仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

鼠穴 / 三遊亭圓生(六代目)

2018年08月12日 | エンタメ
落語『鼠穴三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「弟の竹次郎が兄を訪ねてきた。悪い遊びを覚えてしまって親父に譲られた田地田畑もみんな人手に渡ってしまった。自分の相続分をさっさと売り払って江戸に出て、今は商売で成功している兄に奉公させてくれというのだ。兄はそれより自分で商売してみろと元手を貸してくれたのだったが、喜んだ竹次郎が包みを開くと、入っていたのは僅か三文。"馬鹿にしやがって"と頭に血が昇ったが、地べたを掘っても三文は出てこないと思い直し・・・」という内容。
江戸時代は長かったので幅はあるらしいのだが、江戸時代中期だと、三文は現代の30円~300円くらいの貨幣価値らしい。
朝早く起きて納豆を売り歩き、帰ってくると昼前に豆腐を売りに出掛ける。
昼過ぎには茹で小豆を売り、夕方にはうどん、夜になっていなり寿司を売る。
小さな差益を積み重ねてようやく商売の元金を作り、二年半で十両を貯め、十年後には浅草蛤町の表通りに店を構えて蔵まで建てたという竹次郎。
元手の三文を返すため、久しぶりに兄を訪ねて酒を飲み、勧められるままに泊まることにしたのだが、この夜にすっかり疲れが出たのだろう。
枕では、一文の金が無くて首を括ってしまったという男が「死んだなら たった一文というだろう 生きていたらば 百も貸すまい」という供歌の噺をしたり、途中には、自分がマリリン・モンローと結婚する夢をみたと話していた圓生師匠だが、それらをひっくるめて物語の構成が出来ているのが、やはり凄い。
さて、六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は、四代目橘家圓蔵(1864年~1922年)師匠の弟子。
1965(昭和40)年~1972(昭和47)年まで"落語協会"の会長を務めたが、会長職を退き最高顧問に就任した1978(昭和53)年に、次の会長に就任した五代目柳家小さん(1915年~2002年)師匠らの真打大量昇進に対して反発して落語協会を脱退し、新団体の"落語三遊協会"(1978年~1979年)を設立した。
圓生師匠の逝去後解散した落語三遊協会の流れをくむのが、現在の"五代目圓楽一門会"とのことである。