか。これにも反対したが、「命令だぞ」と大喝された。マッカーサーの命令なら、日本政府に通達すべきで、私如きに米軍の命令が出される覚えはない。「それなら首を覚悟しろ」と怒鳴られた。首は覚悟の前で出頭に及んだのだ。遂に揉みに揉んだで、これを流してしまったが、今度は用紙統制委員会の幹事だか主事の役名を持っていた私は、「アカハタと時事新報なら、要求通りの紙を配給しても宜しいが、他の商業新聞には従来以上に紙をやってはならぬ」と厳しく言われたのに我慢がならなくなった。大新聞が半ビラ裏表二ページの新聞を出しているのは、戦争の終わった現在、余にも惨めで、屈辱ではないか。陸海軍が秘蔵していた紙がふんだんに見つかった時、せめて四ページぐらいの新聞を出してもよかりそうなものだ。ここでは新聞課長は私を怒鳴りつけはしなかったが、てんで相手にしなかった。文部次官も、大臣も、この問題には歯が立たなかった。私は口惜しくて、総理大臣に直訴するより道がないと決心した。旧友の白洲次郎が終戦連絡事務局次長をしていたから、総理に紹介してくれと頼み込んでみた。何日か経ったか、白洲から電話で明日昼頃首相の公邸に来いと言って来た。(中略)ぽつねんとしていると、総理の秘書官井上孝次郎が通りかかった。中学の三年先輩だった。誘われるまま、食堂へ行った。もう皆は食卓につき、主人の首相が現れるのを待っていた。すると間もなく、奥から丈(せい)は低いがでっぷり肥った鼻眼鏡の吉田首相が唇を堅く結んだまま現れた、井上氏が私を紹介すると、既に首相が知っていて、私を気軽に自分の隣席に座らせた。(中略)食後、首相の私室で、ウィスキーと葉巻をご馳走になりながらも、折角直訴に及んだ以上、言うだけのことは言って置こうと、飲み慣れぬウィスキーの力を借りて、用紙配給の実情を話した。そして米軍総司令部民政局の占領政策を推し測ると、「アメリカは日本を赤化させようとしているのですか。少なくとも日本を懲罰するには先ず赤い連中を先頭に立てて、荒療治というか、大掃除しようとしているとしか考えられません」私が一途になって言い張ると、吉田さんは、持ち前の甲高い笑い声をあげて、「君、そんなに向きにならずに、僕にいいお嫁さんでも探してくれたまえ。こんな焼野原で芸術課長をしてるのなら、それが一番いい仕事になりますよ。文部省も恋愛課長でも置く気になるといいんだがね・・」私の直訴は笑いではぐらかされてしまった。豚カツとウィスキーで買収されてしまったのだろうか。(中略)さてそれから何日経ったか何週間経ったか、総司令部はダイク准将以下民政局の一部を更迭したと新聞に小さく出ていたのを私は見逃がさなかった。多少とも赤じみた局員を大方帰還させてしまったのは大変な事件なのだが・・・。吉田首相はマッカーサー元帥に、直接会いに出かけ、日本を赤化させる所存かと迫ったという話を後で聞いて、私は感激に茫然とした。するとマッカーサーもその言を容れて、局員更迭を計ったのだろう。これは私の触れた真実の話で、人に余り語ったことはないが、まことに快哉を叫ばずにいられぬ挿話である。(中略)マッカーサーの日本占領の重要政策は①軍事力の破壊、②代議政治の確立、③婦人参政権の賦与、④政治犯人の釈放、⑤農民の解放、⑥自由なる労働運動、⑦自由経済の促進、⑧警察圧制の除去、⑨自由にして責任のある新聞の育成、⑩教育の自由、⑪政治権力の分散。この11項目は占領軍の最高指令として出され、その実施上のやり方も日本の習慣や手続きを無視して、強引な命令として遂行された。(中略)「自由な労働運動」を謳った占領軍の労働運動の奨励は、「政治犯人の釈放」で一層盛り上がり、徳田球一、志賀義雄等共産主義者が釈放され、それを迎えた連中は英雄の出現のように歓呼した。占領軍の一部は彼等の人気と活動で、日本の軍国主義は一掃されるだろうと思ったらしいが、やがて彼等に手を焼くときが来るとは考えてもみなかった。このような誤算は枚挙に遑がなかったが、総司令部に働く進歩的米人は、単純に赤化療法で日本に巣喰う軍国主義を払拭できると信じていたものもあったし、また共産主義の跳梁を懸念するものもいて、これらの連中は澎湃として起こりそうな気配に先手を打つつもりで、労働組合を早く組織化して、これに法的秩序を与え、共産化から防衛しようとした。以下略。総司令部は気が早く、三年以内に六三制をすべて遅滞なく実行せよときつい命令を下した。已むなく無理に無理を重ねて、どうやら実施の段階に入ったものの、吉田の最も懸念していた、仏つくって魂入れずの譬通り、新教育の精神を入れぬうちに教育者の左翼化の方が先に出来てしまった。日教組は単なる組合の線から逸脱して政治活動にまで発展し、偏向教育に熱を入れては、生徒もその影響を受けずにはいられない。教育制度の改革はその方向も、意図もよかったが、やはりここにも歪曲現象が起こってしまった。占領軍は功をあせって、占領中にすべてを形だけでも改変しようとしたことと、まだ軍国主義と封建主義一掃には革新的荒療治が必要だとする当初からの観念が強力に働き、破壊的な分子の活動を助長した傾向がある。そして米ソの冷戦が始まる頃には、折角支援していた左翼分子は逆にことごとく反米に傾いてしまった。当然の帰結だと思うが、占領政策の失敗やひずみは一向に是正されぬままに、いまだに続いている始末である。以下略。以上 今日出海著「吉田茂」昭和42年6月~12月号に連載された。中公文庫からの引用である。軍国主義、封建主義を一掃するのに”毒を以って毒を制す”と安直に考えて共産主義者を利用したのは占領軍の誤りだった。現行憲法を押し付けたり、日本語をローマ字に統一しようとしたり、勝てば官軍負ければ賊軍だ、御無理御尤も、彼等は傍若無人の振舞いだった。マッカーサーと堂々と渡り合えた吉田茂もマスコミのご機嫌をとらなかったので、格好な餌食になり、ワンマン、貴族趣味、白足袋など悪評芬芬だった。当時反吉田の筆を振るっていたのは東京日日、毎日の阿部真之助、朝日・天声人語の荒垣秀雄、随筆、脚本家、高田保らがいる。連合国軍最高司令部(GHQ)の機構には参謀部と幕僚部があり、幕僚部の中に民間情報教育局(CIE)がある。更迭されたダイク准将はその局長である。
富山県下メインの、地方議員複数の政務調査費
不正問題は、貴見解より、国家及び地方レベルの
、無駄の多い公共事業と似た所多いのが理解できました。
今回の貴記事、終戦直後のGHQの左傾ぶりは、
有識者の文献などから漠然とは掴んでいましたが、
今回は、お陰でかなり詳しい所が把握できた次第。
勿論、一度では理解しかねるので、折に繰り返し拝読するつもりです。
これで、戦後の容共左派や日教組などの
跳梁の歴史が、相当に理解できるでしょう。
まずは、お礼まで。