| 沢田研二 SINGLE COLLECTION BOX Polydor Years沢田研二USMジャパンこのアイテムの詳細を見る |
内容紹介
沢田研二「ポリドール時代」のシングル音源をコンプリートに収録したCDBOXをリリース!!日本音楽史を飾るスーパー・スターのアーカイブ企画決定版です。
★初回生産分のみ"特典CD"未発売音源『晴れのちBLUE BOY (プロモーション用ロングバージョン)』付!!
ディスク22
1. サムライ
2. あなたに今夜はワインをふりかけ
ディスク23
1. ダーリング
2. お嬢さんお手上げだ
ディスク24
1. ヤマトより愛をこめて
2. 酔いどれ関係
ディスク25
1. LOVE(抱きしめたい)
2. 真夜中の喝采
ディスク26
1. カサブランカ・ダンディ
2. バタフライ革命
ディスク27
1. OH!ギャル
2. おまえのハートは札つきだ
ディスク28
1. ロンリー・ウルフ
2. アムネジア
ディスク29
1. TOKIO
2. I am I (俺は俺)
ディスク30
1. 恋のバッド・チューニング
2. 世紀末ブルース
ディスク31
1. 酒場でDABADA
2. 嘘はつけない
ディスク32
1. おまえがパラダイス
2. クライマックス
ディスク33
1. 渚のラブレター
2. バイバイジェラシー
ディスク34
1. ス・ト・リ・ッ・パ・ー
2. ジャンジャンロック
ディスク35
1. 麗人
2. 月曜日までお元気で
ディスク36
1. おまえにチェックイン
2. ZOKKON
ディスク37
1. 6番目のユ・ウ・ウ・ツ
2. ロマンティックはご一緒に
ディスク38
1. 背中まで45分
2. How Many "Good Bye"
ディスク39
1. 晴れのちBLUE BOY
2. 出来心でセンチメンタル
ディスク40
1. きめてやる今夜
2. 枯葉のように囁いて
ディスク41
1. どん底
2. 愛情物語
ディスク42
1. 渡り鳥 はぐれ鳥
2. New York Chic Connection
ディスク43
1. AMAPOLA(アマポーラ)
2. CHI SEI(君は誰)
沢田 研二(さわだ けんじ、本名:澤田 研二、1948年6月25日 - )は、鳥取県生まれ、京都市出身の歌手、俳優、作曲家。ニックネームはジュリー。妻は田中裕子。1948年6月25日、母親の実家である鳥取県岩美郡津ノ井村(1963年に鳥取市へ編入:現鳥取市津ノ井)で、澤田松雄、智恵子(ちえ)夫妻の次男として誕生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。5歳の時に、京都府京都市左京区浄土寺東田町にある(親族の)澤田家に移り、そこで育つ。京都市立第三錦林小学校、同岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学。中学では野球部に、高校では空手部に所属。
京都市下京区四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしている時、出演していたサンダースに声をかけられ、沢田はローディー兼ヴォーカリストとして加入する。その後、同じく田園に出演していたサリーとプレイボーイズのメンバーからリード・ヴォーカルとして誘われた沢田は、1965年12月に鴨沂高等学校を中退し、翌年の元日に正式にメンバーとして加入した。
沢田の参加を機に名前を"ファニーズ"に改めたバンドは早速、大阪府道頓堀にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」のオーディションに合格する。そして、その翌月から専属バンドとしてローリング・ストーンズなどの洋楽コピーを演奏するようになった。田邊昭知や内田裕也などに芸能界入りを勧められ、同年の10月にこの喫茶店で行われたオーディションに合格し、翌月に新幹線で上京する。初出演となったCX系列のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」の収録の日にすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられたあと、1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビューを果たした。この頃メンバーのニックネームが決まり、沢田はジュリー・アンドリュースのファンだったことから「ジュリー」と呼ばれるようになった。セカンド・シングル「シーサイドバウンド」と続く「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」でブレイクしたザ・タイガースは、折りからのグループ・サウンズブームも相まって瞬く間にトップ・アイドルとなる。