白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遥記-かくれ里-葛川 明王院-05」 

2016-09-03 | 日本の伝統芸術

 

かくれ里 

-018 

 

葛川 明王院 

 -05

 

 

先回は千日回峰行の大凡を書いてみた。筆者にとても異次元の世界であり、

少しの間でも垣間見たこともない世界である。一般方の中には行者姿で古来から伝わっている、

峯入りの行などに加わった方ならば、大凡見当はつくものと思われるが・・・

 

奈良や紀州の山奥や滋賀の京都との県境には、古くからの伝承が存在するので、

ある程度経験された方は多いと思う。

今回はコラムで吉野山・大峰山千日回峰行についてご紹介したい。

 

 

 比叡山千日回峰行

 

天台行門・比叡山千日回峰行は平安時代の初期、相応を祖として生まれた。

平安時代の末期に至って相實が完成させた。南山修験に対して北嶺修験と云われる。

南山修験とは「大峰山修験」を指す。

 

その後、鎌倉時代の後期に回峰行の起源になる手文(てぶみ)が作られ、

具体化するのは室町時代になってからとされる。現在のような千日回峰行の

ような形になったのは、1571年の比叡山焼き討ち以後、江戸時代初期とされる。 

 

相応の千日回峰行 

 

 

 

 

相応が 開創した千日回峰行では12年間籠山する。7年間の内に1.000日回峰を行い、

生身の不動明王になる。12年間の制度の基本は、最澄の定めた籠山制度に始まる。

 

 

菩薩僧を養成するためのものであり、最初の6年間は聞慧(学問)を行い、

後の6年間は 思修(修行)を行う。今でも12年間籠山制度は続けられている。

近年では叡南祖賢大阿闍梨により、3年籠山行を経て12年籠山行をしつつ回峰行を行うこととなった。

 

 休憩 

 

吉野山大峰山千日回峰行

塩沼大阿闍梨 

 

奈良県・吉野山には「大峰山千日回峰行」が存在する。

1999年に明治以降2人目の千日回峰行者となった。

現在、故郷仙台の秋保に慈眼寺を開山し住職を務める。

小学生のころ、比叡山の回峰行者・酒井大阿闍梨の2回目の行をテレビで鑑賞した経験が、

大峰山千日回峰行の発端であったそうである。まさに宿縁である。

次回はその行の詳細を書いてみたい

 

 

比叡山千日回峰行

御次第

 

回峰行者になるには先ず「谷会議の承認」を受ける。

行は<下根=1~3年目、中根=4~5年目、上根=6~7年目>の3回に分かれる。

行は3月下旬から始まり、1年目から3年目は毎年100日、

毎日、30kmの山上山下道程を、決められた約260か所で巡拝しながら歩く。

4年目~5年目は毎年200日・30kmを踏破する。

500日を経過すると、白帯・下根行者となる。

6年目は100日。赤山禅院までの往復60kmの赤山善行となる。

最後の7年目は前般100日を洛中洛外大廻りを行い84kmとなる。

後半100日は30kmの山上山下踏破である。

 

艱難な行のクライマックスはこれからである。次回に詳しく書きたい。

 

 


「白洲正子文学逍遥記-かくれ里-葛川 明王院-04」 

2016-08-26 | 日本の伝統芸術

 

かくれ里 

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葛川 明王院 

 -05

 

 

千日回峰行

 

回峰行は7年間の「千日回峰行」と3年籠山僧が行う「百日峯行」の2種類がある。

千日回峰行は相応が開創した千日回峯行 と叡南祖賢大阿闍梨の2種類があるようだ。

今回は簡単にそのやり方を書いてみよう。

山中の行者

  

 

比叡山の近くに住んでいる方でも、千日回峰行の行者を実際にに見た方は少ないのではないだろうか。

筆者もこの眼で拝見したことはない。人が寝静まった早朝2時から寺を出立のであるから当然でもある。

 

 

 

千日回峰行の行程

 

無動寺

 

無動寺谷・明王堂

 

不動明王と童子

 

