白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

能面と能楽・仏像と仏像彫刻ー008

2012-06-16 | 日本の伝統芸術

 

日本の伝統芸術と芸能 

         能面と能楽佛像と佛像彫刻 

                         <その008

 

人形特集-003

 大和人形、抱き人形など江戸時代から一般庶民の中で育まれてきた玩具の一種であるこれらの人形が、ある時から美術・芸術の世界に躍り出てきたことは、翻ってみれば、能面も散楽という中国伝来らしい農業の世界の中の娯楽のような、あるいは神への豊穣の祈りの中から育まれ、いずれかの後美術・芸術の世界に昇華されました。そのような観点で考えれば同じコースを辿ったということが出来ます。

能面でも大和人形(市松人形など)でも実作者の技術によって、千数百年の伝統を持つ仏像製作者達の技術力の伝統の上に花咲いた芸術と言えなくもありません。決してある時に忽然と現れたものでないことは確かです。

 

 

 

先般は<活き(生き)人形>について少し触れました。今回は市松人形に深入りする前に少しおさらいをしてみたいと思います。 

活き人形と抱き人形の本質的な差異は・・・・

活き人形は見世物・出し物といわれる一般庶民向けのお祭りなどによくもようされる興行の世界から出て来ました。抱き人形は一般庶民の中で育まれた、子女向けの玩具の世界から出てきました。興行と玩具という異質の世界と言ってもよく、また、同じ庶民の世界にあらわれた芸術と言ってもよいのではないでしょうか。

             松本 喜三郎作・蟹

 

活き人形が興行・見世物的な世界から出てきましたが、「菊人形」の世界にも一部関係があったことも確かです。もちろん衣装部分は菊の花木ですが、人形部分が活き人形であったと言うことになります。これは明らかに見世物の世界ですね。

菊人形-01

         菊人形-02

         

活き人形の歴史は意外と新しく、幕末から明治時代に掛けてのことになります。活き人形の製作者と言うことになりますと・・

第1期・・<松本 喜八郎>、<安本 亀八>、<江島 栄次郎>と言うことになります。不思議なことにいずれも肥後熊本の出身です。今回はこの3人にスポットライトを当ててみたいと思います。

松本 喜三郎・・・文政8年(1825年)、熊本 井出ノ口町出生。 地元の地蔵盆の「つくりもん」で活躍。 以後大阪、江戸活き人形で大評判を取り成功した。明治以降はその技術力を生かし、現東大医学部から人体模型製造を受けるなどし数々の名作を残した。

                   松本 喜三郎

代表作・「西国三十三箇所観世音霊験記」、「本朝孝子伝」

             谷汲観音像

            

* 西国三十三箇所三十三番「谷汲寺」の厨子から観音が巡礼姿で出現した様を人形に仕立てたもの。仏像の観音像とはまた趣が違うのがお分かりと思います。

松本 喜三郎は十四、五歳で職人の世界(鞘師)に弟子入りし、さらに御用絵師にも弟子入りして腕を磨いたもよう。下の写真の「蟹」などを見ると、その腕の確かさが分かります。蟹の作品を拝見すると、すぐ高村 光雲の息子、高村光太郎の作品を連想してしまいます。いかがですか?

高村 光太郎作              松本 喜三郎 作

    

 家族が仏師ではなかったようですが、まさに非凡な才能を持たれた方と思われます。高村 光雲は名実ともに仏師であり、現在の東京芸大の前身である、東京美術学校の教授でした。

下の作品はイタリア・フィレンツェ(フローレンス)・ステイベルト美術館収蔵の松本 喜三郎であろうとされている「武士」という題の作品。ちょっと見には本物の人間に見えます。

武士

                             官女

                             

池之坊

少し暗がりで見たら完全に騙されるでしょうね。いかがですか。

最後に活き人形の系譜を引く 二代目 平田 郷陽 作の市松人形の頭を再度掲載します。よく比較してみてください。

 

 

なんとも早、もう一言もございません。お後が宜しいようで・・・・・

次回は松本喜三郎の好敵手・安本 亀八を書いてみたいと思います。