とりわけ、大きな瞳が特徴的な端正な風貌の沢田は10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍国民的アイドルになった。急速に音楽シーンが多様化し、爆発的なブームにも退潮の兆しが見え始めた中で、沢田は1969年12月1日に初のソロ作品「JULIE」を発売し、それ以降は他のメンバーのソロ活動も多くなった。そして、1970年12月7日にザ・タイガースは解散を表明。翌年の1月24日に日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に、その活動に幕を下ろした。
ザ・タイガースの解散後もバンドとしての活動に固執した沢田は、ソロシンガーとしての活動を目論む所属事務所の意に反して、1971年の1月11日に新たなバンド・PYGを結成する。欧米で流行していたスーパーバンドを模した形で、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの井上堯之と大野克夫、それにザ・タイガースの岸部おさみと沢田によって構成されたこのバンドは、井上をリーダーとして本格的なロック・バンドとしての活動を目指した。しかし、日本ではまだ反体制のジャンルという見解が根付いていたロックを、当時芸能業界最大手の事務所だった渡辺プロダクション所属のミュージシャンが演奏することに対して非難する向きもあり、従来のファンも新たなバンドの動向に違和感を示した。
1971年11月1日、萩原健一との連名によるPYGのサード・シングル「戻らない日々」と時を同じくして、沢田は初のソロ・シングル「君をのせて - MY BOAT FOR YOU -」を発表。さらに12月には2枚目のソロ・アルバム「JULIE II IN LONDON」を発表し、この頃から沢田と萩原はそれぞれの活動を展開するようになる。しかし、沢田のセカンド・シングル「許されない愛」がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、その活動も形骸化していく。1972年のシングル「初めての涙」を最後に自然消滅に至ったPYGであるが、その後も70年代の中盤まで沢田はこのバンドの一員であるという意識をにじませる発言をたびたび残した。沢田はインタビュー記事などで時折、井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」などと表現していたり、「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っている。活動当時こそ肯定的な評価を受けることはなかったPYGだったが、これらの作品に対しては後年になってから再評価の機運が高まった。
井上堯之バンド
PYGは萩原が参加できるときだけその名を名乗り、参加できないときには沢田のバックバンドとして活動した。これがのちの井上堯之グループの前身である。その後井上堯之バンドと名乗り、バンド独自の活動もするが、基本的に沢田の専属のバックバンドとなる。これにより、国内の音楽シーンにおいて、歌手が専属バンドを率いた最初の例となった。1972年9月20日発売の沢田のシングル「死んでもいい」から、それまでバッキングを務めたケニー・ウッドオーケストラに代わって井上グループの名がクレジットされるようになった。PYGとしての活動を含め、専属のバンドに拘りを持っていた沢田は、当時「ヒット曲を出せば好きなことがいえる。バックバンドも好きなようにさせてもらえる」と発言しており、この曲のヒットによってその希望を実現した。沢田は初出場となった1972年の「第23回NHK紅白歌合戦」でも井上堯之バンドと共に出演している。当時からのファンの中には、沢田と井上堯之バンドを一つのロック・グループとして捉える者も多い。「沢田研二=井上堯之バンドのリード・ヴォーカル」という見方もできるほど、その結束力は精神面、サウンド面共に強いものであり、1980年に沢田と井上の音楽性の相違からバンドが解散するまでその密接な関係は維持された。
ソロ・キャリア
