白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遥記」ー「十一面観音巡礼」-022

2014-08-22 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

 信州の旅-001

 

 

 

 

 

 

信州上田・塩田平

 

 

長野、信州と聞くと、暑い真夏でも何となしに涼しい感じが脳裏に浮かんでくるのは、筆者だけではありますまい。連日、30℃を越える蒸し暑い状況の中では、道路の石畳に打ち水をしたような感覚を恋しがるのも無理ないと思えます。

十一面観音巡礼」も神社・仏閣が所狭しと林立する奈良を遠く離れて、信州を旅することになりました。信州といえば「善光寺」という場所が有名ですが、今回は信州・上田近辺を十一面観音を求めて、旅してみたいと思います。

 

  

信州は現在の長野県に位置するわけであるが、北海道と同様に国内では広大な面積を占めている。雪深く高い山々に囲まれ、京都や奈良、鎌倉などと比較すると、奥深い山里とというイメージがある。筆者は隣県の美濃、高山は実際に歩いた経験があるが、その他結構歩いている割には信州は足を踏み入れた経験がない。今回が一番文章を書く上で辛い所もである。 

信州」と「信濃」と我々は何気なく使っているが、古来からの令政国の呼び名で、東山道に属する呼び名で、「科野」という語源からくる、科の木のことであろうとされている。現在の長野県から木曽地方を除く大部分を指している。遥か古代の御世、朝鮮の百済の一族が日本に帰化し、その後朝廷より日本名を下賜された一族が、ここ信州に移り住んだともされている。

 

信濃国分寺駅

 

 

軽井沢からしなの鉄道を千曲川に沿って、信州上田方面に向かってしばし行くと信濃国分寺に到る。創建は平安時代初期とされるが詳細は不明である。聖武天皇の御世に初代の国分寺が創建された後、若干、現在の位置よりずれた所に再建されたもようである。国分寺の僧寺・尼寺があった。

  

信濃国分寺山門 

 

僧堂と尼堂

                           

 

現在は天台宗の寺院である。 旧名は浄瑠璃山 真言院 国分寺で通称「八日堂」と呼ばれている。本尊は国分寺の通常の釈迦如来と違って、<薬師如来>である。

 

 

喫茶店でちょっと一服

 

本日のお題は

 

藤原

現在では我々の周りには「藤原」姓のかたが一般的に見られるが、古代から近世に到るまでは、一般人が決して使うことが許されぬ姓であった。その理由は次の大宝寺に説明があるので参照されたい。

近衛文麿

 

「ふじわら」は朝鮮語の<ホゼワラ>から変化したものである。ホゼとは百済(くだら)である。ワラは倭国である。すなわち<ホゼワラ>は<倭国の百済>となる。そして、ホゼに<藤>、ワラに<原>を当てて、藤原としたとされている。ホゼもワラも日本語には存在しない。

藤原家は代々摂政・関白は藤原北家直系の五摂家「近衛・九条・二条・一条・鷹司」の各家が務めていた。戦前の近衛文麿は代表的存在。

 

 大法寺

 

大法寺・見返り三重塔 

 

 

大法寺は当初大宝寺と称し、大宝年間(701~704)に創建された。創建者は藤原鎌足の子・定慧である。藤原鎌足は中臣鎌足とも称する。鎌足は中国東北部、朝鮮半島に古来から存在した百済の王が、白村江の戦いに敗れ同盟国の当時の倭国(日本)に亡命し、大和朝廷の中臣氏の婿となり、以後朝廷より「藤原」を与えられたものである。以後、藤原氏は政治・文化の世界で繁栄をを遂げ、一時武家社会の中では低迷してたが、明治以降はまた復活した。五摂家の一つである「近衛家」は日本を代表する名家でもある。

このことから、大和から遠い信州上田の地に定慧がかかわったことは、重要な意味合いをもつことになる。ここ一帯は古くから帰化人が強く関わっていたと見るべきであろう。信州上田は近世は真田一族の繁栄でも有名になった、

 

 

十一面観音菩薩 ・ 170.9cm

 

平安時代10~11世紀ころの平安佛である。 

桂材の素地である。全体の形から立ち木佛を連想される。

 

観音堂 

 

 

観音堂は鎌倉時代、併設の厨子は室町時代の作とされている。 

 

十一面観音菩薩 

 

 

彫刻そのものが抑揚の余り少ない仏像でもある。唯、口元をかすかに開き、眼の切り方も瞑想をするような特徴のある面想である。この寺には同時期に製作された普賢菩薩立像がある。この像は十一面観音菩薩像の脇像である。

 

普賢 菩薩

 

 

次回は智識寺へ向かう。