仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

寝床 / 三遊亭圓生(六代目)

2021年10月03日 | エンタメ
落語『寝床三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「義太夫が趣味の旦那。人を集めて語りたがるのだが、友人や親戚でさえ一度は来ても初回で懲りてしまい、誰も立ち寄らなくなった。仕方がないので出入りの者達を集め、いろいろ御馳走をしたうえで義太夫を語るのだが・・・」という内容。
仕事があるからと一度は断った豆腐屋、大工の棟梁が思い直して義太夫を聞きに来たのだが、あまりに誉めるものだから、機嫌を直した旦那が「それじゃ今夜は気分を変えてどっさりやろう」とすっかり乗り気になってしまったのが笑える。
これはおべんちゃらを使い過ぎた。
(^。^)
このような大店の旦那が義太夫の一段でも習ってみようとするものの、稽古で師匠から少しでもやかましい小言を言われると、「私は別にこれで商売をするでもなし。そう言われた所で私には覚えきれないから、もう面倒だし、やめましょう」などと、すぐにへそを曲げてしまう。
そういうのを "旦那芸" と呼ぶのだそうで、機嫌を取りながら教えなければならないお師匠さんも大変だし、これでは上達なんかするわけがない。
(^_^;)
さて、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠の出囃子 "正札付" は、正札附根元草摺引(こんげんくさずりびき)という本外題なのだそうで、咄家でも、いわば横綱級でなければ使えないという出囃子なのだそうだ。
さすが圓生師匠。

お藤松五郎 / 三遊亭圓生(六代目)

2021年05月05日 | エンタメ
落語『お藤松五郎三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「昔は両国の辺りが随分と栄えたが、浅草橋から両国の橋の間を両国、本庄のほうは向こう両国と言った。両国の川っぷちには水茶屋が多く出て、綺麗な娘を並べて客の足を引いていたという。中でも、いろはのお藤は一枚絵にも出た十九歳の美人で、柳橋の芸者もその光を失ったというほどの美人だったそうだ。お藤は柳橋の裏河岸に母親と二人で住み、贅沢な暮らしをしていたが、実は横山町の道具屋・万屋清三郎の囲い者で・・・」という内容。
水茶屋は葦簾(よしず)張りなことから、雨だと営業が出来ない。
雲行きが怪しいある日の夕方、早仕舞いして家の二階で一杯やっていると、かねてより兄さんと慕う三味線弾きの菅野松五郎が傘を借りに立ち寄ったのだが、二人で一緒に一杯やっているうちに良い雰囲気になった。
そんな所へ旦那の清三郎が太鼓持ちを引き連れてやって来たことから、面倒なことになっていくという展開だ。
清三郎が放った盃で松五郎は額から血を流すことになってしまうのだが、これは清三郎の焼きもちによる武力行使なのだった。
(^。^)
こうなると、いかに穏やかな性格の松五郎とはいえ、悪態をつきたくなってしまうのも当然だろう。
さて、演者の三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は六代目。
この"三遊亭圓生"は落語家の大名跡の一つで、東京において多くの落語家が名乗る"三遊亭"の亭号の源流であり、本家なのだという。
六代目の死後、空き名跡となっているのが残念だ。


牡丹灯籠 お札はがし / 入船亭扇遊

2019年01月26日 | エンタメ
落語『牡丹灯籠お札はがし入船亭扇遊
噺は、「根津の清水谷に萩原新三郎という内気な青年がいた。浪人ながら商才があった父親・新左衛門が残した蓄財で不自由無く暮らしていたが、あまりに外出しない様子を心配した医者の山本志丈が梅見に誘う。その帰り、用事があるからと牛込に屋敷がある旗本・飯島平左衛門の娘である露が住んでいる柳島の寮に立ち寄った。引き合わせてもらい意気投合した新三郎と露。二人共また会いたいと願ったのだが、露は死んでしまい・・・」という内容。
山本志丈によると、露の死因は、"恋こがれ死に"だという。
そんなに会いたいと願っていたのなら、互いにさっさと会いに行けばよかったと思うのだが、露は旗本家のお嬢様だし、そう簡単にはいかなかったのだろうか。
これは、初代三遊亭圓朝(1839年~1900年)師匠が創作した全22章から成る物語『牡丹灯籠』の中の一節だが、六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は6章にまとめ、その中の露が新三郎に祟るくだりが、この『お札はがし』で、このあと『栗橋宿』へ物語は続いていく。
さて、演者の入船亭扇遊師匠は、平成30(2018)年3月に「平成29年度(第68回)芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)というのを受賞されているようだ。
素晴らしい。