峯前に不動明王や二童子に向かい供養をする。小田原提灯の灯りで「無動寺谷明王堂」を出立する。

出峯に際しては死者と同じく室内から草履履きにより出立する。初日のみ大阿闍梨が先導する。

山中の行者道を進み、各所で約260回ほど礼拝<但行礼拝>しながら、

東塔<根本中堂・大講堂・戒壇院・山王院・浄土院>→西塔<椿堂・にない堂・釈迦堂>

→峯堂<玉体杉>→横川<中堂・慈恵大師御ちょう・四季講堂・恵心院>→八王子山

→日吉神社→滋賀院門跡→坂本→不動坂を上る→無動寺到着

以上で6~7時間を要する。冬季と夏季では違ってくるであろう。

寺に帰着すると、日常の勤行をこなしたうえで、翌日の回峯に備える。 

睡眠時間は5~6時間である。超人的な行だ。

途中で事故などを起こすなどして、行を止めた場合には短刀で自決する決まりである。

1000日間の全行程は38.000Km 。おおよそ地球一周分を走破するに相当する。

四国八十八か所巡礼は全行程は1.500kmと言われている。途轍もない行である。

 

 

 

千日回峰行の種類

3流派が存在している。

1-本流・・無動寺の総本坊・法曼院の玉泉坊流・・「無動寺回峰

2-1864年以来途絶した西塔の正教坊流・・「石泉坊流

3-1987年に復活した横川飯室谷の恵光坊流・・「飯室回峰

 

記録によると、安土桃山時代(1585)から2003年までに49人が満行者となっている。

この荒行を2度行った方は3人存在する。1987年に酒井大阿闍梨が2度の満行を行い、飯室回峯が復興された。

1回目は1980年、2回目は1987年で60歳であった。戦後、2015年までに13人が満行を果たしている。

 

酒井大阿闍梨

    

 

 

 次回はもう少し立ち入って、回峯行について書いてみたい。

 

 

 

 


「白洲正子文学逍遥記-かくれ里-葛川 明王院-03」

2016-08-19 | 日本の伝統芸術

 

かくれ里 

-016 

 

葛川 明王院 

 -03

 

 

 

 

不動明王と千日回峰行 

 

 

   

「隠れ里の」の本文には、葛川 明王院の下りが詳細に書かれているので、本文はそれと離れて、

相応和尚の拠点無動寺と「千日回峰行」について書いてみよう。

 

 

滋賀の近江は古来から比叡山の高僧を生み出して来た土地柄である。最澄、円仁、円珍などはツトに有名である。

比叡山は天台宗がその基本である。延歴23年に空海と共に唐に渡り、中国の南にある天台智顗で有名な「天台山」で修業した。

空海は長安に至って密教・「純密」を伝授されて帰朝した。最澄は南都の東大寺で出家した名家の人である。

空海も現在の四国の伊予の人である。この方も当時の大学で学んだ名家の人でもある。

その事情もあって唐からはすぐ帰国している。正に特別扱いであった。

 

 

最澄は修業時代は比叡山山中で草庵を築き、仏道修行をしていた経験もある。

弘法大師空海は紀州の山岳で在野の山伏などと交わって、すでに日本に流入していたと思われる、

密教の初歩的な段階の「雑密」に従って修行をしていた形跡がある。空海は彼らの支援を受けて

最澄と共に唐に渡ったのである。この付近は丹生=水銀が産出するので、これが財の基本であった。

空海が帰朝の際に夥しい財物を日本に持ち帰った資金の元は、紀州の雑密の宗教集団であろう。

全国に「丹生」という地名があるが、これは水銀に関係がある。金の製造に関わる鉱物である。

 

空海と最澄

     

 

最澄が帰朝してから、空海に弟子の形を取りながら密教の修行を学び始めた。

しかし、「理趣経」の経典の借経問題や、弟子の離反などで空海と離れて、

比叡山に独自の宗教形態を作り上げた。所謂、空海の高野山の真言密教に対しての天台密教(台密)である。

いずれにしても山岳仏教の性格も持っているので、その中から山伏のような修行形態が輩出するのは不思議ではない。

 

 

比叡山・浄土院

 

比叡山の荒行はつとに有名であるが、「十二年籠山行」もその一つだ。

一度、行に入ったら最後十二年間は山を下りることが出来ない決まりである。

眼下には近江・琵琶湖の集落が見え、夜ともなれば灯りがともって見える事であろう。

親子の縁を切ってまでして仏道修行するのであるから、生時の覚悟で出来るものではない。

中には都合2回もされた方もあると聞く。現在でもTVもラジオもない中で只管、仏道修行である。

朝の3時には起きて夜の9時には就寝である。供物を捧げ読経し只管、寺の掃除である。

 

 

 

 

無動寺 

 

 

比叡山山中の無動寺谷に「無動寺」がAD865年に相応和尚によって明王堂を建立された。

無道とは「不動」から来ている言葉である。<不動明王>である。

不動明王

 

