「かくれ里」編
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葛川 明王院
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不動明王と千日回峰行
「隠れ里の」の本文には、葛川 明王院の下りが詳細に書かれているので、本文はそれと離れて、
相応和尚の拠点無動寺と「千日回峰行」について書いてみよう。
滋賀の近江は古来から比叡山の高僧を生み出して来た土地柄である。最澄、円仁、円珍などはツトに有名である。
比叡山は天台宗がその基本である。延歴23年に空海と共に唐に渡り、中国の南にある天台智顗で有名な「天台山」で修業した。
空海は長安に至って密教・「純密」を伝授されて帰朝した。最澄は南都の東大寺で出家した名家の人である。
空海も現在の四国の伊予の人である。この方も当時の大学で学んだ名家の人でもある。
その事情もあって唐からはすぐ帰国している。正に特別扱いであった。
最澄は修業時代は比叡山山中で草庵を築き、仏道修行をしていた経験もある。
弘法大師空海は紀州の山岳で在野の山伏などと交わって、すでに日本に流入していたと思われる、
密教の初歩的な段階の「雑密」に従って修行をしていた形跡がある。空海は彼らの支援を受けて
最澄と共に唐に渡ったのである。この付近は丹生=水銀が産出するので、これが財の基本であった。
空海が帰朝の際に夥しい財物を日本に持ち帰った資金の元は、紀州の雑密の宗教集団であろう。
全国に「丹生」という地名があるが、これは水銀に関係がある。金の製造に関わる鉱物である。
空海と最澄
最澄が帰朝してから、空海に弟子の形を取りながら密教の修行を学び始めた。
しかし、「理趣経」の経典の借経問題や、弟子の離反などで空海と離れて、
比叡山に独自の宗教形態を作り上げた。所謂、空海の高野山の真言密教に対しての天台密教(台密)である。
いずれにしても山岳仏教の性格も持っているので、その中から山伏のような修行形態が輩出するのは不思議ではない。
比叡山・浄土院
比叡山の荒行はつとに有名であるが、「十二年籠山行」もその一つだ。
一度、行に入ったら最後十二年間は山を下りることが出来ない決まりである。
眼下には近江・琵琶湖の集落が見え、夜ともなれば灯りがともって見える事であろう。
親子の縁を切ってまでして仏道修行するのであるから、生時の覚悟で出来るものではない。
中には都合2回もされた方もあると聞く。現在でもTVもラジオもない中で只管、仏道修行である。
朝の3時には起きて夜の9時には就寝である。供物を捧げ読経し只管、寺の掃除である。
無動寺
比叡山山中の無動寺谷に「無動寺」がAD865年に相応和尚によって明王堂を建立された。
無道とは「不動」から来ている言葉である。<不動明王>である。
不動明王
そこに不動明王を安置し、「無動寺」とした。881年には金銅廬舎那仏、不動明王が鋳造された。
朝廷に願い出て最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の大師号を賜るように尽力した。
882年には天台南岳別院となり現在に至る。織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、その後江戸時代に再建された。
密教
比較的多くの日本人は顕教を仏教の宗派として信仰している。浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗など。
しかし、その他に密教としての真言宗、天台宗などがある。日蓮宗などはある面では2つの要素が混在している面もある。
密教の本願は即身成仏である。生きたまま如来に成ることを目指す仏道修行でもある。
理趣経という経典は密教系寺院の根本経典である。しかし、内容が従来の顕教系の経典とは様変わりしている。
昔は高野山でもこの経典は、ある一定のレベルの修行僧にしか読経させなかった。
余りにも驚愕の内容の経典だったからである。興味ある方はお読み願いたい。
驚いてひっくり返らないように・・
不動明王
次回はいよいよ<千日回峰行>の中に入っていこうと思う。