能狂言 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年12月16日 | エンタメ
落語『能狂言三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「江戸時代。大名は、十万石にもなると大大名、五万石以下は小大名と呼ばれた。江戸で初めて能狂言を楽しんだ小大名が参勤交代でお国入りした際、家来に端午の節句に能狂言を演じて見せよと命じた。能狂言を知らない家臣たちは困り果て、高札で城下に訪ねたのだが、そこへ運よく江戸から二人の咄家がやって来て・・・」という内容。
近年、この噺を取り上げたのは六代目圓生師匠だけのようで、今ではすっかり埋もれてしまっている演目のようだ。
劇作家の榎本滋民(1930年~2003年)氏は、「古くは "お能狂言"という題で演じられていた上方落語ですが、それを江戸落語・上方落語両方に精通していた大正から昭和にかけての名人・三代目三遊亭圓馬(1882年~1945年)師匠が話していたのを、若き日の六代目圓生師匠が聞き覚えで復活上演させ、継承させた噺で、他の人が手掛けられるはずがない」と、評価している。
村の居酒屋で酒を飲んで能狂言を知っていると話した二人の咄家は、何かと勘違いした店の婆さんが役所の下役人に通報し、捕らえられてしまった。
教えを乞うために探し出していた救世主がようやく見つかったのに、彼らを捕まえてしまっては駄目だろう。
いつの時代も、正確な情報が下っ端まできちんと行き渡るのは難しいようだ。
(^_^;)
さて、演者の六代目圓生師匠は、この収録が行われた昭和54(1979)年(9月3日)に逝去されているが、この収録はどうやらその年らしい。
心筋梗塞を発症し、急逝したが、上野動物園のジャイアントパンダ・ランランが死んだため、翌日の大手新聞朝刊のトップ記事は、圓生師匠逝去ではなくパンダの死亡が大きく取り上げられたとのこと。
何とも残念なエピソードだ。
( ´△`)

叩き蟹 / 三遊亭圓窓(六代目)

2018年12月12日 | エンタメ
落語『叩き蟹三遊亭圓窓(六代目)。
噺は、「日本橋。名物・黄金餅を売る小銭屋という餅屋の主人が、餅を盗もうとした子供を取り押さえ、折檻しようとしていた。通りかかった老人が子供から事情を聞き出し、一緒に謝ろうとするのだが、主人は許さない。"それじゃ私が勘定を払ったらお客だね"と、子供に餅を食べさせ、土産も持たせたのだが・・・」という内容。
老人の言葉に一切耳を貸そうとしない店主は、「情けは人のためならずって言うだろ。無駄になるから嫌だね」と言う。
そこで、子供に餅を三皿食べさせ、さらに土産に七皿も持たせ、お金を払って客になるという面倒な段取りを踏んだ老人だったが、なんと懐に財布がなかった。
(^_^;)
これで再度の立場逆転になってしまったのだが、子供相手には強気だった店主も、老人相手ではさすがに折檻はできない。
さて、演者の六代目三遊亭圓窓師匠は、八代目春風亭柳枝(1905年~1959年)師匠に入門したが、師匠の逝去により、六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠の弟子となった。
昭和45(1970)年から昭和52(1977)年までテレビ番組『笑点』の大喜利メンバーとして活躍していたのをうっすらと覚えているが、圓窓師匠が顧問をしていた青山学院大学落語研究会の中から、兄弟子・五代目三遊亭圓楽(1932年~2009年)師匠の鞄持ちを募集したらしいのだが、選ばれた一人が、現在の六代目三遊亭圓楽師匠なのだそうである。
縁というのは面白い。

