ノリの東京の友人の生きる糧(福岡編)

日々のちょっとした楽しみや悲しみを徒然に語ります。

父親の最後の45分間

2023年05月02日 | 老いと生きる

 5月になりました。
 父親が亡くなってからあっと言う間に1週間が過ぎ、私は仕事に復帰し、腰痛でダウンしていた母親も少しずつ回復に向かっています。本当に時の流れは速いですね。

 さて、今回は私が「そう言うことだったのね。」と思った父親の最後の45分間について書きたいと思います。

 4月23日(日)は父親の点滴をはずして3日目だったので、お医者さんと看護師さんから「いつ逝ってもおかしくないですよ。」と言われていました。

 そんな状況だったので、私と兄貴(違う場所に住んでいます)は朝から自宅の居間に置かれた父親の寝る介護ベットの横で日曜日の1日を過ごしていました。
 腰痛がひどい母親は朝食を食べた後は別室で布団でずっと寝ていました。お医者さんや看護師さんが来ても全く起きなかったので、今までの介護疲れがどっと出たのかもしれません。本当に大変な日々をおくっていましたからね。

 「いつ逝ってもおかしくない。」と言われていた父親ですが、この日は呼吸も正常でスヤスヤ眠っている感じで「本当に危篤状態なのかなぁ。」と思える状態でした。朝に引き続き夕方にも来て頂いた看護師さんも「本当に身体が強いですねぇ。」と言っていました。

 そんな感じだったので私は18時過ぎに兄に「今日は大丈夫じゃないかな。家に戻ったら。」と言い、兄は夕方から合流した兄嫁と一緒に自宅に戻りました。この時点でも父親の呼吸に乱れは全くありませんでしたからね。

 兄貴夫婦が帰った後、私は薬を飲ませるために別室で寝ていた母親を起こしました(薬を飲むためには晩飯を食べさせないといけません)。母親は這いながらのろのろと居間に出てきました。介護ベットに寝る父親の顔を見るのは約10時間ぶりです。時計の針は6時30分(午後)を指していました。

 介護ベットの横に立った母親は寝ている父親に話しかけました。
 前日に孫(私の姪)の妊娠が判ったので、年内にひ孫が生まれることを父親に語りかけていました。父親の手を握ったら強く握り返してきたので、母親と私は「元気、元気。」と笑い合いました。そして、介護ベットを離れて横の食卓で晩飯の準備を始めました。時間は6時45分です。

 その後、母親と昔の話や今後の話をしながら晩飯を食べましたが、私はこの1週間で父親の呼吸を確認する癖が付いていたので、父親の方をチラチラ見ながら食べました。お医者さんや看護師さんから「無呼吸症候群のような時々息が止まるような呼吸をしだしたらいよいよです。」と言われていましたからね。

 そして、7時10分頃。
 父親を見るとさっきまで動いていた口が動いていません。「なんかおかしい。」と私が言っても母親は「大丈夫よ。」と言うだけです。母親と私はすぐに父親のそばに移動しました。

 父親は浅く呼吸をしていましたが、呼吸の間隔がすごく長くなっていました。明らかにさっきまでの呼吸とは違います。
 そして、7時15分に呼吸が止りました。私はお医者さんと看護師さんに電話して心臓マッサージを続けましたが、父親の身体が急速に冷たくなっていくのが私の手のひらから伝わってきました。母親は「お父さん、お疲れ様でした。ありがとねぇ。」と声をかけていました。お医者さんが来て確認した死亡時間は7時37分でした。

 その後、お医者さんや看護師さんと父親の最期の状況の話をしましたが、2人とも「奥さんを待っていたんでしょうね。奥さんと話ができたから逝ったんでしょうね。」と言っていました。私もそう思いました。母親と手を握って話をしていた時は普通の呼吸でしたからね。母親と話をして安心したんでしょうね。人間って不思議ですね。


 以上が私の父親の最後の45分間の話です。
 4月14日(金)の夜から父親と会話はできなくなりましたが、亡くなった4月23日(日)の最後の45分間は父親の意思を感じることができたような気がします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 緊張と緩和(その2) ~ Ne... | トップ | 最初の呂布戦がピーク ~ W... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

老いと生きる」カテゴリの最新記事