実質的なソロ活動元年となった1973年には、「危険なふたり」で第4回日本歌謡大賞を受賞した。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降斬新なファッションが確立された。1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」の仏語版「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」がフランスのヒットチャートでトップ10にランクインするなど、海外での活動も評価を得る。沢田が主役を演じたTBS系ドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌として同年の8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は、90万枚を超えるセールスを記録し、沢田にとっての最大級のヒット曲となった。同時期の伊藤エミとの結婚後も沢田は順調にスターダムを駆け上るものと思われたが、その矢先に新幹線暴行事件が起きる。1975年12月、帰京する沢田を待ち受け東京駅のホームに殺到したファンを整理していた国鉄職員の発言からトラブルとなり、相手に頭突きで軽傷を負わせ、さらに翌1976年5月、今度は新幹線車内で男性乗客に「いもジュリー」(「いもにいちゃん」という説もある)とからかわれたことからトラブルとなり、相手の口を殴って怪我を負わせた。一連の騒動によって沢田は6月15日から1カ月間謹慎。同年の「紅白歌合戦」や音楽賞に姿を現すことはなかった。しかし、謹慎から復帰した沢田は謝罪会見を経て精力的に活動を再開。復帰後に発表された2曲のトップ10ヒット「コバルトの季節の中で」と「さよならをいう気もない」を経て、1977年5月21日に発売されたシングル「勝手にしやがれ」は約90万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末の主要な賞レースを独占した。1978年には「LOVE (抱きしめたい)」でその年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞。同年の「紅白歌合戦」では、それまで演歌歌手が独占していた大トリを初めてポップスの歌手として務めた。これらの一連のヒット曲の成功によって歌謡界を代表するスターとして頂点を極めた沢田は、歌番組のみならず、バラエティーやドラマ、映画、CMなどでも広く活躍した。代表的なものとしては、当時同じ事務所に所属していたザ・ドリフターズの志村けんとの「ドリフ大爆笑」や「8時だョ!全員集合」での共演コントがある。1979年11月からは日産自動車から発売されたブルーバード910型のCMキャラクターを務めた。歴代ブルーバードの伝統である高い走行性能や先進性と、人気絶頂にあった沢田が登場するCMの相乗効果で、この新型は自動車評論家や自動車ファンからも好評を博し、日本国内のミドルカークラスの販売台数で長期に渡ってNO.1を記録する大ヒット車種となった。その後、1983年10月にフルモデルチェンジされた新型のU11型(前期型まで)のCMキャラクターも引続き沢田が務め好評を博していた。70年代の後半は「テレビでジュリーをみない日はない」と言われるほどの過密スケジュールをこなした。当時高視聴率を得ていたランキング形式の歌番組でも常に上位を賑わし、本人曰く「いつもピカピカ一等賞」を目指した。当時の歌謡界において人気のバロメーター的な存在だったTBS系列の「ザ・ベストテン」では、1978年11月から1982年12月までの4年間に250週中54.4%を占める136週(138回分)に渡ってランクインを果たしている。
スーパースターとしての最前線を走る沢田にとって、ヒットチャートのランキングやレコード・セールスは重要な指標となっていた。1979年9月21日発売の「ロンリー・ウルフ」が、音楽的評価と裏腹にさほどヒットしなかったとき、この年の末の賞レースを早くから諦め、『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』の大ヒットで年初から突っ走っていた西城秀樹に「今年は西城クンの年や。オレの分まで頑張りや」などと激励したという。今日では一般的なステージを動きまわるアグレッシブなライブ・パフォーマンス、全国を縦断する大規模なコンサート・ツアーなど、当時の日本の音楽業界においてはまだ主流ではなかった活動を次々と取り入れた。また、さまざまなジャンルの著名なアーティストを作曲家に起用しただけでなく、自らクリエイターとしてソングライティングやプロデュースなどの分野にも活動の幅を拡げた。他の歌手にも多くの楽曲を提供し、なかでも1982年にアン・ルイスが歌った三浦百恵との共作曲「ラ・セゾン」はトップ10にランクインするヒットとなった。
過渡期