牡丹灯籠・栗橋宿 / 桂歌丸

2018年11月30日 | エンタメ
落語『牡丹灯籠栗橋宿桂歌丸
噺は、「根津清水谷。父・新左衛門が残した家に、二十二歳になる学問好きの萩原新三郎という浪人が住んでいる。父が残した貸し長屋の隣に孫店を建て、伴蔵とお峰の夫婦を住まわせ、家来のように使っていた。ある夜、長屋に住む易の名人と評判の高い陰陽師・白翁堂勇斎が、人の声が気になって雨戸の節穴から新三郎の様子を伺ってみると、まるで骸骨にしか見えない女性と手を取って語り合っている。夜が明けて早速訪ね、人相を見てみると、新三郎の顔にはありありと死相がでているのだった。二人は、末は夫婦にとの約束をしたと言うのだが・・・」という内容。
これは、初代三遊亭圓朝(1839年~1900年)師匠が、中国明代の怪奇小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』を翻案した怪奇物語集『御伽婢子』、深川の米問屋に伝わる怪談、牛込の旗本家で聞いた実話などに着想を得て、1864年に創作したという怪談話。
1884年に出された速記本では二十二章から成り立っているとのことだが、近年は六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠がまとめた『お露新三郎』、『お札はがし』、『栗橋宿』、『関口屋のゆすり』等に分けて演じられているようだ。
さて、演者の桂歌丸(1936年~2018年)師匠は、五代目古今亭今輔(1898年~1976年)師匠の弟子だったが、一度落語の仕事を離れ、復帰した際には、兄弟子だった四代目桂米丸師匠門下となった。
落語の世界から離れていた期間は、化粧品のセールスマンをしていたそうで、随分と苦労されたようだ。
平成30(2018)年7月2日に逝去された歌丸師匠。
今回聞いたのは57歳の時に収録されたものらしいが、出囃子が『落語研究会』で使われているものだったので、少し驚いたのだった。
この時の歌丸師匠はさすがに髪が黒々としていた。
すでに額が広かったけれども。
(^。^)

牡丹灯籠・栗橋宿 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年11月23日 | エンタメ
落語『牡丹灯籠栗橋宿三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「根津清水谷の浪人・萩原新三郎が妙な死に方をした。幽霊に憑り殺され、その後も幽霊を見た者は七日経たないうちに命が亡くなるという噂。新三郎の使用人だった伴蔵とお峰の夫婦は、生まれ故郷の日光街道・栗橋に移り住んだ。従兄弟である馬方の久蔵に頼んで、表店に四間の間口の一軒家を二十八両で買い、江戸荒物関口屋という店を開いたのだが、これが安くて品物が良いと評判が立ち、店は六人の奉公人を置くまでに繁盛し・・・」という内容。
この『栗橋宿』は、初代三遊亭圓朝(1839年~1900年)師匠が、『剪灯新話』という中国(明朝時代)の怪奇小説集に収録された小説『牡丹燈記』や、怪談、実話などから着想を得て創作したという怪談話『牡丹灯籠』の一部分。
1884(明治17)年刊行の圓朝師匠口演の速記本『牡丹灯籠』は、全22章で構成されているとのことだが、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、『お露新三郎』『お札はがし』『栗橋宿』『関口屋のゆすり』に分けて演じており、この『栗橋宿』は、野球のゲームに例えると、6回の裏から7回の表あたりに位置するエピソードなのだそうである。
(^_^)
伴蔵はどうにも悪い男のようだが、その辺りは『お札はがし』で話されているらしく、この『栗橋宿』だけでは怪談話という気がしないのだった。

蟇の油 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年11月05日 | エンタメ
落語『蟇の油三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「往来で蟇(ガマ)の油を売る商人が、"さぁ、ご用とお急ぎでないお方はゆっくりとお聞きなさい・・・"と、見事な口上で客を集めた。刀で自らの腕を切って、そこへ蟇の油をひと塗りしたところ、血はぴたりと止まり、蟇の油は集まっていた見物客に飛ぶように売れたのだった。店を閉めた後に居酒屋で一杯引っかけることにし、すっかり気分良く酔っ払ってしまった商人。その帰り道で先ほど店を出した場所を通りかかり、明るくて人通りもまだまだあることから欲が出てしまい、もう一儲けと考えた。準備をして再び口上を始めるのだったが・・・」という内容。
これは本筋自体は短い噺なのだが、そこにたどり着くまでが長い。
枕ということではなく、様々な見せ物の口上を紹介するかのように話が続くのだ。
しかし、これがそこそこ興味深い口上ばかりだし、流れるような口調でひたすらに話し続けるので飽きることなく聞き入ってしまうのだった。
蟇の油売りの口上も「手前、持ち出したるは四六の蟇。四六、五六はどこで分かる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名付けて四六の蟇という」等と始まるのだが、この口上にも引き込まれていってしまうのだ。
一段落し、「こういう売り方をしまして・・・」というところで、思わず拍手をしたくなる観客の気持ちが充分に分かるのだった。
(^_^)
さて、演者の六代目三遊亭圓生師匠は、急性心筋梗塞により、昭和54(1979)年9月3日に79歳で亡くなっているのだが、これはその年に収録されたものではないかと思う(多分)。
これはなかなかに貴重な噺だった。