そこに不動明王を安置し、「無動寺」とした。881年には金銅廬舎那仏、不動明王が鋳造された。

朝廷に願い出て最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の大師号を賜るように尽力した。 

882年には天台南岳別院となり現在に至る。織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、その後江戸時代に再建された。

 

密教

比較的多くの日本人は顕教を仏教の宗派として信仰している。浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗など。

しかし、その他に密教としての真言宗、天台宗などがある。日蓮宗などはある面では2つの要素が混在している面もある。

密教の本願は即身成仏である。生きたまま如来に成ることを目指す仏道修行でもある。

理趣経という経典は密教系寺院の根本経典である。しかし、内容が従来の顕教系の経典とは様変わりしている。

昔は高野山でもこの経典は、ある一定のレベルの修行僧にしか読経させなかった。

余りにも驚愕の内容の経典だったからである。興味ある方はお読み願いたい。

驚いてひっくり返らないように・・

 

 

不動明王

 

 

次回はいよいよ<千日回峰行>の中に入っていこうと思う。

 


「白洲正子文学逍遥記-かくれ里-葛川 明王院 -02」

2016-08-12 | 日本の伝統芸術

 

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-015 

 

 

 

大分長らくご無沙汰致しておりました。今年は異常に暑くしかも雨の少ない干ばつ気味の夏となっております。

私用の仕事も重なってブログを長らくお休みしました。毎日、白洲正子さんの写真に向かって、

今日は~~~休みます>の連続で、今日になってしまいました。

 

窓から見える辺りの景色

 

畑のバナナはこんなに大きくなりました。

      

 

南西諸島を代表する<島バナナ>

  

 

 

 

 

葛川 明王院

 

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葛川 明王院への地図

 

 

 

不動明王

 

        

 

先回から「不動明王」について書き始めた。国内では「お不動様」というよう呼称で呼ばれている、

明王の位の仏様である。奈良、京都、鎌倉以外にも、東京の下町にも一般的に見られる仏像である。

木造の彫質や青銅造り、あるいは仏画絵にも作品は多くみられる。

 

曼殊院・不動明王

 

仏画には名作が多く、「赤不動、黄不動、青不動」のような名称がつけられている。

明王は五大明王として・・「降三世明王」「軍荼利明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王」の分類される。

一般的には「不動明王」以外は、大寺院の講堂でしかお目に掛ることはない。

京都の通称・東寺(教王護国寺)には素晴らしい彫刻の五大明王が祀られている。

 

「降三世明王」        「 大威徳明王」

    

 

東寺以外にも醍醐寺や高野山、興福寺などの寺院にも、傑作が残されている。

圧倒されるような雰囲気が辺りを支配している。不動明王は仏画や彫刻作品で個人で持仏として祀られている場合が多い。

筆者も、曼殊院の不動明王のお写真を額に入れてお祀りしている。自分の守り仏が不動明王だからである。

大津に居た時は 近くの神社の境内の中にある、神宮寺にお参りをしていた。

小さなお宮の中に一体の不動明王が祀られていた。夏の虫干しの時無理にお願いして中に入った。

薄暗がりの中に立つ一体の不動明王が見える。身の丈2mほど。

 

 

            不動明王立像(神宮寺の実際のものではありません)

 

神宮寺という形態は多くみられるもので、昔は大寺にあった仏像が戦乱によって焼け出され、

さまよった挙句に民衆が神社にお宮を建立して、そこに仏像を祀ることが多いのである。

神仏混交の中での一つの形態なのであろう。筆者が礼拝した不動明王もその例であった。

神社の宮司にも実際の来歴は不明で、何時の間にかどこから来て、ここに祀られるようになったということ・・・

 

 

 

ある夏の暑いに日礼拝に行くと、神宮寺の扉が開閉され虫干しをしていた。

江戸時代に印刷された「般若心経600巻」である。幾つもの葛籠に入っていた。

その時、初めて眼前の完全な姿の不動明王を観た。素晴らしい鎌倉・室町期の名作である。

大きな大寺に戦国時代まで祀られていた仏像であろう。近江には珍しくないのである。

 

 

 

不動明王は千日回峰行の行者のシンボル的な仏像であるとともに、一般信者も圧倒的に多い。

お姿からも解るように鬼神退散の風貌である。人は頼りたくなる。不動明王・不動縛り」と云うのがある。

練達の行者にこれを掛けられると身動きが取れなくなり、何れ死に至ることになる。

不動明王を礼拝した際には、御信奉として真言(マントラ)を唱えた方が良い。

ご自身の身を守って戴くことが出来る。これは確かである。

 

