仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

後家殺し / 三遊亭圓生(六代目)

2017年12月02日 | エンタメ
落語『後家殺し三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「義太夫を稽古ごととして習っている常の所へ、"伊勢屋の後家さんといい仲になっているそうだが・・・"と、仲間の男が訪ねてきた。お前が話を聞きたいと言うのならと、三年前の馴れ初めを詳しく話して聞かせる常さん。一通り話をすると、男は"驚いたねぇ。しかし、女というのは当てにならないものだ・・・"と、二人の仲に水を差す話をし始める。話し始めはしたものの、途中で切り上げ、ぷいと帰ってしまった。あいつは一体何だ。そんな馬鹿なことがあるものかと笑っていた常さんだったが・・・」という内容。
圓生師匠は、「これは上方噺でございますが、舞台を大阪とすると、全部大阪弁でやらなければなりません。それではこちらの都合がまことに悪いので、東京に置き換えて申し上げることにいたします」と断りをいれたあとに話し始めているので、東京弁で話しているのだが、一か所だけ「おまはん、どないしたんや」という台詞が出てくる。
圓生師匠の大阪弁というのも上手いものだとも思ったが、実は圓生師匠は大阪生まれとのことだ。
(^_^)
"浄瑠璃"の一派である"義太夫節"というのは上方が本場なのだそうで、江戸(河東節、豊後節)が「待ってました!!」、「ようよう、どうする、どうする、どうする」というような誉め言葉が掛かるのに対して、上方では「よっ、後家殺し!!」との声も掛かるのだそうだ。
これは随分と面白いと思える誉め言葉だが、現代の日本では誉め言葉としては使えないだろうなぁとも思うのだった。
(^。^)
さて、演者の六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、とても芸ごとに厳しかった師匠のようで、1965(昭和40)年に就任した落語協会会長を1972(昭和47)年に五代目柳家小さん(1915年~2002年)師匠に引き継いだあとの1978(昭和53)年、同協会の真打大量昇進に抗議して協会を脱退し、一門で落語三遊協会を結成したとのこと。
圓生師匠逝去後は、門下の落語家ほとんどが落語協会に復帰したものの、弟子の五代目三遊亭圓楽(1932年~2009年)師匠一門は復帰せず、現在の"五代目圓楽一門会"として独立しているのだそうである。