鼠穴 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年08月12日 | エンタメ
落語『鼠穴三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「弟の竹次郎が兄を訪ねてきた。悪い遊びを覚えてしまって親父に譲られた田地田畑もみんな人手に渡ってしまった。自分の相続分をさっさと売り払って江戸に出て、今は商売で成功している兄に奉公させてくれというのだ。兄はそれより自分で商売してみろと元手を貸してくれたのだったが、喜んだ竹次郎が包みを開くと、入っていたのは僅か三文。"馬鹿にしやがって"と頭に血が昇ったが、地べたを掘っても三文は出てこないと思い直し・・・」という内容。
江戸時代は長かったので幅はあるらしいのだが、江戸時代中期だと、三文は現代の30円~300円くらいの貨幣価値らしい。
朝早く起きて納豆を売り歩き、帰ってくると昼前に豆腐を売りに出掛ける。
昼過ぎには茹で小豆を売り、夕方にはうどん、夜になっていなり寿司を売る。
小さな差益を積み重ねてようやく商売の元金を作り、二年半で十両を貯め、十年後には浅草蛤町の表通りに店を構えて蔵まで建てたという竹次郎。
元手の三文を返すため、久しぶりに兄を訪ねて酒を飲み、勧められるままに泊まることにしたのだが、この夜にすっかり疲れが出たのだろう。
枕では、一文の金が無くて首を括ってしまったという男が「死んだなら たった一文というだろう 生きていたらば 百も貸すまい」という供歌の噺をしたり、途中には、自分がマリリン・モンローと結婚する夢をみたと話していた圓生師匠だが、それらをひっくるめて物語の構成が出来ているのが、やはり凄い。
さて、六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、四代目橘家圓蔵(1864年~1922年)師匠の弟子。
1965(昭和40)年~1972(昭和47)年まで"落語協会"の会長を務めたが、会長職を退き最高顧問に就任した1978(昭和53)年に、次の会長に就任した五代目柳家小さん(1915年~2002年)師匠らの真打大量昇進に対して反発して落語協会を脱退し、新団体の"落語三遊協会"(1978年~1979年)を設立した。
圓生師匠の逝去後解散した落語三遊協会の流れをくむのが、現在の"五代目圓楽一門会"とのことである。

お神酒徳利 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年06月30日 | エンタメ
落語『お神酒徳利三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「馬喰町にある八十二軒の旅籠屋の取り締まりをしている仮豆屋吉左衛門の先祖は、家康公に付いて三河の国から江戸にやってきた家で、葵の紋が付いたお神酒徳利が代々の家宝。一年に一度、十二月十三日のすす取りが終わった後にそのお神酒徳利でお神酒をあげるのが恒例になっている。掃除の途中、通い番頭の善六が水を飲みに台所へ行ったところ、無造作に置いてある大事なお神酒徳利を見て、危ないからと水がめの中に入れて蓋をした。ところが、善六はそのことをすっかり忘れてしまったことから、お神酒徳利が無くなったと大騒ぎになり・・・」という内容。
橘町の家に帰り、鉄瓶に水をさす時に、はっと思い出した善六。
すっかり忘れていたことを何かの拍子に思い出すというのはあり得ることだと思うのだが、主人に聞かれた際にきっぱりと「存じません」と答えてしまっていた善六としては、今さら「ありました」とは言いにくかったのだろう。
とはいえ、代わりに謝って、もし許されなかったら坊主になってくれなどと嫁に言うとは、夫婦とはいえ都合が良すぎる考えだ。
(^_^;)
しかし、この女房の父親が占い者だったことと、生涯に三度・・・という女房の知恵のおかげで、人生が変わることになる。
「余計なことをして苦労を求めちゃったからな・・・」と気持ちが沈んでいた善六だったが、女房は「ものは正直にしなくちゃいけない。お前さんは実直に働いて運が向いたんだよ」と、とにかく前向きだ。
凄い。
(^_^)
さて、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、同時代に活躍した咄家の中では随分と映像が残っている師匠ではないかと思う。
没後40年にもなるというのに名人芸を楽しめるのだから、これはありがたい。
善六がはっと気付く瞬間の演じ方は素晴らしかった。