 

中呪 

ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン

マントラには大、中、小の呪文のような文章がある。今回はこれを参考に掲載したい。これは中呪である。

その際、「不動印」(不動根本印)を結ぶと更に良い。ご参考までに。大呪は相当長い。又、この他に「仏説聖不動経」というものが存在している。

筆者が毎日礼拝する時には、2対の不動明王の仏画に向かって、<中呪→大呪→仏説聖不動経>の順番で唱えるが習慣である。

不動印 (不動根本印

 

今回は「千日回峰行」までは行きつかなかった。次回から明王院に関連して書いてみたい。

密教は顕教と比べてなかなか複雑な仏教の一大宗派である。

 


「白洲正子文学逍遙記-かくれ里-葛川 明王院」

2016-07-15 | 日本の伝統芸術

 

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-014 

 

葛川 明王院 

 -01

 

今年の南西諸島は異様な天候が続いております。雨ががやたら多かったり或いはさっぱり降雨がなく、

本日もトカラ海峡は豪雨にもかかわらず、奄美大島はパラパラと申し訳程度で直ぐ止むという具合。

梅雨も前年よりも18日も早く上がり、九州の方が遅く今も豪雨で大水害が出ている案配です。

気候がおかしくなっているのでしょう。おかげで毎日猛暑の連続です。

すっかり体調を崩してしまいました。畑はカラカラ状態です。

 

       

 

 それでも南国の草木は逞しい。昨秋に植えた小指の太さほどの幹しかなかったパパイアが。

もう、こんなに太く大きくなり数mに成長しました。隣は最近頂いた「島バナナ」の木です。

見る見るうちに成長し、来年には大きなバナナに実を付けるかも。

カラスが運んできたパパイアの種が大きくなって・・・このような案配です

 

パパイアの実が生っている

 

 

大分お休みしてしまいました。気を取り直して次に進みたいと思います。 

 

 

 

葛川 明王院

 -01

 

葛川 明王院への地図

 

長い長い「菅浦」の旅が終わり、次は少し予定を変えて琵琶湖の傍に聳える「比良山」の奥深くにある、「葛川 明王院」に向うことにする。

JR湖西線の和邇から山中奥深く分け入ると、京都と小浜を結ぶ古道・若狭街道にぶつかる。「途中」とも言う。

今もそうだが昔は若狭の鯖などの魚類を京都に運ぶ重要な街道であった。別名<鯖街道>である。

「途中」とはよく言いえた言葉である。ここから近江に入る分岐点である。

本日の舞台の寺はここからさらに登って、「葛川」と呼ばれる里にある明王院に向かう。

 

葛川息障明王院

  

 

白洲正子様もその昔、この奥深い峻険な山道を真夜中に歩くという

男顔負けのことをされた由。大変であったであろう。

周りは山また山の歩くには大変ところである。

獣や山伏などのごく限られた人達が行きかうところであった。

 

葛川息障明王院 

 

不動明王

     

 

<葛川 明王院> となれば、そのお寺はご本尊が「不動明王」という事がすぐわかる。

密教の最高のレベルの佛は大日如来である。その化身が不動明王である。

今回はまた例によって、白洲様の著書から横道にそれて、かくれ里を歩いてみることとする。

 

 

白洲正子、白洲次郎ご夫妻のお墓のお写真である。

左が白洲正子様、右が白洲次郎様である。

墓石に刻んだイニシャルをよく見て頂きたい。

不動明王のイニシャルを使っておられる。11/28の逝去であるから、不動明王となるのである。

筆者は誕生日が11/28で同じ日である。当然のことながら守り仏は不動明王。

70年の間に不動明王とは長いご縁があった。単なる偶然ではないのである。

自宅の仏間には曼殊院の黄不動が飾ってある。

 

曼殊院・黄不動尊

 

お不動様、お不動さんなどと一般庶民には馴染みの深い仏様で、全国各所津々浦々に祭られている。

紀伊の高野山、京都の東寺、曼殊院、青蓮院、関東の成田山新勝寺などが有名だろうか。

だが、お顔もさることながら、ある面ではとても怖い仏様である。

また、十一面観音菩薩とも関係が深いのである。筆者の信仰する観音様でもある

白洲正子様の墓石には十一面観音のイニシャルがある。夫婦というものは不思議な縁である

 

 

次回からは不動明王を中心して、比叡山を巡る千日回峰行などの話を書いてみたい。