先日、テレビのローカルニュースで、「手元供養」なる聞きなれない言葉を耳にした。「手元供養」、すなわち「自宅供養」である。現在、香川県庵治町の、墓石では最高級といわれる庵治石で作られた、小さな像の中に遺骨を納める筒が入っているインテリア墓石が話題になっているそうである。
また、「NPO手元供養協会」なるものも設立されている。その趣旨は、故人を身近に感じながら心のこもった供養をする「手元供養」(焼骨を自宅等で保管し、慰霊の場を身近に置いて故人を偲ぶ方法)の社会的認知と普及の為の啓蒙活動を健全に行う組織として設立されたとある。
近年の少子高齢化・核家族化など様々な要因から「家の継承」「お墓の継承」が困難な時代に成りつつあるといわれているが、それはまさに私も実感している。手元供養は、「故人の遺骨(遺品)を手元に置いて供養するとともに、亡き人の供養はもとより残された遺族の心の再生に手助けする」という側面もあるという。
年齢的・体力的な理由で墓参りが困難な人、お墓の継承が困難な人、また、養護施設などにいて、お墓が遠方の為、墓参りが難しい人、そして、家族に後の負担を掛けたくないなどいろいろな理由がある人にとって、「手元供養」は最適ではなかろうか。
昨日は彼岸のお中日だったが、まだ墓参りはしていない。というのも、車に乗れる姉が中日に墓参りに行くので、供えた花がまだ新鮮なうちに変えるのはもったいなくて、いつも花が枯れかけた頃に日を替えて行くことにしている。セコイってあの世の両親が苦笑しているかもしれないが、何も世間の慣習に従う義務的な供養より、要するに自分の気持ちのままでいいのではと、勝手な理由をつけている。
また、車に乗れない私には片道1時間近く掛かるのと、花代・お布施・交通費などの費用が1万円近くかかるというのも、これからますます歳を重ねるごとに負担になるのではという思いがある。なんていったらバチが当たりそうだが、うちの両親は世間の慣習にはあまりとらわれない、どちらかと言えば信仰心の薄い人であったし、生前から、法事など一切供養は必要なしと、くどいほど言っていたので、案外気にしていないかも…。
しかし、旅行なら、時間もお金もやりくりして喜び勇んでゆくのに、なんていい草だと、常識人にはお叱りを受けるかも知れない。が、「供養とは、その人を忘れないでいてあげること。また、折に触れて思い出してあげること」であると聞いたことがあり、義務的な墓参りより、行きたいときに行くという自然な気持ちで供養をすればいいと、私は思っている。だから、私の死後も墓参りしてくれることなど期待はしていない。むしろ墓石も不要で、自然葬で散骨して欲しいと思っているくらいである。
私は母の死後、形見の手作り人形(毛糸で帽子とドレスを編んで着せただけのものであるが、器用でない母の唯一の遺作である)に、孫たちの近況を報告したり、毎朝お茶を供えるときに、おはようの一声をかけている。これが「手元供養」というのではないだろうか。何も墓へ参るだけが供養ではない。「手元供養」であっても、要はそれぞれの心のありようではなかろうかと…。だが、正直言えば、多少いい訳めいた気持ちがないとはいえず、春・秋の彼岸、お盆が来るたびに考えさせられるのである。
また、「NPO手元供養協会」なるものも設立されている。その趣旨は、故人を身近に感じながら心のこもった供養をする「手元供養」(焼骨を自宅等で保管し、慰霊の場を身近に置いて故人を偲ぶ方法)の社会的認知と普及の為の啓蒙活動を健全に行う組織として設立されたとある。
近年の少子高齢化・核家族化など様々な要因から「家の継承」「お墓の継承」が困難な時代に成りつつあるといわれているが、それはまさに私も実感している。手元供養は、「故人の遺骨(遺品)を手元に置いて供養するとともに、亡き人の供養はもとより残された遺族の心の再生に手助けする」という側面もあるという。
年齢的・体力的な理由で墓参りが困難な人、お墓の継承が困難な人、また、養護施設などにいて、お墓が遠方の為、墓参りが難しい人、そして、家族に後の負担を掛けたくないなどいろいろな理由がある人にとって、「手元供養」は最適ではなかろうか。
昨日は彼岸のお中日だったが、まだ墓参りはしていない。というのも、車に乗れる姉が中日に墓参りに行くので、供えた花がまだ新鮮なうちに変えるのはもったいなくて、いつも花が枯れかけた頃に日を替えて行くことにしている。セコイってあの世の両親が苦笑しているかもしれないが、何も世間の慣習に従う義務的な供養より、要するに自分の気持ちのままでいいのではと、勝手な理由をつけている。
また、車に乗れない私には片道1時間近く掛かるのと、花代・お布施・交通費などの費用が1万円近くかかるというのも、これからますます歳を重ねるごとに負担になるのではという思いがある。なんていったらバチが当たりそうだが、うちの両親は世間の慣習にはあまりとらわれない、どちらかと言えば信仰心の薄い人であったし、生前から、法事など一切供養は必要なしと、くどいほど言っていたので、案外気にしていないかも…。
しかし、旅行なら、時間もお金もやりくりして喜び勇んでゆくのに、なんていい草だと、常識人にはお叱りを受けるかも知れない。が、「供養とは、その人を忘れないでいてあげること。また、折に触れて思い出してあげること」であると聞いたことがあり、義務的な墓参りより、行きたいときに行くという自然な気持ちで供養をすればいいと、私は思っている。だから、私の死後も墓参りしてくれることなど期待はしていない。むしろ墓石も不要で、自然葬で散骨して欲しいと思っているくらいである。
私は母の死後、形見の手作り人形(毛糸で帽子とドレスを編んで着せただけのものであるが、器用でない母の唯一の遺作である)に、孫たちの近況を報告したり、毎朝お茶を供えるときに、おはようの一声をかけている。これが「手元供養」というのではないだろうか。何も墓へ参るだけが供養ではない。「手元供養」であっても、要はそれぞれの心のありようではなかろうかと…。だが、正直言えば、多少いい訳めいた気持ちがないとはいえず、春・秋の彼岸、お盆が来るたびに考えさせられるのである。
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