白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遙記-かくれ里-012」

2016-06-03 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-012 

 

 

菅浦ー2 

 

 

いよいよ紫陽花の咲く、梅雨の季節

 

 

高原にも道端にも、各家の庭にもさいている紫陽花

 

    

 

先回からいよいよ本丸の「菅浦」に入った。歴史に明るい方は誠に厄介な歴史に弄ばれた土地柄と知るであろう。

単にこの地が昔から周囲の人の出入りを簡単に許さないというような土地柄であれば、

そんな所も有ろうかともおもうが、複雑な古代日本の歴史が絡まって来るとなると、

中々簡単に踏み込まぬのも道理である。

 

 

 

聖武天皇             光明皇后

     

 

この菅浦に祀られていると伝承されている「淳仁天皇」の御代は大変な御代であった。

このブログの「十一面観音巡礼」をご覧になった方は、直ぐに「法華寺」の項を思い出されよう。

いずれにしても先ずは、複雑極まりない古代史を解き施さなければならない。

 

 

淳仁天皇は天武天皇の皇子・舎人親王の七男として出生した。天武天皇は舒明天皇の皇太子ということに、

歴史上はなっている。唯、生粋の日本人だったかは、天智天皇と共に明らかではない。

藤原鎌足が百済の皇子であったということからも・・

 

 

孝謙天皇(称徳天皇)            

   

 

この時代の大和朝廷のスーパースターは聖武天皇と光明皇后である。

光明皇后藤原不比等藤原鎌足の嫡子)の子であり、当時の朝廷内外に絶大な力を誇っていた影の女帝である。

この二人の間に出生されたのが後の孝謙天皇であった。この事実が歴史を混乱させて行く。

女帝は初めてのケースではないが、重祚もしているので、事は誠に複雑になった。

 

藤原一族→近衛

 

 

 

この時に光明皇后の後ろ盾を持つ、藤原仲麻呂=恵美押勝が活躍した。

彼は最後は「恵美押勝の乱」で、近江の高島(菅浦の隣)で敗死したが・・・

年若い未婚の女帝・孝謙天皇は結局陪臣に影響される運命になる。

 

 

 

弓削道鏡

 

淳仁天皇はこの時代に孝謙天皇の上皇になられると同時に、譲位を受けた方である。

そして、上皇と天皇が近江の保良宮に行幸し、滞在中に問題の弓削道鏡との出会いがあった。

ここから問題は拗れていくのである。要は従来からの「大和朝廷の一族と藤原一族」との確執であった。

別な言葉で表現すれば「倭国と百済(朝鮮民族)」と闘いである。と同時に男女の問題でもあった。

 

休憩

 

弓削道鏡

弓削道鏡がロシアのラスプーチンと揶揄されるような伝聞があるが、ただ、ここで間違ってはならないのは、

それは庶民の揶揄であって、事実はだいぶ違うであろう。弓削道鏡はそのレベルの僧ではない。 

弓削道鏡はその後「下総」に去ったが、大寺に於いてそれなりの処遇を受けている事からも理解できる。

 

   

 

道鏡の出自は物部氏とされている。南都の法相宗の列記とした高僧である。物部氏と藤原氏の勢力争いの象徴的な事件でもあった。

孝謙天皇は藤原の直系である。道鏡は物部氏となれば有らぬ噂は立つのは当たり前。

恐らく孝謙天皇の身体を導引という医療技術で揉んでいた事実はあったであろうが、

それを男女の問題に転嫁されただけのことである。正に下種の勘繰りであったということである。

 

 

恵美押勝(藤原仲麻呂)

 

話は皆さんもご存じの通り、弓削道鏡が関東に放逐(宇佐神託と左遷されることになるのであるが・・・

淳仁天皇が藤原仲麻呂の進言で、二人の仲を諫めたのが騒ぎの発端となった。

その後、「恵美の押勝の乱」で最大の後見人を失い、淳仁天皇は廃位の憂き目に会い淡路国に流された。

この時の淡路が摂津近辺の淡路か、近江の淡海かの二通りの解釈が出ることとなった。

 

   

 

 

菅浦

   

 

菅浦は近江の奥であり、近江高島の傍である。恵美の押勝が最後に菅浦の隣の高島で敗死する事実は、

菅浦」が淡路=淡海と解釈するのが、常識に沿った見方と思うが・・如何?

そのような訳で菅浦は近在の場所とは趣を異にした、由緒ある場所であったということになる。

 

 

 

近江、特に北近江は古代中世を通しての歴史の舞台である。

中世史に於いてはこの地を抜きに歴史は語れない。

浅井長政、お市の方、茶々(淀君)、羽柴秀吉、柴田勝家、織田信長・・・・etc

次回は「菅浦最終回」となります。