死神 / 柳家権太楼(三代目)

2018年06月18日 | エンタメ
落語『死神柳家権太楼(三代目)。
噺は、「僅かな額を工面できず、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえとまで罵倒された男。大きな木で首を括って死んでしまおうとしたものの、どうすればいいのか分からないでいる所へ、シワだらけの爺さんが現れ、"教えてやろうか"と声を掛けてくる。"俺は死神。知らないだろうが俺とお前は深い縁があるんだ。仲良くしよう"と、金儲けの方法を教えてくれる。死神が聞いたら必ず寝ぐらに戻らなければならない掟があるという呪文を授かったその男は早速・・・」という内容。
死神が教えてくれたのは、「あじゃらかもくれんきゅーらいす、高安大関おめでとう」という呪文。
これには大笑いだ。
(^。^)
呪文を唱えて手をぽんぽんと叩くと、臥せっている病人の足元にいる死神がいなくなる。
名医から見放された病人でも奇跡的に回復し、そして高額の謝礼を受け取れるというまったく元手のかからない稼ぎ方だ。
これは、初代三遊亭圓朝(1839年~1900年)師匠が原作のとても重苦しく完成された噺ではあるのだが、所々の笑いのポイントでは演じる咄家がかなり好き勝手にできるようで、呪文の文句もその一つ。
また、下げについてもいろいろ変更が行われてもいるのだが、評論家によると、演者の柳家権太楼師匠は、『三遊亭圓朝全集』に代理として残されている二代目三遊亭金馬(1868年~1926年)師匠の口演速記を元として"現代風死神"の基本を作り再演した六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠の筋を尊重しているのだそうで、それはしいては作者・圓朝師匠の意図の通りに演じられているということだろうと解説している。
まぁ何にしても、これは仁左衛門的に結構好きな噺なのだが、"死神"とか"貧乏神"などが出てくる物語を好む自分って、あまり良くないのだろうなぁと、最近は思い始めている。
(^_^;)
落語とはいえ、もう少し前向きな噺を好きになるように心掛けよう。

居残り佐平次 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年06月10日 | エンタメ
落語『居残り佐平次三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「とある長屋。佐平次という男が、一人あたり一両だけ出してくれればあとは俺が引き受けるからと、仲間四人を誘って品川の遊郭に繰り出した。芸者をあげてどんちゃん騒ぎした翌朝、仲間を帰し、以降は理由をつけては支払いをせず、お直しを繰り返すのだったが・・・」という内容。
医者から転地療養でもしていれば治ると言われ、それで品川宿での居残りを計画したという佐平次。
付き合わされた長屋の連中は一両で随分と楽しめたようだが、佐平次に見込まれて居座られた遊郭にとっては何とも迷惑な話だ。
これは、フランキー堺が主演した映画『幕末太陽傳』(1957年/川島雄三監督)の元ネタの噺で、主人公の佐平次はどちらの物語においても、どうにも図々しい男。
(^。^)
花魁から"いのさん"と呼ばれ、雑用を頼まれては小遣いをもらい、太鼓持ちのように「居残りを呼んでくれ」と座敷に呼ばれては客から祝儀をもらい、重宝がられるようになる佐平次だが、この男はそんなことでは満足できないようだった。
さて、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠はこの噺の枕で、吉原には「下下の下の下が、居続けをする」という古い例えがあると話していたが、居残りというのはさらにその下。
もうどうしようもない奴というわけだ。
(^_^;)

猫定 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年02月26日 | エンタメ
落語『猫定』三遊亭圓生
噺は、「魚屋の定吉という男。魚屋とは名目だけのばくち打ちなのだが、なかなかに穏やかな良い男。朝湯の帰りに居酒屋の三河屋に寄って一杯やるのが日課になっている。その日も帰りに一杯やっていたところ、何やら二階から妙な物音が聞こえてきた。聞くと、あまりにたちの悪い黒猫だというので、後で処分してしまおうと店の者が足を縛って置いていたのだという。それなら自分がもらっていくよと、化けるからやめたほうがいいと言うのも聞かず、こづかいまであげて引き取ってきたのだが・・・」という内容。
定吉は「魔物に魔除けを見せちゃいけないかね」と言いながら、熊と名付けた黒猫にサイコロを見せるのだが、その際のウンチクが面白い。
それは、サイコロというのはお釈迦様が考えたもので、面白いことをやっているぞと集まってくる多くの人達にばくちをやらせ、そのあとで、お経を説いて聞かせたのだという。
そこで沢山のお金を集め、祇園精舎という立派な寺を建てたことから、ばくち場で取る銭のことを"寺銭"というのだそうだ。
おぉ、そうなのか。
(^。^)
また、何故お上がサイコロ博打を禁じたのかについても話していたが、それも「へぇ~」という妙に納得してしまう話だ。
ばくちで素っ裸になったやつを「お釈迦になった」と言うが、まぁそれは・・・。
(^_^;)
この噺は六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠が亡くなられて以降は、あまり手がける落語家さんはいないようなのだが、面白い噺なのにもったいないと思う。