沢田がアーティストとしてとりわけ強く拘りを見せたのが、ヴィジュアル面であった。ザ・タイガースが、まだファッションに対して保守的だった1960年代の日本における初の長髪のアイドルとして物議を醸したように、ソロ活動を始めてからも沢田は「ヴィジュアル系の元祖」とも形容すべき奇抜なファッションや派手な振付で聴衆を驚かせた。「カサブランカ・ダンディ」でのウィスキーの霧吹き、「OH! ギャル」での女性用のメイク、「TOKIO」における電飾衣装にパラシュートを背負った姿や「恋のバッド・チューニング」で着用したカラー・コンタクトなど、シングルを発表するごとに沢田が披露した衣装や装飾は大きな話題を呼び、それは次第に過激なものになっていった。ただし、サウンド面よりもセールスやランキング、話題性を過度に意識したパフォーマンスを重視する沢田のスタンスに対して、長年活動を共にしたバックバンドのリーダーである井上堯之は違和感を覚え、「もう、これ以上ついていけない」としてバンドを解散させてしまう。井上バンドとの訣別は少なからぬ衝撃を沢田に与えたが、その後も吉田建を中心に"ALWAYS"、"渚のラブレターバンド"、"EXOTICS"といったバックバンドを相次いで編成し、あくまで専属のバンドに固執した。1981年9月21日発売のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」でも派手な衣装で注目を集め、これは自身が作曲したオリジナル曲としては最高のセールスを記録した。1982年には「同窓会」と銘打った企画でザ・タイガースが11年ぶりに再結成する。瞳みのるを除くラインナップで復活し、シングル「色つきの女でいてくれよ」をヒットチャート上位にランクインさせ、武道館を含む全国ツアーも成功させた。しかし、のちに夫人となる女優の田中裕子との不倫が週刊誌で報道され、大きく非難された1983年ごろからレコード・セールスも下降線を辿り、デビュー以来常にヒット・チャートの上位に名を連ね、歌謡界の最前線で活躍してきた沢田にとって大きな転換期が訪れる。
独立
1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はザ・タイガースの一員としてのデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立し、傘下に"株式会社ココロ"を設立。さらにレコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。また、自叙伝「我が名はジュリー」(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。音楽面では、チト河内を中心に新バンドCO-CoLOを結成して活動を再開し、これまでと異なるアプローチで臨むなど、この年は沢田自身が語るようにターニング・ポイントとなった。
1987年には離婚や恩師である渡辺晋の死、3月の京都公演中のステージからの転落事故とそれに伴う左肘骨折による1カ月の入院など、多くのアクシデントに見舞われた。この年の9月には、ファンクラブも解散している。その翌年には3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散し、新たにKris Kringlを結成。また、同年の5月20日には、酒気帯び運転でタクシーに追突する交通事故を起こして書類送検され、1カ月の謹慎処分を受けた。1989年10月11日発売のアルバム「彼は眠れない」では、サウンド面における方向性を再転換し、村上'ポンタ'秀一を迎えて結成した新バンドJAZZ MASTERと共に精力的にライブ活動を展開した。この年から、10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズもスタートした。年末の「紅白歌合戦」ではソロでの他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場したことで話題になった。1992年頃からは、変貌する芸能界を嫌って沢田のメディアへの露出は極端に減少し、往年のヒット曲や過去の栄光、メディアを通じて作られた自身の虚像に拘束されることを拒否するスタンスを示す。その一方で、1991年の25周年記念武道館公演や1996年の30周年記念アルバム「愛まで待てない」など、長いキャリアをふりかえる記念行事もたびたび行った。「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」として、1995年以降のアルバムではすべて沢田がセルフ・プロデュースを手がけている。いわゆる団塊の世代に属する沢田は、「同年代の人たちが元気になるような音楽を作っていきたい」と述べている。
近年
