落語『お藤松五郎』三遊亭圓生(六代目)。
噺は、「昔は両国の辺りが随分と栄えたが、浅草橋から両国の橋の間を両国、本庄のほうは向こう両国と言った。両国の川っぷちには水茶屋が多く出て、綺麗な娘を並べて客の足を引いていたという。中でも、いろはのお藤は一枚絵にも出た十九歳の美人で、柳橋の芸者もその光を失ったというほどの美人だったそうだ。お藤は柳橋の裏河岸に母親と二人で住み、贅沢な暮らしをしていたが、実は横山町の道具屋・万屋清三郎の囲い者で・・・」という内容。
水茶屋は葦簾(よしず)張りなことから、雨だと営業が出来ない。
雲行きが怪しいある日の夕方、早仕舞いして家の二階で一杯やっていると、かねてより兄さんと慕う三味線弾きの菅野松五郎が傘を借りに立ち寄ったのだが、二人で一緒に一杯やっているうちに良い雰囲気になった。
そんな所へ旦那の清三郎が太鼓持ちを引き連れてやって来たことから、面倒なことになっていくという展開だ。
清三郎が放った盃で松五郎は額から血を流すことになってしまうのだが、これは清三郎の焼きもちによる武力行使なのだった。
(^。^)
こうなると、いかに穏やかな性格の松五郎とはいえ、悪態をつきたくなってしまうのも当然だろう。
さて、演者の三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は六代目。
この"三遊亭圓生"は落語家の大名跡の一つで、東京において多くの落語家が名乗る"三遊亭"の亭号の源流であり、本家なのだという。
六代目の死後、空き名跡となっているのが残念だ。
噺は、「昔は両国の辺りが随分と栄えたが、浅草橋から両国の橋の間を両国、本庄のほうは向こう両国と言った。両国の川っぷちには水茶屋が多く出て、綺麗な娘を並べて客の足を引いていたという。中でも、いろはのお藤は一枚絵にも出た十九歳の美人で、柳橋の芸者もその光を失ったというほどの美人だったそうだ。お藤は柳橋の裏河岸に母親と二人で住み、贅沢な暮らしをしていたが、実は横山町の道具屋・万屋清三郎の囲い者で・・・」という内容。
水茶屋は葦簾(よしず)張りなことから、雨だと営業が出来ない。
雲行きが怪しいある日の夕方、早仕舞いして家の二階で一杯やっていると、かねてより兄さんと慕う三味線弾きの菅野松五郎が傘を借りに立ち寄ったのだが、二人で一緒に一杯やっているうちに良い雰囲気になった。
そんな所へ旦那の清三郎が太鼓持ちを引き連れてやって来たことから、面倒なことになっていくという展開だ。
清三郎が放った盃で松五郎は額から血を流すことになってしまうのだが、これは清三郎の焼きもちによる武力行使なのだった。
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こうなると、いかに穏やかな性格の松五郎とはいえ、悪態をつきたくなってしまうのも当然だろう。
さて、演者の三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠は六代目。
この"三遊亭圓生"は落語家の大名跡の一つで、東京において多くの落語家が名乗る"三遊亭"の亭号の源流であり、本家なのだという。
六代目の死後、空き名跡となっているのが残念だ。