淀五郎 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年02月14日 | エンタメ
落語『淀五郎』三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「歌舞伎の"仮名手本忠臣蔵"で塩治判官を演じるはずだった役者・紀伊國屋が急病になったことから、座頭の四代目市川團蔵は若手の澤村淀五郎を代役に抜擢した。以前から見込みがあると目をつけていた役者だったのだが、いざ初日になってみると團蔵は淀五郎の芝居が気に入らない。そして、いよいよ四段目になって・・・」という内容。
花道に座ったまま、ぶつぶつと呟いて一向に舞台に進んでいかない團蔵。
稽古ではないのに、本番の舞台で台本にないことを始められてしまっては、若い役者だとどうにも対応できないことだろう。
いくら「ちこう、ちこう」と台詞を言っても近づいてこない。
理由を聞いても教えてくれない。
これではいじめ、パワハラみたいなものだ。
(-_-;)
演者の圓生師匠は、自身が真打ちになった時のことを話されていたが、以前は「今夜あたりは言ってくれるかな?」と思っていても、誰もなかなか師匠などとは呼んでくれなかったそうで、いよいよ改名をして、その初日に楽屋入りをすると、前座がお茶を出して「師匠どうぞ」と初めて言ってくれたのが嬉しかったという。
ただ、「おい師匠、師匠。そこにある下駄を取ってくれ」と言われたりもしていたそうであるが。
(^。^)
互いに先生とか師匠とか呼びあったところで、先輩後輩の関係はあるのだろうし、役者も落語家も上下関係は厳しいものなのだろう。

後家殺し / 三遊亭圓生(六代目)

2017年12月02日 | エンタメ
落語『後家殺し三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「義太夫を稽古ごととして習っている常の所へ、"伊勢屋の後家さんといい仲になっているそうだが・・・"と、仲間の男が訪ねてきた。お前が話を聞きたいと言うのならと、三年前の馴れ初めを詳しく話して聞かせる常さん。一通り話をすると、男は"驚いたねぇ。しかし、女というのは当てにならないものだ・・・"と、二人の仲に水を差す話をし始める。話し始めはしたものの、途中で切り上げ、ぷいと帰ってしまった。あいつは一体何だ。そんな馬鹿なことがあるものかと笑っていた常さんだったが・・・」という内容。
圓生師匠は、「これは上方噺でございますが、舞台を大阪とすると、全部大阪弁でやらなければなりません。それではこちらの都合がまことに悪いので、東京に置き換えて申し上げることにいたします」と断りをいれたあとに話し始めているので、東京弁で話しているのだが、一か所だけ「おまはん、どないしたんや」という台詞が出てくる。
圓生師匠の大阪弁というのも上手いものだとも思ったが、実は圓生師匠は大阪生まれとのことだ。
(^_^)
"浄瑠璃"の一派である"義太夫節"というのは上方が本場なのだそうで、江戸(河東節、豊後節)が「待ってました!!」、「ようよう、どうする、どうする、どうする」というような誉め言葉が掛かるのに対して、上方では「よっ、後家殺し!!」との声も掛かるのだそうだ。
これは随分と面白いと思える誉め言葉だが、現代の日本では誉め言葉としては使えないだろうなぁとも思うのだった。
(^。^)
さて、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、とても芸ごとに厳しかった師匠のようで、1965(昭和40)年に就任した落語協会会長を1972(昭和47)年に五代目柳家小さん(1915年~2002年)師匠に引き継いだあとの1978(昭和53)年、同協会の真打大量昇進に抗議して協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成したとのこと。
圓生師匠逝去後は、門下の落語家ほとんどが落語協会に復帰したものの、弟子の五代目三遊亭圓楽(1932年~2009年)師匠一門は復帰せず、現在の"五代目圓楽一門会"として独立しているのだそうである。