1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成。2001年からは頑ななまでのメディアに対する姿勢を緩め、頻繁にテレビ番組などにも登場するようになったことで、久々に話題を提供した。その翌年には自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。以降、このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは独特のパッケージ・デザインを施されているものが多い。2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「Royal Straight Flush」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインして話題となった。また、同年には、地方公演ドタキャン事件も起きている。原因は、主催者側との契約にある、規定動員数に達しない場合、コンサートを行わないということから起きている。2006年には加瀬邦彦とワイルドワンズの40周年記念公演に参加し、ゲスト出演ながら久々に日本武道館で熱唱した。歌手活動以外では、パチンコ台として沢田本人をモチーフにした「CRフィーバー ジュリー・ザ・ピンボール」(SANKYO)(発表記者会見もなく本人もあまり話題にすることはなかった)が3月から登場した。
現在も、毎年新曲とアルバムをリリースしてコンサート・ツアーを展開。年齢を感じさせないステージングでファンを魅了している。ここ数年はシングルとアルバムの制作、正月とアルバムリリース後のコンサート・ツアー、それに年1-2回の舞台出演がワーキング・パターンとなっている。2007年8月4日、東京・渋谷のC.C.Lemonホールで全国ツアーをスタート。同年8月1日に亡くなった阿久悠に対し、沢田は喪章を付けてステージに登場し、往年の代表曲を観客とともに熱唱して捧げたという。偉大であった作詞家阿久悠の死後、多くの追悼番組がテレビで組まれ、往年の映像と歌唱を目にした人々の間で再び人気が再燃している。その傾向を示すように2008年の正月公演は、最終日の東京C.C.Lemonホールのチケットが発売早々に完売した。また同年には恒例のアルバムをリリース。また自身の60歳の誕生日でもある6月25日にC.C.Lemonホールで開催されたコンサート内で、11月29日に京セラドーム大阪と12月3日に東京ドームで人間60年・ジュリー祭りと銘打った初のドームコンサートを開催すると発表した。尚、開催されると日本人アーチストで最年長のドームコンサート開催となる。
功績
ザ・タイガースは日本で初めての長髪の男性アイドルである。当時は「長髪=不良」の偏見が根強く残っており、保護者らによってタイガースの公演会場から中高生が締め出されたり、人気のピーク時にもロッテ歌のアルバム・NHK紅白歌合戦への出場が叶わないという事態が発生した状況であった。1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は日本で初めてのスタジアムライブである。1971年1月24日のザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は日本人として初めての日本武道館単独公演であった。
PYG時代、初めてロンドンブーツを衣装に取り入れた。
1974年には「Rock'n Julie」と題された公演が行われているが、これは日本で初めての全国ツアーである(16都市34公演)。さらに沢田はソロ活動初期において、PYGから派生した井上堯之バンドと活動を共にしていたが、これは一歌手専属としては日本で初めての、ロックコンボスタイルのバックバンドである。
「MON AMOUR JE VIENS DUBOUT DU MONDE」(邦題:「巴里にひとり」)は日本人として初めてフランスのヒットチャートにBEST10入りした楽曲である。
1978年の第29回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて演歌歌手以外で大トリを勤めた。
1989年の第40回NHK紅白歌合戦で紅白史上初めて1回の紅白で2度出演を果たした(ソロとザ・タイガースとして)。
2008年11月29日の京セラドーム大阪と12月3日の東京ドームでの還暦記念ライブは、日本人アーティストのドーム公演史上最年長記録である。
デビュー以来約40年間、毎年必ず新作アルバムを発表し、1974年以降毎年全国ツアーを開催している。 これは他に例を見ない連続記録という記事がある。
こだわり
懐メロ番組、のど自慢番組の類には出演しない。「食事をしたお客の前で歌いたくない」とのことからディナーショーは行わない(トークショーは行っている)。
コンサートでは毎年発表するアルバムの曲を中心に構成される。ステージではレディメイドでなくオリジナル衣装(早川タケジデザイン)に身を包む。2001年からCDジャケットに自身の写真を載せていない。2001年から過去曲のみでのテレビ番組出演を拒んではいないが、紅白歌合戦への出演オファーは断っている。
凄い歌手